フランシス・ピカビア / Francis Picabia
芸術体験の万華鏡
概要
生年月日 | 1879年1月22日 |
死没月日 | 1953年11月30日 |
国籍 | フランス |
表現媒体 | 絵画 |
表現スタイル | キュビスム、ダダ |
フランシス・ピカビア(1879年1月22日-1953年11月30日))は、フランスの画家、イラストレーター、詩人、タイポグラフィスト、雑誌編集者。印象派や点描主義といった初期近代美術を経てキュビスムへいたり、その後はダダやシュルレアリスムと関わる。
フランスやアメリカのダダ運動を推進した重要人物の1人。のちにシュルレアリスムへ転向したが、すぐに離脱。
抽象的で平面的な構成となているので、ピカビア作品の基本だが、実際はその作品スタイルは多様。オルフィスム、抽象、具象絵画など、生涯にその画風を激しく変化させ、生涯をかけてただひとつのスタイルを追求するという生き方とピカビアは無縁だった。
ピカビアの親友だったマルセル・デュシャンは「ピカビアの生涯は、芸術体験の万華鏡的連続である。外見上は個々のつながりがほとんどないかのようだが、全体は一個の強烈な個性によって、はっきりとしるしづけられている。」と評している。
また大の車狂い・スピード狂で生涯に170台以上の車を購入している。
略歴
印象派-オルフィスム
フランシス・ピカビアは、1879年1月22日に、フランス人の母とパリのキューバ公使館で大使を務めていたスペイン系キューバ人の父の間にパリで生まれた。本名はフランソワ・マリー・マルティネ・ピカビア。
家は大変裕福であった。いくつかの証言によるとピカビアの父は、スペインのガリシア地方の貴族出身で、キューバ公使館に勤める前は裕福な商人だったという。
母は18世紀以来小間物細工商として財をなした振興ブルジョアの娘だった。母の父親は写真家として知られている。ピカビアが7歳のとき母は亡くなった。ピカビアは中学生時代からスポーツを好み、腕力も相当で、喧嘩をすることを好んだ。
なお1894年ごろ、ピカビアは彼の父親が所有していたスペイン絵画のコレクションをコピーし、コピーとオリジナルを入れ替え、オリジナルを売っていたようである。売って得たお金は、彼のスタンプコレクションの資金として使っていた。
1895年、16歳のときにパリの装飾美術学校に入学する。同時期にモンパルナスにあったフェルディナンド・コモンに師事するようになる。
パリの装飾美術学校のあと、ピカビアはフェルディナンド・コモンの紹介でクリシー通りの104番街にある大学にいく。ここでピカビアはゴッホやロートレックなどの後期印象派を学んだ。20歳になって彼は絵画で生計を立て始めた。また母から遺産を受け継いだ。
1902年にピカビアはピサロに会い大きな影響を受ける。またこのころ、印象派のアルフレッド・シスレーの絵画にも興味を抱き、この時期から「印象派の時期」が始まる。小さな教会、パリの屋根、川岸、はしけ舟などの風景がモチーフとなり、画家としていちはやくその存在を知らせるようになった。
しかしながら、ピカビアはシスレーやモネ、シニャックの模倣に過ぎない自分自身の絵に対して疑問を持ち始めるようになった。
そして1909年から彼はキュビスムやセクションドールの影響を受けた絵を描き始める。同年、ピカビアはガブリエル・ビュッフェと結婚した。1911年ごろピカビアは、ピュトーにあるジャック・ヴィヨン(マルセル・デュシャンの兄)のサロンでセクションドールのグループに参加するようになる。そこで彼はマルセル・デュシャンやギョーム・アポリネールらと親しい関係となった。
グループのメンバーにはほかにアルバート・グレーズ、ロジャー・デ・ラ・フレネ、ジン・メッツァンジェなどがいた。ギョーム・アポリネールの言葉を借りれば、ピカビアにとって「オルフィスムの時期」だといわれる。
機械の時期「人間機械論」
1913年にピカビアは、キュビスムのグループの1人としてアーモリー・ショーに参加する。ピカビアは4点出品しており渡航はオープニングに出席するためだった。
ピカビアにとってニューヨークは相当刺激的だったらしく、「フランスはもはや新しい美術の可能性がなく、アメリカこそこれからの美術にとって新天地となるだろう」と話している。
またその年、ニューヨークのアルフレッド・スティグリッツのギャラリー「291」で個展を開催。1913年から1915年までピカビアは何度かニューヨークへわたり、アメリカの前衛芸術ムーブメントに積極的に参加したが、それはそのあとのアメリカ現代美術の導火線となった。
1915年6月、ピカピアはニューヨークへ移住する。表向きは製糖工場を経営している友人に糖蜜の原材料を買い付けるためと国へ説明し、その理由は受理され、アメリカ滞在が延長されることになった。このころからピカビアは多彩な色彩を捨てて、ほとんど単色といっていい画面に機械の製図のようなイメージを描き始める。
