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【完全解説】ペギー・グッゲンハイム「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」

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ペギー・グッゲンハイム / Peggy Guggenheim

グッゲンハイム・コレクション


ペギー・グッゲンハイム・コレクション(ヴェネツィア)
ペギー・グッゲンハイム・コレクション(ヴェネツィア)

概要


生年月日 1898年8月26日
死没月日 1979年12月23日
国籍 アメリカ
職業 ギャラリスト、コレクター、ソーシャライト
コレクション シュルレアリスム、キュビスム、抽象芸術

ペギー・グッゲンハイム(1898年8月26日-1979年12月23日)はアメリカのユダヤ系のアートコレクター、ボヘミアン、ソーシャライト。

 

ニューヨークの富豪で、1912に発生したタイタニック号沈没事件で巻き込まれて死去したベンジャミン・グッゲンハイム家の娘として生まれた彼女は、その財力をもって、1938年から1946年の間にヨーロッパやアメリカの近代美術の重要作品を収集。また、ニューヨークのソロモン・S・グッゲンハイムの姪である。

 

1949年に集めたコレクションを展示するためにヴェニスに「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」を設立し、そこで彼女は死ぬまで過ごした。ペギー・グッゲンハイム・コレクションは、イタリアのヴェニスのカナン・グランデにある近代美術館で、20世紀前半のヨーロッパとアメリカの近代美術を収集したイタリアで最も重要な美術館である。なお、彼女が特に集めていた作品は、キュビスム、シュルレアリスム、抽象芸術である。

略歴


幼少期


ペギー・グッゲンハイム(1930年)
ペギー・グッゲンハイム(1930年)

ペギーの両親はアシュケナージ系ユダヤ人だった。母のフロレット・セリグマン(1870-1937)は富豪セリグマン・ファミリー出身。ペギーが1919年に21歳になったとき、250万ドル、今日の価格に換算すると約3370万ドル(34億円)の遺産を受け継いだ。父のベンジャミン・グッゲンハイムはタイタニック号沈没事件で巻き込まれて死去した。

 

彼女は、最初「サンワイズ・ターン」という前衛的な美術書を扱う本屋で働いていた。そこで彼女はボヘミアン・アーティスト(伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。ノマドみたいなもの。)のコミュニティーのメンバーと仲良くしていたという。

 

1920年に彼女はパリに移住し、モンパルナス地区の貧困地域に多く住んでいた前衛芸術家たちと親交を深めた。そこには、彼女を撮影したことで知られるマン・レイやコンスタンティン・ブランクーシやマルセル・デュシャンなど、のちに彼女が支援したアーティストがたくさん集まっていた。

 

 

また、ペギーは女流作家のナタリー·クリフォード·バーニーやロメイン・ブルックスと親友になり、バーニーのサロンに出入りする常連客となった。このときに芸術家のデューナ・バーンズと出会い彼女の友だちとなり、彼女はパトロンとなった。

デュシャンの出会いと画廊開設


1938年1月、ペギーはロンドンに近代美術の画廊を開いた。その画廊の最初の展示ではジャン・コクトーのドローイングが陳列され、また芸術家の作品のコレクションを始めた。第二次世界大戦後、彼女はこのギャラリーを中心に可能な限りの抽象画家やシュルレアリストの作品を収集し続けた。

 

この「グッゲンハイム・ジュンヌ」と名づけられた最初のギャラリー名は、彼女がよく通っていたパリの「バーンハイム・ジュンヌ」からとられたものである。多くの友人がギャラリー運営のための助言を与えてくれたため、展示は成功した。

 

最初の夫であるローレンス·ベイルとパリに住んでいた1920年初頭からの知り合いで、現代美術の師と仰いでいたマルセル・デュシャンはペギーを美術の世界へうまく紹介した。ペギーがパリにいる間、多くの芸術家と交流ができたのは実はデュシャンが間に入っていた点は忘れてはいけない。デュシャンはペギーに現代美術の知識やスタイルを教え、グッゲンハイム・ジュンヌのさまざまな展示企画を助けた。

 

コクトーの展示のあとには、ガンディスキー、イヴ・タンギー、ヴォルフガング・パーレンといったよく知られたアーティストから、ほとんど知られていない無名アーティストまでさまざまな展示が行われた。

 

また、アントワーヌ・ペヴスナー、ヘンリー・ムーア、アレクサンダー・カルダー、レイモンド・デュシャン・ビヨン(デュシャンの兄)、コンスタンティン・ブランクーシ。ジャン・アルプ、マックス・エルスント、パブロ・ピカソ、ジョージ・ブランケ、クルト・シュヴィッタースといった近現代の芸術家たちの彫刻やコラージュを中心としたグループ展を開いた。

