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【美術解説】アンリ・マティス「フォーヴィスムの創始者」

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アンリ・マティス / Henri Matisse

フォーヴィスムの旗手


アンリ・マティス「緑の筋のあるマティス夫人」(1905年)
アンリ・マティス「緑の筋のあるマティス夫人」(1905年)

概要


本名 アンリ・エミール・ブノワ・マティス
生年月日 1869年12月31日
死没月日 1954年11月3日
国籍 フランス
表現 絵画、版画、ドローイング、彫刻、コラージ、装飾
ムーブメント 印象派、フォーヴィスム
代表作

帽子の女性

緑の筋のあるマティス婦人

赤のアトリエ

かたつむり

関連人物

パブロ・ピカソアンドレ・ドランモーリス・ド・ブラマンク

アンリ・マティス(1869年12月31日-1954年11月3日)はフランスの画家、ドローイング作家、彫刻家。大胆な色使いや素描が特徴のフォーヴィスム(野獣派)の創始者である。

 

現在、マティスはパブロ・ピカソマルセル・デュシャンと並んで20世紀初頭の視覚芸術に革新的な発展を促した3大アーティストの1人として、美術的な評価されている。

 

線の単純化させ、また色彩の純化にすることで芸術家の個性や感情が伝わる表現を探求した。フォーヴィスムやフランスの表現主義とも呼ばれており、近代美術(前衛美術)を切り開いた。

 

キャリア初期こそフォーヴィスムを切り開いた前衛芸術家だったが、1920年代以降は古典絵画に回帰する。

 

第二次世界大戦時のヴィシー政権下のフランスでも絵画活動を行い、並行して教会の内装デザインやグラフィックデザインでも活躍するようになった。

 

晩年は色紙を切り貼りした切り絵(カットアウト)で壁画レベルの巨大な作品を制作して、評価を高めた。

 

次男ピエール・マティスは、ニューヨークで近代美術専門の画廊ピエール・マティス画廊を開き、積極的にアメリカに亡命したシュルレアリストや前衛芸術家を紹介したことで知られる。

 

後世の芸術家の影響は大きく、アンディ・ウォーホルは「マティスになりたかった」と話している。マーク・ロスコクレメント・グリーンバーグなど抽象表現主義の作家にも影響を与えている。

チェックポイント


  • フォーヴィスムの設立者
  • ピカソの親友で生涯のライバル
  • 晩年はカットアウト作品で評価を高めた

作品解説


帽子の女
帽子の女
緑の筋のあるマティス夫人の肖像
緑の筋のあるマティス夫人の肖像
赤いハーモニー
赤いハーモニー
ダンス
ダンス

赤のアトリエ
赤のアトリエ
金魚
金魚
生きる喜び
生きる喜び
かたつむり
かたつむり

略歴


幼少期


アンリ・マティスは、フランス北部ノール県ル・カトー=カンプレシで、裕福な穀物商の長男として生まれた。

 

普仏戦争が勃発すると、マティスの一家はフランス北部ピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワに移り、マティスはそこで育つことになる。母親はアマチュア画家だったという。1887年にマティスは父親の意向で、ル・カトー=カンプレシの弁護士事務所に就職するため、パリに出て法律を学ぶ。

 

マティスが絵を描きはじめたのは1889年の21歳のとき。虫垂炎を患わって療養している際に、母親から暇つぶしに絵を描くのをすすめられたのがきっかけだった。病床で絵を描いていた当時について、のちにマティスは「天国のようなものを発見した」と語っている。これを機に芸術家になる決心をするが、父親はかなり失望したという。

 

1891年にパリに戻ると、マティスはジュリアン・アカデミーに入学。ウィリアム・アドルフ・ブグローやギュスターヴ・モローのもとで絵画を学ぶ。はじめは古典絵画の様式で、おもに静物画や風景画を描いて基礎的な技術をみがいた。

 

このころのマティスは、ジャン・シメオン・シャルダンやニコラ・プッサンやアントワーヌ・ヴァトーなどロココからバロックにかけての古典巨匠たちに影響を受けていた。

 

ほかにエドゥアール・マネのような近代美術日本画からも影響を受けている。なかでもジャン・シメオン・シャルダンはマティスが最も尊敬している画家の1人で、マティスはシャルダンの模写作品を学生時代によく制作している。

「読書をする女」(1894年)
「読書をする女」(1894年)
マティスの父と母
マティスの父と母
「ギュスターブ・モローの講義」(1895年)
「ギュスターブ・モローの講義」(1895年)

