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【完全解説】ドラ・マール「泣く女」

ドラ・マール/ Dora Maar

ピカソの「泣く女」のモデルとなった愛人


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パブロ・ピカソ「泣く女」(1937年)
パブロ・ピカソ「泣く女」(1937年)

概要


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生年月日 1907年11月22日
死没月日 1997年7月16日
国籍 フランス
表現媒体 モデル、写真、絵画
ムーブメント シュルレアリスム

ドラ・マール(1907年11月22日-1997年7月16日)はフランスの写真家、詩人、画家、パブロ・ピカソの愛人で「泣く女」のモデルとして知られる。

 

マン・レイの助手として芸術キャリアをスタートし、シュルレアリスムの写真家として類まれな才能があり、また知的な美学論争もできた美術家だった。

 

しかし、ピカソに出会ってから人生を狂わされる。ピカソに見捨てられてからは情緒不安定になり、仕事もその才能もうまくいかせなくなった。ピカソ喪失後は心の拠り所を求めてローマ・カトリック教会に入る。修道女のよう禁欲的な生活を送り、ピカソの作品に囲まれたまま、貧困のうちに生涯を終える。

略歴


ピカソとの出会い


ドラ・マールはクロアチア生まれ。父はユダヤ系クロアチア人で、南米で有名な建築家。母はフランスのトゥレーヌでカトリック家庭出身。

 

マールは子供のころは南米のアルゼンチンで育った。ピカソに出会う前、マールはシュルレアリスムの写真家として知られており、それなりに将来が期待された芸術家だった。一時はマン・レイの助手として、またモデルとして活動しており、彼女を被写体にした作品も数多く残されている。

 

運命を大きく変えるのはピカソの出会いだった。

 

1936年1月、パリのサン·ジェルマン·デ·プレにあるシュルレアリストたちが集まるカフェ「カフェ・ル・ド・マゴ」のテラスで、ドラはピカソと出会う。当時、彼女は28歳でピカソは54歳だった。

 

詩人ポール・エリュアールがピカソにマールを紹介したという。ピカソは彼女の美貌や手の自傷行為に大変魅了された。(マールの指が傷だらけだったのは、テーブル上でナイフで指と指の間を高速に刺すゲームをよくしていたためである。また、ピカソは彼女の血糊がついた手袋をもらいアパートの棚に飾っていた。)

 

ほかにマールは、アルゼンチン育ちで流暢にスペイン語が話せたため、スペイン人のピカソとうまくコミュニケーションができたことも大きかった。

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ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

泣いてばかりいるドラ・マール


ドラ・マールといえばピカソの名作「泣く女」のモデルである。

 

「泣く女」は1937年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。ピカソは「泣く女」という主題に関心を抱き、その年に何度も同じテーマの作品を制作、100種類以上のバリエーションが存在している。

 

「泣く女」のモデルとなっているのがドラ・マールである。ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。ピカソにはそれが印象的だった。

 

「私にとってドラはいつも「泣いている女」でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもありません。ただ私自身に無意識に強制されたビジョンに従って泣いているドラを描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」 

 

また、マールはピカソの当時の愛人、マリー・テレーズ・ウォルターをライバル視するようになる。マリー・テレーズにはピカソとの間に「マヤ」という娘がいたが、マールはよく自分とピカソの間に子供ができなく、女性的に劣等感をかんじて悲しそうな表情をしていたという。そんなドラをピカソは描き、彼女を「プライベート・ミューズ」とよんだ。

 

こうした背景から、マールはピカソの名作『泣く女』のモデルとなり、作品は生まれた。

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ドラ・マールがモデルとなった絵。1939年ごろのピカソのアトリエ。
ドラ・マールがモデルとなった絵。1939年ごろのピカソのアトリエ。
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パブロ・ピカソ「緑色の爪のドラ・マール」(1936年)
パブロ・ピカソ「緑色の爪のドラ・マール」(1936年)

マリー・テレーズとの戦い


ドラとマリーが、ピカソのアトリエでかちあったことがあった。二人は言い合ったあと、ピカソに詰め寄った。ピカソは、「どちらかに決めるつもりはない。闘え」といった。

 

すると二人は、絵の具や絵筆の散乱する床の上で大格闘のケンカを始めた。やがてドラは、彼女のカメラが壊されることを恐れ、ケンカをやめた。マリーは静かに、ゆっくりと出て行った。

 

ドラとピカソがつきあった時代は、ドイツでヒトラーが台頭して、世界大戦への道をすすんでいる時代であった。フランスがドイツとの戦いに敗れ、ピカソは住まいを追われたり困窮する。カフェというカフェがドイツ軍によって閉鎖され息苦しくなってゆく。しかしそのような状況でドラ・マールはたくましかった。彼女は物資を探してくる名人だった。

 

しかし、1943年にピカソの新しい愛人フランソワーズ・ジローが現れる。自分への関心が失われつつある雰囲気に、マールは苦しみ始めた。ピカソとエリュアールは、精神不安定なマールを知り合いの精神分析家で哲学者のャック・ラカンに診てもらうことにした。

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ドラ・マールのアトリエ。1946年。
ドラ・マールのアトリエ。1946年。

ピカソとの別れ


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ピカソと別れたあと、マールは自分の感情の安定を取り戻すのに苦労する。

 

また1946年にマールの親友でポール・エリュアールの妻であるヌシュ・エリュアールが急死したためさらに感情が不安定になった。同様に1941年に彼女の母親も急死していた。

 

結局、マールはかつて自分が参加していた有名な社交家や美術のパトロンが集まる社会サークルに戻る。またその頃から心の拠り所をローマ・カトリックに求めるようになり、それから禁欲的な生活に入るようになる。その後も、彼女はほかにゲイ作家のジェームス・ロードのような男性友達と暮らしたことがあったが、誰もピカソに取って代われる人はいなかったようである。

 

俗世との交渉を立ち、美術界から距離を置きながらも芸術活動を続ける。1980年までに彼女の友達はほとんどいなくなったが、まだ詩を書いたり写真を撮っていた。1990年に彼女の絵画の個展がMarcel Fleiss galleryで開催され、それは好評を得た。ほかに1995年にスペインのバルセロナでも個展を開催した。

 

1997年7月16日、89歳でパリで死去。オードセーヌの墓地に埋葬された。


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