バルテュス / Balthus
20世紀少女絵画において最も重要な画家
概要
生年月日 | 1908年2月29日 |
死没月日 | 2001年2月18日 |
国籍 | フランス |
表現媒体 | 絵画、ドローイング、水彩 |
ムーブメント | シュルレアリスム、エコール・ド・パリ |
配偶者 | セツコ・クロソフスカ=ド=ローラ(旧姓:出口節子) |
関連サイト |
・WikiArt(作品) ・The Art Story(概要)
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バルタザール・ミシェル・クロソフスキー・ド・ローラ(1908年2月29日−2001年2月18日)ことバルテュスは、ポーランド系貴族出身のフランス人画家。
生涯を通じて近代美術界の潮流や慣例に抵抗し、おもに少女をモチーフとした独自の具象絵画の世界を築いたことで知られている。 バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことであり、そうした美学上、少女はバルテュスにとってぴったりのモチーフだったという。
バルテュスは、ピカソやモディリアーニをはじめ、当時の前衛芸術家たちと交流する機会が多かったため、美術様式とは関係なく近代美術の画家として位置付けられることが多い。
特にピカソと交流が深く、ピカソは「僕とバルテュスは、同じメダルの表と裏だ」と語っている。また、ピカソは『ブランシャール家の子どもたち』などバルテュスの作品を多数購入し、パリのピカソ美術館にはバルテュスの作品がいくつか展示されている。
1930年代には、シュルレアリスムのメンバーたちがパリに移住してきたバルテュスのアトリエを頻繁に訪れる。シュルレアリスム情報誌『ミノトール』でバルテュスが紹介され、また、初個展の場所であるピエール画廊がシュルレアリスム系の画廊だったため、シュルレアリスムと関連付けさせる言説が多々見られる。しかし、実際のところバルテュスはシュルレアリスムに関心を持つことはなく、近代美術にあまり関心がなかったという。
バルテュスは、「絵画は見るべきものであって読むべきものではない」と主張し、作家のキャリアやポートフォリオ作成を重視する美術業界に反発。1968年の回顧展では、自身の伝記の作成を拒否し、テート・ギャラリーへ「伝記の詳細なし。バルテュスは何も知られていない画家だ。さあ、絵を見よう。よろしく。」と電報を打った。
重要ポイント
- 少女をモチーフにした具象絵画
- 近代美術史で語られるが近代美術からずれる
- エコール・ド・パリやシュルレアリスムの流れにある
作品解説
関連書籍
略歴
独学開始まで
バルテュスは、1908年2月29日、フランスのパリでポーランドの貴族の血を引く画家で美術史家の父エリックと画家の母エリザベート・ドロテア・スピロの間に生まれた。
バルテュスの兄であるピエール・クロソウスキーは哲学者で素描家、マルキ・ド・サドやニーチェの研究者として知られている。クロソウスキーの友人にはジャン・コクトーやアンドレ・ジッドといった著名作家たちがいた。
バルテュスの美術形成期は、ライナー·マリア·リルケ、モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、アンリ・マティスなどの恵まれた芸術環境に支えられて育った。
幼少期から芸術環境に恵まれてはいたものの、両親はバルテュスが美術の道に進むことに対してボナールらとともに反対をしたため、ほぼ独学で美術を学ぶことになったという。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ国籍だったバルテュス一家はフランスを退去してベルリンへ移る。1917年にクロソフスキー夫妻が別居すると、母と子どもたちはドイツからスイスへ移る。
1921年、11歳のとき、バルテュスの40点のドローイング作品が掲載された『ミツ』が出版される。この本は若い青年(バルテュス自身)と彼の愛猫の物語で、バルテュスのメンターであり、当時バルテュスの母と不倫関係にあった詩人のライナー·マリア·リルケが序文を寄せている。
