草間彌生 / Yayoi Kusama
前衛の女王
概要
生年月日 | 1929年3月22日 |
国籍 | 日本(長野県松本市生まれ) |
表現形式 | 絵画、ドローイング、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス・アート、著述 |
ムーブメント | ポップ・アート、ミニマリズム、フェミニズム、環境アート |
関連人物 | ドナルド・ジャッド、ジョゼフ・コーネル、ジョージア・オキーフ |
関連サイト |
・Artsy(略歴・作品販売) ・オオタ・ファインアーツ(取扱画廊) |
1960sニューヨーク前衛シーンでブレイク
草間彌生(1929年3月22日生まれ)は日本の美術家、作家。絵画、コラージュ、彫刻、パフォーマンス、環境インスタレーションなど幅広いメディアを通じて芸術活動を行っており、その作品の多くは、サイケデリック色と模様の反復で表現される。
美術的評価としてはポップ・アート、ミニマリズム、フェミニズムアートムーブメントの先駆とされており、アンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグに対して直接影響を与えている。
草間自身は、コンセプチュアル・アート、フェミニズム、ミニマリズム、シュルレアリスム、アール・ブリュット、ポップ・アート、抽象表現主義、オートマティスム、無意識、性的コンテンツを制作の基盤にしているという。
草間は1960年代から1970年代初頭のニューヨークアート・シーンから美術家としての名声を高め始めたことに関しては忘れられがちで、日本を基盤として活躍したアーティストと誤解されることがある。これは大きな間違いで、アメリカに飛び立つ前の草間はまったく無名であり、またニューヨークで世界的に注目を浴びている頃さえも、日本の美術関係者は草間に関心を寄せることはなかった。
1960年以前、アメリカに渡る前の草間は、瀧口修造のすすめで1955年に東京のタケミヤ画廊で個展を開催している。1957年に草間はニューヨークに移住する。初期は抽象表現主義運動に影響を受けた作品を制作していた。
主要な表現メディアが彫刻とインスターレションに変わり始めたころから、草間はニューヨークの前衛美術シーンで注目されるようになり、1960年代にアンディ・ウォーホルやクレス・オルデンバーグやジョージ・シーガルらとグループ展示を行う。このときに草間は当時のポップ・アートムーブメントに巻き込まれ、美術界から一目置かれる。
また、1960年代後半に発生したヒッピー・カウンター・カルチャー・ムーブメントにも巻き込まれ、そこで草間は裸の参加者に水玉のボディペイングを行うハプニング芸術を開催し、一般世間からも注目を浴びるようになった。
1998年のMoMaでの回顧展で再ブレイク
ジョゼフ・コーネルが死去して1973年に日本に帰国した後、体調が悪くなり、草間の活動はニューヨーク時代に比べて保守的になっていく。また、ニューヨークから離れたあと、アメリカでも草間の存在は忘れられていく。
作品販売はアートディーラーに任せ、精神的失調のために入退院を繰り返すようになる。帰国直前から取り組み始めたコラージュ作品には当時の草間の心境が封じ込められている。
草間は自発的に残りの人生を病院を中心に過ごすことを決める。ここから、彼女はこれまでの美術活動だけでなく、詩集や自伝などの著作活動へのキャリアを進めるようになる。
日本からもアメリカからも忘れ去られた草間が、再評価されるきっかけになったのは1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』である。その後、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』も草間の再ブレイクに拍車をかけた。
1993年にヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展。2012年にはホイットニー美術館とロンドンのテート・モダンなど欧米4都市巡回展がはじまり、さらに草間の人気は再加熱する。2013年中南米、アジア巡回展開始。2015年北欧各国での巡回展開始。
