フィンセント・ファン・ゴッホ / Vincent van Gogh
狂気と孤独が生み出した近代美術の父
概要
生年月日 | 1853年3月30日 |
死没月日 | 1890年7月29日 |
国籍 | オランダ |
表現形式 | 絵画、ドローイング |
代表作品 |
・星月夜 ・ひまわり |
ムーブメント | |
関連人物 | |
関連サイト |
・WikiArt(作品) |
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年3月30日-1890年7月29日)はオランダの画家。後期印象派運動の中心人物。西洋美術史において最も有名で影響力のある芸術家の1人。近代美術の創設者とみなされており、20世紀初頭に出現した前衛芸術家たちに大きな影響を与えた。
わずか10年の創作期間のうちに約2100点以上の作品を制作。そのなかの約860点は油彩作品であり、また、作品の大半は、37歳で自殺するまでの約2年間に制作された。
風景画、静物画、ポートレイト、セルフポートレイトを大胆な色使いと、表現主義的な激しいブラシストロークで描くのがゴッホ作品特徴である。
上層中産階級の家庭で生まれたゴッホの子ども時代は、真面目で、大人しく、ナイーブだったという。若いころのゴッホは画商で、ロンドン転勤時に現地で失恋を経験し、その後、急速にうつ病を患い、画商の仕事をたたむ。
宗教に関心を移し、南ベルギーのプロテスタント宣教師として活動を始めるも、その後も精神状態はよくならず次第に病気と孤独に苛まれていく。1881年ごろから絵を描き始め、両親や弟のテオとともに暮らすようになる。このころから弟のテオが経済的にゴッホの生活を支援することになり、二人は手紙で頻繁にコミュニケーションを行うようになった。
ゴッホの初期作品の大半は静物画か貧しい農民の生活を描いたリアリズムだったが、このころは後期作品で見られるような鮮やかな色使いはほとんど見られない。
1886年にパリに移り、そこで前期印象派に反発する前衛芸術家のエミール・ベルナールやポール・ゴーギャン、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックらの新印象派と出会い大きな影響を受ける。彼らと出会ったことでゴッホの作品に新しい手法が絵画に取り入れられ、晩年の傑作で見られる鮮やかで大胆で明るい色使いと筆致に変化した。
1888年にフランス南部のアルルに滞在しているころに、ゴッホの代表的な絵画で見られる作風に変化。またこの時期にゴッホは主題をオリーブの木、糸杉、小麦畑、ひまわりなどへ関心を広げる。しかし、ゴッホの精神状態は悪化、精神病や妄想で苦しみ始める。
ゴッホは健康を無視し、過剰なアルコールの摂取や不摂生な食生活をしていたという。また、梅毒を患っており症状の末期である痴呆性脳麻痺に移行していた時期でもあるといわれる。
アルルの「黄色い家」で共同生活をしていた友人のゴーギャンと喧嘩で、ゴッホはカミソリでゴーギャンを切りつけようとするが、自分の左耳の一部を切り落とす。さらにその肉片を封筒に包み、行きつけの売春宿に持っていき、娼婦レイチェルに渡した。その後、ゴッホはサン・レミにある精神病院で過ごすことになる。
パリ近郊のオーヴェシュール・オーワーにあるオーベルジュ・ラヴォーに移った後、画家でホメオパシー医者のポール・ガシェのもとで治療を受ける。しかし、ゴッホのうつ病は深刻化していき、1890年7月27日拳銃で自分の胸を撃ち、2日後に死去。
ゴッホが生存中は、ほぼ無名のままで芸術家として成功することはなかった。自殺後にゴッホは「狂気と想像力が芸術を養う」といった典型的に誤解されたキャッチで公に宣伝され知られるようになる。ゴッホが美術史の文脈で評価されるようになるのは20世紀初頭で、彼の画風はアンリ・マティスを中心としたフォーヴィズムやドイツの表現主義に直接大きな影響を与えた。
1987年3月30日、ロンドンで行なわれたオークションにて、ゴッホの《ひまわり》」を安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が58億円で落札した。
重要ポイント
- 後期印象派の代表的な作家
- 精神的不安定から生み出される激しい表現主義的な筆致
- 精神錯乱を起こして自分の耳を切断した
- フォーヴィズムやドイツ表現主義に多大な影響を与えた
- 弟テオは生涯、ゴッホを精神的にも経済的にも支援したキーマン
作品解説
星月夜
星月夜》は、1889年6月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。
