フェルナンド・オリヴィエ / Fernande Olivier
ピカソが有名になる前を知っている唯一の女性
概要
フェルナンド・オリヴィエ(本名:アメリー・ラン:1881年-1966年)はフランスの芸術家、ピカソのモデルとしてよく知られており、ピカソは60作品以上の彼女のポートレイトを描いている。有名になる前のピカソを唯一知っている女性で、またピカソを出世させた女性として重要視されている。
オリヴィエは、若い少女の母と既婚の男とのあいだに産まれた非嫡出子だった。2歳のときに父方の叔母に育てられ、叔母が手配した男性と結婚の予定だったが、18歳のときに叔母のもとを逃げ出して別の男と結婚する。
しかし、結婚した男は彼女に性的な虐待を行ない、1900年19歳のときに正式な離婚届けを出さずオリヴィエは男の元を去り、パリへ逃げる。パリでオリヴェは夫から身を隠すように本名のアメリー・ランからフェルナンド・オリヴィエに名前を変えた。
パリでオリヴェエは生活のためにアート・モデルとして働き出す。作家のギヨーム・アポリネールの知り合いの芸術サークルの専属モデルとして働いた。そのサークルにいたポール・レオトー、キース・ヴァン・ドンゲン、エドモンド-マリー・プーランらと知り合いになる。特にヴァン・ドンゲンは彼女をモデルにした作品を数多く制作している。
1904年にパリのモンマルトルにあった安アパート「洗濯船」でオリヴェはピカソと出会う。翌年までに彼らは同棲をはじめ、オリヴィエは芸術家サークルから身をひいて、ピカソ専属のモデルとなる。2人の関係は7年間、1911年まで続いた。2人はともに激しい嫉妬家だったため、常に喧嘩が激しく、暴風雨のような状態だったという。
オリヴィエは1907年から1909年のピカソのキュビスム時代のおもなモデルで、『アヴィニョンの娘』の5人のモデルの1人とされている。ほかに彫刻作品の『女性の頭部』もオリヴィエがモデルだといわれる。
1907年4月にオリヴェエは地元の孤児院にいき、13歳の少女レイモンドを養子にする。養子をともなったピカソとの小さな家族はその後長く続かず、オリヴィエは彼女を孤児院へ戻しすことになったが、この養子レイモンドの話は、のちに出版する彼女の回顧録で書かれることはなかった。しかし、レイモンドはピカソのドローイングモデルとしていくつか作品が残っている。
ピカソが画家として成功すると、ピカソはオリヴィエから急速に関心を失いはじめる。オリヴィエはピカソを有名にした女性だったが、同時にピカソにとって不遇の時代を呼び起こす存在だったためだ。
1912年に2人は別れるが、元々、ピカソとは結婚をしていないのでオリヴィエはピカソに対して合法的に何らかの権利を得る手段がなかった。それどころかオリヴィエは法的には前夫と結婚した状態になっている。ピカソと別れた後、生活のためにオリヴィエは、肉屋のレジ打ちやアンティークの販売などさまざまな仕事をする。絵画教室を開いて収入を賄った。
別れて20年経った1930年に、オリヴィエはピカソと付き合っていたころの回顧録『ピカソと友人たち』を出版。出版時はピカソの黄金時代だったので、それなりに商業的な成功をおさめた。しかし、ピカソはこの本に強い抗議を行い、弁護士を雇い、出版の差止めを行う。本の印税で彼女の生活水準は一時的に向上したが、すぐにお金はなくなり、元の貧しい生活に戻ってしまう。
その後、オリヴィエは聴覚生涯と関節炎に苦しんだりしたが、ピカソが個人的な事をこれ以上外部に口外しない代わりに生活援助を行う約束を取り付け、ある程度の年金生活が過ごせるようになる。
1966年に死去。ピカソが1973年に死去し、1988年に回顧録の完全版が出版された。
●ピカソ・モデル