マヤ・ルイズ・ピカソ / Maya Ruiz-Picasso
最もよく描かれたピカソの娘
概要
生年月日 | 1935年9月5日 |
死没月日 | 2022年2月20日 |
国籍 | フランス |
両親 | パブロ・ピカソ、マリー・テレーズ・ウォルター |
兄弟姉妹 | パウロ・ルイズ・ピカソ、クロード・ピカソ、パロマ・ピカソ |
マリア・デ・ラ・コンセプシオン「マヤ」ウィドマイヤー・ピカソ(1935年9月5日–2022年 12月20日)は、後にマヤ・ルイズ・ピカソと知られ、スペインの画家パブロ・ピカソの娘。母親はマリー・テレーズ・ウォルターの長女。
幼少の頃、有名な父の絵のモデルとして何度も描かれており、《舟を持つ少女》や《人形とマヤ》などの作品で知られている。
1935年9月5日、フランスのブローニュ=ビヤンクールで、ピカソの4人の子どものうちの2番目の子どもとして生まれる。
異母兄妹にピカソの妻オルガ・コクロヴァの子どもパウロ(1921-1975)、フランソワーズ・ジローの子どもクロード(1947年生まれ)とパロマ(1949年生まれ)がいる
1973年にピカソが死去してからは、ピカソ作品に関することでさまざまなコンサルトの仕事をしていた。2022年12月26日、87歳でパリで死去。
娘で美術史家のダイアナ・ウィドマイヤー・ルイズ=ピカソによれば、肺の合併症が死因だという。
経歴
母親はマリー・テレーズ・ウォルター
マリア・デ・ラ・コンセプシオンと名付けられたルイズ=ピカソは、1935年9月5日にパリで生まれた。幼いころに亡くなったピカソの姉の名前にちなんで名付けられたが、そのことがピカソを苦しめていた。
「マリア」が「マヤ」になったのは、マヤが自分の名前をマヤと発音していたためである。
ピカソは1927年、当時ロシアのバレエダンサー、オルガ・コクロヴァと結婚していたが、マヤはピカソとオルガの子どもではなく、当時のピカソの愛人で、絵として何度も描かれているマリー・テレーズ・ウォルターとの間の子どもである。
ピカソは1955年に妻のオルガが亡くなるまで離婚せず結婚しており(遺産分割回避のため)、並行してほかにもたくさん愛人を作っていた。
2021年に出版されたジョン・リチャードソンの4部作の伝記の最終回『ピカソの生涯:ミノタウロス時代、1933-1943』によると、ピカソはマヤに関して「父親不明」として出生届を出している。
当時のフランスの法律では、既婚男性がほかの女性の子供の父親として記載することはできなかったからである。
その代わり、1942年の洗礼式では、自分が彼女のゴッドファーザーであることを明言した。
スペイン内戦と第二次世界大戦の激動期
ピカソはスペイン内戦や第二次世界大戦の激動の時代期に、ウォルターとその娘マヤとかなりの時間を過ごしている。ヨーロッパ全土で収奪が頻発した時代だった。
1935年にマヤが生まれたとき、ピカソはすでにキュビスムとシュルレアリスムの画期的な作品を制作しており、1930年代後半から40年代にかけてのピカソの芸術的関心は1つのスタイルに留まることなく多岐にわたる。
当時の激動や暴力事件と格闘した激しい作品もあれば、子どもっぽい作品もあった時期だった。
スペインの都市爆撃をモチーフにした衝撃的な代表作《ゲルニカ》(1937年)を発表した同時期に、ピカソらしいゆがんだ顔で娘マヤを描いた《人形を持つマヤ》《セーラー服のマヤ》(ともに1938年)などのほのぼのとした作品を描いている。膝の上に人形を乗せ、網で蝶を追いかけている作品である。
ピカソが子どもたちの展覧会を見学したときに、「私が彼らの年齢のときはラファエロのような絵を描いたが、彼ら(子ども)のように描けるようになるには一生かかった」と言った話はよく知られている。
「キッチンに集まって絵を描いていたあの頃の優しい思い出が残っている」。
ダイアナ・ウィドマイヤー・ルイズ=ピカソが、2022年4月から12月31日までパリ・ピカソ美術館で開かれている母マヤと祖父ピカソに関する展覧会『マヤ・ルイズ・ピカソ:パブロ。ピカソの娘』展の準備をしているとき、マヤは娘にそのように話した。
「アパートで唯一暖かい場所だった」。
1938年と1939年に描かれたマヤの肖像画は14点知られているが、そのほとんどが、今回のパリ展で、写真やデッサン、その他の記念品とともに展示されている。
今回の展覧会をエミリア・フィリポとともに企画したウィドマイア=ルイス=ピカソは、「マヤの肖像画は、第二次世界大戦前夜にも画家の人生に大きな喜びをもたらしたことを反映しています」とメールで語っている。
「彼女はピカソの子供たちの中で最も頻繁に描かれる存在となり、母親のようなミューズとなったのです」。
ピカソの相続人として
フランスで育ったが、ピカソは定期的に顔を出してくれた。ピカソがマヤの最後の肖像画を描いたのは、1953年、彼女の18歳の誕生日の前夜だった。その頃、マヤはピカソと距離を置き、その後、ほとんど会うことはなかった。
1973年のピカソの死後、マヤは、ピカソの別の愛人フランソワーズ・ジローとの間にもうけた二人の子どもと同様に、相続権利があることを主張し、認められた。
その結果、彼女はルイズ・ピカソという名前を使う権利を得る。ルイズはピカソの父方の祖父の名前であるが、彼女はしばしばウィドマイアーという名前も使っていた。
ピカソは遺書を残していなかったので、相続人同士の合意で遺産の一部を譲り受けることになった。
マヤはピカソの死後、相続人の権利が与えられるとピカソの作品の権威として知られるようになり、サザビーズやクリスティーズから、特定の作品の真贋判定や、偽物の断定を求められるようになった。
マヤは2006年、倉庫クラブの卸売業者であるコストコが販売したピカソのドローイング作品が偽物であり、作品に付属していたと思われる認証証明書も偽物であると断定したとき、ニュースになった。
マヤはニューヨーク・タイムズ紙に、作品の一つについて「証明書は偽物で、サインも綴りも絵も偽物です」と語っている。
また、贋作の1つだった闘牛の絵についてもマヤはピカソの作品ではないと判断したが、その理由のひとつは解剖学的なものであった。
「父は雄牛には2つの睾丸があることを知っていましたし、それに加えてもっと男性的なものでした」と彼女はタイムズ紙に語った。
「父が絵を描くのを見るのが好きでした。まるでつま先で踊るようにキャンバスに接していたからです」と、マヤは2013年にヒューストン美術館で開催されたピカソ展の音声ガイドで語っている。
「まず絵を描く。そして、作品を確認するために、後ずさりした。それから、絵に何が必要かを見るために、遠くから絵を見た。そしてまた踊り出していた」。
2017年、ガゴシアン・ギャラリーはパリで「ピカソとマヤ:父と娘」展を開催。ダイアナ・ウィドマイヤー・ピカソがキュレーションしたが、マヤの肖像画に焦点をあてた最初の展覧会だった。
■参考文献