《星月夜》は、サン=レミのサン=ポール療養院にゴッホが入院しているときに、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものである。「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター以外は何もない村里を見た」と、ゴッホは弟のテオに手紙をつづり、《星月夜》の制作背景を説明している。(続きを読む)
ひまわり
《ひまわり》はフィンセント・ファン・ゴッホの静物絵画シリーズ。ひまわりシリーズは2つある。ゴッホにとってひまわりとはユートピアの象徴であったとされている。しかし、ほかの静物画作品に比べるとゴッホの主観や感情を作品に投影させることに関心がなかったと見られている。ひまわりシリーズの制作は、ゴッホの友人だったゴーギャンと関わりの深い作品で、特に後期は自身の絵画技術や制作方法を披露することを目的に制作されていたという。(続きを読む)
ゴッホの手紙
ゴッホの生涯に関する最も信頼のある情報源は彼と弟テオとの間でのやり取りである。兄弟の生涯にわたる友情やゴッホの思想や芸術理論の大部分は、1872年から1890年にかけて交わされていた数百枚の手紙に記録されている。
弟のテオは画商で、彼は経済面や精神面でゴッホを支援し続け、またテオは現代美術の影響力のある人達にゴッホを紹介していた。
ゴッホが死去して約1年後にテオも追うように死去するが、テオの妻のヨハンナは二人の間で交わされた手紙を整理し、1906年と1913年に手紙の一部が公表したのち、1914年にオランダ語で出版した書簡集で大半を公表した。ゴッホの手紙は達筆で表現豊かで「日記のような親しみ」があり、自伝のように読むことができる。
翻訳者のアーノルド・ポメランスは二人の手紙について「二人の手紙には、ゴッホの芸術的偉業を理解をするための新鮮な価値観があり、事実上のほかのどの画家も世の中にゴッホのように理解されたことはないだろう。」と話している。
ゴッホからテオに送られた手紙は600通以上残っており、テオからゴッホに送られた手紙は約40通ほど残っている。テオはゴッホから送られてきた手紙はすべて保管していたが、ゴッホはテオから送られてきた手紙のほとんどは保存していなかった。
ほかに妹のウィルに宛てた手紙が22通、画家のアントン・ファン・ラッパルトに宛てた手紙が58通、エミール・ベルナールに宛てた手紙が22通、ほかにポール・シニャック、ポール・ゴーギャン、批評家のアルベール・オーリエに宛てた手紙が残っている。
いくつかの手紙にはスケッチ画が添付されている。多くは日付が書かれていないが、美術史家は多くは年代順に整理することが可能だという。
略歴
幼少期
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州のカトリック文化圏にあるズンデルトの村で生まれた。
オランダ改革派の牧師の父テオドルス・ファン・ゴッホと母アンナ・コーネリア・カルベントスのあいだに生まれて生き延びた子どもの中で一番年上で、実質的に長男だった。ゴッホは祖父の名前と、自身が生まれる一年前に死産した兄弟の名前から由来している。
"フィンセント"というのはファン・ゴッホファミリーの共通した名前だった。1811年にライデン大学で神学の学位を取得していたゴッホの祖父のフィンセント(1789-1874)は、6人の子どもをもうけ、そのうちの3人は画商だった。このフィンセントという名前は偉大な叔父で彫刻家(1729-1802)のもとに名付けられたという。
ゴッホの母親はハーグの豊かな家庭出身で、父親は牧師の子だったという。父と母の二人はアンナの妹コーネリアとテオドルスの兄の結婚式のときに出会ったという。2人は1851年に結婚し、ズンデルトへ移る。ゴッホが生まれて4年後にゴッホの生涯の理解者であった弟のテオが1857年5月1日に生まれた。ほかにゴッホには弟のコル、それにエリザベート、アンナ、ヴィレミーナ(通称"ウィル")の3人の妹がいる。のちにゴッホは兄弟のなかでテオとウィルのみ、手紙などでコミュニケーションをしていた。
ゴッホの母親は極めて厳格で信仰心の篤い女性だった。テオドルスの給料は少なかったが、教会が家族に家、メイド、料理人、庭師、馬車と馬を提供し、アンナは子どもたちに高い社会的地位を授ける教育に情熱を注いだ。
ゴッホは真面目で思慮深い子どもだった。幼少のころのゴッホは母親と家庭教師によって家庭で育てられ、1860年に村の学校に入学する。1864年にゼーフェンベルゲンにある寄宿学校に移るが、そこでゴッホはホームシックにかかり、自宅に帰りたいと騒ぐ。代わりに1866年に両親はティルブルフの中学校に進学させたが、ゴッホは非常に惨めな学校生活を送ったといわれる。
芸術に対する関心は若いころからあり、母親からドローイングの才能を励まされた。ゴッホの初期ドローイングは表現主義的だったが、のちの作品で見られるような激しさはまだ見られない。ゴッホが中学生のときは、パリで成功を収めていた画家のコンスタンチ・C・フイスマンスがディルブルフの学生に美術を教えていた。フイスマンスの美術哲学は物事の印象を捉えるのを重視し、特に写実的な技術は重要視しないことだったという。なかでも自然風景や一般的な静物画を拒否していた。
