ジュゼッペ・アルチンボルド / Giuseppe Arcimboldo
果物や花で構成された不気味な肖像画
概要
生年月日 | 1526もしくは1527年 |
死没月日 | 1593年7月11日 |
国籍 | イタリア |
表現形式 | 絵画 |
ムーブメント | マニエリスム |
代表作 |
・『ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像』 ・『司書』 |
ジョゼッペ・アンチンボルド(1526または1527〜1593年7月11日)はイタリアの画家。果物、野菜、花、魚、本などのオブジェで構成された不気味な頭部作品で知られている。
これらのアンチンボルド作品は、彼の別作品とはまったく作風が異なるものである。アンチンボルドは、ウィーンとプラハの3人の神聖ローマ皇帝のために肖像画を描いていた宮廷画家であり、また宗教的な主題や帝国動物園のエキゾチックな動物絵画を制作していた。
果実、動物、風景、さまざまな無生物などのオブジェでグロテスクで象徴的な人間肖像画は、おそらく宮廷を楽しませるため遊びで制作していたもだろうが、美術批評家のなかに、ルネサンス期の新プラトン主義やその時代の他の学問の潮流と関連して制作していたいたと主張するものもいる。
アンチンボルドは美術史において16世紀のマニエリスムの画家として位置づけられている。1520年から1590年までの過渡期であるマニエリスムは、盛期ルネサンスからさまざまな芸術的要素を取り込み、のちのバロック時代や幻想美術に多大な影響を与えた。
略歴
ジョゼッペの父、ビアジア・アルチンボルドはミラノの芸術家だった。ジョゼッペ・アルチンボルドは、21歳のとき父と同じく地元の大聖堂のステンドグラスやフレスコ画のデザイナーとして仕事を始めた。
1562年に、オーストリア・ウィーンのハプスブルク家の宮廷でフェルディナンド1世の宮廷肖像画家となり、のちにはプラハの宮廷でマクシミリアン2世とその息子ルドルフ2世の宮廷肖像画家となる。
また、宮廷装飾や衣装デザイナーとしても活躍した。1570年と1573年にウィーンを訪れたザクセン選帝侯アウグストゥスは、アンチンボルドの作品を見て、彼自身の君主シンボルを組み込んだ『四季』の複製を依頼した。
アンチンボルドの伝統的な宗教的主題としたつきなみな作品は、今では忘却されたが、野菜や植物、果物、海の生き物、木の根などで構成された人間の頭部の肖像画は、同時代の人々から絶大な賞賛を受け、今もなおその魅力を放っている。
遠くから見ると普通の人間の肖像画のように見えるが、実際には個々のさまざまな物体が重なり合い解剖学的な形相になっている。それらは、アンチンボルドの想像力によって丁寧に構成されたものである。
それぞれの肖像画の中敷き詰められているオブジェは、ランダムに選ばれたものではなく、それぞれの特徴によって関連付けられている。
現在では複数の模倣作が存在している「司書」と呼ばれる肖像画では、アンチンボルドは、図書館の中に個々の自習室を仕切るカーテンなど、当時の富裕層の書籍文化を象徴するものを使用している。
肖像画のひげとなる動物のしっぽは、ほこり落としとしても使用されている。身の回りのものを使うことで、肖像画は装飾であると同時に静物画として成立させた。アンチンボルドの作品は、自然と人間だけでなく、それらがいかに密接な関係にあったかを描写している。
この肖像画が公開された後、当時の書籍文化を密接な関わりがある学者の中には、『司書』は自分たちの学問文化を嘲笑するものだと批難するものもいた。
実際のところ、アンチンボルドは富裕層の悪行を批判し、そのときの様子を絵を通して皮肉まじりに他伝えていた。『司書』は、ばかげた絵に見えるが、実際のところ本を「読むため」ではなく、本を「所有する」ことを目的に本を収集していた富裕層に対する批判が含まれている。
自然との密接な関係
マニエリスムは、人間と自然との密接な関係を表現する傾向があった。 アンチンボルドもまた、肖像画を通して自然への感謝の気持ちを描いた。『春』では、様々な春の花や植物だけで肖像画を構成している。
帽子から首に至るまで、唇や鼻に至るまで、肖像画のあらゆる部分は花で構成され、身体は植物で構成されている。
一方、『冬』では、人間はほとんどが木の根で構成されている。常緑樹の葉や他の木の枝は髪の毛になり、人間の肖像画の衣装は藁のマットになった。
狂気の産物か?理性か?
美術評論家たちは、アンチンボルドの絵画が気まぐれな遊びであったか、狂気における産物であったかについて議論している。
大多数の学者は、謎、パズル、そして奇妙なもの(例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのグロテスクな頭など)を伴うルネサンス時代の流行を考慮すると、アンチンボルトは、狂っていたわけではなく、その時代の流行に合わせて理性的に制作されたという見解を示している。
死去
アンチンボルドは、プラハで宮廷画家の勤務終え引退した後、ミラノで死去した。
ルドルフ2世の合成肖像画や自画像「四季」を制作したのは、晩年だった。イタリアの同時代人の人たちは、詩や文書を通じて彼の輝かしい経歴を讃えた。
三十年戦争中の1648年にスウェーデン軍がプラハに侵攻した際、アンチンボルドの絵画の多くはルドルフ2世のコレクションから没収された。
作品は、ウィーンのクンストヒストリーシュ美術館、インスブルックのハプスブルク城アンブラス、パリのルーブル美術館、スウェーデンの数多くの美術館に所蔵されています。イタリアでは、クレモナ、ブレシア、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されているる。
また、コネチカット州ハートフォードのワズワース・アテネウム、コロラド州デンバーのデンバー美術館、テキサス州ヒューストンのメニル財団、ガーンジーのカンディ美術館、マドリードのレアル・アカデミア・デ・ベラス・アルテス・デ・サンフェルナンドもアンチンボルドの絵画を所蔵している。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Arcimboldo、2021年2月25日アクセス