寺山修司 / Shuji Trayama
アヴァンギャルドと土着文化の融合
概要
寺山修司(1935年12月10日-1983年5月4日)は日本の前衛詩人、劇作家、作家、映画監督、写真家。短い人生の間に300冊の本を出版、約20作の映画を制作しており、多くの批評家やファンによれば、日本で最も生産的で挑発的な創造的な芸術家の一人だと言われる。
作品の多くは、ヨーロッパの前衛芸術と寺山の出生地であり青森県の土着文化からの影響のものが多いと思われる。詩人ではアントナン・アルトー、ベルトルヒト・ブレヒト、フェデリコ・フェリーニ、ロートレアモンから、画家ではサルバドール・ダリやマルセル・デュシャン、映画ではホドロフスキーなどの影響が濃く見られる。短歌はほとんど盗作だったといわれる。
活動は多岐にわたるが、初期はラジオドラマや詩が中心だった。30代以降は実験演劇「天井桟敷」が中心となる。並行して実験映画の制作をしている。ほかにエッセイ、ラジオドラマなどの書き物をしている。
日本では、詩人や劇作家(天井桟敷)として一般的に知られているが、欧米では劇作家と映画監督として寺山の評判は高い。
作品解説
略歴
若齢期
寺山修司は、1935年12月10日、青森県弘前市で、父八郎と母ハツの長男として生まれた。八郎は警察官。1945年、寺山が9歳のときに、父八郎が太平洋戦争死去。死因はセレベス島でアメーバー赤痢による戦病死。
終戦後は、母ヤツの兄を頼りに青森の三沢に転居し、そこで中学2年まで過ごした。孤独な少年時代を過ごした寺山は、自伝によると11歳でボクシングジムに通いだしたという(真偽は不明)。
1949年に、ハツが福岡県の芦屋米軍基地へ移ったため、中学1年から寺山は高校を卒業するまでの6年間を、青森で歌舞伎座という名の映画館を経営する叔父に引き取られることになる。スクリーンの裏にある一室が寺山に与えられた勉強で、その部屋はときどき大衆演劇の一座などが回ってくる楽屋として使われた。寺山の舞台の原点は叔父が経営する劇場にあった。
また、中学生のこの頃から、俳句を作り始める。寺山は文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続けた。1951年に青森県立青森高等学校に入学すると文学部に入部。また京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊し、高校卒業まで発行を続ける。
1954年に東京の早稲田大学教育学部に入学。中城ふみ子の影響で短歌を作り始め、歌人として活動を始める。しかし、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、退学。絶対安静の期間が長く続く。
入院を期に、スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、鏡花、マルクス「経済学・哲学草安」などを読む。また同病室の韓国人に賭博や競馬を教えられる。その後、新宿のバーで働きながら、病院を往復する生活が続き、1人でいろいろな勉強を行う。
1958年に一時退院し、青森に帰る。再上京後、新宿諏訪町の六畳一間のアパートに住む。ノミ屋の電話番、ディーラーなどの仕事をしながら賭博とボクシングに熱中する。寺山によれば学校で真面目に勉強するよりも、病院やボクシングや競馬を通じて人生で大切な事を学ぶことが多かったという。
1957年に第一作品集『われに五月を』を刊行する。1959年に、谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始める。また、60年代の安保闘争を通じて、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと知り合う。
25歳で母ハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年に女優の九條と結婚し、ハツとの同居先を出る。
