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【完全解説】マーク・ロスコ「色彩だけで深淵な内面を表現」

マーク・ロスコ / Mark Rothko

色彩だけで深淵な内面を表現


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マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)
マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)

概要


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生年月日 1903年9月25日
死没月日 1970年2月25日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義
関連サイト

The Art Story

WikiArt

マーク・ロスコ(1903年9月25日-1970年2月25日)はロシア・ユダヤ系のアメリカの画家。一般的には抽象表現主義運動の作家とみなされているが、ロスコ自身はいかなる芸術運動にもカテゴライズされることを拒否している。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングとともに戦後アメリカの美術家で最も有名な1人としてみなされている。

略歴


幼少期(ロシア時代)


マーク・ロスコは、ロシア帝国時代のヴィテプスク県ダウガフピルスで生まれた。父ヤコブ・ロスコは薬剤師で知識人。父は宗教的なしつけよりも世俗的で政治的なしつけをした。

 

ロスコによればマルクス主義の父は極端な無神論者だったという。ユダヤ人は当時、ロシアで差別され非難されていたため。ロスコの幼年時代はそのような恐怖に悩まされていた。

 

ヤコブ・ロスコの収入は少なかったにもかかわらず、父は高度な教育を子どもたちに行っいてた。家族はみな読書家だったとロスコの妹は当時の環境を話している。また、ロスコはロシア語、イーディッシュ語、ヘブライ語を話すことができた。

 

父がユダヤ教に回帰すると、四人兄弟で一番下だったロスコは5歳のときにユダヤ教の初等教育施設ヘデルに入学させられ、タムルードを学んだ。ほかの兄弟は公立学校に通った。 

幼少期(アメリカ時代)


兄弟たちがロシア帝国軍に徴兵されることをおそれ、ヤコブ・ロスコはロシアからアメリカへ移った。マークは母と姉のソニアとともにロシアに残った。1913年後半にマークたちもニューヨークのエリス島に移民として到着。国を越えてオレゴン州ポートランドにいる兄弟たちと合流する。しかし数ヶ月後に父ヤコブは大腸がんで死去して生活が苦しくなった。母ソニアはレジ打ちとして働き、マークは叔父の倉庫で働き、兄弟たちは新聞配達の仕事をした。

 

父の死はマークと宗教の関係を断ち切るきかっけにもなった。地元のシナゴーグで1年間父の死を悼んだ後、その後決して宗教に足を踏み入れることはないと誓った。

 

マークは1913年にアメリカの学校に入学。すぐに3年生から5年生に飛び級進学。17歳でポートランドのリンカーン高等学校を卒業した。この時点でマークは英語を含めて4ヶ国語を話すことができた。その後、ユダヤ人コミュニティセンターの積極的なメンバーとなり、政治議論を身につけるようになった。

 

父と同じくロスコは労働者の権利や女性の避妊の権利などの問題について情熱を持っていた。ポートランドはアメリカの革命運動の中心地であり、革命的なシンジケート主義労働主義組合(IWW)が最も強い地域だった。

 

急進的な労働者の会議のまわりで育ったマークは、ビル・ヘイウッドやエマ・ゴールドマンらが参加しているIWWの会議に出席、そこでのちにシュルレアリスムの弁護で使う強い弁論術を学んだ。

 

ロスコはエール大学から奨学金を受け取っていたが、1922年の学年度末には奨学金を更新されなかったので、学費を捻出するためウェイターやデリバリーボーイのアルバイトをした。

 

ロスコはエール大学のコミュニティはエリート主義で人種差別主義であることがわかってきた。そこでロスコと友人のアーロン・ディレクターは風刺雑誌『エールの土曜の夜の害虫』を創刊し、学内のブルジョワ的な雰囲気を揶揄した。

 

大学でのロスコの態度は勤勉な生徒よりも独学の性格が強く、当時の学生友人たちもロスコはまったく学校の勉強していないように見えたが、貪欲な読書家ではあったと話している。大学2年生の終わりに、ロスコは退学。46年後に名誉学位を授与するまで大学に戻ることはなかった。

