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【美術解説】イヴ・タンギー「生物的な抽象絵画」

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イヴ・タンギー / Yves Tanguy

無意識から生まれる生物的抽象画


イヴ・タンギー「無限の分裂」(1942年)
イヴ・タンギー「無限の分裂」(1942年)

概要


生年月日 1900年1月5日
死没月日 1955年1月15日
国籍 フランス、アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム
配偶者 ケイ・セージ

レイモンド・ゲオルグ・イヴ・タンギー(1900年1月5日-1955年1月15日)は、フランスの画家、シュルレアリスト。

 

ブルターニュの家系の出で、この半島の風土、ケルト的想像界とのむすびつきを自覚。21年からジャック・プレヴェールらと知り合い、25年にはシュルレアリスムに参加、独学で驚くべき作品を描き続ける。

 

39年には合衆国へ亡命して市民権を得、画家ケイ・セージとともにくらす。画家として、芸術におけるシュルレアリスムを代表するすばらしい連続的作品をのこして去ったが、それらは無意識および幼年期の深い源泉に汲み、なにか生命の原始にひそむ抽象的な生物のイメージの世界を現出させたものである。

略歴


シュルレアリスム以前


タンギーは、フランスのパリのコンコルド広場にある海軍省で退役軍人の息子として生まれた。両親はともにブルターニュ出身だった。父は1908年に死去、その後、母はタンギーとともにフィニステールのロクロナンに戻り、さまざまな親族と同居して多くの青年時代を過ごした。

 

1918年に、タンギーは陸軍に徴兵される前に商人海軍に参加。そこでジャック・プレヴェールと知り合う。1922年に軍役を終えると、タンギーはパリに戻り、さまざまな職に就いた。偶然、ラ・ポエシー通りを走るバスの後部立席から、ポール・ギョームの店のウインドウにかかっているキリコの初期作品『子どもの脳』に遭遇し、飛び降りてそれに見入り、て深く感銘を受ける。

 

この体験を機に、タンギーは独学で絵の勉強を始めるようになる。また麻薬やアルコールに親しみ、ランボー愛読者であった彼は、元々、シュルレアリスムの「オートマティスム」表現と密接な素地を持っていた。

 

1924年ころに親友のジャック・プレヴェールを通じて、タンギーはアンドレ・ブルトン周辺のシュルレアリスムグループに紹介される。その後、タンギーは彼自身の独自の絵画スタイルを発展させ、1927年にパリで初個展を開催。同年最初の妻と結婚する。この時期は非常に忙しく、アンドレ・ブルトンはタンギーと1年で12の絵画作品の契約を交わした。

 

しかし、アンドレ・ブルトンの熱烈な支持にもかかわらず、タンギーの絵は殆ど売れない。アルコールに侵され、ときには食べることもままならぬ苦しい生活で、あるコレクターから絵ではない、ペンキ塗りの仕事を求められることもあった。 

アメリカ移住


1939年、パリで、アメリカ生まれの女流画家ケイ・セージと出会う。同年11月、妻のジャネットをパリに残したまま、ニューヨークに旅立ち、ケージと暮らすようになる。ここから売れなかったタンギーの新しい生活が始まる。ニューヨークで彼は意外なほどの歓迎を受けた。

 

ジェイムズ・ジョンソン・スウィー二、ジェイムズ・スロル・ソビーといった著名な批評家が、競ってタンギーを紹介しはじめる。貴族的なパリでは成功の妨げとなっていた、「素人画家」としての経歴や、庶民的、放浪者的、不良的なタンギーの体質がそのままアメリカでは受け入れられることになった。

 

ケイ・セージとともにグリニッチ・ヴィレッジに住み、おたがい離婚手続きを終えてから、1940年に結婚。1949年、タンギーはケイとともに西海岸へ移動。ネヴァダやカリフォルニアの大自然に接する。翌年にカナダからワシントン州へ。

 

 

1955年に、脳卒中で倒れ死去。遺灰は、セージの死後、友人のピエール・マティスによって、セージの遺灰と共にブルターニュ半島のドゥアルヌネの海岸にまかれた。

A4版



 ●参考文献

Yves Tanguy - Wikipedia 


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