奈良美智 / Yoshitomo Nara
ロックと純粋性を兼ね備えた少女
生年月日 | 1959年12月5日 |
国籍 | 日本 |
居住地 | 那須 |
職業 | 画家・彫刻家 |
ムーブメント | ネオ・ポップ |
概要
奈良美智(1959年12月5日、青森県生まれ)は、日本の画家、彫刻家、ドローイング作家。1990年代に発生した日本のネオ・ポップムーブメントの時期にアートワールドで注目されるようになる。
無垢で目を大きく見開いた子どもや犬がモチーフになるのが特徴で、トレードマークともなっている。これらは退屈と欲求不満のときの子ども時代の感覚をすくい上げ、また同時に退屈と不満から自然と発生する激しい独立心を取り戻そうようとする試みであると言われる。
奈良は武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了。
現在は日本の栃木在住で日々制作をしているが、作品発表は日本のみならず世界中で展開している。1984年から40以上の個展を開催しており、作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめ、世界中の美術館に所蔵されている。
2010年から翌年にかけて、ニューヨークのアジア・ソサエティー美術館で行われた大規模な個展「Nobody’s Fool」も好評を得、同館での過去最多の入場者数を記録。2010年に奈良は、米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。
表現特徴
奈良の絵画やドローイングは、一見すると絵本を彷彿させるシンプルでかわいらしい造形であるものの、実際には奈良の愛するパンク・ロック文化に影響された部分が見られる。
ロックやパンクにおける人間の潜在的な純粋性の怒りと幼児の純粋性が並列されれた状態が奈良作品の特徴でもある。そのため作品制作も音楽を流しながら行う。
少年ナイフ、bloodthirsty butchers、THE STAR CLUB、マシュー・スウィート、R.E.M.のCDジャケットを手がけており、ニルヴァーナのカート・コバーンを模したと思われるキャラクターやthee michelle gun elephantのCDジャケットをパロディー化した作品を描いたりしている。
手作りの小屋の内側を中学、高校時代に聴いていたレコードジャケットで埋めた作品もある。現在はラジオで「奈良美智の親父ロック部」という音楽番組を配信している。
また、奈良は戦後の近代的なサブカルチャーの代表であるパンク・ロックに影響を受けてはいるものの、ルネッサンス絵画や戦前の近代美術、古典文学、浮世絵など少し古めの伝統文化から影響を受けている。
おそらく、戦後から現代にいたる日本社会や教育に対する反発心があり、それが「子ども」と「古典(祖父世代)」という一世代をまたいだ要素を融合させているのかもしれない。
絵画や彫刻に加えて、奈良は多くのドローイング作品を制作するのが特徴で、それらはいつもポストカードの裏側や封筒、紙切れなどに描かれ、英語やドイツ語や日本のテキストが添えられる。何度も描き直したり、時間をかける絵画と異なり、ドローイングは即興的に描く。
重要ポイント
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略歴
幼少期
奈良美智は1959年、青森県弘前市の小さな城下町に生まれた。7歳と9歳年上の2人の兄弟を持つ3人の末っ子として生まれた。
日本のほかの家族と同様に、奈良一家も戦後の急速な社会経済の変化の中で、伝統的な役割を再定義し、近代的核家族が確立しはじめた社会環境に適応しなければならない状況にあった。
近代核家族への変化、奈良一家において両親の共働きは影響を与えた。孤独の感情を生み、奈良は自身の空想世界や漫画、ペットとともに一人で自分の時間を過ごすことが多くなった。丘の上にポツンと立っていた実家の周囲に隣家が急速に増えはじめたときに最も鮮明に孤独感を感じたという。
1960年代の弘前は、戦後の教育改革の一環として1949年に地元の大学が設立され、りんご農家の事業化が進み、近代的な町としてゆっくりと発展していたが、それでも舗装されていない道を馬や犬が行き交う半田園地帯の町としてのんびりとした生活が続いていた。
また、中世にまで遡る神道の鬼や神の物語が色濃く残る岩木山の影に抱かれた土地も、この地の静けさを物語っている。創始者や教義を持たない神道が信者の生活形態に深く溶け込んでいた。神道は土着の宗教として記述されることがあるが、宗教よりむしろ生活形態であり、結婚式、出産、また七五三などあらゆる重要な通過儀礼の儀式を形作っている。
特に岩木山は子供のための神聖な力を持つことで知られており、寺社には子供や胎児の守護神である地蔵菩薩が祀られていることが多い。現代の地蔵は子供のような姿の地蔵が描かれることが多く、参拝者は赤い前掛けやよだれかけ、帽子などをまとい、子供たちの守護、幸運、水子供養を行っている。
地元の神社は弘前のコミュニティの重要な要素であり、特に奈良にとっては重要なものであった。彼の祖父は神道の僧侶であり、彼の父も一時は同じ道を歩んでいたが、後に公務員の仕事に就くために神職を断念した。
こうした地緣関係のため、奈良の一家は比較的に裕福で、地域の人々からも尊敬されていたが、父親は仕事や友人との付き合いでほとんど不在で、奈良が生まれたときには、幼い息子に時間を割くことを嫌がっていた。
