マックス・エルンスト / Max Ernst
魔術的錬金術
概要
生年月日 | 1891年4月2日 |
死没月日 | 1976年4月1日 |
国籍 | ドイツ |
ムーブメント | ダダ、シュルレアリスム |
表現媒体 | 画家、版画家、彫刻家、理論家、詩人 |
配偶者 | ドロテア・タニング |
マックス・エルンスト(1891年4月2日-1976年4月1日)はドイツの画家、彫刻家、グラフィックアーティスト、詩人。ダダおよびシュルレアリスム・ムーブメントの開拓者。ケルン・ダダを創始。
1921年にコラージュ作品を発表して大きな影響を与える。コラージュの代表作は『百頭女』や『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』といった物語とコラージュを融合させたコラージュ・ロマンシリーズ。鳥と人間の合成したキャラクターで知られる”怪鳥ロプロプ”は、エルスント自身(エゴ)を表しているという。
シュルレアリスム時代には「自動記述」の最初の実験をおこなう。ほかに「フロッタージュ」「デカルコマニー」など新しい表現方法を駆使。
第二次世界大戦中は、戦火を避けてニューヨークに亡命し、アンドレ・マッソン、フェルナン・レジェ、ピエト・モンドリアンらとともにのちのアメリカ美術に多大な影響を与えた。
画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。理論家として論文も多数書いて評価を高めた。
この作家のポイント
- コラージュ・ロマンシリーズ
- ケルン・ダダの創始者
- フロッタージュをはじめ新技法を多数駆使
作品
略歴
若齢期
マックス・エルンストは、ケルン近くのブルーニュでのミドルクラスのカトリック家庭で、9人兄弟の3番目の子どもとして生まれた。
父はブリュールで聾唖学校の教師かつアマチュアの画家フィリップ・エルンストで、敬虔なクリスチャンだった。そのためマックスは父権的なものに対して反発的な姿勢を取るようになる。しかし一方で、父の絵画趣味や自然観察もまたマックスの作品に影響を与えていた。
1910年にエルンストはボン大学に入学し、哲学、歴史、文学、心理学、精神医学を学ぶ。精神病院を訪ずれた際に精神病者の絵画に感銘を受け、同年、彼自身も絵を描きはじめる。当時はブリュール城の庭園をスケッチしたり、妹や自分のポートレイトを描いていた。
1911年に表現主義のアウゲスト・マッケと知り合い、ライン表現主義者のグループ展に参加。1912年にケルンの「ゾンダーブント展」を訪れ、そこでパブロ・ピカソやヴィンセント・ヴァン・ゴッホやポール・ゴーギャンといった後期印象派の作品に影響を受け、画家になる決意をする。同年、ケルンのギャラリー・フェルドマンで青騎士のグループと展示を行い、1913年には複数のグループ展に参加した。
1914年にケルンでダダイストのハンス・アルプと出会う。二人はすぐに意気投合し、その後、死ぬまでアルプとは交友を続けるようになる。
夏に学業を終わらせると、第一次世界大戦が勃発。エルンストは砲兵隊員として軍務につく。戦争は芸術家たちに大変な影響を及ぼした。エルンストは「1914年8月にマックス・エルンストは死んだ。そして1918年11月に復活した」と自叙伝で語っている。
従軍時代、エルンストは戦場地図の作成もしており、そこで絵も描き続けた。フランツ・マルクのような後期印象派の画家の多くが第一次世界大戦で戦死した。
ダダ・シュルレアリスム
1918年に復員してケルンに戻ると、1914年に出会った美術史家のルイーゼ・ストラウスと結婚。
1919年にミュンヘンでパウル・クレーと出会い、またジョルジュ・デ・キリコに影響を受け、絵画を学び始める。同年、ジョルジョ・デ・キリコに捧げたコラージュ・アルバム『流行は栄えよ、芸術は滅ぶとも』出版。
1919年には、社会改革者のヨハネス・バーグレーや何人かの仲間とケルン・ダダを創設。1919〜20年の間、エルンストとバーグレーは『Der Strom』や『Die Schammade』といったさまざまなダダ情報誌を発行し、またダダの展示を企画などもした。
1920年6月24日、エルンストとルイーゼの間にジミー・エルンストが生まれる。ジミーものちに画家となる。しかしエルンストとルイーズは1921年に離婚。
同年、ポール・エリュアールと出会い、親友となり、エルンストの絵にエリュアールの誌を入れたコラボーレション作品『神々の不幸』を出版。その後、パリでアンドレ・ブルトンと出会い、その作品を送りシュルレアリストたちの情報誌『文学』誌でエルンストが紹介され、注目集めるようになる。
