アンギアーリの戦い / The Battle of Anghiari
「失われたレオナルド」と呼ばれる消失作品
レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作である《アンギアーリの戦い》は、1505年にフィレンツェのヴェッキオ宮殿の壁に描かれた壁画である。主題は1440年のアンギアーリの戦いを描いたもので、レオナルドの新しい技法を用いて描かれていたため、完成させることができず、14年で消えてしまったとされている。そのため、「失われたレオナルド」とも呼ばれる。本記事では、レオナルドの《アンギアーリの戦い》がどのように制作し、消失したのかを解説します。
概要
《アンギアーリの戦い》は、1505年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作されたフレス画。フィレンツェのヴェッキオ宮殿の「五百人広間」の壁に描かれていた。
主題は1440年のアンギアーリの戦いで、荒れ狂う軍馬に乗った4人の男が軍旗をめぐって争う様子を描いたものである。
実験的な技法で描かれていたため、完成させることができず、部分的に描かれた壁画もその後、14年で姿を消してしまったとされている。そのため、「失われたレオナルド」と呼ばれることもある。
レオナルドの《アンギアーリの戦い》の優れた複製作品は、パリのルーヴル美術館にあるペーテル・パウル・ルーベンスの模写作品である。ルーベンスは、原画にあったと思われる激しさ、激しい感情、力強さを描き出すことに成功した。
2012年3月、マウリツィオ・セラチーニ率いるチームは、ヴェッキオ宮殿の奥のジョルジョ・ヴァザーリが描いた《ヴァル・ディ・キアナのマルチアーノの戦い》(1572年)の一部分の下に、この絵がまだ存在していると発表した。
ヴァザーリは、消失したレオナルドの絵の上に混沌とした戦闘シーンを描き込んだのだという。
しかし、関係者の対立により、それ以上の進展がないまま、2012年9月に捜索は打ち切られた。
2020年10月、美術史家のグループは、レオナルドがジェッソと油の層を含むような絵画の技法の発明に失敗した理由で、この絵は制作されなかったと結論づけたが、セラチーニは認めていない。
歴史
アンギアーリの戦いとは1440年、フィレンツェ共和国とミラノ公告がトスカナのアンギアーリで衝突した戦闘である。
フィレンツェの人々にとって、アンギアーリの戦いは重要な勝利だった。
1504年、勝利を祝してレオナルド・ダ・ヴィンチは、ニッコロ・マキアヴェッリが契約したゴンファロニーレのピエロ・ソデリーニから、フィレンツェのヴェッキオ宮殿の「五百人広間」の装飾の依頼を受けた。
同時に、ダビデ像を完成させたばかりのライバル、ミケランジェロも反対側の壁で制作を依頼されていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロが同じプロジェクトに取り組んだのは、このときだけである。ミケランジェロの絵では、カッシーナの戦いで、水浴びをしていた兵士たちが敵に奇襲されたときのエピソードが描かれている。
しかし、ミケランジェロはこのプロジェクトを完成させるのに十分な期間フィレンツェに滞在することができなかった。彼は下絵を完成させ、絵を描き始めた段階で中止した。1505年、新しくローマに赴任した教皇ユリウス2世に招かれたミケランジェロは、教皇の墓の建設を依頼された。
レオナルドは、アンギアーリの戦いで馬が激しくぶつかり合い、旗を奪い合う男たちの激戦の場面を描いた。ジョルジョ・ヴァザーリは『最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯』の中で、レオナルドがこの場面を魔法のように紙に描いたと賞賛している。
「レオナルドがスケッチした兵士の制服のデザイン、兜の紋章やその他の装飾品の創意工夫は言うに及ばず、馬の形や特徴にも驚くべき技術を発揮し、他のどの巨匠よりも大胆で筋肉質、優美な美しさを創り上げている。」
制作にあたってレオナルドは、フレスコ画(『最後の晩餐』、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの食堂)で失敗した経験から、新しい技法で壁に油絵の具を塗ることを希望していた。
プリニウスの本で読んだ石膏を使ったという野心的な作品だった。「エンコースティック(熱で定着させる)」という技法が使われた。レオナルドは、この技法の念入りに実験し、ボードに塗布し、暖かい環境でよく乾かした。
まず、粒状の石膏を塗り、硬く平らになるように下地を作り、その上に樹脂性のピッチをスポンジで塗った。
この組み合わせは、油絵の具を塗るのに適した下地となるはずだった。この作品の中央上部を仕上げるために、足場を工夫したりしていたが、実際の塗装は実に悲惨なものであった。
午前9時、レオナルドが壁に筆を置いた瞬間から、問題は始まっていた。天気が悪くなり、空が開いて雨が夜まで降り続いたのだ。突然の湿気で漫画を固定していた糊が液状化し、レオナルドが作業を始めようと手を上げると、絵は床に滑り落ちてしまった。
下の部分だけが無傷で保存され、上の部分は乾燥が追いつかず、色が混ざってしまったのだ。結局、レオナルドはこのプロジェクトを断念することにした。
その後、ミケランジェロとレオナルドの未完成の絵は、ほぼ10年間(1505-1512)一緒に同じ部屋に飾られていた。ミケランジェロの絵は、1512年にバルトロメオ・バンディネッリにバラバラに切り刻まれた。
レオナルドの『アンギアーリの戦い』は大いに賞賛され、何十年にもわたって多数の複製が作られ、残っている。
部屋の改築
