エドガー・ドガ / Edgar Degas
ダンス絵画で有名な写実主義画家
概要
生年月日 | 1834年7月19日 |
死没月日 | 1917年9月27日 |
国籍 | フランス |
表現媒体 | 絵画 |
スタイル | 印象派、写実主義 |
関連サイト |
・The Art Story(概要) ・WikiArt(作品) |
エドガー・ドガ(1834年7月19日-1917年9月27日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。ダンスを主題とした作品でよく知られており、実際にドガの作品の半分以上はダンスの絵である。
デッサンに非常に優れた画家であり、特にバレエダンサーや競馬場の馬や騎手、ヌード女性の動きを描写するのが得意だった。肖像画では、心理的な複雑さや人間の孤独性の描写に秀でていた。
ドガは印象派の創設者の一人とみなされており、印象派展の企画に携わっていたが、ドガ自身は自身が印象派と呼ばれることを嫌い、写実主義を主張していた。
幼少の頃からドガは、歴史的古典絵画を描きたいと思っていたため、厳格なアカデミック訓練を受け、古典芸術の熱心な研究を行う。しかし、30代前半からマネの影響を受けて、スタイルをやや変更し、歴史的巨匠の伝統的な技術で現代の主題を描くようになり、モダニズム生活の古典画家と呼ばれるようになった。
略歴
若齢期
ドガはフランスのパリのほどよく裕福な家庭で生まれた。フランス領ルイジアナ州ニューオーリンズ時代のクレオール(混血児)の母セレスティン・ムッソン・ドガと、銀行員の父オーギュスティン・ドガの間に生まれた5人兄弟の長男だった。
母方の祖父ジェルマン・ムッソンはフランス領ハイチ時代に生まれ、1810年にニューオーリンズに定住した。ドガは11歳のときにフランスのパリにある中学校リセ・ルイ=ル=グランに入学する。13歳のときに母が死去。その後、父と祖父がドガの少年時代に対して、強い心理的影響を与えるようになった。
ドガは幼少期から絵を描き始めた。1853年に文学のバカロレア(中等教育レベル認証の国家資格)を取得して、リセ・ルイ=ル=グランを卒業する。18歳でドガは自宅へ戻り、自室をアトリエにして絵を描き始めた。
卒業後、ルーブル美術館に写学生として登録したが、父は法律学校へ進むことを希望していた。1853年11月、パリ大学法学部に入学したが、彼はほとんど勉強する気はなかったという。
1855年にドミニク・アングルに出会い、ドガは彼を尊敬し、彼からのアドバイスを生涯忘れることはなかったという。「線を描きならさい、若者よ、とにかくたくさん線を描こう、そうすれば人生と記憶の両方で良い芸術家になれるだろう」とアングルはドガにアドバイスをした。
その年の4月、ドガはエコール・デ・ボザールへ入学。ドガは学校でルイス・ラモスからドローイングを学び、また尊敬しているアングルのスタイルを勉強して、腕を伸ばした。1856年7月、ドガはイタリアを旅行し、そこで3年間滞在することを決める。
1858年にナポリにいる叔母の家族のもとに滞在して、最初のマスターピース《ベレッリ一家》の習作を制作。この頃に、ミケランジェロ、ラファエロ、ティッツァーノなどのルネサンスの巨匠たちの作品を膨大に模倣した。
芸術キャリア
1859年にフランス戻ると、ドガはパリへアトリを移し、そこで代表作の1つ《ベレッリ一家》の絵を本格的に描き始めた。この作品は、サロン・ド・パリでの展示を目的とした大きな絵画だったが、なかなか完成させることができず、1867年まで未完成のままになった。
また、この頃にさまざまな歴史画を描き始めた。代表的な作品は、1859年から1860年にかけて制作した《アレキサンダーとブエファファルスとジフタの娘》、1860年に《バビロンを建設するセミラミス》、1860年頃に制作した《若きスパルタ》などがある。
1861年にドガはノルマンディーに住んでいる子ども時代の友人ポール・ヴァルピンコンを訪れ、そこで、馬の絵の習作を多数制作する。
1865年に初めてサロン・ド・パリで審査に受かり、《中世の戦争シーン》を展示したが、ほとんど注目を集めることはなかった。
次の5年間、毎年ドガはサロンに作品を出品したが、歴史画を応募することはやめ、代わりに《競馬-落馬した騎手》など、モダンライフを主題にした作品を展示しはじめた。このドガの主題の変化は、エドワール・マネからの影響であることが大きい。1864年にドガはルーブル美術館でベラスケスの模写をしているときにマネと出会った。