ピカビア作品で最もよく知られるシリーズ「機械の時期」である。また芸術情報雑誌『291』がピカピアを全面特集。マン・レイ、ガブリエル夫人、そしてデュシャンと一緒に行動するようになる、なお、このころ薬物やアルコールが原因で身体を著しく悪くした。これらの時期のピカピアは初期ダダ時代と位置づけられるだろう。
「機械の時期」の作品は、自動車の部品から成っているものが多いのが特徴である。
ほかに歯車、ピストン、シリンダー、ポンプ、プラグなどのモチーフを組み合わせて描かれているが、特徴的なのはそれらの機械が本来の実用的な機械として描かれていないことである。
つまり機械から実用性を取り除いた「役に立たない機械」を矛盾した性質の作品を作りたかったのである。機械からその使用目的を奪い、機械を無目的な、無償なものと化さしめ、生活的必要からまったく離れたオブジェに還元することによって、その疎外された美しさを回復しようと試みていたのである。
目的のない、有用性の期待を残酷に裏切るオブジェは、明らかに生産や進歩の観念と敵対するものである。人間機械論は、人間という自律的精神世界を成立せしめる機械が、一個のオブジェのように、何の役にも立たない泥人形のようなものであるということを証明するための、逆説的な試みと解されるべきであろう。
そしてまた、このダダイストたちは、オブジェ化した機械を女にも転用していた。彼らにとって、機械はそのまま女であり、女はそのまま機械であった。既成の芸術概念を破壊してしまったように、女のイメージや愛欲行為もまた、単なる機械のメカニズムに還元してしまったのである。
1916年、ピカビアはバルセロナにいる間、マリー・ローランサン、ロベール・ドローネー、ソニア・ドローネといった第一次大戦の亡命作家の小さなサークルにいた。バルセロナで彼は1917年にダダイスムの情報雑誌『391』の作成、編集を始める。
雑誌のタイトル『391』はアルフレッド・スティッグリッツのギャラリー『291』をモデルにしていた。ピカビアはアメリカに滞在しているマルセル・デュシャンの助けを借りて編集し続けた。
その後、麻薬などで健康を害したピカビアはスイスのチューリヒへ向かう。憂鬱や自殺衝動におそわれていたころ、ダダのトリスタン・ツァラに出会う。彼の攻撃的なダダ思想はピカビアを刺戟させ、チューリヒで刊行した『391』の第八号を「ダダ特集」にあてた。
ついでピカビアはパリに戻り、ピカビアの愛人であるジェルメーヌ・エヴァリング、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンと出会い、パリ・ダダを立ち上げるようになる。1919年を通じてピカビアは、チューリヒやパリのダダ運動へ関与を続けるが、ダダ運動が下火になってくると、シュルレアリスムに関心を移し始めた。
ツァラとブルトンのあいだにダダに関する論争が始まると、ピカビアはブルトン側につき1921年にツァラのダダを非難し始める。しかし、1924年に雑誌『391』の最終号で誕生したばかりのシュルレアリスムに対しても非難した。このころピカビアはドローイングで具象的なイメージを描き出しており、「機械の時期」は終わりを告げることになる。
怪物の時期
このころ「民衆絵画」風な作品を描いたが、それに続いて短期間ではあったが「コラージュの時期」が登場していた。
ピカビアはマッチ、羽根、つまようじ、センチメートル尺、くしなどをつかってそれを絵画の部分として貼り付けて、風景や肖像などの具象的な作風をつくりだした。
1925年以後、ピカビアはブルトンに再接近。デュシャンと同じくシュルレアリスムのグループのメンバー入ることはなかったが、いくつものシュルレアリスム展には参加した。
1923年から28年頃までつづいたピカビアの絵画に「怪物の時期」と呼ばれるシリーズがある。「機械の時期」とも「コラージュの時期」ともまったく異質で、脈絡がなく、描かれているのは女性の裸像、恋人たち、パラソルを持つ女性、女性のポートレイト、あるいは動物というごくありふれた題材だがいずれも色彩を豊富に使ってフォービズムに近いようなかんじで描いていた。こ
「オルフィスムの時期」「機械の時期」「コラージュの時期」の作品は近代美術の流れに呼応する関係が読み取れるが、この流れにそってもうひとつ展開していた「怪物の時期」は、近代美術の流れとまったく関係がない点が重要である。
「怪物の時期」の次に来るのが「透明の時期」である。1932年ごろまで続いたシリーズで透明なフォルムと色彩を重ねあわせる研究をしていた時期である。「透明の時期」が終わると、さまざまなスタイルの作品の共存の一時期がくる。
商業絵画の時期