この本で使われたペンネームが「バルテュス」であり、以後、バルテュスの愛称で芸術活動を行うことになった。
『ミツ』は、猫に自己同一化したバルテュスの自画像の話で、少年の頃からかわいがっていた猫がいなくなってしまう「喪失」をテーマとしている。詩人のリルケは序文で、「喪失は、まったく内面的な第二の獲得にほかならない」と語っている。
子どもの頃、バルテュスは中国や日本などの東アジア文化に強い関心を示していた。14歳のときにリルケと岡倉天心の『茶の本』のドイツ語版を読んで、影響を受けている。
1925年頃からバルテュスは、ルーブル美術館で17世紀フランス古典主義のニコラ・プッサンの絵の模写を行う。1926年にはフィレンツを訪れ、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画に影響を受けて模写を行う。以後、ヨーロッパ個展巨匠たちの絵画を摸写を中心に絵の独学を始めることになった。
1927年に、スイスのベアテンベルクのプロテスタント教会の壁画を手がける。1930年から1932年までバルテュスはモロッコに住み、ケニトラやフェスでモロッコの歩兵に徴兵され、秘書として働き、そのスケッチは1933年の《La Caserne》で描かれた。
シュルレアリストたちの交流
兵役を終えて、バルテュスは1933年にパリのファステンバーグ通りのスタジオへ戻ってくる。
この頃にアンドレ・ブルトンをはじめとするシュルレアリスムのメンバーが、バルテュスの噂を聞いて頻繁にアトリエに訪ねてくるようになる。
しかし、バルテュスはキュビスムやシュルレアリスムといった前衛美術に関心をもつことはなく、シュルレアリスムのメンバーたちも期待とは異なるバルテュスの自然主義的な具象絵画にがっかりしたという。しかし、この時のメンバーのアルベルト・ジャコメッティとはその後も親交を結ぶようになった。
また、バルテュスはこの頃からよくエロティックでのぞきのポーズをする思春期少女を描き始める。バルテュスが一般的に「思春期の少女の絵ばかり描く画家」のイメージがつき始めるのもこの頃で、たとえばエミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を描いている。
そこでバルテュスは今後の美学のすべてを内包するものを表現した。『嵐が丘』についてバルテュスは「優しさ、ノスタルジア、夢、愛、死、残酷さ、罪、暴力、憎しみ、わめき、涙といった人間のあらゆる本質の要素のイメージ、人間の総合絵画」と語っている。
また、1934年にはパリのピエール画廊で初個展し、パリ画壇に正式デビューする。出展作は7点。当時、出品された悪名高い作品は『ギターのレッスン 』(1934年)で、それは女教師が膝の上に少女をアーチのように乘せて性的な虐待をしているもので、論争を引き起こした。
バルテュスによれば、当時経済的に困窮しており、スキャンダラスを引き起こすために描いたものだという。スキャンダラスを起こすことには成功したものの、作品は1枚も売れなかったようである。
また、このときの他の重要作品としては『鏡の中のアリス』(1933年)や『キャシーの化粧』(1933年)、『乗馬服を着た少女』(1932年)、『窓(幽霊の恐怖)』(1933年)、『街路』などがある。
バルテュスの初期の作品はアンドレ・ブルトンやパブロ・ピカソといった詩人や画家に注目された。パリでの彼が交友していた芸術仲間には、小説家のピエール・ジャン ジューヴ、アントワーヌ·ド·サン·テグジュペリ、ジョセフ・ブレバッジ、ピエール・レイリス、アンリ・ミショー、ミシェル・レリス、ルネ・シャール、マン・レイ、アントナン・アルトー、アンドレ・ドラン、ジョアン・ミロ、アルベルト・ジャコメッティなどがいた。
1948年にアルベール・カミュがバルテュスにカミュの演劇の舞台や衣装のデザインの仕事を要請。バルテュスはまたアルトーの『チェンチー一族』の舞台装置と衣装を担当した。また1935年に『嵐が丘』の挿絵がシュルレアリスム雑誌『ミノトール』に掲載され注目を集めた。