1922年に正式な離婚手続きはしていないものの、エルンストは妻と息子をおいて、フランスに入国。ポール・エリュアールとその妻のガラ・エリュアール(後のダリの妻)と多重恋愛に陥り、パリ郊外に住んだ。
パリでの最初に2年間、エルンストはさまざまな仕事に就きながら絵を描いていた。1923年にエリュアールはパリ近郊のエルモンの新しい家に移動すると、そこでエルンストはたくさんの壁画を描く。同年、「Salon des Indépendants」で個展を開催。
エリュアールは当初、ガラとの多重恋愛を認めていたが、その情事に心配になり始める。1924年、エリュアールは不意にモナコに失踪し、次にベトナムのサイゴンに失踪する。エリュアールはガラとエルンストにもサイゴンへ失踪するよう呼びかけ、二人は膨大な数の絵画を売り払い、それを旅費に当てた。エルンストはデュッセルドルフに行き、膨大な数の自作品を、長い付き合いのあったgallery Das Junge Rheinlandのオーナーのヨハンナ・エイに売り払った。
サイゴンで合流したあと、3人は話し合い、ガラはポールと婚約状態のままにし、エルンストが離れることに決めた。エリュアールは9月始めにイボンヌに戻り、エルンストは東南アジアを数ヶ月間旅行したあと、1924年の年末にパリに戻り、アートディーラーのジャック・バイオットと絵画売買の契約を交わした。1925年にエルンストは、トルク通りの22番地にスタジオを建てた。
1925年にエルンストは「フロッタージュ」と呼ばれる手法を発明。物質の上に紙を置いて鉛筆でこすって模様を浮かび上がらせる手法である。また「グラッタージュ」も発明。フロッタージュを応用させたもので、絵具をのせたキャンバスを物質の上に置き、絵具をパレットナイフなどで削り取ることで模様を浮かび上がる手法である。これらのテクニックを利用した有名な作品は「森とカラス」である。
また、ジョアン・ミロとともにセルゲイ・ディアギレフのバレエのための衣装、装置を制作。ほかにオスカル・ドミンゲスが発明した「デカルコマニー」の技法を試みていた。
1927年にエルンストは、友人の映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと結婚。『The Kiss』やその年のほかの作品のエロチックな主題の作品は彼女との関係が影響していると思われる。
1929年、最初のコラージュ・ロマンのエルンストの代表作となる『百頭女』を刊行。エルンストの鳥キャラクターのロプロプが現れる。絵の中の鳥はエルスント自身(エゴ)を表している。ロプロプとは鳥と人間の初期の混乱から起因する自分自身の延長のもので「分身」あるいは「守護霊」のようなものといっている。
エルンストが子どもの頃のある夜、目を覚ますと、エルンストの最愛のオウムのオルネボムが死んでいることが分かり、数分後、父が娘ロニが生まれたと告げたという。エルンストは衝撃を受け、妹が鳥の精気を吸収してこの世に生を受けたと信じ、それ以後鳥のイメージが彼の重要なモチーフとなり、ロプロプの誕生となった。
なお、息子のジミーによれば、エルンストがジミーを木馬に乗せて遊んでいたときに「ギャロップ、ギャロップ」とはやしたのを聞き、ジミーが木馬を「ロプロプ」を叫ぶようになったのが、この名前の由来だという。
ルイス・ブニュエルの1930年の映画『黄金時代』にエルンストは出演する。1934年には彫刻を作り始め、アルベルト・ジャコメッティと親交を深めた。1938年にアメリカ人のアートコレクターのペギー・グッゲンハイムはエルンストの作品を大量に購入。彼女はロンドンの自分のギャラリーでそれらを展示。エルンストとペギー・グッゲンハイムはのち1942年に結婚した。
第二次世界大戦と晩年
1939年9月、第二次世界大戦が勃発するとドイツ人だったエルンストは「敵対的外国人」として、パリに移住したシュルレアリストのハンス・ベルメールとともにエクス·アン·プロヴァンスの近くに、キャンプ·デ·ミルズに抑留された。
ポール·エリュアールやジャーナリストのバリアン·フライなど、ほかの友人の仲介で、エルンストは数週間後に解放された。
しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。ナチスの「退廃芸術」に相当するのが理由だった。グッゲンハイムやフライなどの力を借りて、エルンストはアメリカへ亡命することができた。エルンストは愛人であるレオノーラ・カリントンを置き去りにし、カリントンは精神的錯乱状態に陥った。
エルンストとグッゲンハイムは1941年にアメリカへ移住すると翌年結婚した。マルセル・デュシャンやマルク・シャガールなどの多くのほかのヨーロッパのアーティストが戦禍を逃れてニューヨークに移り住むことになり、エルンストはアメリカ抽象表現の発展に影響を与えた。
