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ゴッホの作品とスタイル

ゴッホの作品とスタイル


芸術的発展


ファン・ゴッホは在学中に絵を書いたり、水彩画を描いていたが、少数の作品しか残っておらず、またそれらの何点かは作者性が問われている。

 

大人になってから美術を始めたときは、初歩的なレベルから始めている。1882年初頭、アムステルダムの有名な現代美術ギャラリーのオーナーである叔父のコルネリス・マリナスは、ハーグのドローイング作品を依頼する。

 

しかし、ゴッホの作品はマリナスの期待に沿うものではなかった。マリナスは主題を細かく指定して再度の依頼をしたが、その結果にはまたもや失望した。

 

ゴッホは辛抱強く、アトリエで可変シャッターやさまざまな画材を使って照明の実験を行った。1年以上にわたって、白黒の非常に精巧な習作である人物画に取り組んだが、当時は批判を受けるだけであった。しかし、後に初期の傑作として評価されることになる。

 

1882年8月、テオはフィンセントに、野外制作のための材料を買うための資金を与えた。ヴィンセントは「新しい活力で絵を描くことができるようになった」と書いている。

 

1883年初頭から、複数の人物を組み合わせた構図に取り組んだ。そのうちの何枚かを写真に撮らせたが、弟から「活気がない、新鮮味がない」と批評され、破棄し、油絵に切り替えたという。

 

ゴッホはハーグ派の有名な画家であるワイセンブルフやブロマーズを頼り、彼らやハーグ派第2世代のデ・ボックやファンデルヴェールといった画家たちから技術的なアドバイスを受けたという。

 

ハーグ派とは、 1860年から1890年にかけてハーグに住み、活動していた芸術家のグループ。彼らの作品は、フランスのバルビゾン派の現実主義的な画家の影響を強く受けていた。

 

ドレンテに短期間滞在した後ヌエネンに移り、いくつか大きな絵の制作を始めたが、そのほとんどをゴッホは破壊してしまっている。《ジャガイモを食べる人》とその系統の作品が唯一現存している。

 

ライクスミュージアムを訪れたゴッホは、オランダの巨匠たち、特にレンブラントやハルスの迅速で経済的な筆致に感嘆し、こう記している。

 

自分の欠点の多くは、経験と技術的専門知識の不足によるものだと認識していたため、1885年11月にアントワープ、後にパリに渡り、技術を習得し、発展させた。

 

テオは《ジャガイモを食べる人たち》の暗い色調を批判し、近代的な作風にふさわしくないと考えた。

 

1886年から1887年にかけてパリに滞在したゴッホは、新しい明るい色調を習得しようとした。1887年の『ペール・タンギの肖像』では、明るい色調を使いこなすことに成功し、個人的なスタイルが進化していることを証明している。

 

シャルル・ブランの色彩に関する論文に大きな関心を持ち、補色を使った作品を手がけるようになった。ゴッホは、色彩の効果は説明的なものを超えていると考えるようになり、「色彩はそれ自体で何かを表現している」と言ったのである。

 

ヒューズによれば、ゴッホは、「人間の恐ろしい情熱を表現する」ことを望んだ作品である『夜のカフェ』の派手な赤と緑に例示されるように、色を「心理的、道徳的重み」を持つものとして認識していた。 黄色は、感情的真実を象徴するので、彼にとって最も重要であった。彼は黄色を日光、生命、神の象徴として用いた。

 

ゴッホは農村の生活や自然を描く画家になろうと努め、アルルでの最初の夏には、新しいパレットを使って風景や伝統的な農村生活を描いた・自然の背後にある力を信じていた彼は、その力、あるいは自然の本質を、時にシンボルを用いて表現しようとした。

 

ミレーから模倣した『種をまく人』の絵は、ゴッホの宗教観が反映されている。これらのテーマやモチーフは、彼がたびたび立ち戻っては再制作し、発展させてきたものである。

 

ゴッホの花の絵は象徴的なものに満ちているが、伝統的なキリスト教の図像を使うのではなく、彼は自分自身で、人生は太陽の下で生き、仕事は人生の寓意であるという図像を作り上げた。

 