ゴッホの憂鬱は美術の授業でやわらぐとおもっていたが、ほとんど効果は見られなかったという。1868年3月にゴッホは突然帰宅する。のちにゴッホは思春期について「厳しく冷たく不毛」と書いている。
1869年7月、16歳のとき、ゴッホの叔父のセントはハーグの美術商会社グーピル商会の職をゴッホのために用意する。この当時は、ゴッホにとって非常に幸せな時期だったという。ゴッホは仕事で成功し、16歳のときから4年を画商で楽しく過ごし、20歳のときには父親よりも多くの収入を得るようになった。テオの妻はのちにゴッホの生涯でこのころが一番幸せな時期だと話している。
1873年に画商のため研修教育を終えると、ゴッホはロンドンのサザンプトン通りにあるグーピル商会ロンドン支部に移り、ストックウェルにあるハックフォード・ロード87番地で勤務することになった。ロンドンに転任した実際の理由は、ハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係がうまく行っていなかったからだと見られている。
画商をやめて聖職者へ転身するも挫折する
1873年5月、ゴッホはロンドン支店に転勤することになったが、下宿先の娘のユージ二・ローヤーに恋をし、告白するもふられる。彼女は前の下宿人と秘密裏に婚約していたという。失恋にゴッホは落ち込み、孤独感を募らせ、宗教へ関心を寄せるようになる。ゴッホの精神的退廃はこの時期から始まる。
ゴッホの父と叔父は、1875年にゴッホをロンドンからパリへ転勤させる。しかし過度に商業主義的なアートビジネスを追求するグーピル商会の仕事にゴッホはしだいに反感を募らせるようになる。翌1876年1月、彼はグーピル商会から解雇するとの通告を受け、4月に退社する。
退社後、1876年4月にゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートにある小さな寄宿舎学校で臨時教師の職を得る。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移るこになったのでゴッホも一緒に移る。しかし、仕事はうまくいかずゴッホは教職を辞め、かねてから関心があったメソジスト牧師の見習いとして再出発することになる。
ゴッホの両親はこのころにエッテン=ルールへ移る。1876年のクリスマスにゴッホは両親のもとに戻り、聖職者になるため勉学に励みつつ、またドルトレヒトにある書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働く。しかし仕事に不満をいだき、本に悪戯書きをしたり、聖書を英語やフランス語やドイツ語に翻訳するなどして時間を潰して過ごしたという。
ゴッホはますます信仰に没頭するようになる。当時の同居人だったヘルリッツによれば、ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にしなかったという。
宗教的信念と牧師になりたいという要望をサポートするため、1877年にゴッホの家族は彼をアムステルダムで著名な神学者であった叔父のヨハネス・ストリッケルに預けることにした。ゴッホはアムステルダム大学の神学部への入学準備をしていたが、入学試験に失敗してしまう。結果、1878年7月に叔父のもとを出ていくことになった。その後、ブリュッセル近郊のラーケンにあるプロテスタント宣教師学校で3月のコースを受講したがこれも挫折してしまう。
1879年1月、ゴッホはベルギーのボリナージュ地方のプチナムで勝手に伝道を始める。貧しい人々への支援を示すため、ゴッホは当時下宿していたパン屋の快適な施設で生活するのを諦め、小さなみすぼらしい小屋に移り、そこで寝泊まりした。1879年1月から、信仰の熱意が認められて、半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。
しかし、彼の自罰的な貧しい生活の中に神の癒しを見出すという信念は、苛酷な労働条件で労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こっていた炭鉱の町において人を惹きつけることはなかった。むしろ伝道師の威厳を損なうものとして教会からゴッホの自罰的な貧しい生活を否定されることになり、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られることになった。