その後、エルンストはグッゲンハイムと離婚して、ドロテア・タニングと恋愛を始め、1946年10月にカリフォルニア州のビバリーヒルズでマン・レイとジュリエット・ブラウナーたちと合同結婚式を挙げた。エルンストとタニングは初め、アリゾナ州のセドナにスムことにした。1948年にエルンストは絵画以外に美術論文も書き始め、それが功して、エルンストは経済的に成功し始めた。
1953年にエルンストとタニングは南フランスの小さな町に移住し、そこで仕事を続けた。1966年にチェスセットを制作しそれに「Immorte」と名づけた。1976年4月1日、パリでエルンストは死去。84歳だった。ペールラシェーズ墓地に埋葬された。
作品リスト
※Wikipediaより(できるだけ翻訳していきます)
Early works[edit]
- Aquis Submersus (1919)
- Trophy, Hypertrophied (1919)
- Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person (1919–1920)
- Murdering Airplane (1920)
- The Hat Makes the Man (1920)
- Celebes (1921)
- Oedipus Rex (1922)
First French period[edit]
- Pietà or Revolution by Night (1923)
- Saint Cecilia (1923)
- The Wavering Woman (1923)
- Ubu Imperator (1923)
- Two Children Are Threatened by a Nightingale (1924)
- Woman, Old Man and Flower (1924)
- Paris Dream (1924–25)
- The Blessed Virgin Chastises the Infant Jesus Before Three Witnesses: A.B., P.E. and the Artist (1926)
- Forest series, e.g. Forest and Dove (1927), The Wood (1927)
- Rendezvous of Friends – The Friends Become Flowers (1928)
- Loplop series, e.g. Loplop Introduces Loplop (1930), Loplop Introduces a Young Girl (1930)
- City series, e.g. Petrified City (1933), Entire City (1935–36, two versions)
- Garden Aeroplane Trap series (1935–36)
- The Joy of Living (1936)
- The Fireside Angel (1937)
- The Fascinating Cypress (1940)
- The Robing of the Bride (1940)
American period[edit]
- Totem and Taboo (1941)
- Marlene (1941)
- Napoleon in the Wilderness (1941)
- Day and Night (1941–42)
- The Antipope (1942)
- Europe After the Rain II (1940–42)
- Surrealism and Painting (1942)
- Vox Angelica (1943)
- Everyone Here Speaks Latin (1943)
- Painting for Young People (1943)
- The Eye of Silence (1944)
- Dream and Revolution (1945)
- The Temptation of St Anthony (1945)
- The Phases of the Night (1946)
- Design In Nature (1947)
- Inspired Hill (1950)
- Colorado of Medusa, Color-Raft of Medusa (1953)
Second French period[edit]
- Mundus est fabula (1959)