アルルでは、春の花を描いて自信をつけ、明るい陽光をとらえることを学び、「種をまく人」を描く準備が整ったのである。

 

ゴッホは「現実の装い」と呼ぶものの中にとどまり、過度に様式化された作品には批判的だった。 彼はその後、『星月夜』の抽象化が行き過ぎて、現実が「あまりにも背景に後退してしまった」と書いている。

 

ヒューズは、この絵に対し「極限の幻影の恍惚の瞬間と表現している。北斎の「大波」を思わせる星々の大渦巻き、天上の動きが地上の檜の動きに反映され、画家の幻影は "厚く強調された絵の具のプラズマに変換された」と話している。

 

1885年から1890年に亡くなるまでの間、ゴッホは自分の個人的なビジョンを反映し、商業的に成功しうるコレクション、すなわちオーヴルを構築していたようである。

 

彼は、真の絵画とは色彩、遠近法、筆致の最適な使い方を必要とするというブランのスタイルの定義に影響を受けていた。ゴッホは、自分が習作と考える絵とは対照的に、自分がマスターしたと考える絵に「目的意識」という言葉を適用した。

 

その多くは静物画で、色彩の実験として、あるいは友人への贈り物として描かれたものが多い。

 

アルルでの制作は、彼の作品に多大な貢献をした。この時の作品で最も重要だと彼が考えたのは、《種まく人》、《夜のカフェ》、《エッテンの庭の記憶》、《星降る夜》であった。広い筆致、独創的な視点、色彩、輪郭、デザインなど、これらの絵は、彼が求めたスタイルを象徴している。

メジャーシリーズ


ゴッホの絵画スタイルの発展は、通常、彼がヨーロッパ各地で暮らした期間と関連している。

 

その土地の文化や光の状況に没頭する傾向があったが、終始、極めて個性的な視覚観を持ち続けていた。画家としての発展は遅く、自分の画家としての限界を自覚していた。

 

ゴッホは頻繁に引っ越しをしており、おそらく新しい視覚的刺激に身をさらし、その中で技術的なスキルを向上させるためだったのだろう。

 

美術史家のメリッサ・マクキランは、この引っ越しは、後のスタイルの変化も反映しており、ゴッホは引っ越しによって争いを避け、理想主義の芸術家が当時の現実的な状況に直面したときの対処法として利用したと考えている。

ポートレイト


肖像画はファン・ゴッホに収入を得る最高の機会を与えた。彼は「絵画の中で唯一、私に深い感動を与え、無限の感覚を与えてくれるもの」と信じていた。

 

ゴッホは妹に、「永続する肖像画を描きたい、写真のようにリアルを目指すのではなく、色を使って感情や特徴をとらえよう」と書いている。

 

ゴッホの身近な人たちの肖像画はほとんどなく、テオもファンラパードもベルナルドもほとんど描かれていない。母親の肖像画は、写真で撮られたものである。

 

1888年12月、彼は《ラ・ベルスーズ》(ひまわりと同じくらい良い作品だと思った人物像)を描いた。この作品は、限られたパレット、変化に富んだ筆致、シンプルな輪郭線で構成されている。11月から12月にかけてアルルで完成させたルーラン家の肖像画の集大成のような作品である。

 

《郵便配達の肖像》の流麗で抑制された筆致と均一な表面から、《赤ちゃんとルーラン夫人》の熱狂的なスタイル、粗い表面、幅広い筆致、パレットナイフの使用へと、肖像画のスタイルが変化していることが分かる。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《ラ・ベルスーズ》,1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ《ラ・ベルスーズ》,1889年
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フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便配達の男》,1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便配達の男》,1888年

肖像画


ゴッホは1885年から1889年の間に43点以上の自画像を制作した。

 

それらは通常、1887年半ばにパリで描かれたものなど、シリーズとして描かれたもので、死の直前まで続いた。

 

一般的に肖像画は習作で、他人と交わるのを嫌がった時期や、モデルがいなかったために自分で描いた内省的な時期に描かれた。

 

自画像には、非常に高度な自己批判が反映されている。例えば、1887年半ばのパリのシリーズは、彼がクロード・モネ、ポール・セザンヌ、シニャックを意識するようになった時期に描かれたものである。

 