 

ただ、ペギー・グッゲンハイムのギャラリーは好評を博したものの、初年度で600ポンドの赤字を出したことに気づき、彼女はよりギャラリービジネスに対してシビアになることにした。

美術館の設立


叔父のソロモン・R・グッゲンハイムが、2年前の1937年に、ヒラ・レベイの助力のもとソロモン・R・グッゲンハイム財団をニューヨークに創設したこともあり、ペギー自身もまた近代美術に特化した美術館の仕事に携わろうと考えていた。美術館運営は自分自身が支援するのにぴったりな事業だとペギーは思った。

 

そうして1939年初頭、ニューヨーク東54番街で「非具象美術館」(1952年からソロモン・R・グッゲンハイム美術館)を設立する。美術館の創設目的は抽象芸術に焦点を絞った作品収集と、さらなる抽象絵画制作の発展をだった。なお1939年6月に画廊の「グッゲンハイム・ジュンヌ」は、クロージング・パーティを行ったあと閉店した。

 

イギリスの美術史家で批評家のハーバート・リードとともにロンドンに近代美術館を建てる計画に着手する。ペギーは当初、美術館設立に4万ドルを投資したが、すぐに投資資金は拡大。1939年8月に、ペギーは美術館の最初の展示のための作品を集めるため、ハーバード・リードによってリストアップされた作家リストを手にパリへ向かう。

 

ペギーは当時、ハーバード・リードが作成したリストに掲載されていたすべての画家の絵を買うことを決めており、美術館の資金と時間をフルに使い、毎日1枚は買っていたという。実際にピカソを10点、エルンストを40点、ミロを8点、マグリットを4点、ダリを3点、クレーを1点、マン・レイを3点、パレーンを1点を購入していた。

 

しかし、パリへ出発した直後に第二次世界大戦が勃発し、結局、ロンドンの美術館設立計画は中止となった。その後、ペギーは新たな美術館設立の計画を立て、1940年4月にパリのヴァンドーム広場に博物館として利用する大きな新しい家を借りるが、ナチス・ドイツの影がフランスに忍び寄ってくる。

 

ナチス・ドイツがパリに侵入する数日前に、ペギーはパリの美術館設立計画を諦め、フランス南部へ退避。そこで、マックス・エルンストをはじめ芸術家たちの国外退避を支援しつつ、1941年の夏にヨーロッパからニューヨークへ移った。

 

翌年、ペギーはニューヨークに新しいギャラリー「今世紀ギャラリー」を創設。4つのギャラリーのうち3つは、キュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、キネティック・アートに特化したスペースで、残りの1つは商業ギャラリーだった。

 

またアメリカで起こりつつある新しい芸術にも関心を向けた。ジャクソン・ポロック、ウィリアム・コングドン、オーストリアのシュルレアリストであるヴォルガング・パーレーン、詩人のアダ・ヴェルダン・ハウエル、ドイツの画家マックス・エルンストなど12人の前衛美術家たちのキャリア発展をサポートした。1941年にマックス・エルンストと結婚。

ヴェネツィアと晩年


第二次世界大戦、1946年にエルンストと離婚。1947年に今世紀ギャラリーは閉鎖し、ヨーロッパに戻り、イタリアのヴェニスに居を構える。1948年にペギーはヴェネツィア・ビエンナーレに展示者として招待され、ギリシア館で自身が集めたコレクションを展示。

 

1949年にヴェネツィアのカナル・グランデにヴェニエール・デイ・レオーニ館(のちのペギー・グッゲンハイム・コレクション)を設立する。彼女のコレクションは、アメリカ人がヨーロッパで近代美術作品をコレクションして、宣伝するための希少なコレクションとなった。1950年代の彼女は2人の地元の画家、エドモンド・バッシとタンクレディ・パームギア二をサポート。

 

1960年代初頭にグッゲンハイムには美術のコレクション活動はやめ、これまで集めた作品の展示に集中し始めた。彼女は作品をヨーロッパ中の美術館やニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館に貸し出しを行った。

 

最終的にヴェネツィアの自宅とコレクションをソロモン・R・グッゲンハイム財団に寄付することを決める。1979年に彼女がなくなる以前、1976年に取り決めがされた。

 

●参考文献

Peggy Guggenheim - Wikipedia


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