ドナルド・ジャッド / Donald Judd
近代純粋彫刻の創造者
概要
生年月日 | 1928年6月3日 |
死没月日 | 1994年2月12日 |
国籍 | アメリカ |
表現媒体 | 彫刻 |
スタイル | ミニマリズム |
公式サイト |
ドナルド・クラレンス・ジャッド(1928年6月3日-1994年2月12日)はアメリカの美術家。ミニマリズム・ムーブメントの中心的人物であり(彼自身はミニマリズムという言葉を否定している)、戦後のアメリカ美術に最も変革をもたらした芸術家の1人。
ジャッドはこれまでのヨーロッパの彫刻の表現を根本的に変革し、近代彫刻の新しい流れを決定づけた事で一般的に知られる。アルミニウムやコルテン鋼など産業素材と呼ばれるものを芸術に導入し、抽象的な彫刻を制作。色彩、形態における純粋性、空間と作品の関係性を追求した。
ジャッドは、これまでの物語や象徴のための芸術を脱して、制作された物体が周囲の環境と関係づけられずに、作品が自律する純粋芸術を目指した。そのため作品にタイトルを付けることはなくほとんどが「無題」であり、また、キュレーターの企画によって作品が意味づけられて展示したり、時代を俯瞰する展覧会への出品を拒否していた。
ジャッド自身はミニマル・アートとのレッテルを貼られることに対して否定的だったが、一般的には「ミニマリズム」の代表者とみなされており、またミニマリズムの重要な美術理論書「明確な物体(スペシフィック・オブジェ)」(1964年)の著者として認識されている。
ジャッドは『アーツ・イヤーブック8』の中で、自身がミニマリズムと認識されることに対して批難している。
「新しい立体作品は、ムーブメントや流派、スタイルをなしていない。共通点とされるのがあまりに大雑把であり、ムーブメントとして定義するには共通点が少なすぎる。類似点よりも相違点の方が大きい」
また、ジャッドはファイン・アート作品とは別に、家具や建築のデザインもしていた。
1964年にダンサーのジュリー・フィンチと結婚(のちに離婚)。2人の間に2人の子どもを儲けている。1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。
重要ポイント
- ミニマリズムの代表的な芸術家(自身は否定)
- 素材に産業素材を用いた
- 環境や言葉に従属せず作品単体として自律する純粋芸術を追求した
略歴
若齢期
ドナルド・ジャッドは、1928年6月3日、アメリカ、ミズーリ州エクセルシアースプリングズで生まれた。10代半ばまでに6度の転居を経験。教師の勧めで11歳の時に美術教室に通い始める。高校卒業後、1946〜47年に軍隊生活で朝鮮戦争に参加する。
1948年にウィリアム・アンド・メアリー大学で哲学を学ぶ。1949年にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグの夜間クラスで絵画を学び、昼はコロンビア大学で哲学を学んだ。この頃、論理実証主義やプラグマティズムに傾倒し、哲学の学位を取得している。
1950年代には絵画に取り組んだが、この時期の風景画や風景に基づく抽象絵画は、カタログ・レゾネ(全作品目録)には収録されていない。
1952年にニュージャージーで最初のグループ展を開催し、1957年にニューヨークのパノラマ画廊で抽象表現主義の初個展を開催するも、自作に不満を抱える。1950年台なかばから1961年まで、ジャッドはウッドカット素材を研究を始めたのをきっかけに、ますます抽象的なイメージの方向へ進んでいった。
明確な物体
アーティストとしての活動のかたわら、57〜62年にかけてコロンビア大学の修士課程でメイヤー・シャピロらのもと美術史を学ぶ。ルネサンス建築から20世紀美術まで幅広く研究した。
在学中から美術雑誌『アーツ』誌に展覧会評を書いて収入を得るようになる。抽象表現主義以後の展開へもさかんに言及。きわめて旺盛な活動により批評家として一定の認知を得るようになる。
この頃から、ジャッドは従来の物語的な絵画様式から離れ絵画の物質そのものが自律する方向へ移行し始めた。
62年に絵画制作をやめ、レリーフ状の作品、さらに床に置かれる自律した作品の制作を始める。62年に木とパイプを組み合わせ、メッキを施し、もしくは金属を用いて床面に設置する箱型の作品を制作した後、箱型を発展し上積みして構成する「スタック(=積み重ね)」や、特定の数列に基づいて構成される「プログレッション(=数列) 」作品のシリーズへと発展して行く。