1870年に普仏戦争が起きると、ドガは軍隊に入隊したため、絵画制作はほとんどしなかった。射撃訓練の際に、ドガは視力に欠陥があることが判明する。以後、目の問題は生涯気がかりなものとなった。
戦後、ドガは1872年にルイジアナ州のニューオーリンズで長期滞在を始める。そこで、弟やたくさんの親族と暮らした。エスプラーナ通りにあるミシェル・ムッサンにいるクレオール叔父の家に滞在している間、ドガは多くの家族を描写した作品を制作した。
ドガのニューオーリンズ滞在中の作品の1つ《ニューオーリンズのコットンオフィス》は、フランスで好評を博し、生涯で唯一の美術館買い上げの作品となった。
1873年にパリへ戻ると、翌年に父が死去。このときにドガは弟のルネが巨額の事業債務を貯めていることを知る。家族の評判を守るため、ドガは受け継いだ家や所蔵していた美術品を売り払い、弟の借金債務の処理に充てた。その後、ドガは生涯で初めて、作品販売での収入に頼ることになり、1874年から数十年にわたって多くの素晴らしい作品群を制作することになった。
印象派展に参加
サロンに幻滅したドガは、サロンからの独立展示会を企画している若手画家のグループに参加する。このグループがのちに印象派と呼ばれるようになった。
1874年から1886年の間に、印象派の作家たちは、「印象派展」として知られる独立した展示会を8回開催した。ドガは印象派展を企画するリーダー的な役割を担い、1度をのぞいてすべての展示会に参加した。
ドガはよく印象派の作家として扱われるが、実際はそうでもなかった。印象派は1860年代から1870年代を起源としたが発展したが、ギュスターブ・クールベやカミーユ・コローなどの写実主義の画家も部分的に混じっていた。
しかし、ドガはグループ内でほかのメンバーと衝突することが多かった。そもそもドガは、グループ内のほかの風景画家やマネと共通したものがほとどんどなく、戸外制作をからかってもいた。ドガは基本的に保守的であり、印象派画家たちが起こした展示によるスキャンダラス騒動を嫌っていた。
また、ドガはメディアから展示会や参加したメンバーたちに「印象派」とレッテルを貼られ、俗化した言葉をあてがわれるのを嫌っていた。展示会には、ジャン=ルイ・フォランやジャン=フランソワ・ラファエリのような印象派とは無関係の作家も展示していたからである。こうした内部衝突があり、結果として1886年に印象派展と印象派グループは解散することになった。
美術史家のキャロル・アームストロングによれば、ドガは「私がしていることは、偉大な芸術家たちの研究と研究の結果である。インスピレーションや自発性や気心というのは私にはない」と自身の芸術思想を主張していた。それにもかかわらず、彼は他のどの印象派の作家たちよりも、印象派としてよく紹介されている。
影響を受けた作家
ドガのスタイルは古典芸術巨匠を深く崇拝し、彼らのスタイルを反映したものだった。特にドミニク・アングルやドラクロワから影響を受けている。
また日本の浮世絵のコレクションもしており、浮世絵の構図から多大な影響を受けている。ほかにイラストレーターのオノレ・ドーミエやポール・ガヴァルニからの影響もある。
エル・グレコのような巨匠作家をはじめ、マネ、ピサロ、スザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、エドワード・バードンといった同時代の画家の作品も多数収集した。アングラ、ドラクロワ、ドーミエの3人は、彼のコレクションの中でも特に崇拝していた作家だった。
晩年
1880年代後半になると、ドガは写真へ関心を持ち始める。ドガはランプライトを使って、多くの友人の写真撮影を行った。ほかに踊り子、ヌード写真も多数撮影しており、それらの写真は、ドガのドローイングや絵画の下敷きともなった。
晩年になるにつれて、ドガは個人的な人生を持つことができないという画家の信念のために、孤立していった。1894年に起きたドレフェス事件論争で、ドガの反ユダヤ主義的な思想に走ったたため、ドガの友人だったユダヤ人たちが皆離れていった。
ドガの理屈っぽい性格はルノワールに非難され、ルノワールはドガに関して、「ドガはどんな生き物だったか!彼と友人になった人はすべて、彼と喧嘩別れしなければいけなかった。私は最後まで彼の友人だった一人だが、最後まで残ることはできなかった」と話している。
1907年の終わり頃からドガは、パステルで作品を制作するようなり、1910年後半には彫刻制作をおもにおこない、1912年に作品制作をやめる。ドガは生涯独身で、1917年9月に亡くなる前はパリの通りを彷徨い歩いていたという。