天井桟敷
1967年1月1日に寺山は、実験演劇「天井桟敷」を創設。これはインディペンデントの劇団で、活動期間は1967年から1983年の寺山が亡くなるまで。当時のマスコミは胡散臭さを理由に報道はほとんどしなかった。
第一回公演は1967年4月18日、草月アートセンターでの旗揚げ公演「青森県のせむし男」。天井桟敷は、その出発において「見世物の復権」を提唱し、この作品では見世物小屋の怪奇幻想と少女浪曲師の語りと線香の香りで場内を満たした。
当時の日本のアンダーグラウンド・シーンにおいて、天井桟敷は最も象徴的な活動・現象とみなされるようになり、劇団は多数の舞台上演を行った。
天井桟敷は、前衛的であり、また今までの演劇や劇場のあり方を破壊する目的で結成された。実験性、土俗文化、社会的挑発、グロテスク、エロティシズム、極彩色の強い視覚幻想などが天井桟敷の舞台演出の特徴で、映画「田園に死す」をさらに泥臭くしたような感じだったという。
天井桟敷という名称は、1945年にフランスでマルセル・カルネが制作した映画『Les Enfants du Paradis』の邦訳タイトル『天井桟敷の人々』に由来する。直訳すると本来は「天国の子どもたち」と訳されるが、正式な翻訳は「天井の画廊」となる。天井の画廊とは、劇場の最上階にあるいちばん安い席を意味し、「天井桟敷」ともいわれる。天井桟敷と同じ意味の英語の表現では「ピーナツ・ギャラリー」がある。
また、おなじ理想を持つなら、地下(アンダーグラウンド)ではなくて、もっと高いところへ自分をおこう、と思って『天井桟敷』と名付けたという。安ぽっさと理想の高さという矛盾する意味が含まれている。
天井桟敷と視覚芸術家
また天井桟敷は、演劇畑の人間だけでなく、グラフィックデザイナーの宇野亜喜良や横尾忠則、漫画家の花輪和一や林静一など、数多くの視覚芸術のアーティストとコラボレーションをしていたことでも有名になった。
設立メンバーの1人である横尾忠則と寺山は、当時、「毎晩毎晩、電話で長話しをする」ほどの蜜月であった。2人の作業は、初期天井桟敷の起爆剤となった。粟津潔には本の装丁やポスターだけでなく、渋谷・天井桟敷館のデザインも依頼をした。寺山死後には、墓石、文字碑、記念館と主に立体物のデザインを手がけている。
宇野亜喜良は海外公演も含め、八本の演劇の美術を担当。死後出版の本の装丁も数多く手がけ、ダンスグループでは宇野自身が芸術監督、台本、美術を担当し、寺山作品を二年連続上演した。
林静一には漫画雑誌「ガロ」デビュー当時から注目しており、『邪宗門』(1972年)のポスターを依頼。角川文庫の表紙も、林静一によるものが多い。花輪和一にも「ガロ」時代から注目、『盲人書簡 上海篇』(1974年)のポスターを依頼し、映画『田園に死す』では、意匠ということで、青森ロケにも同行を願った。
荒木経惟は寺山修司の写真の師である。『人力飛行機ソロモン 青森編』(1998年)では寺山修司のお面を付けた2000人の観客を記念撮影した。山下清澄とは1962年、氏が銅版画家になる以前、劇団「表現座」主催の竹内健を介して知り合った。
合田佐和子は「中国の不思議な役人」でポスターの原画だけでなく、舞台美術も担当。それ以降、演劇・映画と、寺山の最晩年までコラボレーションを続けた。建石修志は、初個展「凍結するアリスたちの日々に」(1973年)の推薦文を、中井英夫を介して寺山に依頼。後に寺山修司の「鏡の国のヨーロッパ展」(1976年)で「上がりのない双六-迷宮双六」を描いた。
少女漫画の理解者でもあった寺山修司は、竹宮恵子の「風と木の詩・第一巻」に「万才!ジルベール」という解説文を書き、それ以来の付き合いとなった。
年譜表(途中)
■1935年
・12月10日、寺山八郎、はつの長男として青森県弘前市紺屋町に生まれる。本籍地は、青森県上北郡六戸村(現・三沢市)大字犬落瀬宇古間木である。父・八郎は弘前署の警察官であった。