《灰色のフェルトの帽子をかぶった自画像》では、重厚な絵の具のひずみがキャンバスの外側に広がっている。高度に組織化されたリズミカルな筆致と、新印象派のレパートリーに由来する斬新な後光を持つこの作品は、ゴッホ自身が「目的のある」キャンバスと呼んだもので、この時期の彼の自画像としては最も有名なもののひとつである。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《灰色のフェルトの防止をかぶった自画像》,1887-88年
フィンセント・ファン・ゴッホ《灰色のフェルトの防止をかぶった自画像》,1887-88年

自画像作品には、さまざまな人相表現が含まれている。ゴッホの精神的、肉体的な状態はたいてい外見上から理解できる。だらしない髪、無精髭、くぼんだ深い目が、引っ込んだ顎、歯が抜けている、などの印象を受ける。

 

また、唇がふっくらとしていたり、顔が長く、頭蓋骨が突き出ていたり、シャープで警戒心の強い顔立ちをしているものもある。髪は通常の赤色か、時には灰色であることもある。

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フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》,1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》,1889年

髭を生やしているものもあれば、生やしていないものもある。耳を切った直後の肖像画には、包帯を巻いた姿が見られる。サン=レミで描かれたものは、鏡に映った自分を描くように、損傷した耳の反対側である右側から頭を出している。


ゴッホは、バラ、ライラック、アイリス、ヒマワリなど、花のある風景画をいくつか描いている。色彩や日本の浮世絵への関心も反映している。

 

枯れていくひまわりを描いた2つのシリーズがある。最初の作品は1887年にパリで描かれたもので、地面に横たわる花々が描かれたものである。2つ目は1年後1888年にアルルで描いた、早朝の光の中に置かれた花瓶の中の花束である。

 

この2つのシリーズでは、ゴッホは主観や感情を絵画に込めるという通常の関心にとらわれず、むしろ、これから訪れるゴーギャンに自分の技術力や作業方法を示すことを意図していたと思われる。

 

1888年の作品は、画家にとって珍しく楽観的な時期に描かれたものである。1888年8月、フィンセントはテオにこう書き送っている。

 

「私はマルセイユ人がブイヤベースを食べるような勢いで絵を描いている。この企画を実行すると、パネルが10数枚になる。したがって、全体は青と黄のシンフォニーになるだろう。このところずっと、朝、日の出から作業している。花はすぐにしおれてしまうので、一度に全部やってしまおうと思っている」。

 

ひまわりはゴーギャンの来訪を待って壁を飾るように描かれ、ゴッホはアルルの「黄色い家」の客間に個々の作品を配置した。ゴーギャンは深い感銘を受け、後にパリ版ひまわりを2点を購入した。

 

ゴーギャンが去った後、ゴッホはひまわりの2つの主要バージョンをベルセウス三連画の翼として構想し、ブリュッセルの「Les XX」展に出品した。

 

今日、このシリーズの主要な作品は、黄色という色の病的な意味合いと「黄色い家」との結びつき、筆致の表現主義、しばしば暗い背景との対比で賞賛され、彼の最もよく知られた作品の一つである。

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パリ版『ひまわり』
パリ版『ひまわり』
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アルル版『ひまわり』
アルル版『ひまわり』
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ベルセウス三連画
ベルセウス三連画

糸杉とオリーブ


ゴッホは、アルルで魅せられた糸杉を15枚のキャンバスに描き、死の象徴とされていた木に生命を吹き込んだ。

 

アルルで始めた糸杉のシリーズでは、遠景にある畑の防風林のような木々が描かれているが、サンレミでは手前に描かれている。

 

1889年5月、ゴッホはテオにこう書いている。「ヒマワリの絵のように、糸杉で何か描きたいんだ」。また「エジプトのオベリスクのように、ラインとプロポーションが美しい」と書いている。

 

1889年半ば、妹のウィルに頼まれ、ゴッホは《糸杉のある麦畑》の小ヴァージョンをいくつか描いている。 これらの作品は、渦巻きと密に塗られた厚塗りが特徴で、糸杉が前景を占める《星月夜》や、《虹の女神》のような作品である。

 