同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住む。ゴッホはそこで1880年3月ごろまで滞在し、その後、北フランスへ放浪の旅に出るも、金も食べるものも泊まるところもなくほぼ乞食状態でエッテンの実家へ戻る。ゴッホの両親は不満を抱き、特に父親はゴッホの現状の生活態度に対して不満が募り、ベルギーのヘールにある精神病院に入院させようとした。
1880年8月にクウェムに戻り、テオから生活資金をサポートされながら10月まで鉱夫として働く。このころからゴッホは周囲の人物や景色に関心を持つようになり、また、芸術で生計を立ててはどうかというテオの提案と生活支援が始まり、人々や風景のドローイングを描きはじめた。ゴッホが画家として活動を始めるのはこのころからである。
その年の末にブリュッセルを旅行し、テオのすすめでオランダの画家ウィレム・ルーロフスのもとで絵を学ぶ。さらに1880年11月にはブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、解剖学や一点透視図法といった基本的な美術技術を学んだ。
エッテンとハーグ時代
1881年4月にゴッホは、経済的事情もあってブリュッセルからエッテンの自宅に戻り、両親と暮らしはじめる。自宅でゴッホはドローイングをはじめ、このころは田園風景や近くの農夫たちなど身近な人々を主題として絵を描いていた。
1881年8月、夫を亡くして未亡人となったいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉のウィレミニアとヨハネス・ストリッケル牧師の娘)が、ゴッホの父からの招きでゴッホ邸に滞在する。そのときにゴッホは彼女に恋をする。
ケーはゴッホより7歳年上で8歳になる息子がいた。それにも関わらずゴッホは彼女に求婚をして周囲を驚かせた。彼女はゴッホからの求婚を断った。
ケーがアムステルに戻ったあと、ゴッホはハーグへ向かい、これまで制作した絵画を売り払い、義理のいとこで画家として成功しているアントン・モーヴに会う。モーブはゴッホが憧れていた画家の1人だった。モーブは数ヶ月後に戻るよう呼びかけ、暇なときに木炭やパステルで絵画を描いてみるようアドバイスをした。ゴッホはエッテンに戻るとモーブのアドバイスに従うことにした。
1881年11月末、ケーを諦めきれないゴッホはアムステルダムへ向かい、ケーに面会しようとしたが、彼女はゴッホとの面会を拒否。裏口から彼女は逃げ出した。またケーの両親は「ゴッホの執着気質に困っている」とゴッホの家族に手紙で書いて伝えている。ゴッホは絶望すると、ランプの炎の中に左手の指を入れて「私が苦痛に耐えられている間だけ、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、あわててランプの炎を吹き消し、会うことはできないと断った。
その後、ゴッホはハーグのモーブのもとで水彩画を教学ぶことになる。クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省するが、ゴッホは彼が教会に行くか行かないかで父親と激しく口論し、結局再びハーグへ発ってしまう。
1882年1月、ゴッホはモーブを頼り、モーブはゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見てくれた。しかし数ヶ月でモーブとゴッホは仲違いを始める。モーブは石膏像のデッサンをするよう助言したが、ゴッホは実際のモデルを使ったデッサンに固執しており、二人の間に美術教育における意見の不一致があった。
1882年6月、ゴッホは淋病にかかり病院で3週間入院。退院すると初めて油彩絵画に取り組みはじめる。
ゴッホは油彩のメディウムを好み、自由にメディウムを広げては、キャンバスから削り落としてブラシに戻した。ゴッホはのちに手紙で油彩が自分にとって一番良いと書いている。
娼婦シーンと連れ子たちとの生活
1882年3月までにモーブは意見があわないゴッホに冷たい態度を取るようになり、彼の手紙に返信するのを止めてしまう。
美術的価値観のほかに、ゴッホがアルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)(1850–1904)に入れ込み彼女と同棲しはじめたのが、モーブとの関係悪化の直接的な原因だったともいわれている。
ゴッホは1882年1月末にシーンと出会った。彼女には5歳の娘がおり、また妊娠中だった。彼女は以前に2人の死んだ子どもがいたらしいが、ゴッホはこのことは知らなかった。7月2日、シーンは男の子ウィレムを産み、ゴッホはウィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と一緒に暮らしはじめる。