少女と移行状態の美
1937年にバルテュスは、ベルンの貴族であるアントワネット・ド・ワットヴィルと最初の結婚。彼女とは1924年からの知り合いで、また「キャシーの化粧」のモデルでもあった。この妻との間にバルテュスは、タデとスタニスラス・クロソウスキーの二児をもうけた。
また、フェルスタンベール街からクール・ド・ロアンのアトリエへ移り、この近くで、最初の少女モデルで『夢見るテレーズ』のモデルなったテレーズ・ブランシャールと出会う。
テレーズには、第二次世界大戦の足音が迫り来る暗い時代を反映したかのような憂鬱な雰囲気があり、それがバルテュスを惹きつけたという。バルテュスは、テレーズとその絵について「これから何かになろうとしているが、まだなりきっていない。この上なく完璧な美の象徴」と語っている。
バルテュスにとっての「完璧な美」とは、「出来上がった状態」ではなく「移行している状態」のことを意味している。つまり「夢見るテレーズ」は、無垢から性への目覚めへの思春期少女を通して「移行している状態」の美を表している。
1940年、ナチス・ドイツによるフランスの侵攻により、バルテュスは妻のアントワネットとともにフランス南東のエクレスバン近くのシャンプロヴァンにある農場へ避難する。そこでバルテュスは2つの有名な作品を描き上げた。
『Landscape near Champrovent 』と『The Living Room』である。1942年にバルテュスは、さらにナチスから逃れるためにスイスのベルンへ移動し、1945年にさらにジュネーブへ移動する。そこで彼はシュルレアリスム雑誌『ミノトール』の編集者のアルバート・スキラやフランスレジスタンスのメンバーのアンドレ・マルローと知り合いになる。
1946年にフランスに戻り、1年後にアンドレ・マッソンと南フランスを旅行し、ピカソやジャック・ラカンといったバルテュスのコレクターたちと再会する。1950年にカッサンドルとバルテュスはモーツアルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当。ジョルジュ・バタイユの娘ローランスが絵のモデルになったこともあった。
1953年、パリを離れブルゴーニュ地方のキャシーの城へ移り住む。そこへ姪のフレデリック・ティゾン(兄のピエール・クロソフスキーの妻の連れ子)がやってきて、1962年までともに暮らす。彼女は絵のモデルとなり有名な作品に『白い部屋着の少女』や『目ざめ』などがある。また大作『部屋』と『コメルス・サンタンドレ小路』を完成させる。
日本と出田節子との出会い
ピエール・マティスの画廊で展示(1938年)やニューヨーク近代美術館の展示(1956年)をきっかけに、バルテュスは国際的な名声が得られるまで成長し、また同時に謎めいた人物としてのイメージがつきまとい始めるようになる。
1961年、フランス文化大臣のアンドレ・マルローからの任命で、バルテュスはローマに移住し、そこでアカデミー・ド・フランスの館長に就任する。ヴィラ・メディチへ移り、修復に熱心に取り組んだ。
1962年にバルテュスは日本古美術展の作品選定のために日本に派遣される。このときに後に伴侶となる出田節子と出会う。2人は1967年に結婚する。この頃からバルテュスの絵の中に日本美術の影響が見られ始め、日本の絵画や浮世絵に関する書物の購入や歌舞伎に興味を持ち始める。
1977年にバルテュスは館長職を終えて、スイスのロシ二エールのグラン・シャレに居を構える。そこで1967年に再婚した日本人の妻、出田節子とともに暮らし、晩年まで過ごす。なお節子とのあいだに文夫と春美の二児をもうけた(長男の文夫は2歳で早世)。
略年譜
■1908年
・2月29日にパリに生まれる。父と母は1903年よりモンパルナス地区に居を構え、ルネ・オーベルジョノワ、日本趣味のナビ派の作家たちと交流があった。
■1914年
・第一次世界大戦が勃発。ドイツ国籍のためフランスから退去してベルリンへ。
■1917年