1940年代初頭にピカビアは南フランスに移住し、そこで彼は驚く行動にでる。フランスの少女雑誌上でヌードモデルの写真を下敷きにした絵画シリーズを作り始めた。
ピカビアの研究家によるとこの時期は「コマーシャル・リアリズム」もしくは「ポピュラー・リアリズム」とも呼び得る時期である。
理由は戦争の勃発である。戦争の勃発はピカビアの生活を不如意なものとして、ピカビアは生活のために売れる絵を描かなければならなくなったという事情があったというからである。
もっとも、ピカビアは不本意に描いていたわけではなく、実はけっこうヌード絵を描くことを楽しんでいたという。それらの絵画シリーズはアルジェリアの画商が取り扱いはじめ、そのピカビアの絵は占領下にある北アフリカ全体の売春宿に飾られるようになった。
1953年パリで死去。
「従属するにはあまりに独立的、突飛すぎた(フランシス・ピカビア)」
略年譜
1879年 |
・1月22日パリに生まれる。本名フランソワ・マリー・マルティネ・ピカビア。父はキューバ生まれのスペイン人貴族フランシスコ・ヴィンセンテ・マルティネス・ピカビア。母はフランス人ブルジョアの娘マリー・セシル・ダヴァンヌ。 |
1886年 | ・母、肺結核で死亡。 |
1887年 | ・母方祖母死亡。以後キューバ大使館勤務の父親、図書館勤務の叔父、アマチュア・カメラマンだった裕福な実業家の祖父との4人ぐらし、孤独な少年時代を過ごす。 |
1895年 | ・パリの装飾美術学校に入学。 |
1899年 | ・フランス芸術家展に初出品。以後、サロン・デ・アンデパンダン、サロン・ドートンヌを中心に数多く出品。 |
1902年 | ・ピサロ、シスレーの影響により、印象派の傾向を強める。 |
1905年 | ・オスマン画廊にて初の個展。 |
1909年 |
・前衛音楽家ガブリエル・ビュッフェと結婚。 ・抽象絵画「ゴム」を制作。以後、1914年までの間に、フォーヴィスム、キュビスム、オルフィスムと作風を変える。 |
1910年 | ・マルセル・デュシャンとノルマンディ美術家教会展で知り合い、生涯にわたり交友。 |
1911年 |
・詩人ギョーム・アポリネールと出会う。 |
1912年 |
・セクション・ドール展に出品。 |
1913年 | ・ニューヨークのアーモリー・ショーに出品のため渡米。キュビスムの作品「セヴィリアの行列」「泉のほとりのダンス」「パリ」などがスキャンダルを巻き起こす。 |
1915年 |
・5月、第一次大戦を避け、砂糖の買い付けのため、ニューヨークへわたり、スティーグリッツと旧交をあたためる。 ・機械をモチーフにした絵画の連作を描き始める。 |
1916年 |
・健康を害しバルセロナへ移住。 |
1917年 |
・雑誌『391』を発刊。以後7年間に19号刊行。1924年終刊。 ・春、三度目にして最後のニューヨーク滞在。デュシャン、マン・レイらとニューヨーク・ダダを形作る。 ・10月、健康を害しパリにもどる。 ・ジェルメール・エヴェルランと同棲。 |
1918年 |
・治療のため、スイスのローザンヌへ行く。医者から絵画を 描くことを禁じられたため、精力的に文筆活動を行う。 ・トリスタン・ツァラやチューリヒ・ダダ・グループと接触する。 |
1920年 |
・トリスタン・ツァラがチューリヒより出てきて、パリのピカビア宅に落ち着く。 ・詩集の出版、ダダの集会などを通じて、パリ・ダダの最盛期を作り出す。 |
1921年 |
・ダダと決別。 |
1924年 |
・アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」に対して、「391」で批判を発表。 ・スウェーデン・バレエ団の公演「本日休演」の舞台装置と衣装を担当(音楽エリック・サティ)。この1幕と2幕の休演時間に、監督ルネ・クレール、脚本ピカビアによる映画「幕間」が上映される。 ・パリを去ってカンヌ近くに邸宅「5月の城」を建築し、住む。 ・怪物の時代。 |
1927年 |
・透明の時代 |
1930年 |
・息子の家庭教師だったオルガ・モーラーとカンヌ港のヨットに居住。 |
1930-32年 |
・ボートや車を購入するため、たびたびパリ旅行をし、ガートルード・スタインと旧交をあたためる。生涯に127台の車に乗り換える。 |
1939年 |
・カンヌから数マイルの小さなアパートに移る。 |
1940年 |
・オルガ・モーラーと結婚。 ・擬古典派時代。 |
1942年 |
・脳出血 |
1945年 |
・パリにもどり、昔の家に住む。 ・若い抽象画家たちと交流し、ピカビア自身も独自の抽象絵画へとむかう。 |
1949年 | ・最晩年の点描画を描く。 |
1951年 | ・動脈硬化症による麻痺にて絵画を断念。 |
1953年 |
・11月30日没。 |