ジャクソン・ポロック / Jackson Pollock
アクション・ペインティングの旗手
概要
生年月日 | 1912年1月28日 |
死没月日 | 1956年8月11日 |
国籍 | アメリカ |
表現形式 | 絵画 |
ムーブメント | 抽象表現主義 |
関連サイト | ・WikiArt(作品) |
ポール・ジャクソン・ポロック(1912年1月28日-1956年8月11日)はアメリカの美術家。抽象表現主義ムーブメントを先導した代表的な人物で、キャンバスを床に置いて、絵具缶から直接絵具を滴らせるドリップ・ペインティングという独自のスタイルを展開。
シュルレアリスムの「無意識」と「オートマティスム」の概念に関心を示し、そこから絵具間缶から絵具を直接滴らせる「ドリッピング」(したたらせ技法)や、絵具を垂らす「ポーリング」(流しこみ技法)を発明。それらは、ハロルド・ローゼンバーグの論文で「アクション・ペインティング」として呼ばれるようになった。
ポロックは、キャンバスの周辺を動きまわりながら描いたため、伝統的な意味での構図的な軸や中心を欠いた無指向性の作品になっていたことにおいても、美術史において革新的だった。それは、アナーキーな混沌や無秩序ではなく、画家の全身を使ったアクション・ジェスチャーといえる。
1956年、44歳のときに酒飲運転が原因で事故死。数カ月後、抽象表現主義の代表者で、またアメリカの現代美術の開拓者として、ニューヨーク近代美術館で回顧展が開催され、その後もより大きなスケールの回顧展が何度も開催されている。
妻は美術家のリー・クラスナー。彼女はポロックの創作に大きな影響を与えており、また死後の遺産を管理した。
チェックポイント
- 抽象表現主義の代表的人物
- ポーリングやドリッピングを発明
- 亡命シュルレアリストの手法を受け継いで独自に発展
略歴
若齢期
ポロックは1912年にワイオミング州パークで5人息子の末っ子として生まれた。母ステラ・メイと父リロイ・ポロックはともにアイオワ州のティングリーで生まれ育った。
母親はかつて芸術家を志していたこともあり、母の影響でフロイト、ストラヴィンスキー、ダダの文芸や芸術に囲まれた環境で育つ。
父親は農夫だったが、のちに土地測量士となる。土地測量士はアメリカ中を移動する仕事だったため、幼いころのジャクソンは、アリゾナ、チコ、カリフォルニアなどさまざまな地域を父親とともに移動しながら育った。
高校では抽象美術の基礎や彫刻、ルドルフ・シュタイナーの神智学を学んだ。
1930年に兄のチャールズ・ポロックを追ってニューヨークへ移る。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークでポロック兄弟はトーマス・ハート・ベントンのもとで学ぶ。
ベントンが描く主題は、おもにアメリカの地方の風景画だったが、彼の作風はポロックにほとんど影響を与えることはなかった。しかし、絵具のリズミカルな使い方やベントンの強い自立心は強く影響を受けたという。
1930年代初頭、ポロックはグレンラウンドとともに西アメリカを旅行して過ごす。
1938年から1942年の世界大恐慌の間、ポロックは連邦美術計画に参加して過ごす。
1938年から1942年にかけてポロックはアルコール依存を治すためジョセフ・ヘンダーソン博士のもとでユングの心理療法を受ける。最近の研究ではポロックは、双極性障害を患わっていた可能性もあり、ほかに起立性調節障害だったともいわれる。
初期キャリア
ポロックは1943年7月にペギー・グッゲンハイムの画廊と契約を結ぶ。彼女の新しい別荘の入口に飾る絵として横20フィート、高さ8フィートの壁画《Mural》(1943年)の制作依頼を受けた。
彼女の親友でアドバイザーのマルセル・デュシャンの提案で、ポロックは壁に直接絵を描くのではなく、あとで、持ち運びできるようにキャンバスに絵を描くことにした。巨大な壁画を見た美術批評家のクレメント・グリーンバーグはこう評している。
『ジャクソンはアメリカが生み出した最も素晴らしい画家だ。』
また、ポロックの初個展のカタログでグリーンバーグは以下のように評している。
『火山のよう。彼はマグマを宿している。それはいつ噴火するか予測できないが、規律がある。鉱物を豊富に含み外部へ溢れでるが、まだ結晶化していない』。
1945年10月に、ポロックはアメリカ人画家で、同じ抽象表現主義スタイルのリー・クラスナーと結婚する。11月に彼らはニューヨーク州南東部にあるロングアイランドのイースト・ハンプトンに移る。彼女はポロックの作品に重要な影響を与え、ポロックの死後は彼の遺産を管理した。
二人はペギー・グッゲンハイムからローンの頭金を借り、木造の家と納屋を購入。納屋をアトリエとして利用した。
アクションペインティング