・クロソフスキー夫妻の別居。母と子どもたちはスイス・ベルンで数ヶ月過ごし、11月からジュネーブへ。
■1919年
・母バラディーヌとリルケが恋愛関係に。バルテュスはカルヴァン中学校に入学。『ミツ』の制作。ベアーテンベルクで夏を過ごし、芸術家マルグリット・ベイに出会う。1922年から1927年までベイの助手を務める。
■1920年
・中国文化に熱中。
■1921年
・『ミツ』の出版。序文はリルケ。春にバラディーヌは、ベルリンにいるベルディーヌ兄のところに子どもたちと身を寄せる。ベルリン民族学博物館で日本人形に影響を受ける。
■1922年
・リルケとともに岡倉天心の『茶の本』と、ヴィクトル・セガレンの中国での実体験に基づく小説『ルネ・レイス』を読み、東洋文化にさらに影響を受ける。
■1923年
・バラディーヌとバルテュスは、ベルリンを去り、ベアーテンベルクに移住。兄ピエールはパリに居を構える。
■1924年
・パリで過ごす。グランド・ショミエールに自由聴講生として通、ボナールやモーリス・ドニに素描を見せる。2人はルーブル美術館でニコラ・プッサンの作品を摸写するよう勧める。当時12歳だったアントワネット・ド・ヴァトヴィルと知り合う。
■1925年
・ルーブル美術館でプッサンの「エコーとナルキッソス」を摸写。
・リュクサンブール公園の眺めの最初の連作を制作。
■1926年
・アレンツォのサン・フランチェスコ聖堂とサンセポルクロ市立美術館で、ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画を摸写し。
・フィレンツェでマザッチョとマゾリーノを摸写。
・リルケ没
■1927年
・ベアーテンベルクのプロテスタント教会の装飾を手がける。
■1928年
・チューリヒに滞在し、アントワネットと恋に落ちる。
■1929年
・チューリヒのフェルター画廊で、トニ・チオリーノの作品とグレゴール・ラビノヴィッチのリトグラフとともに、10枚ほどのバルテュスの絵画が出品される。これがバルテュスの最初の展覧会である。
■1930年
・10月からモロッコで兵役。まずケニトラ、次いでフェズで、1931年12月まで過ごす。
■1932年
・ストロール家に滞在した後、ベアーテンベルク、次いでベルン、5月から10月までヴァトヴィル家に滞在。秋にパリのピエール・レリスとその妻ベティのところに身を寄せる。
・エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵を制作。
・アントナン・アルトーと親交を結ぶ。
■1933年
・パリに移住。ピエール・ジャン・ジューブやアンドレ・ドランと親交を結ぶ。
・12月『キャシーの化粧』を完成。
・ウーデが紹介したピエール・ロエブ(ピエール画廊)は、バルテュスの『街路』に強く感銘を受ける。
・アンドレ・ブルトンを筆頭にシュルレアリストたちがバルテュスを訪問し始める。しかしバルテュスの自然主義的志向に落胆。バルテュスはジャコメッティと親交を結ぶ。
■1934年
・ピカソがバルテュスを訪問。
・ピエール画廊で初個展。『ギターのレッスン』がスキャンダルを起こす。
・ブリュッセルで『ミノトール』誌の展覧会に出品。
・シャンゼリゼ劇場の『お気に召すまま』の舞台装置と衣装を担当。
■1935年
・アルトーの『チェンチ一族』の舞台装置と衣装を担当。
・『嵐が丘』の挿絵のうち8枚を『ミノトール』誌上に掲載。
・『嵐が丘』の挿絵が完成する。
■1936年
・『嵐が丘』の14枚の挿絵がロンドンで展示。
■1937年
・アントワネット・ド・ヴァトヴィルと結婚。
・アメリカ人ジェイムズ・スラル・ソビーが『街路』を購入する。
■1938年
・ニューヨークのピエール・マティス画廊で最初の展覧会。
■1939年
・第二次世界大戦勃発により、9月にアルザスに送られるが、負傷して12月にパリに帰還。
■1940年
・シグリスヴィルで数週間療養後、ベルンまでアントワネットを送る。
・シャンプロヴァンでアントワネットと居を構える。
■1941年
