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【前衛】ダダイズム・ダダ「反芸術」

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ダダイスム・ダダ / Dadaism

反芸術運動


トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(1917年)
トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(1917年)

概要


ダダイスムの発生と理論


「ダダ(Dada)」または「ダダイスム(Dadaism)」は、20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動。1916年にスイスのチューリヒにあるキャバレー・ヴォルテールで始まり、その後すぐにベルリンをはじめケルン、ハノヴァーなど世界中に広がった。その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。

 

ダダイスムは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な美学を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、ハンス・リヒターによれば、ダダイスムは芸術ではなく「反芸術(Anti-art)」だという。これまでの伝統的な美術様式に沿った美学をダダイスムは無視した。

 

ダダのルーツとなっているのは第一次世界大戦前の前衛芸術である。視覚芸術においては、キュビスムから発展したコラージュ技法やワシリー・カンディンスキーの抽象理論を融合させ、現実や既存の慣習の制約から逸脱することに成功。言語芸術においては、フランスの詩やドイツ表現主義の文章を融合させて、言葉と意味の親密な相関性を破壊した。

 

ただし、デュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、1915年から活動しており、スイスで発生したダダ運動を起源としておらず、個別のムーブメントとみなすのが一般的である。ダダの先駆的な芸術運動である「反芸術(Anti-art)」という言葉は、1913年頃にマルセル・デュシャンが作った言葉で、この言葉をもって最初のレディ・メイド作品を制作した。ほかに、アルフレッド・ジャリの演劇『ユビュ王』やエリック・サティのバレエ『パラード』は、ダダイズムの先駆体とみなされている。

 

また、ニューヨーク・ダダは政治的問題と関連した動きがなかったが、ダダの方は明確に反戦主張に加え、急進的な左翼と政治的な親和性が高く、反ブルジョアを主張していた。

 

重要人物は、トリスタン・ツァラ、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマンハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バーダー、フランシス・ピカビア、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャンクルト・シュヴィッタース、ベアトリス・ウッド、マックス・エルンストである。

フランシス・ピカビア『DAME!』(1920年)
フランシス・ピカビア『DAME!』(1920年)

ダダ・グループ


チューリヒ・ダダ


1916年、フーゴー・バル、エミリー・ヘンリング、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプ、ミハエル・ジャンコ、リヒャル・ヒュルゼンベック、ハンス・リヒターとその周辺の仲間たちは、スイス・チューリヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集合して、美術の議論とパフォーマンスを行った。

 

ダダという言葉は、当時、チューリヒ大学の学生だったトリスタン・ツァラによるもので、ツァラによると『ラルース小辞典』から偶然見つけたとしているが、ほかにルーマニア語で二重の肯定という意味もあるという。


当初、ダダは宣言するほどの理論や思想はもっておらず、第一次世界大戦の嫌悪と既成の価値観への不信から発生し、それはただの乱痴気騒ぎに近いものだった。

 

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ニューヨーク・ダダ


ダダイスム運動のなかで最もよく知られているのが、マルセル・デュシャン率いるニューヨーク・ダダの活動だ。

 

デュシャンたちは、当初、特に自分たちの集まりを「ダダ」と認識していなかったものの、その反発的な姿勢がヨーロッパで発生したダダと相通じるところがあったため、周囲から「ダダ」と呼ばれるようになった。

 

デュシャンがのちの現代美術に残した最大の遺産ともいうべきものはレディ・メイド(既製品)である。レディ・メイドでデュシャンがしたことといえば、どこにでもある大量生産された製品のどれかを選び、なんら手を加えることなく、これを展覧会場に置くことだった。


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ベルリン・ダダ


ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。


政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演など政治的表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。

 

1918年2月、ヒュルゼンベックはベルリンで最初のダダのスピーチを行い、4月にドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。ハンナ・ヘーヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。また、この時期にグロスはジョン·ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘーヒらとフォトモンタージュを開発した。

 

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ケルン・ダダ


ケルンでは1920年に、マックス・エルンストやヨハネス·バールゲルト、ハンス・アルプが物議をかもすダダの展示を行われ、そこでは反中産階級的な感情やナンセンスに焦点をあてられた。


当初は応用美術館の入口ホールで行われる予定だったが、バールゲルトとエルンストの作品が美術館の館長によってはずされた。そこで彼らはパブの裏庭、男子便所の先に作品を展示した。

 

参加者は、聖衣で身を包んだ女性が猥褻な詩を朗読している間に男子便所前を通過して展示場所の中庭に進むことが要求され、進んだ先の中庭にはエルンストの作品である大きな丸太がおかれており、参加者は一緒に用意された斧で丸太を叩くことが求められた。


またバールゲルトは、血のような赤い水の入った水槽のなかに目覚まし時計が入った作品を展示したが、その水面には女性の髪の毛が浮かんでいた。警官は過激なその展示を中止させたが、何度か再開した。

パリ・ダダ


フランスの前衛芸術は、ギョーム・アポリネールやアンドレ・ブルトン、マックス・ジャコブ、クレメント・パンサー、そのほかのフランス文学批評家や詩人たちが定期的にトリスタン・ツァラと手紙でやりとりしていたので、基本的にチューリヒ・ダダと並行していたといっていい。

 

むしろ、チューリヒ・ダダがブルトンをはじめパリの芸術家たちとやりとりをしていなかったらダダはチューリヒという小さな都市で起こった芸術運動でおわり、世界的な広がりをもつことはなかっただろう。チューリヒ・ダダは、パリを再び活気づかせ、世界的な芸術の潮流に大きな影響を及ぼすことになった。