■1936年
・母・はつが、修司と命名。1月10日生まれとして役場に届ける。
・父の転勤により、五所川原、浪岡、青森市内、八戸と転居を繰り返す。
■1941年
・父、招集され出征する。母と2人で、青森市へ転居。アメリカ人が経営する聖マリア幼稚園に通う。
■1942年
・青森市立橋本小学校に入学。
■1945年
・青森市大空襲で焼け出され、母と2人で炎と煙の中を逃げる。
・三沢駅前、父方の叔父の営む寺山食堂の2階に間借りする。
・古間木小学校に転向。終戦。
・父・八郎は、9月2日、セレベス島でアメーバー赤痢によって戦病死。母は米軍の三沢基地のベースキャンプで働く。
■1946年
・米軍払い下げの家を改築して、そこに転居。
・母が働きに出ているため、自炊生活のような日々を余儀なくされる。
■1947年
・ボクシングジムに通いだす。野球少年となり、少年ジャイアンツの会に入る。
■1948年
・三沢の古間木中学校に入学。
■1949年
・青森市の母方の大叔父夫婦(坂本勇三・きゑ、映画館歌舞伎座を経営)宅に引き取られる。
・青森市野脇中学校に転向。東奥日報に投稿した詩が入選する。
・美空ひばりの「悲しき口笛」を愛唱する。
・母は、福岡県芦屋町のベースキャンプに勤めに出る。
■1951年
・青森県立青森高校に入学。新聞部、文学部に参加する。「山彦俳句会」設立。俳句詩「山彦」を編集発行。
・雑誌「青蛾」を発行。ハンフリー・ボガードにファンレターを書く。
■1952年
・青森県高校文学部会議を組織。「暖鳥」「螢雪時代」「学燈」などに俳句を投稿。
■1953年
・全国高校生俳句会議を組織、俳句研究者の後援を得て高校生俳句大会を主催。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。柳田国男や戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。
・大映の母物映画を好む。
■1954年
・伝統の検証を旗じるしに、全国の高校生に呼びかけて、10代の俳句雑誌「牧羊神」を創刊。
・早稲田大学教育学部国語国文学科入学。北園克衛の「VOU」に加入。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。
・「チェホフ祭」で第2回「単価研究」新人賞受賞。歌壇は模倣問題で騒然となる。
・母は立川基地に住み込みメイドとなる。
■1955年
・早稲田大学の友人・山田太一と往復書簡を交わす。夏美という名の女性と交際。
・ネフローゼを患い、新宿区の社会保険中央病院に生活保護法を受けて入院。
・病状が悪化し、面会謝絶となる。
■1956年(20歳)
・絶対安静の日が続く。
・スペイン市民戦争文献、ロートレアモン、バタイユ、カフカ、泉鏡花、マルクス『経済学・哲学手稿』を読む。
・同病室の韓国人に賭博、競馬などを教えられる。
・詩劇グループ「ガラスの髭」を組織、早稲田大学「緑の詩祭」の旗揚げ公演に戯曲第一作「忘れた領分」を書く。
■1957年(21歳)
・病状の小康をみて、「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」「蜥蜴の時代」などを作歌。
・中井英夫の尽力で第一作品集『われに五月を』(作品者)が出版される。
■1958年(22歳)
・第1歌集『空には本』(的場書房)刊。
・夏、退院し、青森市に一時帰省。再度上京後、新宿諏訪町の6畳1周のアパートに住む。
・ネルソン・オルグレンの『朝はもう来ない』に感動する。
■1959年(23歳)
・谷川俊太郎のラジオドラマを書き始める。投稿した『中村一郎』にて、民放祭会長賞を受賞。
・堂本正樹らと集団「鳥」を組織。処女シナリオ「一九歳のブルース」を書く。
・「きーよ」「ヨット」などのジャズ喫茶に入りびたり、コルトレーン・マルなどを好む。