ゴッホの父は息子とシーンの関係を知るやいなや、彼女と二人の子どもと絶縁するよう迫った。ゴッホは当初父親に抵抗したが、同棲生活を続けているうちにゴッホは、自分の貧困生活はシーンを売春の仕事に押し戻すことになるかもしれないと感じはじめる。また同棲生活をしてみると二人とのあいだに喧嘩が絶えなかったため、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じはじめたという。
結局、シーンは娘を母親に預け、息子ウィレムを兄に預けることになった。息子ウィレムは12歳のときに、ゴッホが息子を合法的に子どもにするためシーンと結婚しようとロッテルダムを訪れたのを覚えているという。
ウィレムはゴッホを本当の父親と思っていたが、出生日付から見てゴッホが父親ということはありえなかった。その後、1883年なかばまでにゴッホとシーンと家族たちは別れる。なお、シーンは1904年にスヘルデ川で入水自殺をした。
1883年9月にゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に移る。12月に孤独に苛まれるようになり両親とともに暮らす。その後、北ブラバントのヌエーネンに移る。
最初の名作「ジャガイモを食べる人々」
ヌエネンではゴッホは絵画とドローイングに焦点を当て、織工と小屋のスケッチと絵画を完成させる。
1884年8月から近所の10歳年上のマルガレータ・ベーヘマンと恋に落ち、彼女の家を往復するようになる。二人は結婚を考えていたが、両方の家族とも二人の結婚に好意的ではなかったため、マルガレータは気を乱して興奮剤のオーバードーズで自殺未遂をする。ゴッホが彼女を近くの病院に搬送して危うく一命はとりとめた。
1885年3月26日、ゴッホの父は心臓病で亡くなった。
ゴッホは1885年に複数の静物画を描いている。ヌエネンでの2年間の滞在で、ゴッホは膨大な数のドローイング作品や水彩画、約200点の油絵を完成させている。ゴッホのパレットはおもに暗い色調、特に濃い茶色で構成されており、この当時はまだのちの作品で見られる鮮やかな色彩の兆候は見られなかった。
1885年の春には、数年間にわたって描きつづけた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる《ジャガイモを食べる人々》を完成させた。1885年初頭にはパリの画商からゴッホは少しずつ関心を持たれはじめる。
テオはゴッホに5月に個展開催の準備を提案し、ゴッホはこの個展で《ジャガイモを食べる人々》や農夫のポートレイトシリーズの作品を展示した。この個展はこれまでのゴッホの画業の集大成というべきものになった。
しかし、パリでゴッホの作品はまったく売れなかった。このことに対してゴッホが不満を述べたとき、テオは作品の色味がかなり暗めで、印象主義のように明るめではないからだと売れない原因を分析した。
8月にゴッホの作品は、ハーグにある画廊のウインドウに初めて公衆に公開された。また農夫のポートレイト絵画でモデルになった女性が9月に妊娠した件で、女性からゴッホのせいであると非難される事件が起き、村の教会からは村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられた。
アントワープ時代
ゴッホは1885年11月にハーグからアントワープに移り、イメージ・ストリートにあるギャラリーの二階に部屋を借りる。当時のゴッホの生活は非常に貧しく、テオから仕送りされるお金のみが頼りで、それで画材を購入したり、モデルにお金を支払っていた。
あまりに貧乏なためパン、コーヒー、タバコを節約するようになる。1886年2月のゴッホは手紙では「6度だけ、暖かい食事を食べたことを覚えている」と書いている。また歯も悪くなり、緩み、痛みを発するようになった。
アントワープでゴッホは色彩理論の研究をはじめ、美術館で過ごす時間が多くなる。特にピーテル・パウル・ルーベンスの研究に没頭するようになり、その結果、ゴッホのパレットにはカルミン、コバルトブルー、エメラルドグリーンなどの色が使われるようになった。また日本の浮世絵に影響を受け、コレクションを始める。のちに絵画の背景に日本の浮世絵の影響が見られるようになった。
ゴッホは再びアルコール中毒に陥り、さらに梅毒を患い、1886年2月から3月にかけて入院する。回復後、アカデミズム教育への反感を持っていたにもかかわらず、ゴッホはアントワープにある美術大学の高等クラスの試験を受け、1886年1月に絵画とドローイングのクラスに入学する。しかし学内でたびたび教授らと衝突を起こす。
ドローイングクラスに在籍しているさいにミロのヴィーナスを描く指示を受けたゴッホは、フランドルの農民女性の肢体不自由の裸体を描いた。当時の教師であったユーゲン・シベルドは、ゴッホの描いたドローイングを芸術教育に対する侮辱的な行為であるとみなし、クレヨンで激しい校正指示を入れた上で紙を引き裂いた。ゴッホは激しく怒り、シベルドに向かって叫んだ。「あなたは若い女性がどのようなものであるかはっきりと知らない。神よ!女性は赤ちゃんを支えるためにしっかりした腰、尻、骨盤を持っている必要がある」と。
