バーネット・ニューマン / Barnett Newman
カラーフィールド・ペインティング
概要
生年月日 | 1905年1月29日 |
死没月日 | 1970年7月4日 |
国籍 | アメリカ |
表現形式 | 絵画、彫刻、著述 |
ムーブメント | 抽象表現主義 |
関連人物 | マーク・ロスコ |
関連サイト |
・The Art Story(略歴) ・WikiArt(作品) |
バーネット・ニューマン(1905年1月29日-1970年7月4日)はアメリカの画家、彫刻家。抽象表現主義運動の重要な人物で、カラーフィールド・ペインティングの代表的な画家。
画家になる以前は、批評家やキュレーターとして活躍。1944年から自ら画家として活動を始めるやいなや、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコらとともに新しいアメリカ現代美術の立役者とみなされるようになる。
ニューマンの作品は、局地的感覚、存在感、不測な事態などの感覚を鑑賞者に伝えるよう構成されている。また、得意の理論武装能力を活かして、1948年にエッセイ『崇高はいま』を発表すると同時にワンメント作品を発表し、自らの作品を現代美術史の文脈に位置づけ正当化した。
2013年にバーネット・ニューマンの一面のコバルトブルーのキャンバスに白い線が一本入っている1953年の作品「ワンメント6」が、サザビーズのオークションで4380万ドルで落札された。
略歴
初期キャリア
ニューマンはポーランド移民のユダヤ人両親のもと、ニューヨークで生まれた。ニューヨーク市立大学シティカレッジで哲学を学んだ後、父親の服飾業を手伝う。のちに教師、著述、批評で生活をたてる。1930年から絵を描きはじめる。
初期は表現主義風のスタイルだったが、結局、それら初期作品はすべて捨てる。1934年に画家の先生だったアンナリー・グリーンハウスと出会い、二人は1936年6月30日に結婚。
画家になる以前、ニューマンはカタログの序文やレビューを書いたり、展覧会をキュレーションしていた。1948年、ベティパーソンズ・ギャラリーで前衛集団『アップタウン・グループ』のメンバーになった後、同ギャラリーで個展を開催。
初個展開催後すぐにニューマンは、抽象表現主義の作家20人が議論をかわしたイベント『Artists Sessions at Studio 35 (1950)』の一人として注目を集めるようになった。また、 ニューマンは自身の文章能力と理論武装能力をうまく活かして、新たに確立したイメージをアートワールドの文脈に組み込み、また自身の作品をプロモートした。
1955年4月9日の手紙には「シドニー・ジャニスへ、ロスコと激論を交わしたのは事実だ。彼は俗物世界に屈服した。ブルジョア社会に反対する私の戦いは俗物世界の全拒否だ」と書いている。
ジップ
カラーペインティング以前、1940年代を通じてニューマンはシュルレアリスム風の作品を制作していた。薄い垂直線で区切られた色の領域をニューマンは"ジップ"と名付けた。初期作品はジップに焦点が当てられ、ジップをの初期作品では色面はまだらになっていたが、やがて色面は単色で平坦なものになった。
ニューマンは1948年から始まる「ワンメント 」シリーズで完全に自己のスタイルを確立したと考えた。ジップは絵画の画面構成を定義し、同時に構図を分割したり結合したりする。
1944年にはニューマンはアメリカの最も新しい芸術運動の絵画を説明し、また新しい芸術運動のメンバーとしてみなされるようになっていた。ほかに当時、アメリカの新しい芸術運動のメンバーとしては、ロベルト・マッタのような元シュルレアリスト、ヴォルフガング・パーレーン、マーク・ロスコ、ジャクソン・ポロックなどがいる。
ユダヤ教と関連のあるタイトル
ジップはニューマンの生涯を通して、ニューマン作品の特徴となった。1950年代の作品のなかには、『野生』のように高さ8フィート、幅1.5インチ(2.43メートル×4.1センチメートル)のようなジップそれ自体が作品となったものもある。また本質的に三次元のジップ彫刻作品もいくつか制作している。
ニューマンの絵画は純粋抽象でように見え、それらの作品の多くは無題であるが、のちに付けられた名前には、特定の主題を呼びかけるものであった。(多くはユダヤ的主題)。1950年代初頭に制作された2つの絵画『アダムとイヴ』や『ウリエル』などが代表的な作品である。
『アブラハム』という作品は、これらの非常に絵画のタイトルは、聖書に現れる家長の名前であると同時に1947年に死去したニューマンの父の名前である。
■参考文献