16世紀半ば(1555-1572)、コジモ1世の指示により、ヴァザーリとその協力者が、公爵がこの重要な広間で法廷を開くことができるよう、広間の拡大・改築を行った。
この改修の過程で、ミケランジェロの「カシーナの戦い」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」など以前の装飾計画にあった有名な作品(しかし未完成)が失われた。
ヴァザーリ自身は、増築された壁に新たなフレスコ画を描いた。壁面には、フィレンツェがピサやシエナに勝利した戦闘や軍事的勝利を描いた、大きく広がりのあるフレスコ画が描かれている。
- 『シエナの奪取』
- 『ポルト・エルコーレの征服』
- 『ヴァル・ディ・キアナのマルチアーノにおけるコジモ1世の勝利』
- 『サン・ヴィンチェンツォの塔でのピサン人の敗北』
- 『オーストリアのマクシミリアン、レグホルンによる征服』
- 『ピサ、フィレンツェ軍の急襲』
などである。
再発見の可能性
イタリアのハイテク美術分析専門家マウリツィオ・セラチーニは、レオナルドの《アンギアーリの戦い》は、ヴァザーリの《ヴァル・ディ・キアナのマルチアーノの戦い》(1572年)の背後に隠れていると考えている。
ヴァザーリの壁画の上部、地上12メートルでは、フィレンツェの兵士が「Cerca trova」(求める者は発見する)と書いた緑の旗を振りかざしている。
この謎めいた言葉は、ヴァザーリがレオナルドの《アンギアーリの戦い》を、不完全で破損していたにもかかわらず、自身の著作の中で高く評価していたことがヒントになっている。
セラチーニは、ヴァザーリがレオナルドの作品を進んで破壊したとは考えにくいが、ヴァザーリは、コジモ1世から任された改修工事で、マサッチョの《三位一体》を隠し、保存したことが前例にある。
そのため、セラチーニは、高周波表面透過型レーダーやサーモグラフィーカメラなど、非侵襲的な手法でホールを調査した。その結果、ヴァザーリが東側の壁の前にカーテンウォールを作り、その上にフレスコ画を描いていることがわかった。
セラチーニは、レオナルド・ダ・ヴィンチのフレスコ画の原画は、古い方の壁の下にあるとみている。センサーで調べたところ、2つの壁の間に1〜3cmの隙間があり、これは古いフレスコ画を保存するのに十分な大きさだった。
2007年初頭、フィレンツェ市議会とイタリア文化省は、さらなる調査を承認した。
2011年12月、セラチーニらは、ヴァザーリのフレスコ画が過去に破損・修復され、ヴァザーリ作品の「原画」を構成しなくなったと思われる部分に小さな穴を開け、カーテンウォールの裏側の空洞にカメラ付き内視鏡プローブを伸ばし、内壁の漆喰に顔料の断片やフレスコ画の浮き出しの跡を発見した。
その際にサンプルを採取し、2012年3月12日に結果を公表した。セラシーニは、これがレオナルドのフレスコ画が現存する決定的な証拠になると考えている。
セラチーニの研究は、穴を開けたことに対して強い批判を浴び、大きな議論を呼んでいる。
2012年3月、研究者たちは「ヴァザーリの壁の裏側で見つかった物質は、レオナルドの『モナリザ』や『洗礼者ヨハネ』の茶色の釉薬に見られる黒い顔料と似た化学組成を示した」と発表した。
2012年半ば、ヴァザーリのフレスコ画に隠された空洞を調査が、関係者の見解の相違により、中止された。
アルフォンソ・ムッシとアレッサンドロ・サヴォレッリは2012年12月、パラッツォ・ストロッツィにあるイタリア・ルネサンス研究所の機関誌に、ヴァザーリの壁画に描かれた緑の旗の標語に関するセラシニの解釈に異を唱える論文を発表している。
ベルナルド・セグニ、アントニオ・ラミレス・デ・モンタルボ、ドメニコ・モレニの作品を通して知られた、スキャナガッロの戦い(1554年)で起こった出来事の文脈で、「CERCA TROVA」という文章を解釈を試みている。
その中には、「Libertà va cercando, ch'è sì cara , ch'è sì cara come sa chi per lei vita rifiuta」(プルガトリオ、70-72節)というダンテの詩が刺繍された緑の旗や、金色の古代紋章「Libertas」なども含まれている。
これらの旗は、共和国の銀行家ビンド・アルトヴィーティが武装し、ピエロ・ストロッツィとジャンバティスタ・アルトヴィーティが率いるフィレンツェの亡命軍に、フランスのアンリ2世から届けられたものであった。
共和国軍とフランス軍の敗北の後、これらの緑の旗は勝者の戦利品となり、大公コジモ1世に手渡されることになる。
ムッシとサヴォレッリは、チンクェチェント広場でコジモ1世とヴィンチェンツォ・ボルギーニが構想した一連の絵画の中で、フィレンツェ最古の「ステンマ」(リベルタス)の幸運と天罰というテーマに沿って、「CERCA TROVA」の標語は、ダンテの詩と共和主義者の運命(「自由を求めて死を見つける」)への暗示であり、それによって、緑の旗はヴァサーリが残したヒントというセラシニ解釈に異議を唱えるのである。
2020年10月、美術史家のグループは、レオナルドがジェッソと油の層を含むような絵画の技法の発明に失敗した理由で、この絵は制作されなかったと結論づけた。セラチーニは彼らの結論を受け入れていない。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/The_Battle_of_Anghiari_(Leonardo)、2023年2月1日アクセス
・https://www.leonardodavinci.net/the-battle-of-anghiari.jsp、2023年2月1日アクセス