アルフレッド・スティーグリッツ / Alfred Stieglitz
近代芸術写真のパイオニア
概要
生年月日 | 1864年1月1日 |
死没月日 | 1946年7月13日 |
国籍 | アメリカ |
活動 | 写真、画廊経営、編集、批評 |
配偶者 | ジョージア・オキーフ |
アルフレッド・スティーグリッツ(1864年1月1日-1946年7月13日)はアメリカの写真家、編集者、批評家、近代美術のプロモーター、ギャラリスト。
近代写真のパイオニアでもあり、写真をこれまでの記録としてのメディアから絵画のように芸術表現としてのメディアへと高めることに尽力した。
また、ニューヨークにおいて、いち早くヨーロッパの前衛芸術を扱い始めたギャラリー291のオーナーでもあり、パブロ・ピカソやアンリ・マティスをはじめ多くのヨーロッパの前衛芸術家を紹介。ギャラリー291は、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなどのニューヨーク・ダダの活動拠点ともなった。
父親はドイツ系ユダヤ人の移民でアメリカで起業して成功。学生時代にアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ハセマンに出会い写真を教わり、写真に興味を持ち出す。1887年にアマチュアカメラ雑誌に写真に関する論文投稿して採用されたのをきっかけに、写真の本格的な批評と活動を始める。1897年に写真雑誌『カメラ・ノート』を出版。すぐに世界で最も注目される。
妻はジョージア・オキーフ。
重要ポイント
- 写真を絵画や彫刻と同じく「芸術」として評価した
- 前衛画廊ギャラリー291の経営者
- 自身も前衛写真家としてかなりの腕前
関連書籍
略歴
若齢期
スティーグリッツは1864年、ニュージャージー州ホーボーケンで、ドイツ系ユダヤ人の移民の父エドワード・スティーグリッツ(1833-1909)と母ハーディング・アン・ワーナー(1845-1890)の長男として生まれた。非常に裕福な家庭だったという。
父は南北戦争時に北軍の中尉だった。スティーグリッツにはほかに5人の兄妹、フローラ(1865-1952)、ジュリアス(1867-1937)、レオポルド(1867-1956)、アグネス(1869-1952)、セルマ(1871-1957)がいた。なかでも、ジュリアス&レオポルドの双子の兄弟ととくに親密だったという。
スティーグリッツは、1871年にニューヨークにある私立学校で最も優秀なチャーリー・インスティチュートに入学する。この頃から家族でアディロンダック山地のジョージ・レイクで毎夏を過ごすようになり、その生活はスティーグリッツが大人になるまで続いたという。
ニューヨーク市立大学シティカレッジへの入学資格を得るため、スティーグリッツは公立高等学校の上等部へ入学したが、入学資格が不十分なのが明らかになる。そのため1881年に、父エドワード・スティーグリッツは会社を売り払って40万ドルを得て、そのお金で家族とともに数年間ヨーロッパに移り、子どもたちはヨーロッパで教育を受けることになった。
スティーグリッツは、ドイツのカールスルーエにあるレアルギムナジウムに入学。翌年ベルリンの技術高等学校で機械工学科へ入り、科学者で研究者のヘルマン・フォーゲルのもとで化学を学んだ。
ヘルマン・フォーゲルは写真を現像する化学的プロセスを研究する人でもあり、フォーゲルのもとでスティーグリッツはアカデミックな研究と芸術や文化的な関心の両方を満たすことができた。
ドイツ人芸術家のアドルフ・フォン・メンツェルやウィルヘルム・ヘイスマンはスティーグリッツの友人だった。この頃にスティーグリッツは初めてカメラを購入し、ヨーロッパの田舎中、特にドイツとオランダを旅して風景や農民たちを撮影してまわった。
1884年に両親はアメリカに戻ったが、当時20歳のスティーグリッツはドイツに残り、ヨーロッパやアメリカの写真集や写真家の本を収集した。このような独学で資料収集と研究を積み重ね、ついには写真が絵画や彫刻と同じぐらい芸術表現ができるものだとみなすようになる。