- The Garden of France (1962)
- The Sky Marries the Earth (1964)
- The World of the Naive (1965)
- Ubu, Father and Son (1966)
- Birth of a Galaxy (1969)
- "La dernière forêt" (The last forest) (1960–1970)
Collages, lithographs, drawings, illustrations, etc.[edit]
- Fiat modes (1919, portfolio of lithographs)
- Illustrations for books by Paul Éluard: Répétitions (1922), Les malheurs des immortels (1922), Au défaut du silence(1925)
- Histoire Naturelle (1926, frottage drawings)
- La femme 100 têtes (1929, graphic novel)
- Rêve d'une petite fille qui voulut entrer au carmel (1930, graphic novel)
- Une Semaine de Bonté (1934, graphic novel)
- Paramythes (1949, collages with poems)
- Illustrations for editions of works by Lewis Carroll: Symbolic Logic (1966, under the title Logique sans peine), The Hunting of the Snark (1968), and Lewis Carrols Wunderhorn (1970, an anthology of texts)
- Deux Oiseaux (1970, lithograph in colors)
- Aux petits agneaux (1971, lithographs)
- Paysage marin avec capucin (1972, illustrated book with essays by various authors)
- Oiseaux en peril (1975, etchings with aquatint in colors; published posthumously)
Sculpture[edit]
- Bird (c. 1924)
- Oedipus (1934, two versions)
- Moonmad (1944)
- An Anxious Friend (1944)
- Capricorn (1948)
- Two and Two Make One (1956)
- Immortel (1966–67)
略年譜
■1891年
・4月2日、午前9時45分、ケルン郊外ブリュールに生まれる。聾唖学校の教師であった父フィリップはアマチュアの画家で、熱心なカトリック信者だった。
■1894年
・父が初めてマックスを森へ連れていく。そのときの森の魅惑と恐怖は強い印象を刻みこむ。
■1896年
・父が幼児イエスとしてのマックスの肖像を描く。
■1897年
・1歳年上の姉マリアが死去。麻疹にかかっていたため、天井の木目で「鳥の頭」や「眼玉」などの幻覚を見る。
■1898年
・自作の絵に合わせて庭の樹を切った父に対し、反発を覚える。
■1906年
・1月5日、飼っていた桃色インコのホルネボムが死ぬ。同時に妹ロニが誕生して、激しいショックを受ける。
■1910年
・ボン大学文学部哲学科に入学。哲学、心理学、美術史を学ぶ。
■1911年
・アウグスト・マッケと知り合う。
■1912年
・ケルンで開催された現代美術の展覧会「ゾンダーブント展」を見て、画家になる決意をする。
■1913年
・マッケの仲人でロベール・ドローネー、ギョーム・アポリネールと知り合う。
・マッケが主催した「ライン表現主義者展」に出品。
・ヘルヴァルト・ヴァルデンが主催した「第一回ドイツ秋季サロン展」に出品。
■1914年
・ケルンで開催された「ドイツ工作連盟展」に際し、ハンス・アルプと知り合う。
・砲兵隊員として第一次世界大戦に従軍。
■1916年
・ベルリンのシュトゥルム画廊でゲオルク・ムッへと2人展。
■1917年
・エッセイ「色彩の生成について」が『シュトゥルム』誌に掲載される。