以後30年間のその独自のスタイルにこだわり続けた。これらの作品は63年末から始まったグリーン・ギャラリーでの個展は発表された。
63年にグリーン・ギャラリーでの個展までジャッドは個展をしておらず、ジャッド自身も作品の展示をしようと思わなかったという。
1965年に初めて「スタック」が制作され、床から天井まで同型の薄い箱状の鉄の立体が縦一列に並べられた。また同年1964年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表。エッセイでジャッドはアメリカ現代美術の新しい領域のスタート地点を発見し、また同時にこれまでのヨーロッパ的な美術価値観を拒否した。
作品の大半は「明確なオブジェ」で解説されたようなシンプルな構造で、空間と空間の使い方を追求した反復した形態で、素材には金属やプレクシグラス、工業用塗料、コンクリートといった素材が使われている。それらの作風は一般的に「フロア・ボックス・ストラクチャー」と呼ばれることがある。
1968年にジャッドはニューヨークで五階建てのビルを自前で購入し、そこで、美術館やギャラリーに展示するのと同じように自身の作品を常設展示をし始めた。ジャッドは展覧会での一時的な展示は、キュレーターによって構成されているため、キュレーターの介入が入らないような状態にしたかったという。ジャッドにとって芸術と建築にとって一番良いのは、それが描かれ、置かれ、建てられた場所に永久に留まることだという。
成熟期
1970年代初頭になると、ジャッドの作品はより規模が大きくなり、また複雑化していった。
ジャッドは、ジャッド自身の遊び場や物理的な体験ができるような部屋サイズのインスタレーション作品を制作し始めた。1970年代から1980年代にかけてジャッドは、ヨーロッパの古典的な具象彫刻の理想と正反対の過激な彫刻作品を制作し始める。
1976年に、全米芸術基金やノーザンケンタッキー大学から支援を受け、ジャッドは2.7メートルにアルミニウム彫刻作品を学校のキャンパスの真ん中に設置した。また1984年にはローメイヤー彫刻公園では鉄筋コンクリート製の3つの作品『無題』が設置された。
ジャッドは1972年頃から素材に合板を用い始める。耐久性が高い構造の作品素材として人気が出始めた頃で、ジャッドにとって合板は作品の歪みの問題を回避しつつ、作品の大きさを拡大させることを可能にしてくれたという。1980年代には、大規模な屋外作品制作の素材としてコルテン鋼を使いはじめた。
晩年期
晩年期のジャッドは、家具、デザイン、建築の仕事も始めた。しかし、デザイン業とアート作品は別々のものであるよう注意していた。
最初の家具制作はジャッドがニューヨークからマーファに移動した1973年に制作された。イス、ベッド、棚、机、テーブルの制作が行われた。マーファで販売されていた家具のデザインに不満を持ち、ジャッド自身が家具のデザインをしはじめたのが家具制作のきっかけだったという。
当初はラフに自分で作っていたが、次第に木製家具の制作に夢中になり、洗練しはじめる。さらに職人をを雇いだし、世界中の技術と材料、さまざまな方法を使って家具製作をしはじめた。
重要な展示
・1957年にパノラマ・ギャラリーでジャッドは初個展を開催。
・1968年にニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館が回顧展を開催。
また、1968年から数十年間ジャッドは、ジョン・シモン・グッゲンハイム記念財団をはじめ多くの支援者から受けてきた。
・1975年にオタワにあるカナダ国立美術館はジャッドの展覧会と作品集を出版。
・1980年に初めてヴェネチア・ヴィエンナーレに参加し、1982年にカッセルのドクメンタに参加。
・1987年にオランダのファンアッベ市立美術館での大規模な個展を開催。この展覧会は、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナ、トリノへ巡遊した。
・ホイットニー美術館は1988年に2回目の巡遊回顧展を開催。
・2004年にテイト・モダンで展覧会が行われた。
コレクション
ジャッドの作品は、オーストリア国立工芸美術館(ウィーン)、テヘラン現代美術館(イラン)、スイス近代美術館(スイス)、テイト・モダン(ロンドン)、シカゴ現代美術館(シカゴ)、サンフランシスコ近代美術館(カリフォルニア)、ヒューストン美術館(ワシントン)、イスラエル美術館(エルサレム)など世界中の美術館で収蔵されている。