対照的に、母親は貧しい農家の出身だった。奈良が生まれてからも、副収入が必要になると仕事をしていた。家にいても家事をしていて、奈良は黙々と家事をしている母の姿を見ていた。
奈良は少なくとも5歳の頃から、父と祖父が働いていた神社の裏山で多くの時間を過ごしていた。鬱蒼と茂った森の中を足で駆け抜ける彼の姿は、大人の目が行き届かない幼少期を物語っている。
彼は非常に自由で、結果としてそれが彼に孤独をもたらしたが、彼が不幸になることはほとんどなかった。早熟で用心深い彼は、自分のゲームを発明し、隣家の猫と仲間を見つけた。
6歳の時、友達と一緒に線路の行き止まりを見ようと電車に飛び乗ったが、無謀なことはほとんどなく、トラブルに巻き込まれることも少なかった。
比較的自由な環境は、音楽への愛と同様に日常生活の束縛から逃れることを可能にした。8歳の時、自分のラジオを手にし、そのラジオは大切な仲間となり、自分はもっと大きな世界に属していることを理解する助けとなった。
ある夜、半分眠っていた状態のとき、家庭用ラジオから流れてくる予期せぬ音楽に目を覚ました。彼には理解できない言語だったが、奈良は三沢の米軍基地の近くにあるミュージックステーションで、知らず知らずのうちに洋楽を聴いていた。以後、深夜になると必死に曲を聴き、アメリカのロックやカントリーミュージックのスリルに浸っていた。
奈良が初めて音楽を購入したのは8歳の時で、「寺内タケシとバニーズ」のファーストシングルだった。弘前から遠い最新の音楽を入手するのが困難だったことを考えれば、彼はわずか8歳の時に、その偉業を成し遂げた。弘前は東京から700キロも離れていた最寄りの青森から約1時間の移動時間が必要だった。
また、1979年まで、東京と青森は高速道路と細道で結ばれていただけで、最新のファッションや流行の到来にはタイムラグがあった。このことは、北は日本のコスモポリタンな中心地の東京とは対照的に、僻地で素朴な土地であるという認識を強めた。
奈良にとって、新しくリリースされたレコードや入手困難なレコードを見つけることは、そのような地理的境界線を越えた興奮の一部であった。寺内からジャニス・ジョプリン、ビートルズ、ジョニー・キャッシュまで、現代音楽を好きなだけ聴いていた。
地元の大学のカフェに足繁く通い、新しい音楽を聴き、音楽カタログを何時間もかけて読み漁り、購入したアルバムのジャケットを描いたり、好きな曲に合わせてドローイングしていたという。
アルバムのスリーブの視覚的なエネルギー、色、グラフィック、海外のバンドのエキゾチシズムは、大きなインスピレーションを与えた。
青年期
1970年代初頭、奈良にとって音楽は、新世代の精神を再定義する人々と繋がるものとなり、ますます重要なものとなっていった。
1960年代後半から1970年代前半にかけて、ベトナム戦争に反対する大規模な抗議行動や公民権を求める集会とともにアメリカでカウンター・カルチャーが発生した。この文化はロック音楽、ジャズ、ビート詩、左翼のヒーローたちの反抗的で若々しいエネルギーで作られた時代であるとみなされている。
太平洋の向こう側でも学生の過激主義は激しかった。1960年代半ばの日本では、1970年の日米安保条約の更新を控え、新左翼団体が大学を拠点として活動した。これらのグループは、学生、野党、労働組合、市民社会組織から構成されていた。
1960年代後半以降、大学のキャンパスでは大規模な反体制デモが頻発し、学生と警察の間で怒りに満ちた衝突が起きた。
美術大学
1978年に青森県立弘前高等学校卒業後、状況。1979年に武蔵野美術大学に入学。しかし、一年の終わり頃に、パスポートを取り、ヨーロッパに三ヶ月ほど放浪したため学費がなくなり81年に退学。その後、学費の安い公立学校を受験し、愛知県立芸術大学美術学部に入学。この時代、愛知の河合塾の予備校教師のアルバイトで、お金を貯めてはヨーロッパを旅する。1985年に卒業、87年に同大学院を卒業。
翌88年から93年までよりドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに留学。ドイツを選んだ理由は、美大の選択のときと同じくお金がかからないため。当初はイギリスのほうが自分にあっていたため、イギリスに行きたかったがお金がかかるのでドイツにしたという。結果的に、ドイツでよかったという。
欲にまかせてイギリスに行っていたら、お金はなくなるし、楽しいだけで、何も身につけずに帰国していたかもしれないと奈良は話している。奈良の「本当は楽しい場所をあえて避ける」という禁欲的な姿勢は、現在の那須の在住まで続く。
ドイツでは、A.R.ペンク(A. R. Penck)に師事し1993年マイスターシュウラー取得。その後ケルン近郊のアトリエを拠点に作品を制作。2000年の帰国までケルンで過ごす。
2000年の帰国まで続くケルン時代は多作な時期で、代表的な奈良のイメージとして知られる挑戦的な眼差しの子どもの絵もこの頃頻繁に描かれた。また、この間、日本やヨーロッパでの個展の機会が増え、しだいにその活動に注目が集まる。
日本へ帰国
2000年、12年間におよぶドイツでの生活に終止符を打ち、日本へ帰国。
翌年、新作の絵画やドローイング、立体作品による国内初の本格的な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに国内5ヵ所を巡回した。いずれの会場でも驚異的な入場者数を記録し、美術界の話題をさらった。
