ウンベルト・ボッチョーニ / Umberto Boccioni
速度とダイナミズムの前衛彫刻
概要
生年月日 | 1882年10月19日 |
死没月日 | 1916年8月17日 |
国籍 | イタリア |
表現媒体 | 絵画、彫刻 |
ムーブメント | 未来派 |
代表作 |
・空間における連続性の唯一の形態 ・都市の夜明け |
ウンベルト・ボッチョーニ(1882年10月19日-1916年8月17日)はイタリアの画家、彫刻家。前衛芸術運動「未来派」を支えた主要メンバーの1人として知られている
短い生涯にも関わらず、彼の造形のダイナミズムや脱構築的な構造は、死後も多くの芸術家に影響を与えており、作品は多くの美術館で展示されている。
1916年8月16日、騎兵隊訓練中に落馬して馬に踏みつけられ、その翌日に33歳で死亡。1988年にメトロポリタン美術館がボッチオーニの大回顧展を開催し、100以上の作品が展示された。
略歴
若齢期
ウンベルト・ボッチョーニは1882年10月19日にレッジョ・カラブリアで生まれた。彼の父親は、北部のロマーニャ地方出身のマイナーな政府職員で、イタリア全土での頻繁な転勤をしていた。
ウンベルトと姉のアメリアは、フォルリ(エミリア=ロマーニャ州)、ジェノバ、そして最後はパドヴァで育った。15歳の時、1897年、ウンベルトは父親とともにシチリア島のカターニアに移り、そこで彼は学校を卒業した。1898年以降、ローマに移り、ローマ芸術アカデミーのヌード学校で美術を学んだ。
ボッチョーニのローマ時代については、友人のジーノ・セヴェリーニ(1883-1966)の自叙伝の中に書かれている。1901年の二人は出会いと、ニーチェ、反逆、人生経験、社会主義について語り合ったという。
このころのボッチョーニの文章に、彼の生涯の特徴となるであろう「怒り」と「皮肉」の組み合わせがすでに見られる。彼の批判的で反骨的な性格と総合的な知的能力は、未来派の発展に大きく貢献することになる。
美術の基礎を学んだあと、印象派を通して古典を学び、ボッチョー二とセヴェリーニの両方が、現代の点描技法に焦点を当てた画家であるジャコモバラ(1871–1958)の弟子となり、混合色ではなくドットやストライプの分割点描で絵を描いた。
セヴェリーニは「このような人物に出会えたことは、私たちのキャリアのすべての方向性を決定づける大きな幸運だった」と書いている。
1906年にはパリに移り、印象派とポスト印象派を学んだ後、ロシアに3ヶ月間滞在し、市民の不安や政府の取り締まりを肌で感じた。
1907年にイタリアに戻り、ヴェネツィアのアカデミア・ディ・ベル・アルティで短期的にデッサンの授業を受ける。1901年にはミラノの芸術家協会Famiglia Artisticaを初めて訪れている。
都市から都市へと移動しながら、最も画期的な芸術活動と並行して、商業イラストレーターとしても活動した。1904年から1909年までの間、彼はリトグラフやガッシュ画を、ベルリンを拠点とするStiefbold & Co.などの国際的に有名な出版社に提供した。
この分野でのボッチョーニの作品は、セシル・アルディン、ハリー・エリオット、アンリ・カシエル、アルバート・ベルツなどのヨーロッパの現代イラストレーションを意識したものであり、当時の視覚芸術全般の現代的な傾向を知ることができる。
未来派宣言
ボッチョーニは1907年にミラノに移住。1908年の初め、彼はそこで分割絵画の画家ガエターノ・プレヴィアーティと出会う。1910年初頭には、前年に『未来主義宣言』を発表していたフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティと出会う。
1910年2月11日、ボッチョーニは、バッラ、カルロ・カッラ、ルイジ・ルッソーロ、セヴェリーニとともに、未来派画家宣言に署名し、3月8日にトリノのポリテタマ・キアレッラ劇場でマニフェストを朗読した。
1912年には、ジョルジュ・ロック、アレクサンダー・アルキペンコ、コンスタンティン・ブラシュイ、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アウグスト・アジェーロ、そしておそらくメダルド・ロッソのアトリエを含むパリの様々なアトリエを訪問し、彫刻家になることを決意した。
1912年には、他のイタリアの未来派の画家たちとベルンハイム=ジューン画廊で絵画を展示し、翌年にはラ・ボエティ画廊で彫刻作品を展示した。
展示された彫刻は、ボッチョーニが前衛彫刻の知識を深めるために、コンスタンティン・ブランシュイ、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アレクサンダー・アルキペンコなどのキュビスム彫刻家のアトリエで見たものをさらに発展させたものとなっている。
1914年、ボッチョーニは『Pittura e scultura futuriste』(ディナミズモ・プラスチックス)を出版し、未来派の美学を説明した。
「印象派がある特定の瞬間をとらえるために絵を描き、その瞬間への類似性に絵の生命を従属させるのに対し、私たちはあらゆる瞬間(時間、場所、形、色調)を合成して絵を描く」
ボッチョー二は未来派のグループともにロンドンで、1912年にサックビル・ギャラリーと1914年にドレ・ギャラリーで展覧会を開催した。この2つの展覧会は、多くのイギリスの若い芸術家、特にC.R.W.ネビンソンに深い印象を与え、運動に参加させるきっかけとなった。他のアーティストは、ウィンダム・ルイスを中心としたイギリスのよく似た芸術運動のボルティシズムに参加した。
「ボッチョーニの才能は、視覚芸術や文学における近代的な動きの本質をも定義するような方法で、現実に新鮮な目をもたらすことだった」 --マイケル・グローバー(美術評論家)
死去
第一次世界大戦へのイタリアの参戦は、1915年5月下旬、イタリアがオーストリア・ハンガリーに宣戦布告したことから始まった。
ボッチョーニが所属していた「ロンバルド大隊有志自転車・オートバイ大隊」は、6月初旬にミラノからガララーテを経て、トレンティーノ戦線後方のペスキエラ・デル・ガルダに向けて出発した。
1915年10月24日、ボッチョーニはドッソ・カッシーナの戦いに参加。1915年12月1日、大隊は一般的な再編成の一環として解散され、志願兵は一時的に解雇され、その後、階級と共にそれぞれが召集された。
1916年5月、ボッチョーニはイタリア陸軍に徴兵され、ヴェローナ近郊のキエーヴォのソルテで砲兵連隊に配属された。1916年8月16日、騎兵訓練中に馬から落馬し、踏みつけられる。 翌日、33歳でヴェローナ軍事病院で死亡し、同市の記念碑墓地に埋葬された。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Umberto_Boccioni、2020年5月13日アクセス