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ロスコ一家(1910年)。マーク・ロスコは左下の犬を抱いている少年。
ロスコ一家(1910年)。マーク・ロスコは左下の犬を抱いている少年。

アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク


1923年秋にロスコはニューヨークのガーメント地区で仕事を見つけた。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークにいる友人を訪れた際、ヌード・モデルをスケッチしている生徒を見て、芸術家になることを決める。

 

ロスコはその後、パーソンズ美術大学に入学する。教員の1人はアーシル・ゴーキーだった。これは、ロスコにとってアメリカ前衛芸術家の最初の出会いだったが、ゴーキーの支配的な性格もあって二人は決して仲良くなることはなかった。ロスコはゴーキーの授業について「過度に監督しようとする」と言及している。

 

同年秋、同じロシア・ユダヤ系の画家だったキュビストのマックス・ウェーバーの静物画授業を受ける。ウェーバーはフランスの前衛芸術運動で活躍した画家だった。ウェーバーはモダニズムをよく知りたいと思っていた生徒にとって「近代美術史の生きた図書館」として見なされていた。

 

ウェーバーの指導のもと、ロスコは芸術を感情的なものや宗教的な表現を行うための道具とみなしはじめた。この時代のロスコの絵画は、ウェーバーの影響下にあったことは明らかである。数年後、ウェーバーは元学生であるロスコの展覧会を訪れたとき、彼の作品を賞賛し、ロスコもまたその賞賛を非常に喜んだ。

初期作風


豊かな芸術的雰囲気のニューヨークは、ロスコ芸術家として確立させた。ニューヨークのギャラリーではいつも近代美術家たちの個展が行われており、街の美術館では新人アーティストにとって知識を増やしたり、技術を伸ばすための貴重な場所だった。

 

ロスコの初期作品の中にはドイツ表現主義的なものが見られるが、これはパウル・クレーやジョルジュ・ルオーの影響が大きい。1928年にロスコはオポチュニティギャラリーで、ほかの若手アーティストたちとグループ展に参加している。当時のロスコの作品は、表現主義風の暗いムードの作品で都市の風景が描いたものだったが、批評家や仲間までロスコの絵の評判は上々だったという。

 

それにもかかわらず、ロスコはまだほかに収入を補う必要があったため、1929年にブルックリン・ユダヤ・センターのセンター・アカデミーで絵画や彫刻の授業を始めた。1952年までこの場所での美術の授業は続いた。

ミルトン・エイブリーの影響


1930年代諸島、ロスコはアドルフ・ゴットリーブ、バーネット・ニューマン、ジョセフ・ソルマン、ルイス・シャンカー、ジョン・グラハムらと出会う。彼らは15歳ロスコより年長の画家ミルトン・エイブリーの周辺に集まっていた若手アーティスト集団の一人だった。

 

エレーヌ・デ・クーニングによればエイブリーはロスコにプロの芸術家の人生のアドバイスを与えた人物であるという。エイブリーの形態と色に関する豊かな知識を用いた自然画はロスコに多大な影響を与えた。

エイブリーに出会うやいなやロスコの絵画にはエイブリーとよく似た色彩や主題が現れ始めた。たとえば、1933年から1934年に制作した『海水浴場もしくはビーチ』などでエイブリーの影響が見られる。

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マーク・ロスコ『海水浴場もしくはビーチ』(1933−1934年)
マーク・ロスコ『海水浴場もしくはビーチ』(1933−1934年)

ロスコ、ゴットリーブ、ニューマン、ソルマン、グラハムをはじめ彼ら若手アーティストのメンターであったエイブリーは、マサチューセッツ州のグロスターやニューヨーク州ジョージ湖でともにバケーションを過ごした。昼間は絵を描き、その後夜には討論を行った。

 

1932年にニューヨーク州ジョージ湖を訪れた際、ロスコは宝石デザイナーで、のちに妻となるエディス・サッチャーと出会う。

 