特に作家の出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で行われた同展は、延べ4600名にのぼるボランティアにより運営されたもので、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて、展覧会の歴史上画期的なものとなった。
2003年、クリーブランド現代美術館など米国内5ヵ所で1997年以後の作品による個展「Nothing Ever Happens」が開催される。この頃に出会った大阪のクリエイティブ・ユニットgrafとの協働により、廃材を用いた小屋を中心に展示空間を構成するインスタレーション的な性格の強い作品が増え始める。
2006年に青森県弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で開催された「A to Z」展は、そのシリーズの集大成といえるもので、大小約30軒の小屋の内外に奈良自身や彼と交遊のあるアーティストたちの作品を点在させた会場は、さながら一つの街並みのような様相を呈した。
最近の活動
奈良は2017年の春にニューヨークのペースギャラリーで個展を開催。2013年のニューヨークでの初個展以来の個展だった。「考える人」と名付けられた作品は、以前よりも内省で瞑想的な作風への移行を表している。
この作風の移行に関して奈良は「過去に自分が作りたかったイメージがあり、それに取り組み、完成せただけ。今僕は時間をかけてゆっくりと作業をし、これらすべてのレイヤーを構築するベストな方法を探している。料理する際どうすれば最も美味しくなるか探るように、自分もまたどうすれば最も良い芸術になるか探っている」と話している。
2017年7月には、豊田市美術館で回顧展を開催。
2018年には香港のペースギャラリーで個展「Ceramic Works and…」を開催。この個展では奈良のアイコンとしてお馴染みの少女のキャラクターを用いた12体のセラミックスカルプチャー(陶製彫刻)を中心とした作品が展示された。奈良は2007年に信楽町の陶芸の森に滞在してから本格的に陶芸に取り組み始めている。
2019年9月から奈良は「旅する山子」シリーズに取り組んでいる。これは支持体に市販のキャンバスや木枠を使わず、身辺にある身近な素材を使って制作した作品である。
「旅する山子」はギャラリーや美術館ではなく誰でも鑑賞できる屋外に設置されることが多く、また都市中心のストリート・アートと異なり、海辺、駅、畑、カフェなど田舎の公共空間に設置される事が多い。
個展
2018年 奈良美智個展「Ceramic Works and…」(香港・ペースギャラリー)
2018年 奈良美智回顧展「ドローイング作品:1988−2018」(東京・カイカイキキ)
2017年 奈良美智回顧展「for better or worse」(愛知・豊田市美術館)
2017年 奈良美智個展「Thinker」(ニューヨーク・ペースギャラリー)
2016年 奈良美智個展「新作」(ロンドン・ステファン・フリードマンギャラリー)
2015年 奈良美智個展「Shallow Puddles」(東京・Blum & Poe)
2015年 奈良美智個展「タイトル不明」(ベルリン・Johnen Galerie)
2015年 奈良美智個展「Life is Only One」(香港・アジア・ソサエティ香港)
2015年 奈良美智個展「stars」(香港・ペースギャラリー香港)
2014年 奈良美智個展「Greetings from a Place in My Heart」(ロンドン・デアリー・アート・センター)
2014年 奈良美智個展「個展-Blum & Poe」(ロサンゼルス・Blum & Poe)
2013年 奈良美智個展「個展-Pace Gallery」(ニューヨーク・ペースギャラリー)
2012年 奈良美智個展「The Little Little House in The Blue Woods」(青森・十和田市現代美術館)
2012年 奈良美智個展「君や 僕に ちょっと似ている」(横浜・横浜美術館)
2011年 奈良美智個展「PRINT WORKS」(東京・六本木ヒルズ アート&デザインストア)
2010年 奈良美智個展「New Editions」(ニューヨーク・ペース・プリンツ)
2010年 奈良美智個展「Nobody's Fool」(ニューヨーク・アジア・ソサエティ・ミュージアム)
2010年 奈良美智個展「陶芸作品」(東京・小山登美夫ギャラリー)
1989年 奈良美智個展「Irrlichttheater」(シュトゥットガルト)
1988年 奈良美智個展「Goethe-Institut」(デュッセルドルフ)
1988年 奈良美智個展「Innocent Being」(名古屋 / ギャラリーユマニテ名古屋・東京 / ギャラリーユマニテ東京)
1985年 奈良美智個展「近作」(名古屋 / Gallery Space to Space)
1984年 奈良美智個展「It's a Little Wonderful House」(名古屋 /ラブコレクションギャラリー)
1984年 奈良美智個展「Wonder Room」(名古屋 / Gallery Space to Space)