アメリカ現代美術史2
ニューヨーク・ダダ
概要
本来の機能を奪われ無用なオブジェと化した機械
ニューヨーク・ダダとは、ニューヨークにて、1910年代半ばに起こったダダのことをいう。同時期に、ヨーロッパのチューリヒ等で起こったダダと対応しているが、その発生は独立したものであり、ダダ的な思想を持っていたが、意識的・集団的なものではなかった。
フランシス・ピカビア、マン・レイ、マルセル・デュシャンの三人がニューヨーク・ダダの活動の中心になったが、このダダイスムの三人の青年たちは機械の夢に取り憑かれていた。
注意すべきは、ダダイストたちの機械崇拝は、同じ機械崇拝をしていたイタリア未来派たちとは異なるものである。未来派の画家たちにとっての機械とは、その機械から生ずるエネルギーやスピードといったダイナミズムを絵画に翻訳するために利用されていた。それは人間文明・機械文明の称賛である。有用性の賛美である。
しかし、ピカビアやデュシャンにとっての機械とは、スピードやエネルギーといったこの本来の機械の性質を歪曲させられて、ただのオブジェと化したものである。それは無用性の賛美である。
未来派はスピードや機械を、そのあるがままの姿において賛美し、現代の技術と文明に新しい詩情を発見していたのに対して、ピカビアやデュシャンは、むしろ機械からその使用目的を奪い、機械を無目的な、無償なものと化さしめ、生活的必要からまったく離れたオブジェに還元することによって、その疎外された美しさを回復しようと試みていたのである。
機械をただのオブジェ化したことは、のちにシュルレアリスムやポップアートの表現へとつながている。
1917年、米国美術家協会主催の無審査のアンデパンダン展の会場に、R・マット作の「泉」と題する便器がデュシャンによって出品されたが、このデュシャンの狙いはスキャンダルにあったのではなく、便器という機能を除去した状態のオブジェの提示なのである。どんな既製品でも、観点を変えれば美術作品として価値を持ちけるという現実を示そうとしたのである。
目的のない、有用性の期待を残酷に裏切るオブジェは、明らかに生産や進歩の観念と敵対するものである。人間機械論は、人間という自律的精神世界を成立せしめる機械が、一個のオブジェのように、何の役にも立たない泥人形のようなものであるということを証明するための、逆説的な試みと解されるべきであろう。
そしてまた、このダダイストたちは、オブジェ化した機械を女にも転用していた。彼らにとって、機械はそのまま女であり、女はそのまま機械であった。既成の芸術概念を破壊してしまったように、女のイメージや愛欲行為もまた、単なる機械のメカニズムに還元してしまったのである。