ジョン・ピーター・ラッセルとゴッホに影響


1896年から1897年にかけて、マティスはオーストリアの印象派画家のジョン・ピーター・ラッセルを訪ねる。ラッセルはマティスに友人で当時は完全に無名だったフィンセント・ファン・ゴッホの作品を紹介する。

 

マティスはゴッホの影響を多大に受け、マティスの絵画スタイルは自由な色彩による絵画表現に変貌する。のちにマティスは「ラッセルは私の先生で、色の理論を私に教えてくれた」と話している。

ゴッホの影響で色彩が変貌しはじめたマティスの絵(1899年)
ゴッホの影響で色彩が変貌しはじめたマティスの絵(1899年)
ゴッホの影響で色彩が変貌しはじめたマティスの絵(1898年)
ゴッホの影響で色彩が変貌しはじめたマティスの絵(1898年)

モデルのマティス婦人と大画商ピエールの誕生


1894年にモデルのキャロライン・ジョブラウとの間に非嫡出子の娘マルグリットをもうけているが、1898年にアメリー・パレイルと結婚する。アメリーは《緑のすじのあるマティス婦人》のモデルとして知られている。

 

マティスとアメリーの2人は非嫡出子のマルグリットを引き取りつつ、またジャン(1899年生まれ)とピエール(1900年生まれ)の2人の息子をもうけた。

 

次男のピエール・マティスは、ニューヨークで前衛美術の画廊ピエール・マティス画廊を開き、多くのシュルレアリストをはじめジャクソン・ポロックなどのちのアメリカ現代美術の開拓者を紹介した重要な画商になった。

アンリ・マティスとアメリー・パレイル
アンリ・マティスとアメリー・パレイル
ピエール・マティス
ピエール・マティス

フォーヴィスムメンバーとの出会い


1898年、マティスはカミーユ・ピサロのアドバイスで、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの絵を学びためロンドンへ移り、ついでコルシカ島を旅する。

 

1899年2月にパリに戻るとマティスは、アルベール・マルケのもとで働くようになる。のちにフォーヴィスムのメンバーとなるアンドレ・ドランやジャン・ピュイやジュール・フランドランらと出会う。マティスは彼らの作品を絶賛し、借金してまで彼らの作品を購入、蒐集に没頭するようになった。

 

マティスが購入して、家の中の壁にかけたり展示した作品の中にはオディロン・ルドンの石膏彫像やポール・ゴーギャンの絵画、フィンセント・ファン=ゴッホのドローイング、そしてポール・セザンヌの《3人の水浴》などがある。このころにマティスは、特にセザンヌの絵の構図や色彩や感覚から影響を受けている。

フォーヴィスム


スタイルとしてのフォーヴィスムは1900年ごろから現れ、1910年ごろまで続いた。実際のムーブメントは1904年から1908年で、3回フォーヴィスムの展覧会は行われている。フォービスム運動のリーダーはアンリ・マティスアンドレ・ドランだった。

 

マティスは1904年にフランスのアンブロワーズ・ヴォラールで初個展を行ったが、これは不成功に終わった。1904年に新印象派のシニャックやアンリ=エドモンド・クロスらとサントロペに滞在し、シニャックの影響下で荒い点描風のタッチで《豪奢、静寂、逸楽》を描く。これはいわばフォーヴィスム宣言のひとつといえるエポック的作品だった。

 

1905年、マティスとマティス周辺の芸術家集団は、パリの第二回サロン・ドートンヌ展に出品する。そのときにマティスグループの作品を見た批評家のルイ・ヴォークセルが、その原色を多用した強烈な色彩、また粗々しい筆使いに驚き、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫び、これがフォーヴィスムの起源となった。このとき、マティスが展示した作品は《帽子の女性》と《開いた窓》である。

 

ルイ・ヴォークセルは新聞『Gil Blas』の1905年10月17日に批評文を書いたことで、“フォーヴィスム”という言葉が広がった。

 

展示で作品は非難を浴びたものの、マティスの《帽子の女性》はコレクターのガートルードが購入し、またほかの大コレクターの支えもあって、四面楚歌状態にあったマティスたちの気力は持ち直した。

『開いた窓』(1905年)
『開いた窓』(1905年)
『豪奢、静寂、逸楽』(1904年)
『豪奢、静寂、逸楽』(1904年)
『帽子の女』(1905年)
『帽子の女』(1905年)

フォーヴィスムの衰退


ギュスターヴ・モロー
ギュスターヴ・モロー

マティスはアンドレ・ドランとともにフォーヴィスムのリーダーとみなされており、2人は親友でありライバルだった。

 

