Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1617

【完全解説】メレット・オッペンハイム「超現実オブジェ作家の代表格」

$
0
0

メレット・オッペンハイム / Méret Oppenheim

超現実オブジェ作家の代表格


メレッと・オッペンハイム「毛皮のティーカップ」(1936年)
メレッと・オッペンハイム「毛皮のティーカップ」(1936年)

概要


生年月日 1913年10月6日
死没月日 1985年11月15日
国籍 スイス
表現媒体 絵画、写真、彫刻、詩
ムーブメント シュルレアリスム

メレット・オッペンハイム(1913年10月6日-1985年11月15日)はドイツ生まれのスイス人画家。写真家。シュルレアリスト。初期シュルレアリスムのメンバー。

 

超現実オブジェを制作するかたわら、マン・レイの写真モデルとして有名で、最もよく知られている彼女をモデルした作品は、印刷機と彼女のヌードを並置した写真作品。

 

彼女の作品の大半は、女性のセクシャリティや性に抵抗する女性を探求した内容を日用品をアレンジして表現するものである。たとえば「毛皮のティーカップ」では、毛皮は陰毛、スプーンは男性器、ティーカップは女性器を暗喩しているという。絵画もまた同じテーマである。彼女の独創性と大胆さは、シュルレアリスム運動の代表的芸術家の地位を確立させることになった。

 

モンパルナスのキキやドラ・マールなど、モデルとしてシュルレアリスムに関わる女性が多かった中でも、オッペンハイムは初期シュルレアリスム・グループにおいて、数少ない典型的な女性シュルレアリム作家であったことで評価が高い。

略歴


幼少期


メレット・オッペンハイムは1913年10月6日にベルリンで生まれた。メレットという名前はゴットフリート・ケラーの小説「緑のハインリヒ」の森の中に住む野性的な子ども「Meretlein」にちなんで付けられた。オッペンハイムには2人の兄弟がおり、1915年生まれの妹のクリティスンと1919年生まれの弟のバルクハードである。

 

メレッとの父はドイツ系ユダヤ人の医者で、1914年の第一次世界大戦では徴兵され従軍する。その結果、オッペンハイムと母親は、母方の祖父母と暮らすためにスイスへ移る。

 

スイスでオッペンハイムは若いころからさまざまなアーティストやアートがとりまく環境で育てられた。特に叔母のルート・ヴェンガーから影響を受け、彼女の優雅なモダニズム的ライフスタイルが身についているという。

 

父の友人の一人だったカール・ユングの本を発見したオッペンハイムは、ユングの影響を受けて1928年に夢の記録を始める。彼女の夢日記は芸術人生を通じて非常に重要な創作源泉となった。また、1929年にバーゼルで開催されたパウル・クレーの回顧展でオッペンハイムは多大な影響を受けて、抽象芸術の方向を目指すようになる。

パリ時代とシュルレアリスム


1932年に18歳のとき、オッペンハイムはパリに移動し、ときどき、アカデミー・デ・ラ・グランデ・ショウミエールへ入学。

 

1933年にハンス・アルプやアルベルト・ジャコメッティと出会い、彼らは彼女のアトリエで共同して制作を行う。1933年の10月27日から11月26日の間にパリで開催されたシュルレアリスムの展覧会「サロン・デ・シュルデパンダン」にオッペンハイムは参加。そこでアンドレ・ブルトンに出会い、シュルレアリスム・グループのカフェの会合に参加し始めた。

 

この頃からシュルレアリスムのオブジェ熱に刺激され、またマックス・エルンストから影響を受けるようになり、オブジェ制作に熱を上げ始めた。

 

オッペンハイムの代表的な作品は「私の乳母」である。紙のフリルで装飾されたハイヒールを紐で縛り付けて裏返しに大皿の上に置いた作品で、脚を広げて仰向けになっている裸の女性のポーズを思わせるものである。これが1936年にシャルル・ラットンの画廊で展示され、大騒ぎになった。

 

オッペンハイム自身の解説によれば、この作品はその靴を縛り続けることで、子どもの頃の叔母に"仕返しをする"意図だったという。しかし、オッペンハイムの制作意図とは別に、シュルレアリストたちや一般の人たちは、非常にエロティックな表現として受け取ることになった。

 

オッペンハイムは鑑賞者の反応に対して反発する。オッペンハイム自身は本来は画家であり、「私の叔母」はお遊びで適当に作ったオブジェ作品であり、また解釈としては、若さゆえの反抗心が産みだしたもので、この作品が自分の代表作として扱われるようになることに悩んだ。

 

この超現実オブジェの成功のために、さらなる超現実オブジェの制作を望む声が高まったが、オッペンハイム自身は逆に自信喪失と芸術的混乱とが増すばかりとなった。彼女はシュルレアリスムの寵児される自分が受け入れがたく感じ、1937年にはすっかり意気消沈して、制作意欲をなくしていった。

「私の叔母」(1936年)
「私の叔母」(1936年)

芸術活動の中断と復帰


 

1937年にスイスのバーゼルに戻ったあと、彼女は芸術芸術家としての成長に苦しみ始める。いつも突発的に作品を制作しては破壊したりした。パリでルネ・ドゥルーアンが始めたギャラリー・ルネ・ドゥルーアンの展示に作品を出品したあと、1939年から芸術活動を一時中断する。

 

パリの友人たちと連絡はしていたが、1954年まで彼女は作品をほとんど展示しなくなった。その後、1960年に入ってオリジナルスタイルに戻り、古いスケッチや初期作品をベースにして活動を再開しはじめた。

 

1956年にオッペンハイムはダニエル・スポアリ監督のピカソの演劇「ル・デシール・アトラクション・パラ・キュー」の舞台衣装やマスクのデザインを担当する。

 

1959年には数人のセレブ友達だけのパーティ「春の宴会」をベルンで企画。このパーティでオッペンハイムは、裸の女性の顔に金を塗り、身体の上にさまざまな食物や魚介類や果物を置いて、みんなが食事できるインスタレーションを披露する。食いつくされる女性の姿をサド的に表現しているという。

 

また、オッペンハイムの許可を得てアンドレ・ブルトンは同年、パリのギャラリー・コルディエで開催された展覧会「国際シュルレアリスム展(EROS)」のオープニングでこのパフォーマンスを再現。ただ、もともと身内だけの環境を想定して企画されたパフォーマンスだったため、オッペンハイムにとっては過度に挑発的であり、本来の自分の制作意図から乖離したものになったという。

「春の饗宴」(1959年)
「春の饗宴」(1959年)
「春の饗宴」を再現したもの。こちらはマネキンだと思われる。
「春の饗宴」を再現したもの。こちらはマネキンだと思われる。

●参考文献

Méret Oppenheim - Wikipedia


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1617

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>