翌夏にロスコの最初の個展がポートランド美術館で開催された。おもに絵画や水彩画で構成された展示だった。ロスコはこの展示に際し、彼のセンターアカデミーのこどもたちの作品も展示するという、非常に珍しい展示をおこなっている。

 

ロスコの家族は、世界恐慌でアメリカ全体が経済的に苦境な状況のなか、芸術家になろうとするロスコの決心がまったく理解できなかった。

東海岸で初個展


ニューヨークに戻るとロスコはコンテンポラリーアート・ギャラリーで東海岸で初個展を開催。いくつかの水彩画やドローイングとともに、おもに肖像画の油彩作品を15点展示。これらの作品の中で、油彩絵画は美術批評家の目を引いた。色彩豊かなロスコの作品は、すでにエイブリーを越えようとしていた。

 

1935年にロスコは、イリヤ ボロトウスキー、ベン・ザイオン、アドルフ・ゴットリーブ、ルウ・ハリス、ラルフ・ローゼンバーグ、ルイス・シェンカー、ヨセフ・ソルマンらと『ザ・テン (THE TEN (WHO ARE NINE))』を結成。ギャラリーの展示カタログによれば、このグループの使命は「アメリカ絵画と創造性のない絵画とを同質であると見なすことに抗議する」ことだった。

 

ロスコは特に芸術家連盟内で、仲間たちから高い評判を得るようになった。ゴットリーブやソルマンも参加していた芸術家連盟は自分たちで組織したグループ展を地方自治体のギャラリーで行うことを望んでいた。

 

1936年にグループはフランスのボナパルト画廊で展示を開催し、好意的な批評で注目を集めた。鑑賞者の一人はロスコの絵画を「真正の色彩価値」と評した。

 

1938年後半に、ニューヨークのマーキュリー画廊でも展示が行われたが、それは田舎くさく、地域主義的なホイットニー美術館に反発する展示内容だった。また、この時代のロスコは、エイブリー、ゴットリー、ポロック、デ・クーニングらなど多くの美術家たちと公共事業促進局の芸術事業で仕事をしていた。

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「ザ・テン」のメンバー。左上からベン・ザイオン、ルイス・シェンカー、ナホム・ツチャックヴァソフ、アドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコ、イリヤ・ボロトウスキー。
「ザ・テン」のメンバー。左上からベン・ザイオン、ルイス・シェンカー、ナホム・ツチャックヴァソフ、アドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコ、イリヤ・ボロトウスキー。
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マーク・ロスコ「通りの風景」(1937年)
マーク・ロスコ「通りの風景」(1937年)
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マーク・ロスコ「ポートレイト」(1939年)
マーク・ロスコ「ポートレイト」(1939年)

1936年にロスコは、近代美術の画家の作品と子どもの芸術の類似性に関する本を執筆しはじめたが完成しなかった。ロスコによれば、近代美術家はプリミティヴィズム芸術の影響があり、「子供の芸術は自身を原始へ変換し、唯一子供は彼自身の模倣を生み出す。」ので、子供たちの作品と比較することができるという。

 

また、この原稿でロスコは「描くことから始まるという事実はすでにアカデミックである。私たちは色彩から始まる。」と書き、ロスコは自転車と街のシーンでカラーフィールド・ペインティングを始めた。

 

カラーフィールド・ペインティングとは、キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめるという特徴があった。このスタイルはのちにロスコの代表的な作品となった。

 

カラーフィールドという新しく発見した色の使い方があるにも関わらず、ロスコはほかの表現スタイル、神話的な寓話や象徴性から影響されたシュルレアリスム絵画に関心を向けはじめた。ロスコ作品が成熟に向かうと、長方形のカラーフィールドや光に神話的主題を表現するようになった。

 

初期のプリミティヴィズムや遊びごころのある都市の景色から、晩年の卓越したカラーフィールド・ペインティングへの移行には長い時間がかかった。その理由は、第二次世界大戦の開始とフリードリヒ・ニーチェを読んだことだった。



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