フォーヴィスムのほかのメンバーでは、ジョルジュ・ブラックラウル・デュフィモーリス・ド・ヴラマンクなどが有名である。

 

象徴主義画家のギュスターヴ・モローがフォーヴィスムを形成した影響力のある先生だった点も忘れてはいけない。モローはパリのエコール・デ・ボザールで教師として彼らを教育し、伝統的な美術様式を押し付けることはせず、むしろ弟子たちひとりひとりの個性を自由に伸ばすことを基本的な方針としていた。

 

もちろん、モローには、自然の単なる模写やお手本となる規範の尊重よりも、画家の個性の「表現」こそが芸術の本質だという近代的な芸術観があった。

 

マティス自身は自分の芸術についてこう語っている。

 

「われわれは、構想と手段を単純化することで晴朗さに向かっている。唯一の目標は、全体性だ。線を手段にして自分自身を表現することを学ぶ必要がある。おそらく学び直すということだ。造形芸術は、『ダンス』の大画面に使われた空の青、人体のピンク、丘の緑といった最も単純な手段によって、最も直接的な感動を掻き立てることができるだろう。」

 

1907年、ギヨーム・ポアリネールは、雑誌『La Falange』でマティス作品について「マティスの作品は極めて合理的である。」と書いている。しかし、当時マティスの作品は猛烈な批判を浴びていたため、フォーヴィスムの画風で生活をするのは無理があった。

 

マティスの1907年の作品《青いヌード》は、1913年にシカゴのアーモリー・ショーでも大きな批判を浴び、海外でも評判はよくなかった。

 

フォーヴィスムの運動は、マティスに何らキャリアアップのメリットを与えることがないまま1906年を境に衰退する。マティスの秀作の多くは1906年から1917年にかけて制作されており、当時マティスは、パリのモンパルナスの芸術家集団の1人として活動していた。

ピカソと社交サークル


1906年4月にマティスは、11歳年下のパブロ・ピカソと出会う。その後、2人は終生の親友であり、またライバルとなった。

 

2人の作品の大きな違いとしては、マティスは緑豊かな自然を描くのに対して、ピカソが自然を描くことはなく、もっぱら想像の世界を探求していたことだろう。しかし、共通して描いた主題は女性で、描かれた女性は妻(または愛人)だった。

 

マティスとピカソは、大手コレクターのガートルード・スタインやアリス.B.トクラスらが主催するパリのサロンで出会った。20世紀の最初の10年間にパリに住んでいたアメリカ人コレクターのガートルード・スタイン、彼女の弟のレオ・スタイン、マイケル・スタイン、マイケルの妻のサラ・スタインの3人はマティスの重要なコレクターだった。

 

ボルチモア出身のガートルード・スタインの友人だったコーン姉妹も、このころからマティスとピカソのコレクターとなり、彼らの絵画や素描など数百点の作品を蒐集した。

 

マティスやピカソをはじめ、この時代の多くの多くの芸術家が、ガートルード・スタインの社交サークル『27 rue de Fleurus』に集い、毎週土曜日に定期集会を開いていたという。

 

マティスやピカソのほかに、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、フェルナンド・オリヴィエ(ピカソの妻)、マック・ジャコブ、ギヨーム・アポリネール、マリー・ローサンサン、アンリ・ルソーらが参加していた。

『赤い部屋』(1908年)
『赤い部屋』(1908年)
『ダンス』(1909年)
『ダンス』(1909年)
『モロッコ人』(1915-1916年)
『モロッコ人』(1915-1916年)

フォーヴィスム運動以後のマティス


1906年にマティスはアルジェリアへ旅行し、アフリカ・アートプリミティビスムに影響を受ける。このころからマティス作品は海外旅行で出会ったさまざまな外国文化を創作の源泉にするようになる。

 

1910年にミュンヘンでイスラム美術の大展覧会を鑑賞したあと、2ヶ月間イスラム美術を学ぶためスペインで過ごす。1912年と1913年にはモロッコを訪れ、タンジェに滞在して絵を描きながら画風を変化させていった。モロッコ人のおだやかなライフスタイルに影響を受けて制作した作品が《金魚》である。

 

また、このころにマティスの親友たちは、パリで個人的で非商業的な美術学校「アカデミー・マティス」を開くことに協力し、1907年から1911年の5年間、マティスは若手芸術家たちの美術学校を経営する。

 