・ピカソがピエール・コルから『ブランシャール家の子どもたち』を購入する。
■1942年
・ドイツが進軍してきたため、シャンプロヴァンを離れ、アントワネットとともにベルンを経てフリブールに移る。
・長男スタニスラス誕生。
■1943年
・ジュネーブのモース画廊で個展。
■1944年
・次男タデ誕生。
■1945年
・ジュネーブ近郊のコロニーのヴィラ・ディオダティに居を構え、アルベール・スキラ、アンドレ・マルローと親交を結び、ジャコメッティと再会する。
・クンストハレ・ベルンのための「エコール・ド・パル」展のコミッショナーを務める。
・パリに滞在。
■1946年
・クンストハレ・ベルンで「エコール・ド・パリ」展。
・アントワネットと別居。
・アンリエット・ゴメスがバルテュスの展覧会を開催。
・ジョルジュ・バタイユの娘ローランスと出会う。
■1947年
・アンドレ・マッソンと南仏旅行。
・ピカソと再会。
■1948年
・ボリス・コフノのバレエ『画家とモデル』の舞台装置と衣装を担当。
■1950年
・エクサン・プロヴァンス国際音楽祭のためにモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台装置と衣装を担当。
■1951年
・イタリアに滞在。
■1953年
・パリを離れ、収集家や画商たちの援助のおかげで、ブルゴーニュ地方のシャシーの城館に移り住む。
■1954年
・義理の姪フレデリック・ティゾンがやってきて、1962年まで共に暮らす。
■1956年
・ニューヨーク近代美術館で展覧会。
■1960年
・ジャコメッティの訪問の際、当時ジャコメッティのためにモデルをしていた大阪大学の哲学教授、矢内原伊作と知り合う。
■1961年
・文化大臣アンドレ・マルローからローマにあるヴィラ・メディチのアカデミー・ド・フランス館長に任命される。ほとなくして同館の建物の修復に着手する。
■1962年
・初来日。アンドレ・マルローの依頼により、パリでの日本古美術展を準備するため。矢内原と再会し、三島由紀夫を訪問。旅行の案内をした大学生・出田節子と出会い、心を奪われる。日本の絵画と浮世絵に関する書物を数冊購入し、マルローに招き猫をおみやげにする。
・フェデリコ・フェリーニと親交を結ぶ。
・12月12日にローマ日本文化会館で開催された、華道草月流の家元・勅使河原蒼風の展覧会のオープニングに節子を招待する。
■1963年
・日本の浮世絵(葛飾北斎、喜多川歌麿、西川祐信)の影響が「東京画帳』や「トルコ風の部屋」に現れる。
■1966年
・パリ装飾美術館で回顧展。
■1967年
・10月3日の出田節子との結婚を機に、2度目の来日。哲学者にしてヨガ行者の中村天風による仏教と神道の儀式に続いて、フランス領事館でのレセプション。ヴィラ・メディチの庭園の修復に着手する。
■1968年
・息子・文夫誕生。2歳で早世。
■1973年
・娘・春美誕生。
■1977年
・スイス・ヴォー州ロシ二エールのグランシャレに居を構える。
■1980年
・ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。
■1983年
・3度目の来日。皇太子同妃両殿下のご接見。両殿下はその際、春美に東宮御所の水槽で育てられる稀少な魚をお見せになる。
・パリ国立近代美術館で回顧展。
■1984年
・ニューヨーク・メトロポリタン美術館での回顧展。
・4度目の来日。京都市美術館での回顧展。
■1989年
・東京で開催された節子夫人の個展のために、5度目の来日。
■1991年
・6度目の来日。赤坂御所でご接見。
■1993年
・7度目の来日。
■1994年
・香港、北京、台北で回顧展・
・ロシ二エールで日本の俳優・勝新太郎の訪問を受ける。
■2001年
・2月18日にロシ二エールのグラン・シャレにして死去。
●参考文献
・バルテュス展 東京都美術館 図録
・バルテュス展 東京ステーションギャラリー 図録
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・瀧口修造