1887年にスティーグリッツは、新雑誌『アマチュア写真』へドイツのアマチュア写真に関する論考「ドイツのアマチュア写真家についての一言二言」を投稿する。その後、イギリスやドイツの雑誌を中心に定期的に写真の芸術的側面や技術に関する記事を投稿するようになった。
写真家として名声を得はじめたのは、1887年に雑誌『アマチュア写真』のコンテンストで受賞した写真作品《ラストジョーク・ベラジオ》からと言われている。翌年でも、同雑誌のコンテンストでも1位と2位の賞を受賞、またイギリスとドイツのさまざまな写真誌に彼の作品が掲載されるようになり、スティーグリッツの名前は世界的に知られるようになり始めた。
1890年、妹のフローラが出産時に死亡し、スティーグリッツはニューヨークへ戻る。
ニューヨーク時代(1891-1901)
スティーグリッツは自身を芸術家だとみなしていが、彼は自身の写真を作品を売らなかった。スティーグリッツの父は彼が生計を立てられるように、彼のために小さな写真製版会社「フォトクロム彫刻会社」を買い取り、仕事をする環境を整える。
この会社は高品質の写真を現像するため、また高給料を従業員に支払っていたので、ほとんど利益が出なかったという。この頃のスティーグリッツのおもな収入は写真製版業となる。
写真製版業のかたわらスティーグリッツは、定期的に雑誌『アメリカンのアマチュア写真』に記事を投稿する。また、ニューヨークにあるボストン・カメラ。クラブ、フィラデルフィア写真学会、ニューヨークのアマチュア写真家協会など、さまざまな写真クラブの展示会に参加し賞を得ている。
1892年後半、スティーグリッツは最初の携帯用カメラを購入。Folmer & Schwing製の4×5プレートフィルムカメラだった。このカメラで彼の最もよく知られている写真作品《冬》《五番街》《ターミナル》が撮影されている。これ以前のスティーグリッツは、三脚を必要とする8×10プレートフィルムカメラを利用していた。
写真の腕前だけでなく、雑誌へ投稿した「写真と芸術」に関する記事の評価も高まりはじめる。1893年の春、スティーグリッツは雑誌『アメリカンのアマチュア写真家』の共同編集者となったが、自身の記事に偏見が現れるのを避けるため、会社から給料を受けるとらないようにしていたという。
1893年11月16日、29歳でスティーグリッツは20歳のエマニュエル・オーバーマイヤーと結婚。彼女はスティーグリッツの親友でビジネス仲間のジョン・オーバーマイヤーの妹だった。しかし、スティーグリッツはのちに、エミリーをもともと愛しておらず、結婚後、少なくとも一年間は同じベッドで寝ていなかったという。
彼女と結婚した理由は、当時スティーグリッツの父が事業に失敗したのと、彼女が富豪の父親の遺産を受け継いでいたためであるという。スティーグリッツは、彼女と芸術的また文化的価値観を共有できなかったので、彼女との結婚を後悔していたという。
1894年初頭、スティーグリッツと妻はハネムーンの旅に出る。フランス、イタリア、スイスなどを回ったという。旅行中に写真をたくさん撮ったが、このとき撮影した写真は彼の初期の代表的な写真作品となった。
パリ滞在中にスティーグリッツはフランスの写真家ロバート・デーマキーと出会い、生涯を通じた仲となる。また、ロンドン滞在中に出会った写真家ジョージ・デイヴィスやアルフレッド・ホースレイ・ヒントンとも生涯を通じた友人となった。
その年の後半、スティーグリッツがアメリカに帰国した後、彼はリンクト・リングの全米で最初の2人の会員として全会一致で選ばれる。スティーグリッツは会員に選出されたことが、アメリカで芸術的な写真を宣伝するために必要な原動力となると考えた。
当時、ニューヨークには「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の2つの写真クラブが存在していたが、両クラブとも保守的で、経営状態は悪かった。
そこで、スティーグリッツは、フォトクロム社を辞職し、また『アメリカのアマチュア写真家』の編集者も辞職し、1895年の大半を「アマチュア写真家協会」と「ニューヨーク・カメラ・クラブ」の合併交渉に費やす。結果、2つの組織を統合して、新しく「ザ・カメラ・クラブ・オブ・ニューヨーク」という写真クラブを設立。スティーグリッツは副会長職に就く。