マティスはロシアの大コレクターのセルゲイ・シチューキンと長期間にわたってパトロン関係を維持していた。彼は《ダンス》などマティスの主要作品を所有している。

 

1917年、マティスはコート・ダジュールのシミエからニース郊外へ居を移す。移ってから約10年間の作品は、以前のフォーヴィスムの荒々しい色彩と輪郭線に比べるとかなり柔らかくなり、古典回帰へ向かった。

 

この“古典回帰”の傾向はマティスだけでなく、第一次世界大戦後の芸術に多く見られた特徴であり、たとえばピカソやイーゴリ・ストラヴィンスキーの「新古典主義」などと比較されることがある。同じフォーヴィスム作家のアンドレ・ドランも古典へ回帰している。マティスのオリエンタル・オダリスク作品が古典回帰時代の代表的な作品とされている。

 

1920年代後半は、マティスはほかの芸術家たちとのコラボーレション活動を積極に行うようになる。フランス人、オランダ人、ドイツ人、スペイン人だけでなくアメリカ人やアメリカ移民たちとも共同で制作を行った。

 

1930年になるとマティス作品に変化が現れ、フォーヴィスム時代以上の大胆な簡略化が行われるようになる。その一方で色彩はかつてのような荒々しさは消え、古典回帰時代のように抑えられた色彩が使われている。

 

アメリカのコレクターのアルバート・C.バーンズは、マティスにバーンズ財団のための壁画制作を依頼する。260 cmx391 cmの《ダンス2》が1932年に完成。バーンズ財団はほかにも多数のマティス作品を所有している。この傾向のほかの代表作品では《大きくもたれかかったヌード》がある。

バーンズ財団の壁画『ダンス2』
バーンズ財団の壁画『ダンス2』

第二次世界大戦とマティス


1940年6月にナチスがフランスに侵入すると、当時、パリに滞在していたマティスは南フランスのニースへ避難する。

 

ニューヨークでギャラリーを経営している次男のピエール・マティスに米国亡命の相談したり、またブラジルへ亡命しようと考えたことあったが、最終的にマティスはヴィシー政権下フランスにそのまま残ることになった。1940年9月にピエールは「亡命するかと思っていた。」と記録している。

 

マティスはレジスタンス運動に参加したり関与することはなかったが、偉大な芸術家が国外亡命せずにフランスに居残ることを決断したことは、占領下におけるフランス人にとっての大きな励みとなり誇りとなった。もちろん、マティスはユダヤ人ではなかったことも、フランスに残る理由だった。

 

1940年から1944年のヴィシー政権下フランス時代、軍事独裁政権下のドイツ語圏では、マティスのような前衛芸術は“退廃芸術”として攻撃対象にされたものの、パリではドイツ語圏のようにさほど攻撃されることもなく、寛大だったとされている。

 

当時のフランスでは、ユダヤ系芸術家を除いてキュビストやフォーヴィスト、フォーヴィスト以前の近代美術家の作品の展示をすることは許されていた。ただし、フランスで展示を行うフランス芸術家は、自身が「アーリア人」である宣誓と署名を行う必要があった。

 

占領時代にマティスは絵画制作のほかに、グラフィック・アーティストたちとイラストレーションの仕事もいくつかこなしている。またパリにあるムルロ・スタジオで100点以上のオリジナルリトグラフの制作も行なっている。

 

ニューヨークで画廊を経営している次男ピエールは、アメリカへ亡命してきたユダヤ系、および反ナチスの芸術家たちの展示をニューヨークで積極的に行なうようになる。1942年に『亡命芸術家』というタイトルでニューヨークで開催した展示会は大変な反響を呼び、歴史的展示となった。

 

マティスと別れたアメリー夫人は、フランス・アンダーグラウンドの交信係となっていたため6ヶ月間投獄された。

 

マティスの娘のマルグリットが戦争中にレジスタンス活動に参加。ゲシュタポに逮捕されて刑務所で熾烈な拷問を受け、ドイツのラーフェンスブリュック強制収容所へ送還される。しかし、マルグリットは連合軍の空爆によって停止中にあったラーフェンスブリュック強制収容所行きの列車から逃亡することに成功。その後、戦争が終結して、レジスタンスの仲間が助けに来るまで、彼女は森の中に隠れて、生き残びたという。

 