この後、ゴッホはたった一ヶ月ほどで学校を退学して、アントワープからパリへ移ることになった。
後期印象派作家たちとの交流
ゴッホは1886年3月にパリへ移り、モンマルトルのルーブル通りにあるアパートで弟と共同生活を始め、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びはじめる。また、6月にはルペック通り54番地のより大きな部屋へ移った。
このパリ時代には、兄弟が同居していたため手紙のやり取りがなく、ゴッホの生活について分かっていないことが多い。
パリでゴッホは、カフェ・タンブランの女、友人たちのポートレイト、静物画、ル・ムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトルの風景、セーヌ川沿いのアニエールの風景などのシリーズを制作している。
1885年にアントワープでゴッホは日本の浮世絵に関心を持ったのをきっかけに浮世絵の本格的な蒐集をはじめ、それらをアトリエの壁に掛けた。パリにいる間にゴッホは浮世絵を数百枚も収集したという。なお、1887年に制作した《高級売春婦》は渓斎英泉の浮世絵を油絵で模写した作品である。
デラリーバレット画廊でアドルフ・モンティセリのポートレイト作品を見たあと、ゴッホは明るめの色と大胆に簡略化した形の絵を描きはじめるようになる。1888年の《サント=マリーの海辺》などが代表的な作品である。
1886年の春ごろ、ゴッホはフェルナン・コルモンの画塾の同僚だったオーストラリアの画家ジョン・ピーター・ラッセルのサークルに参加し、そこでエミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ロートレックらと出会う。
また、このころに《タンギー爺さんの肖像》で知られる絵具屋のジュリアン・ペレ・タンギーと出会う。当時、彼の店ではポール・セザンヌの絵画が飾られていた。1886年に点描主義と新印象主義の2つの大きな展覧会がそこで行われ、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックが当時注目を集めた。
当時のパリでは、今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭してきた時期、いわゆる後期印象派が興隆してきた時期だった。テオはモンマルトル大通りにある自身の画廊で新傾向の印象派の作品を扱っていたが、ゴッホはこの印象派の新しい展開を知るのは遅かった。
1886年末、テオとゴッホは衝突し、テオはゴッホとの生活が耐えられなくなり、1887年初頭にはゴッホは北西郊外にあるアス二エールへ移ることになった。ゴッホはそこでシニャックを知り、点描画法を制作に導入しはじめる。
アニエールにいるあいだ、ゴッホは公園、レストラン、セーヌ川などの風景画をおもに描いた。《アニエールのセーヌ川を横切る橋》が代表的作品である。1887年11月、テオとゴッホはパリにやってきたポール・ゴーギャンと親交を深める。
その年の終わりに、ゴッホはモントマルトにあるレストランでバーナード、アンクタン、ロートレックらと作品の展示を行うスケジュールを立てた。バーナードはこの展覧会についてパリで開催されているどの展覧会よりも先行したものであったという。そこでバーナードとアンクタンは初めて絵画を売り、ゴッホはゴーギャンと作品を交換した。
またこの展覧会では、アート、アーティスト、政治や社会についてのディスカッションが行われ、カミーユ・ピサロや彼の息子のリュシアン・ピサロ、シニャック、スーラなどが展示に訪れた。
1888年2月にパリの生活に疲れたゴッホは、休暇も兼ねてアルルへ移ることに決める。なお、このパリ時代の2年で200以上の絵画を制作している。
アルルの黄色い家へ
アルコール依存症やニコチン中毒から逃れるため、1882年2月にゴッホはアルルへ移ることにした。また、ゴッホは以前から計画していた芸術家たちの共同アトリエ「芸術コロニー」をアルルで創設するつもりでもあった。
アルル滞在時のゴッホは、生涯において非常に生産的な時期だった。ここでゴッホは、200点の絵画、100点以上のドローイングや水彩絵画を残している。ゴッホはアルルの街の風景や光に魅了させられた。この時代の作品では豊かな黄色、ウルトラマリン、モーブ色の絵具がよく使われており、モチーフとしては、収穫物、小麦畑、カフェなどの農村のランドマークがよく描かれた。
アルル時代を代表するものとして、小麦畑に接する美しい構造の水車小屋を描いた1888年の「古水車小屋」がある。この作品はポール・ゴーギャンやエミール・バーナード、チャールズ・ラベルらと作品の交換をするために、1888年10月4日にポン=タヴァンに送付された7作品の1つである。