 

1919年以後、チューリヒ・ダダがマンネリ化して衰退しはじめると、ツァラはブルトンやピカビアの誘いに応じてパリへ移動する。1920年1月にツァラが住み込んだピカビアのアパートがパリにおけるダダの拠点となった。ツアラはすぐにブルトンとパリ・ダダを開始。さまざまなパフォーマンスが行なう。

 

しかしパリ・ダダは政治的な姿勢はなく、チューリヒと異なってアナーキストと両輪になるような試みもなく、本質的には文学的で合理的であった要素がツァラに合わなかった。ツアラは伝統的なダダの姿勢でナンセンス的に道化風に行動していたが、ブルトンは本質的に真面目だったため、ツアラの感覚的で道化的な方法に挑発されることに疲れてしまった。


そしてブルトンとツアラが決別すると、ブルトンはダダを合理的で無意識の解放する芸術手段へと応用し、「シュルレアリスム」運動を始めることになった。

オランダ・ダダ


オランダのダダ運動はおもにテオ·ファン·ドースブルフが活動の中心だった。彼は前衛集団「デ・ステイル」の創始者や雑誌「デ・ステイル」の編集長としてもよく知られている。


ファン·ドースブルフはダダ活動の焦点をおもに詩にあて、デ・ステイルにデ・ステイルフーゴ・バル、ハンス・アルプ、カート・シュヴィッタースといった有名ダダ作家を紹介し、オランダとチューリヒダダの橋渡しをした。


ドースブルはシュヴィッタースと知り合いになり、1923年、一緒に「オランダ・ダダ・キャンペーン」を開催した。そこれでドースブルフはダダに関する小冊子を発行し、シュヴィッタースは詩を朗読し、Vilmos Huszárは「メカニカル・ダンシング・ドール」を展示し、テオ·ファン·ドースブルフはピアノで前衛的な演奏を行った。

略年譜


   
1912年 ・アルチュール・クラヴァンがパリで雑誌『メントナン』を発行。
1913年 ・マルセル・デュシャンがアーモリー・ショーに『階段を降りる裸体No.2』を出品。
1915年

・3月に、マン・レイが雑誌『リッジフィールド・ガズーク』を発行。

1916年 ・2月5日、ドイツからの亡命詩人フーゴ・バル夫妻を中心とするチューリヒの若い知識人たちが、文芸カフェ「キャバレー・ヴォルテール」を開店。
1917年

・1月、スペインのバルセロナで、フランシス・ピカビアが雑誌『391』を創刊。

・7月と12月に、アルプ、ヤンコ、ファン・レースの作品が掲載された雑誌『ダダ』が発行される。

・マルセル・デュシャン編集による雑誌『ブラインド・マン』で「リチャード・マット事件」に関する論説が掲載。

1918年

・4月、最初の大規模な「ダダの夕べ」がベルリンで開かれ、リヒャルト・ヒュルゼンベックが『ダダイズム宣言』を発表。後にヒュルゼンベックによりクラブ・ダダが設立され、雑誌『デア・ダダ』が発行される。

・7月23日、ダダの集会でツァラが「ダダ宣言1918」を発表し、ダダ運動の本格的な活動が開始。

・11月9日、フランスのアヴァンギャルドの指導者だった詩人ギヨーム・アポリネールが死去。

1919年

・クルト・シュヴィッタースが、ハノーファーで詩集『アンナ・ブルーメ(花のアンナ)』を出版。

1920年

・『ダダ大全』がベルリンで出版。

・5月26日、ガヴォー・ホールでフェスティバル・ダダが開催される。

・6月、ベルリン・ダダが「第一回国際ダダ見本市」を開催。

1921年

・4月、デュシャンとマン・レイが1号だけで終わった『ニューヨーク・ダダ』を刊行。

・5月2日、マックス・エルンストの展覧会がパリのサン・パレイユ書店で開かれる。

・5月、ダダがアカデミー・フランセーズ会員で代議士の作家モーリス・バレスを「精神の安全の侵害の罪」で模擬裁判にかける。

・6月、クラヴァンがニューヨークでの講演中に騒動を起こし、投獄される。

・9月、シュヴィッタースがハンナ・へーヒとラウール・ハウスマンと共にチェコのプラハでアンチ=ダダ・メルツの夕べを開催。

1922年

・2月、ブルトンがパリ会議を計画し、モダニズムのさまざまな流派の代表者を集めた委員会を発足。

・9月、ドイツのイェーナとヴァイマールで「ダダに関する会議」が開かれる。

・シュヴィッタースが雑誌『メルツ』を創刊。

・マン・レイがレイヨグラフ作品『甘美なる場』を発表。

・ハンス・アルプとゾフィー・トイバーが結婚。

1923年

・7月6日に、「ひげの生えた心臓の夕べ」が開かれたが、『ガス心臓』そしてマン・レイの短編映画『理性への回帰』の上演中にブルトンのグループが妨害。パリ・ダダの事実上の終焉を迎える。

・村山和義が日本で「マヴォ」というグループを結成し、同名の雑誌を創刊。

1924年

・7月に、ツァラがそれまでさまざまな雑誌で発表していた宣言をひとつにまとめ、『7つのダダ宣言』として出版。

・ブルトンが新しいグループを結成し、雑誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、その後11月に『シュルレアリスム宣言』を出版。

1943年

・ゾフィー・トイバーが死去。

1948年

・クルト・シュヴィッタースが死去。

1963年

・トリスタン・ツァラが死去。


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