このほか、糸杉を題材にした代表的な作品に《糸杉》(1889年)、《糸杉に二人の人物》(1889-90年)、《糸杉と星のある道》(1890年)などがある。

 

1889年の最後の6、7ヶ月の間に、ゴッホはオリーブの木を描いた作品を少なくとも15点は制作している。

 

これらの作品のうち、《アルピーユ山脈を背景にしたオリーブの木》(1889年)については、弟ゴッホへの手紙の中で、「ついにオリーブのある風景を手に入れた」と書いている。

 

サン=レミに滞在中、ゴッホは保護施設の外で過ごし、オリーブ畑の木々を描いている。これらの作品では、自然界の生命が擬人化されたかのように描かれている。

 

ヒューズによれば、それらは「自然が顕在化したエネルギーの連続体で満たされている」という。

 

ゴッホは、オリーブを摘む女性を描いた3つのバージョンを描いている。1枚目《F654》は、「自然から得たより深い色調で」その場で描いた習作と説明している。

 

2枚目《F655》は「3枚のうち最も解像度が高く様式化されている」作品で、姉と母のために描いたもので、ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。

 

 

ワシントンDCのナショナル・ギャラリーにあるチェスター・デール・コレクションにある《F656》の3枚目は、12月にスタジオで描いたもので、非常に控えめな色使いである。

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《星月夜》,1889年
《星月夜》,1889年
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《アルピーユ山脈を背景にしたオリーブの木》,1889年
《アルピーユ山脈を背景にしたオリーブの木》,1889年

果樹園


《花咲く果樹園》は、ゴッホが1888年2月にアルルに到着してから最初に完成させた作品群のひとつである。14枚の絵は楽観的で陽気で、芽生えつつある春を視覚的に表現している。

 

繊細な感性で描かれ、ポピュリズム性はない。素早く描き、印象派の流れを汲みつつも、この時期からゴッホの強い個性を発揮し始める。

 

花咲く木々のはかなさ、季節の移ろいは、彼の無常観やアルルでの新たな出発の信念と一致しているように思える。

 

その春の開花のとき、ゴッホは「これ以上ないほど日本的なモチーフの世界」を見出したのである。

 

この時期、ゴッホは影を抑え、木々を光源であるかのように、神聖な方法で描くことによって、光の使い方をマスターしていた。

 

翌年初頭には、『アルルの眺め、花咲く果樹園』など、別の果樹園の小さなグループを描いた。ゴッホは南仏の風景や植物に魅了され、アルル近くの農園をしばしば訪れている。地中海性気候の鮮やかな光のなかで、彼のパレットは著しく輝きを増した。

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《桃の木の開花》,1888年
《桃の木の開花》,1888年

麦畑


ゴッホは、アルル周辺の風景を訪れ、何度も収穫物や麦畑など、この地域の田園風景を描いている。《古い粉ひき場》(1888年)は、麦畑の向こう側にある絵のように美しい建造物の好例である。

 

ハーグ、アントワープ、パリなど、さまざまな場所で自分の窓からの眺めを描いているが、これらの作品は、その後のサン・レミの精神病院の独房からの眺めを描いた「麦畑」シリーズに結実する。

 

晩年の絵画の多くは、陰鬱ではあるが本質的に楽観的であり、ゴッホの死の直前まで、明晰な精神状態に戻ろうとする彼の願望が反映されていた。

 

しかし、晩年の作品のなかには、彼の悩みが深くなっているものもある。

 

1890年7月、オーヴェールからの手紙によると、ゴッホは「海のように果てしなく広がる丘陵に対する広大な平原、繊細な黄色」に没頭していたという。

 

ゴッホは、小麦が若々しく青々とした5月の野原に心を奪われたのである。《オーヴェールの麦畑と白い家》では、黄色と青の落ち着いた色調で、牧歌的な調和を表現している。

 

1890年7月10日頃、ゴッホはテオに「荒れ模様の空の下にある広大な麦畑」について書き送っている。ゴッホの最晩年の《カラスのいる麦畑》は、ゴッホの精神状態を表現している。ハルスカーは、この作品について「脅える空と悪趣味なカラスのいる破滅に満ちた絵」と表現している。

 

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《カラスのいる麦畑》,1890年
《カラスのいる麦畑》,1890年

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