アルル村の風景画はゴッホのオランダの生い立ちを反映させてもいた。平野と通りのパッチワークは平面的で、遠近感がないように描かれ、平面的である分、コントラストの大きい色の使い方が非常に優れたものになっている。1888年3月、ゴッホはグリッドを使った遠近法で描いた風景画を制作。これらの作品はサロン・ド・アンデパンダンで展示された。
1888年5月1日、月に15フランで、ゴッホは「黄色い家」というアトリエを借りる。この家は未完成のままで何ヶ月も無人だったという。ゴッホはこの黄色い家を芸術コロニーの拠点にしようとしていた。
5月7日、ゴッホはホテル・キャレルからカフェ・デ・ラ・ガールへ移り、そこでオーナーのジョゼフ・ミシェルとその妻マリー・ジヌーと出会う。この夫妻が経営したカフェが題材になっている作品が《夜のカフェ》である。ゴッホは「黄色い家」に家具や寝具を揃えるまで、ホテルとカフェに数か月寝泊まりしていた。黄色い家は入居する以前に家具を整えなければならなかったが、スタジオとして利用することは可能だった。
ゴッホは黄色い家でさまざまなシリーズ作品を制作しはじめた。アルル時代に制作した名画として1888年制作《ファン・ゴッホの椅子》《ファンゴッホの寝室》《夜のカフェ》、《夜のカフェテラス》、《ローヌ川の星月夜》、《ひまわり》などがある。これらの作品は、黄色い家のインテリア用絵画でもあった。
黄色い家でのゴーギャンとの共同生活
ゴーギャンは1888年にゴッホの希望もあってアルルを訪れ、ゴッホが考えた芸術家たちの集団的な活動企画に理解を示す。アルルの《黄色い家》で集団で制作するというものだった。
企画に賛同したゴーギャンは、アルルに移る準備をはじめる。このころにゴッホは《ひまわり》シリーズの絵を描いているが、これは、黄色い家の壁にかけるインテリア用絵画として制作されたものとされている。
ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、ゴッホは郵便夫のジョゼフ・ルーランの助言でで2つのベッドを購入する。9月17日にゴッホは黄色い家へ、まだまばらだったが家具類を運び込みんで、初めて寝泊まりをする。同年9月中旬に《夜のカフェテラス》を描き上げた。
おそらくこのころが、ゴッホにとって最も野心的で絵画制作に対して真摯に取り組んでいた時期だったと思われる。ほかに《ファン・ゴッホの椅子》や《ゴーギャンの椅子》を描きあげた。10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。
11月から二人は共同で制作を始める。ゴーギャンは《ひまわりの画家》でゴッホのポートレイト絵画を描いている。また、このころからゴーギャンの提案により、ゴッホは記憶を頼りに絵を描きはじめる。代表作として1888年の《エッテンの庭の記憶(アルルの女性)》が挙げられる。その後の《星月夜》も記憶を頼りにコラージュして描いた作品である。
二人の初めての戸外での合同制作はアリスカンだった。1888年12月、ゴッホとゴーギャンの二人はモンペリエを訪問。ファーブル美術館で二人はクールベやドラクロワの作品を鑑賞する。
しかし、共同生活から2ヶ月も経ったころ、二人の関係は悪化し始める。ゴッホはゴーギャンを賛美し、彼と同じレベルで扱ってほしかったが、ゴーギャンは傲慢で横暴だったため、ゴッホが精神的に挫折する原因となった。二人はしばしば口論し、ゴッホは次第にゴーギャンから見捨てられることに恐れを抱いた。二人の関係は急速に危機的状況に向かっていった。
ゴッホの耳切断事件
1888年12月23日、ゴッホが自ら耳たぶを切断する事件が発生。ゴッホが耳を切断した正確な事情については分かっていない。事件の15年後、ゴーギャンが事件当日の夜のことを振り返ってはいる。
ゴーギャンの話では、事件の当日、ゴーギャン自身が身の危険を感じさせるふるまいをゴッホはしていたという。当時の二人の関係は複雑で、テオはゴーギャンからお金を借りており、ゴーギャンはこの兄弟が自分からお金を搾取していると疑いを持ち、ゴーギャンは黄色い家を出ていく素振りを見せていた。そして、ゴッホはゴーギャンが出ていくことに感づいており、またテオが結婚する予定だったので、二人から見捨てられてしまうという強い不安に襲われていたという。
事件当日、ゴーギャンが家を出ていくと、慌てたゴッホが剃刀を持ってあとを追ってくる。口論した後、身の危険を感じたゴーギャンは黄色い家に戻らず、市中のホテルに泊まった。その後、ゴッホは黄色い家の自分の部屋に戻り、幻聴に襲われ、自らの左耳たぶを切り落としたといわれる。
