江戸川乱歩「人でなしの恋」
土蔵の中のに秘密事
概要
「人でなしの恋」は、江戸川乱歩が1926年に発表した短編小説。人形に恋した奇妙な男の話である。日本におけるピュグマリオン小説の代表作ともいえる。この作品は読者にも編集者にもあまり評価されなかったが、乱歩自身のお気に入りの一つであるという。これを原作とした、松浦雅子監督による日本映画が1995年に公開されている。
要約
お見合い結婚をした京子が「変だな」と気づいたのは、結婚してから半年ほどたったときのことです。少しずつ、少しずつ、夫の愛に偽りの分子が含まれていることに気づき始めたのだった。
夫の京子を眺める愛撫のまなざしの奥には、もう1つの冷たい眼が、遠くの方を凝視していた。
夫は、普段、部屋にともじこもって本を読んでいるような時間が多く、それも書斎では気が散ることもあり、裏にあった土蔵の二階へあがって、夜などは昔ながらの雪洞をともして、一人ぼっちで読書をするのが、若いころからの1つの楽しみだった。
ただ、結婚してから半年ぐらいは、土蔵のことは忘れたように、出入りすることはなくなっていたが、最近またしても、しげしげと土蔵へ入るようになっていた。このことに、私は何か意味がありはしないかと、冷たい視線と合わせて気がついたのです。
妙なのは、夫が土蔵へ行く時間というのが、きまって夜ふけであり、時には隣に寝ています私の寝息をうががうようにして、こっそりと床の中を抜けだしていく。トイレにでもいったのかと思えば戻らない。そこで縁側に出てみれば、土蔵の窓にぼんやりとあかりがついているのです。
やがて疑いが深まってゆき、ついに、私は彼の後をつけて土蔵の中へ入ることにしました。そのとき、私は土蔵の二階から、ひそひそばなしの声を、それも男女二人の話し声を、漏れ聞いたのでございます。男の声はいうまでもなく彼のものでしたが、相手の女は一体全体何者でしょうか。
私の疑いが、あまり明らかな事実となって現れたのをみますと、ただもうハッとして、腹立たしいよりは恐ろしく、身も世もあらぬ悲しさに、ワッと泣き出したいのを、わずかに喰いしめて、身をおののかせながら、でも、そんなでいて、話し声に聞き耳を立てないではいられなかったのでございます。そして、極度に鋭敏になった私の耳は、女が彼の膝にでももたれたらしい気配を感じるのでございます。それから何かいまわしい衣ずれの音や、口づけの音までも。
私は急いで土蔵から出るとそのへんの暗闇へそっと身をひそめ、女の顔を見覚えてやりましょうと、恨みに燃える眼をみはったのでございます。彼のあとに続いて出てくるやと待てど暮らせど、彼は蔵の戸をガラガラと閉めて、私の隠れている前を通り過ぎていったのに、女は土蔵から出てくる気配もないのでございます。
それ以来、私は幾度土蔵へ忍んでいったことでございましょう。しかしそのたびごとに、蔵から出てくるのは彼だけで、女の姿なぞはチラリとも見えはしないのでございます。あの話し声は、もしや彼が独りで、音色を使っていたのではないかという疑いが浮かびあがりました。
たとえば、小説を書くためや、お芝居を演じるためとかに、人に聞こえない土蔵の二階で、セリフの稽古をしていらっしゃるのではないか、そして、ひょっとしたら、芝居の衣装でも隠しているのではないかという、途方もない疑いでございました。
そこで土蔵に一人忍び込むことにしましたところ、予期していました通り、あるいは予期に反して、どれもこれも古めかしい衣類だとか、夜具、美しい文庫類などが入っているばかりで、なんの疑わしいものも出てはこないのでした。
でも、あのきまったように聞こえてきた、蓋の閉まる音は、錠前のおりる音は、一体何を意味するのでありましょう。おかしい、おかしいと思いながら、ふと眼にとまったとのは「お雛様」だとか「五人囃子」だとか「三人上戸」だとか、書しるしてある雛人形の箱でこざいました。
しばらく雛人形で夢中になっていましたが、やがてふと気がつくと、長持の一方の側に、三尺以上もある大きな箱があるのです。その表にはお家流で「拝領」としるされています。なんであろうと、そっと取り出して、それを開いて中の物をみますと、ハッと何かの気に打たれて、私は思わず顔をそむけたのでございます。
浮世人形というもので、身の丈三尺あまり、10歳ばかりの小児の大きさで、手足は完全にでき、頭には昔風の島田を結った娘人形なのです。その人形を見ましたときには、ふっくらと恰好よくふくらんだ乳のあたりが、呼吸をして、今にも唇がほころびそうで、そのあまりの生々しさに、私はハッと身震いしたほどでございました。