■1918年
・10月7日、ボン大学での元同級生で美術史家のルイーゼ・シュトラウスと結婚。
■1919年
・ヨハネス・テオドール・バールゲルトとともにケルン・ダダを創設。
・ミュンヘンで『ヴァローリ・プラスティチ』誌に掲載されていたジョルジオ・デ・キリコの作品に影響を受ける。
・コラージュによる最初の作品を制作。
■1920年
・6月24日、息子ハンス=ウルリヒ誕生。
・最初の「ファタガガ」コラージュ(鳥と人の合成イメージ)をハンス・アルプと制作。
■1921年
・パリのオ・サン・パレイユ画廊でコラージュ展を開催。
・ケルンでポールとガラのエリュアール夫妻の訪問を受ける。
■1922年
・エルンストはルイーゼとジミーを残し、不法入国によりパリに移住する。
■1923年
・オーボンヌのエリュアール邸に同居し壁画を描く。
■1924年
・3月、エリュアールが失踪。
・4ヶ月後、エルスントとガラはインドシナのサイゴンでエリュアールと再会する。
・エリュアール夫妻のもとから去る。
■1925年
・「フロッタージュ」の技法による最初の作品を制作。
・「第一回シュルレアリスム絵画展」に出品。
■1926年
・ルイーゼと離婚。
■1927年
・映画監督ジャン・オーレンシュの妹、マリー=ベルト・オーレンシュと結婚。
■1928年
・「グラッタージュ」の技法により「貝/花」の主題に基づく作品群を制作。
・エルンストの分身・守護霊である怪鳥「ロプロプ」が現れる最初の作品が制作される。
■1929年
・最初のコラージュロマン『百頭女』刊行。ロプロプが主要なキャラクターとして登場する。
■1930年
・画中画形式の「ロプロプが○○を紹介する」のシリーズが描かれ始める。
・ルイス・ブニュエルの映画「黄金時代」に出演する。
・第二のコラージュロマン『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』刊行。
■1931年
・アメリカでの最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催。
■1933年
・イギリスでの最初の個展がロンドンのメイヤー画廊で開催。
■1934年
・第3のコラージュ・ロマン『慈善週間または七大元素』刊行。
・チューリヒ美術館で開催された「シュルレアリスムとは何か」展に参加。カタログに序文を寄稿する。
・チューリヒでジェイムズ・ジョイスに会う。
・彫刻の制作に取り組み始める。
■1935年
・アルベルト・ジャコメッティを訪問。
■1936年
・マリー・ベルトと離婚。
■1937年
・『カイエ・ダール』誌のマックス・エルンスト特集号が刊行される。テキスト「絵画の彼岸」を収録。
・ミュンヘンで開催された「頽廃芸術展」で『美しき女庭師』が展示される。
・レオノーラ・キャリントンと出会う。
・デカルコマニーに取り組む。
■1938年
・シュルレアリスムグループから離れ、レオノーラ・キャリントンとともに南フランスのサン=マルタン・ダルデシュに移り住む。
■1939年
・第二次世界大戦の開始に伴い、「敵対的外国人」として収容される。エリュアールなどの力でいったん釈放される。
■1940年
・再度の収容。キャリントンはスペインへ逃れる。
■1941年
・ペギー・グッゲンハイムの援助により亡命。7月14日にニューヨークに到着。12月にペギーと結婚。
■1942年
・ブルトンと雑誌『VVV』を刊行。
・「シュルレアリスムの帰化申請書展」に出品。
・「オシレーション」技法による最初の作品を制作。
・ドロテア・タニングと知り合う。
■1943年
・ペギーと離婚。エルンストとドロテアはアリゾナ州のセドナで夏を過ごす。
■1946年
・セドナに移り住む。
・ドロテアと結婚。
■1948年
・アメリカ市民権を得る。
■1950年
・ヨーロッパに一時的に戻る。10月、アメリカ帰国。
■1951年
・生誕60年を記念し、故郷ブリュールのアウグストゥスブルク城で大規模な回顧展。
■1953年
・ヨーロッパに最終的に帰還する。
・パリにアトリエを借りる。
■1954年
・「第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で絵画部門の大賞を受賞。
■1955年
・フランス中西部、シノン近郊のユイメに移る。
■1958年
・フランス市民権を得る。
■1963年
・南フランスセイアンに移る。
■1968年
・ドロテアと協同設計でセイアンに新居を建てる。
■1970年
・テュービンゲンのヘルダーリン塔を訪れる。
■1975年
・カタログ・レゾネの刊行が開始される。
■1976年
・4月1日、85歳の誕生日の前夜、パリ自宅で死去。