ゴッホは自ら耳を包帯で巻いて止血し、切断した耳たぶを紙にくるんで、ゴッホとゴーギャンともに馴染みだった売春婦の女性に届け、黄色い家に帰ってくると意識不明で倒れこむ。翌朝、警官が部屋で意識不明状態で倒れているゴッホを発見し、病院へ搬送された。切断した耳は病院に届けられたが、切断後かなりの時間が経過していたため接合手術はできなかったという。
ゴッホ自身は耳を切り落としたことに関して記憶がなく、不安が原因で急性的な幻聴を伴うなど精神障害を患ったと見られている。医者の診断によれば急性精神錯乱だという。
事件後、ゴーギャンは翌日24日に結婚したばかりのテオに連絡。その夜、テオは大急ぎで電車に乗ってアルルに向かった。クリスマスに到着し、ゴッホの健康を確認してすぐにパリへ戻った。ゴーギャンはアルルを去り、二度とゴッホに会うことはなかったが、手紙でやり取りはしていたという。
サン・レミの精神病院に入院
ゴッホは1889年5月8日に世話人のプロテスタント牧師フレデリック・サーレスの紹介で、サン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。サン・ポールはアルルから30キロメートルほど離れたサン・レミにある元修道院で、以前は海軍医だったテオフィル・ペイロンが経営していた。
ゴッホは格子の付いた窓がある2つの独房部屋を与えられた。片方の部屋は昼にアトリエとして利用することができた。病院と窓から見える景色はゴッホの絵画の主題となった。この時代の代表作は《星月夜》である。彼は短時間の監督下にある散歩を許され、そのときに見た糸杉やオリーブの木が絵の要素にあられるようになった。
ゴッホは、《オリーブ畑》、《星月夜》、《キヅタ》などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。
ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年1889年7月半ば、再び発作が起きた。1889年のクリスマスのころ、再び発作が起き、1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。
ペイロン院長による記録では「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。
一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されはじめた。1890年1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せる。また、2月にブリュッセルで開かれた20人展にゴッホは参加し、出品作品の1つであった《赤い葡萄畑》が初めて400フランで売れた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に《渓谷》など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けた。
体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地する。病院で最後に描いた作品が《糸杉と星の見える道》である。
ゴッホの死
1890年5月20日、ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に住んでいるポール・ガシェ医師を訪れた。
ガシェ医師について、ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在する。
ここでゴッホはガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めにはオーヴェルの教会を描いた。
1890年7月6日、ゴッホはパリを訪れる。アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人がゴッホを訪ねた。
7月10日ごろ、テオに手紙で大作3点(「荒れ模様の空の麦畑」、「カラスのいる麦畑」、「ドービニーの庭」)を描き上げたことを伝えている。7月23日に最後の手紙を書く。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったゴッホが帰り着いた。彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。
ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。
翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。
一方、9月12日ごろ、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄のあとを追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。