花輪和一インタビュー1
親の呪縛
(出典元:ガロ1992年 5月号)
編集部:ガロ以外にも持ち込みをしたんですか?
花輪:当時池袋の印刷屋に勤めていてね、合間をみてはペン画のイラストを少年画報社なんかによく持ち込んでましたよ。でも「ダメ、ダメ」って言われて…。そんな時、たまたま近所の貸本屋でガロを立ち読みしていたら、そこにつげさんの「李さん一家」が載っていてね。あれはペン画みたいな漫画でしょ。漫画っていったら手塚治虫みたいな絵じゃないとダメだって、自分で思い込んでいたから。だからつげさんの漫画を見た時に、「あっ、こういう絵で描いてもいいんだ」って思ってね。じゃあ、自分もガロに描いてみよう、と思ったんです。
編集部:それで、初期の漫画は、エログロナンセンスという言葉でもって、よく取り上げられましたね。
花輪:うん、そう。あの頃漫画を描くにはエログロが当たり前だと思っていたんですよ。何かそれらしいこと描かなきゃいけない、と思うとついエログロになってしまう。それにあの頃は明治時代の毒婦なんかが面白くて、そういうのばかり描いていたな。好きだったんだね(笑)。
編集部:池袋から上野に移り住んでから、ずいぶん不忍池を散歩していたような事を書いていましたね。池のカメを捕まえて甲羅に何か描いていた、とか……。漫画を描いたり不忍池に行ったり、毎日そんなふうな暮らしだったんですね。
花輪:うーん、だからあの頃は眠っていたんですよ。精神状態がね。眠っていたんだけれどそれに気付いていなかった。こういうもんだろうって。心なんか問題にしていなかったから。きっと子どもだったんだよね。もう現実のつらい事は一切拒否して、誤魔化して、それでカメと遊んでいたんですよ(笑)
編集部:それでは、花輪さんを眠りから醒めさせた原因は何だったのですか?
花輪:やっぱり母親の死だね、死んでからバーっと一気に出たわけ。あの時は本当に自分が分からなくなっちゃったね。それまでは本当に夢うつつで生きてきたから、人生全部ドブに捨てた感じ。それをお袋の死で初めて気が付いてさ、自分は一体何だったてね。俺が3、4歳の頃、お袋が再婚したんですね。その義理の父が大嫌いだった。すごく嫌いだった。
丸尾:夜中に茶碗は投げる、暴れては鍋は投げる、そういう人だったんでしょ。
花輪:そう、もう地獄ね、アウシュビッツ収容所の記録フィルム見てさ「ああ、これって俺の家と同じじゃないか」って思ったもの(笑)。ものすごく恐かったし。
丸尾:そりゃ恐いでしょ。暴力ふるうんだもの。
花輪:いやそうじゃなくて、もっと何か違う恐さがあったの。
丸尾:あっ、要するにヨソの人っていう感じがあったんじゃないの。
花輪:そう、だからヨソの人だけれどヨソの人ではない。
丸尾:そういうヨソの人が家に入って来ているから違和感を感じたんでしょ。その人が隣りに住んでいれば全然恐くないけど、血の繋がりもないのに突然家の中に入ってきて、それを父親としてみなきゃいけない。なんでこの人が父親なんだって思っちゃうよね。だから違和感から恐怖感が生まれて、話もしたくなくなる。
花輪:そうそう。もう家に入るのが嫌なんですよ(笑)。一緒にいると、外に行きたいんだけれど出られない。スッて行くと悪いんじゃないかと思ってね。それでいろいろ考えて自分で無理矢理用事を作って「俺はその用事をするんだからオヤジの前から消えてもいいんだ」って自分に言い聞かせて外に出る。だから、義理のオヤジには憎しみと呪いを感じていたね。俺は本当に呪っていたね。もう呪って呪って呪い抜いた。「アレは死ね!!この世から消えろ!!」ってさ。もう、ありとあらゆるオヤジの残酷な死に様を思い描いてさ、汗びっしょりかいて「アイツは死ね!!」って思ってた。