マティスの弟子だったルドルフ・レヴィは、1944年にアウシュビッツ強制収容所で殺された。

歴史的展示会『亡命芸術家』。1942年3月、ニューヨークのピエール・マティス画廊で開催された『亡命芸術家』展。イブ・タンギー、マックス・エルンスト、フェルナンド・レジェ、アンドレ・ブルトン、ピエト・モンドリアン、アンドレ・マッソンなどシュルレアリストの多くが参加。
歴史的展示会『亡命芸術家』。1942年3月、ニューヨークのピエール・マティス画廊で開催された『亡命芸術家』展。イブ・タンギー、マックス・エルンスト、フェルナンド・レジェ、アンドレ・ブルトン、ピエト・モンドリアン、アンドレ・マッソンなどシュルレアリストの多くが参加。

新しい愛人たち


マティスとデレクターズカヤ
マティスとデレクターズカヤ

マティスは若いロシアの移民女性リディア・デレクターズカヤに関心を抱くようににある。

 

そのことに気づいたアメリー夫人との仲は急速に悪化し、1939年に41年の2人の結婚生活は破局を迎える。財産は均等に分割され、離婚へ向かった。

 

このマティス夫婦の離婚事件に罪悪感を感じたデレクターズカヤは、自ら銃で胸を撃って自殺を試みた。しかし、重度の後遺症が残る状態で生き残った。

 

その後、彼女はマティスの元へ戻り、残りの人生をマティスとともに過ごすことになる。デレクターズカヤは年老いたマティスの家族の1人だけでなく、作品の支払い、マティスの連絡口、手紙のやり取り、アトリエでのアシスタント、モデル、その他マティスのビジネスに関するあらゆる事務作業を行なうマネージャーとなり活躍した。

 

1941年、マティスは十二指腸癌にかかる。手術は成功したものの、深刻な後遺症を発症して、3ヶ月間寝たきり状態となった。この間、マティスは紙とハサミだけで新しい芸術スタイルの模索を始める。これはのちのカットアウト作品へとつながる。

 

また同年、看護学生で病院でマティスの介護をしていたモニーク・ブルジョアとプラトニックな交際関係を築き、彼女に遠近法など美術を教える。1944年にモニークがブルジョアが修道院に入るために病院を去ってからも、マティスはときどき彼女と連絡をとっていた。

 

モニークは1946年にドミニコ修道女となったあと、マティスは小さな町ヴァンスでドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを行っている

 

この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目されている。

マティスデザインの礼拝堂
マティスデザインの礼拝堂

晩年のカット・アウト作品


1941年に腹部のがんを診断されたマティスは、手術を受けたあと、ほぼベッドと椅子で生活することになった。

 

絵画と彫刻は、心身的に作業をするのが難しくなってきたので、マティスは新しいメディウムを使いはじめる。アシスタントの助けを借りて、マティスはカット・アウト(切り抜き)による紙コラージュの作品やデコパージュ作品に方向へ変えることにした。アシスタントが事前に用意したガッシュ絵具を塗った紙を自由なサイズや形状に切リ抜いた、好きな構成で配置した。

 

体調の変化で作品にも変化が現れ、自然から受ける感覚、感触をダイレクトに表すことができるようになり、また、はさみを使うことでマティスは身体的な動きを表現できるようになったという。

 

当初のカット・アウト作品は小さめのサイズだったが、次第に巨大化して、最後は3メートルほどもある壁画や部屋の大きさほどになった。結果として、絵画でも彫刻でもない芸術形態、インスタレーション近いものの作品ができあがった。カットアウトの代表作はテート・モダンに所蔵されている《かたつむり》である。

 

ペーパー・カットアウトは、晩年におけるマティスの主要メディアになったが、彼が最初にこの技法を使用したのは、1919年のイーゴリ・ストラヴィンスキーによるオペラ『ナイチンゲールの歌』の舞台装置だった。

 

1943年にマティスは、ヴェンスの丘の上へ移り、そこでマティスは『Jazz』という最初の主要なカット・アウトの作品集を制作する。

 

1952年、マティスはマティス作品を収蔵する美術館「マティス美術館」をフランスのル・カトーに設立する。この美術館は現在、フランスで3番目にマティス作品を多数所蔵する美術館である。

 

デビッド・ロックフェラーによれば、マティスの最後の作品は、ニューヨークの北にあるロックフェラー財団近くのポカンティコ・ヒルズのユニオン教会内のステンドグラス窓のデザインということになっている。マティスがデザインした窓は、マティス死後の1956年に完成した。

 

1954年11月3日、心臓発作で死去。84歳だった。マティスはニース近くのノートルダム・ド・シミエ修道院の墓地に埋葬された。

●参考文献

Henri Matisse - Wikipedia

・すぐわかる20世紀の美術(千足伸行)




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