ポロックは1936年にメキシコの壁画家ダビッド・アルファロ・シケイロスが主宰するニューヨークの「実験工房」で、液体塗料を導入しはじめる。これをきっかけに1940年代初頭、「ポーリング」という液体を流しこんで線を描く手法を使いはじめる。
また、第二次世界大戦中に戦禍を避けてアメリカに避難していたシュルレアリスト達との交流や、かねてから尊敬していたパブロ・ピカソやジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンらの影響により、しだいに無意識的なイメージを重視するスタイルになる。
この後、ポロックはキャンバスをスタジオの床に置いて、顔料をはねちらし、したたらせる「ドリッピング」という手法を開発する。代表作品として《男と女》(1942年)や、《Composition with Pouring 》(1943年)がある。
ポロックのドリッピングやポーリングによる方法は「アクションペインティング」という言葉の起源となった。この方法でポロックはキャンバスを直立させて表面に絵を塗るというこれまでの慣習を否定。キャンバスを床に寝かせて描くという新たな芸術手法を打ち立てた。
また、アクションペインティングはあらゆる角度から描けるという点も大きな特徴だった。
ポロックに影響を与えたものとしてウクライナ系アメリカ人アーティストのジャネット・ソベルがいる。ペギー・グッゲンハイムは1945年に自身が運営する「今世紀芸術画廊」で、ソベルの作品をコレクションしており、彼女がドリッピングを発明したとされており、現在は「忘れられた女性抽象表現主義画家」として紹介されることがある。
ジャクソン・ポロックとクレメント・グリーンバーグは1946年に画廊でソベルの作品を鑑賞する。クレメントバーグのエッセイで「ポロックはソベルの絵画が自身に影響を与えていることを認めていた」と書いている。
成熟期
アクションペインティングを始めてからポロックは、造形的な表現から離れはじめ、またイーゼルとブラシを使った西洋伝統絵画に挑戦を始める。
ポロックは全身を使って、床に置いた巨大なキャンバスに絵を描きはじめた。
「私の絵画はイーゼルから生まれるのではない。絵を描く前にキャンバスを張ることはめったにない。枠に張っていないキャンバスを、硬い壁や床に鋲で留めるほうがいい。私には硬い表面の抵抗が必要なのだ。床の上では、私はより気楽でいられる。より絵に近くに、より絵の一部であるように感じられるのである。
絵の中にいるとき、私は自分が何をしているのかわからなかった。一種の「なじむ」時期を過ごして、自分がしてきたことを理解する。私は変化したりイメージを破壊したりすることを恐れない。なぜなら絵画はそれ自身で生命を持っているからだ。私はそれを全うさせてやろうと思う。結果がめちゃくちゃになるのは、絵とのコンタクトを失ったときだけである。そうでなければ、純粋な調和、楽々としたやりとりがあり、絵はうまくゆく。「マイ・ペインティング」」
1950年にヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、コレール博物館で個展を開催。翌51年、ベティ・パーソンズで大個展。写真家ハンス・ネイムスによるポロックのフィルムが初上映され、国際的な人気が絶頂となる。
ブラック・ポーリング
ポロックの作品は1951年以後、初期作品のように白と黒のみの暗い色使いと形象性(感覚でとらえたものや心に浮かぶ観念などを具象化すること)の高い作品に変化する。
これらの作品は一般的に「ブラック・ペインティング」と呼ばれる時代のもので、これらの作品をニューヨークのベティパーソンズ・ギャラリーで展示する。
しかし、ブラック・ペインティングは不評でまったく売れなかった。パーソンはのちに半額で友達に1つだけ販売した程度の失敗だとはなしている。初期作品に近いブラック・ペインティングはコレクターが望んでいるものではなかったという。
これらの作品でポロック自身は、抽象と形象性との間のバランスを探求しようとしたという。
晩年
1955年にポロックは《香気》と《検索》を制作。これが彼の最後の2作品となった。
1956年に彼は絵をまったく描くかなくなり、トニー・スミスの家でワイヤー、ガーゼ、石膏を使って彫刻の制作を始めた。砂型鋳造でかたどられたこれらは、ポロックが制作した作品とよく似た質感をしている。
ポロックとクラスナーとの関係はアルコール依存症とルース・クリグマンとの不倫問題などで1956年には崩れはじめた。1956年8月11日午後10時15分、ポロックは飲酒運転が原因で自動車事故を起こして死亡。
当時、クラスナーは友達とヨーロッパ旅行に出かけており、知り合いから事故の知らせを聞き、急いで戻ったという。乗り合わせていたエディス・メッツガーも死亡。ほかに乗り合わせていたポロックの愛人で芸術家のルス・クリーグマンは助かった。