・ジャズ映画実験室「ジューヌ」を山名雅之、金森馨らと組織し、16ミリ映画『猫学 Catllogy』を監督。
■1960年(24歳)
・放送劇「大人狩り」が、革命と暴力を扇動するものとして公安当局の取り調べを受ける。
・長編戯曲「血は立ったまま眠っている」を劇団四季にて上演。
・土方巽と、言語と肉体の結合の試みとして『贋ランボー伝』、『直立猿人』を発表。
・石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、小田実らの組織していた「若い日本の会」に参加。
・篠田正浩の長編映画『乾いた湖』のシナリオを書き、自らも出演。
・SKD出身の女優・九條映子と出会う。
・初めてのテレビドラマ「Q」を書く。
・小説「人間実験室」を「文学界」に発表。
■1961年(25歳)
・文学座アトリエ上演の戯曲「白夜」を書く。
・ファイティング原田と知り合う。ボクシング評論を書き始める。
・土方巽らのアヴァンギャルドの会で『猿飼育法』を上演。
・篠田正浩の映画『夕日に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』のシナリオを書く。
・長篇叙事詩「李高順」を「現代詩」に連載。
■1962年(26歳)
・人形実験劇『狂人教育』の戯曲を書く。
・放送叙事詩「恐山」を書く。
・篠田正浩の映画『涙を、獅子のたてがみに』のシナリオを共作。
・テレビドラマ「一匹」を書く。
・第二歌集『血と麦』刊。
■1963年(27歳)
・九條映子と結婚。
・『現代の青春論』と題して「家出のすすめ」をまとめる。
・長篇叙事詩「地獄篇」を「現代詩手帖」に連載を始める。
・谷川俊太郎、佐々木幸綱との共同制作連詩「祭」を試作。
・ニッポン放送の「ダイナマイク」というドキュメンタリー番組でパーソナリティを担当。
・犬を飼い、映画『私生活』(ルイ・マル監督)でのブリジット・バルドーの役名ジルを名前にする。
・競馬場通いが多くなる。
■1964年
・仮面劇「吸血鬼の研究」を書く。
・塚本邦雄、岡井隆らと「青年歌人」を組織する。
・放送詩劇「山姥」がイタリア賞グランプリ受賞。
・放送詩劇「大礼服」で芸術祭奨励賞受賞。
■1965年
・放送叙事詩「犬神の女」が第一回久保田万太郎賞。
・中平卓馬と出会い、彼のすすめで「現代の眼」に長篇小説「ああ荒野」の連載を開始。「芸術生活」でも空想旅行記「魔の年」を連載する。
・早稲田大学劇団「なかま」が『血は立ったまま眠っている』上演。その演出をした東由多加と出会う。
・第3歌集『田園に死す』(白玉書房)、詩論『戦後詩』(紀伊国屋書店)刊。
・テレビインタビュー番組「あなたは・・・・・・」で芸術祭奨励賞受賞。
・「戦争は知らない」を作詞。
■1966年
・放送叙事詩「コメット・イケヤ」(NHK)でイタリア賞グランプリ受賞。
・放送ドキュメントリー「おはよう、インディア」(NHK)で芸術祭放送記者クラブ賞受賞。
・テレビドラマ「子守唄由来」(RKB毎日)で芸術祭奨励賞受賞。
・人間座にて上演の『アダムとイブ、わが犯罪学』の戯曲を書く。
・テレビドキュメンタリー「日の丸」によってドキュメンタリー・パージにかかる。
■1967年
・映画『母たち』(ヴィネチア映画祭短編記録映画部門グランプリ受賞)の取材のため、監督の松本俊夫らとフランス、アメリカ、アフリカなどを旅行。
・横尾忠則、東由多加、九條映子らと演劇実験室・天井桟敷を設立。第1回公演『青森県のせむし男』を皮切りに『大山デブコの犯罪』、『毛皮のマリー』と上演。
・放送叙事詩「まんだら」(NK)で芸術祭受賞。
・『書を捨てよ、町へ出よう』(芳賀書店)刊。
■1968年
・天井桟敷公演『新宿版千一夜物語』、『伯爵令嬢小鷹狩掬子の7つの大罪』及び、『青ひげ』、『書を捨てよ、町へ出よう』、『星の王子さま』を上演。
・アメリカ政府の招きで、アメリカ前衛劇事情視察。