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【アメリカ現代美術史】アーモリー・ショーとデュシャンの衝撃

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アメリカ現代美術史1

アーモリー・ショーとデュシャンの衝撃


美術に関してヨーロッパの属国の感があったアメリカが、ヨーロッパからそのイニシアチブを奪取するきっかけとなり、またアメリカを活性化し、近代化する上で強力な起爆剤となった展覧会が、第一次世界大戦直前の1913年2月17日から3月15日までの約1ヶ月間、二ューヨークの元兵器庫で開催された「アーモリー・ショー」である。


内容は当時のアメリカ美術とヨーロッパ美術の二本立てであった。ヨーロッパ部門にはドラクロワ、クールベのような古典の巨匠から印象派、後期印象派を経て、マチス、ピカソ、カンディンスキー、未来派などの前衛芸術。


このとき、フランス美術から出展されたマルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」は非難、嘲笑の的になったが、一方で、現代美術の新しい可能性、ヨーロッパという父を打ち破るための新しい美術を模索していたアメリカの若い芸術家、また進歩的なコレクター、美術関係者にとってはデュシャンは強力な刺激、啓示となった。このデュシャンがアメリカに与えた衝撃をもってアメリカの現代美術“元年”とする見方がある


人気が高まって、ニューヨーク展後、シカゴとボストンに巡回展を行なったのであった。その観客動員数は延べ30万人に及んだとされる。お祭り騒ぎではあったが「アーモリー・ショー」は、予想外に大きな意義を美術界だけでなくアメリカ社会全体に残したその1つは、マスコミや世間の嘲笑を予想した前衛的主張であったのに、会期中123点のヨーロッパ作品と51点のアメリカ作品が売れたことである。

 

また影響力の強い著名人を現代美術コレクターに向かわせたのもこのショーの功績であった。歴史の浅いアメリカ美術に対するコンプレックスが、未知なる前衛芸術への好奇心、未来志向がデュシャンの芸術をとらえた。そしてこの後、アメリカに画商や画廊が急速に増え、美術マーケットの拡大を招来したのだった。

 

デュシャンがアメリカに渡ったのは、第一次大戦以前の1915年であるが、アーモリーショーにおけるヨーロッパとアメリカでの自作品への反応の違いが、渡米を決意させたといわれている。


1915年ごろデュシャン、ピカビア、マン・レイが集まり、現代美術コレクターとして知られるアレンズバーグ夫妻のサロンは、ニューヨーク・ダダの拠点と化し、ヨーロッパ・ダダに先駆けたのである。



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