ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat
多彩なジャンルで活躍したグラフィティ作家
概要
生年月日 | 1960年12月22日 |
死没月日 | 1988年8月12日 |
国籍 | アメリカ |
表現媒体 | 絵画、グラフィティ、音楽 |
ムーブメント | グラフィティ、新表現主義 |
関連人物 | アンディ・ウォーホル |
ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は20世紀における最も重要なアメリカのアーティストの1人。
1970年代後半にニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、ストリートアートなどがごちゃ混ぜになったサブカルチャー・シーンで謎めいた詩の落描きをするグラフィティデュオ「SAMO」の1人として悪評を成した。
1980年代までにバスキアは、グラフィティ・アート、プリミティヴィズム、そしてジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらとともに新表現主義の作家として、ギャラリーや美術館などで展示を行うようになる。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も催された。
バスキアの芸術は"挑発的二分法"と呼ばれるもので、「金持ちVS貧乏」「分離VS統合」「外側VS内側」といったように二分法に焦点を当てるのが特徴である。バスキアは、歴史的な事や現代社会問題に対する批評を、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的また具象的に描く。
バスキアは、1人1人の深い真実を踏み台に、絵の中にそれらを社会批評として表現する。バスキアの詩は非常に政治的であり、人種差別や植民地主義を批判し、階級闘争を積極的に支援する。
1988年、27歳のときにスタジオでヘロインオーバードーズが原因で死去。バスキアはよく高価なアルマーニスーツ姿で絵を描き、公衆の前でもアルマーニスーツ姿で現れる事が多かった。
2017年に前澤友作はドクロを力強く表現したバスキアの1982年作「無題」をオークションで、1億1050万ドル(約123億円)で落札し、バスキア作品では最高落札額を更新した。
略歴
幼少期
ジャン=ミシェル・バスキアは1960年12月22日にニューヨークで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。バスキアは母マチルダ・アンドラーデスと父ジェラルド・バスキアのあいだに生まれた4人の子どもの次男だった。ジーイーンとリセイン二人の妹がいる。
父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれ、母マチルダ・バスキアはプエルトリコ出身の両親のもとニューヨーク、ブルックリンで生まれた。マチルダは芸術好きだったので、幼い頃のバスキアはよく彼女に美術館へ連れて行き、ブルックリン美術館のジュニア会員にもしたという。バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり芸術家としての才能を持っていた。
バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見出し、母マチルダはバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになった。1967年にバスキアは芸術専門の私立校として知られるニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代の友人にマーク・プロッツォがいる。バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む読書家であり、また有用なアスリートで陸上競技のトラック競技で活躍もしていた。
1968年9月、バスキアは8歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあった。腕を骨折しまた内蔵も大怪我して脾臓除去を受けることになった。療養中の間母のマチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに紹介し、バスキアは興味を持つようになる。この本がバスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えるようになった。
同年にバスキアの両親は離れて、二人の姉妹は父親に育てられることになった。家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移った。2年後家族は再びニューヨークへ戻った。
13歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後は施設内で過ごすことになる。15歳のときにバスキアは家出し、おもにニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアのベンチで寝て過ごしていたが、逮捕されて父親の保護下に置かれた。バスキアはエドワード・R・ムロー高等学校10学年のときにドロップアウトし、ドロップアウトした美学生が多く通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入した。
父親はドロップアウトしたバスキアを家庭から追い出したため、バスキアは友人たちと自立生活をするようになる。バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売して、生計を支えていたという。
グラフィティユニット「SAMO」
バスキアはホームレスになったあと、1976年に友人のアル・ディアスとともに「SAMO」というユニットを結成し、グラフィティ・アートを始める。塗装スプレーを使ってマンハッタンの下層地区の建物にグラフィティ・アートをたくさん描いた。この頃からバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして徐々に知られるようになる。
1978年にバスキアはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で昼に働き、夜に近隣の建物にグラフィティ・アートを描いて過ごす。ある夜、ユニークの社長であるハーベイ・ラッサックは建物に絵を描いているバスキアに偶然遭遇し、それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアに仕事を依頼するようになったといわれる。
1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』はグラフィティ・アートに関する記事を特集するようになる。バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。
バンド活動「Gray」
1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交を始める。以後、バスアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。同年、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で演奏する。
Grayはシャロン・ドーソン、ミシェルホフマン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ガロらで構成され、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏を行った。
映画やミュージックビデオに出演
1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。同年、アンディ・ウォーホルとレストランで会う。バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜いた。二人はのちにコレボレーションを行うようになる。
1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。
現代美術家として成功
1980年代初頭、バスキアは美術家として成功し始める。1980年6月、バスキアはColabやファッション・モーダ後援のマルチメディア・アーティストの展覧会「タイムズ・スクエア・ショー」に参加する。同年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーでの個展開催に向けてギャラリーの地下の階で働きはじめる。
1981年3月に同ギャラリーで個展を開催して、大成功。1981年12月、ルネ・リチャードはアートフォーラムの雑誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。
1982年3月、バスキアはイタリアのモデナで働き、11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアに建設したギャラリーの一階の展示スペーで働き始める。1983年の展示のために絵画シリーズをここで制作したという。また1982年にバスキアはデビッド・ボウイとも仕事をしている。
バスキアの芸術表現とは
グラフィティ・アーティストとして活動を続けていくなかで、バスアは絵画の中によくテキストを加えるようになった。
彼の絵は一般的に、単語、熟語、数字、絵文字、ロゴ、地図記号、図などあらゆる種類のテキストやコードで構成されている。またバスキアは建物だけでなく、さまざまなオブジェや物体にランダムに絵を描いており、あらゆるものが表現媒体であったことがバスキア芸術の本質の1つである。 すべての媒体を利用した彼の芸術は、その創造のプロセスにプリミティヴィズム性を感じさせる。
生涯を通じてバスキアが影響を受け、絵画制作の参考にしていたのが、7歳のとき、交通事故で入院しているときに母親から与えられた『グレイの解剖学』の本である。イメージとテキストが混在したバスキアの絵、この解剖学の本の影響である点が大きい。ほかにヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ帳、ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』などがある。
音楽プロデュース
1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーとK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。
このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚として発売された。現在は300枚程度しか見つかっておらず、オークションでは海外オークションで出れば$1500~2000の値が付けられている。 カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。
アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動
スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。
晩年
1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れた。1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた。
1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが死ぬと、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになりうつ状態が悪化。ハワイのマウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。
バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬され、ジェフリー・デッチが墓地が追悼スピーチを行った。