概要
『農民画』は、フィンセント・ファン・ゴッホが1881年から1885年にかけて制作した一連の作品群。
ゴッホは、農民をはじめとする労働者階級の人々に特別な愛着と共感を抱いていた。特に、ジャン=フランソワ・ミレーなどの農民風俗画を好んでいた。
ゴッホは農民という題材に高貴さを感じ、近代美術の発展において重要であるとみなしていた。ゴッホは、かつて牧歌的な環境であったオランダの風景が工業化によって侵食され、職業を変える機会の少ないワーキングプアの生活が変化していることを目の当たりにしていた。
ゴッホは、オランダやベルギーの農民、織工、漁師など、働く男女の人物像を描くことに特に関心を寄せていた。この時期のゴッホの作品の大部分を占める人物研究は、彼の芸術的成長において重要で基礎となる要素となった。
背景
農民という主題
写実主義運動における「農民の主題」は、1840年代にジャン=フランソワ・ミレーやジュール・ブルトンらの作品に始まる。ゴッホは、ミレーやブルトンの作品を「高みにあるもの」という宗教的な意味を持ち、"麦の声 "と表現している。
ミレーがゴッホに与えた影響について、ゴッホ美術館は「ミレーの絵画は、農民とその労働を描いた前例のないもので、19世紀美術の転換点となるものである」と述べている。
ミレー以前は、農民の姿は絵画的な風景やノスタルジックな情景を構成する多くの要素のひとつにすぎなかった。ミレーの作品では、個々の男女が勇壮でリアルな存在となった。ミレーはバルビゾン派の主要な画家の中で唯一、「純粋な」風景画に関心を持たなかった画家である」。
芸術的発展と影響
1880年、27歳のとき、ゴッホは画家になることを決意する。その年の10月にブリュッセルに移り住み、初歩的な勉強を始めた。
1881年4月にエッテンに戻り、両親と暮らしながら独学で美術を学んだ。グーピル商会の本店で画商をしていた弟のテオは、ゴッホを励まし、ゴッホの費用を負担するようになる。
ゴッホはイラスト入りの雑誌の画像を見ながら独学で絵を描いていた。フランスの画家シャルル・バルグが書いた2冊の画集は、ゴッホの重要な学習資料となったという。
1871年に書かれた『Cours de dessin』と『Exercises au fusain pour préparer à l'étude de l'académie d'après nature』の2冊で、ゴッホはデッサンのコピーを作ったり、ヌード画像を着衣描写に転用したりしている。
1882年1月、ハーグに居を構えたゴッホは、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴ(1838-88)に声をかけた。モーヴはゴッホに油彩と水彩の絵画を教え、アトリエを構えるための資金を貸した。
ゴッホは、娼婦クラシナ・マリア・"シエン"・ホーリック(1850-1904)など、ワーキングプアの人々を描き始め、彼女と関係を持つことになる。ゴッホは、自分のアトリエがいつの日か貧しい人たちの憩いの場となり、彼らが食事や住居、ポーズをとるためのお金を受け取ることができるようになることを夢見ていた。
しかし、ゴッホの作品はあまり評判がよくなかった。モーヴとグーピル社の経営者H.G.テルスティグは、絵は粗く、魅力に欠けると批評していた。ゴッホは、自分の絵の未熟さの特徴を、あくでできたこっぴどい「黄色い石鹸」になぞらえた。
5歳の娘マリアと一緒に暮らすうちに、ゴッホとシエンの関係は変化し、ゴッホの家族は大いに落胆した。モーヴはゴッホに突然冷たくなり、手紙も返さなくなりはじめた。ゴッホはモーヴがシエンとその幼い娘との関係を認めなかったのだろうと考えていた。ゴッホはシエンとその娘を描いたデッサンを何枚も描いている。
シエンとの関係を解消したゴッホは、1883年9月にドレンテに移り住み、風景画を描いた。その3ヵ月後には、当時ヌエネンに住んでいた両親のもとに戻った。
1884年、ゴッホは農村の生活や風景を描いた作品「織り子」シリーズを制作した。短期間ではあるが、アイントホーフェンで絵画教室を開いた。この年の終わり頃、ゴッホはシャルル・ブランの色彩理論の影響を受け、補色の実験を始めた。
1885年、ゴッホは農民の習作を重ね、最初の大作《ジャガイモを食べる人たち》に結実させた。ゴッホは作品で、特に地味な色や黒を混ぜた色を使い、それが17世紀の巨匠たち、例えばフラン・ハルスのようだと感じていた。しかし、弟のテオは、印象派の作品を参考にして、作品を明るくするようにと度々言っていた。
フィンセントの父であるテオドルス・ファン・ゴッホは1885年3月26日に死去。11月、フィンセントはアントワープに移り住む。