2008年には、ニューヨークのクリスティーズで作品が510万ドルで落札され、現役の女性アーティストでは最高記録の価格となった。2015年にArtsyは彼女を「現役アーティストTop10」の1人に選出した。2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に日本人で唯一選ばれた。
ポイント
- 水玉模様の反復絵画で知られる
- 1960sのニューヨークアートシーンでブレイク
- 美術史的評価はポップ・アートとミニマリズム
- カウンターカルチャー運動ではハプニングで注目を集める
- ジョゼフ・コーネルの死をきっかけに活動停滞
- 再ブレイクのきっかけはアメリカの回顧展
作品解説
草間彌生の関連人物
コラム
略歴
幼少期
草間彌生は1929年、長野県の松本の種苗業を営む保守的な家庭に4番目の子として生まれた。近所には広大な花畑が広がっており、草間はその花畑で幼少期を過ごす。花畑をスケッチするのが日課となっていた。
やがて草間は視界が水玉や網目に覆われ、動植物が人間の声で話しかけてくる幻覚や幻聴に襲われるようになる。
幻覚の恐怖から逃れるために、それらのイメージを紙に描きとめるようになり、その行為が彼女の精神を落ち着かせることになった。
草間は幼少の頃に母親から度々身体的虐待を受けて苦しんだと話している。父の放蕩のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、草間の精神はいつも追い詰められていたという。
小学校卒業後、草間は松本高等女学校に入学する。ここで草間は美術教諭で日本画家の日比野霞径という良き理解者に出会う。日比野は草間の絵を認め、絵の指導をしてくれた。また、草間の両親に草間を絵の道に進めてくれるよう幾度も自宅を訪ね、草間の芸術人生を後押ししてくれた。
1948年、19歳で京都市立美術工芸学校の最終過程に編入学し、日本画を学ぶ。しかし、この頃の草間は、日本画における厳しい上下関係から湧き上がってくる内面からのイメージを描きとめることによって恐怖から逃れようとしていた苦しい時期でもあったという。草間によれば京都の時期は「吐き気をもよおすもの」だという。
京都から松本に戻ると草間は、京都での伝統的な日本画の苦しい経験から反発するように、技法や素材の壁を越えて、独自の表現方法へと移行していく。
草間が水玉模様を描いている初期作品は1939年に10歳のときに描いたドローイングの無題の着物を着た女性画がある。おそらく母親を描いたものと思われる。その作品の裏側には灯篭のようなオブジェに水玉が描かれている。
若齢期
1952年3月、23歳で初個展を開催。会場は松本市公民館。わずか二日間だったが、200点を超える油彩、水彩、デッサンなどが壁面を埋め尽くした。また、初個展の半年後には、新作展で270点を展示している。
初個展で、信州大学の初代神経科教授の西丸四方が訪れる。田舎での美術の個展は珍しいということで興味本位で立ち寄ったものらしい。西丸は会場を埋め尽くす作品群に驚き、草間に関心を持つようになる。
同年末、西丸は東京大学医学部で開催された関東精神神経学会で草間についての発表を行う。実際に彼女の作品を数点会場に持ち込み、批評家に観てもらったという。
そこで西丸の恩師で当時東大精神医学教室主任教授であった内村祐之の目にとまり、ゴッホ研究や民藝運動でも功績を残した精神科医式場隆三郎にも紹介されることになる。これが東京での個展のきっかけとなった。西丸は草間に、心の安寧を得るために家から離れることを促すなど、その後も長きにわたり、主治医的な立場から草間に助言を続けた。
第二回個展では松澤宥、阿部展也らが賛助出品し、美術評論家の瀧口修造が案内状に寄稿している。瀧口は1954年に草間が東京の白木屋百貨店で個展を開催するにあたり、式場隆三郎らとともに推薦文を寄せ、さらに翌1955年には彼が作家人選を任されていたタケミヤ画廊において草間の個展を開催している。
ニューヨークへ移住
1957年11月、27歳のときに日本での閉塞感から逃れて芸術探求に専念したい草間の強い希望によりアメリカへ渡ることになる。まず以前から敬愛し、文通していたジョージア・オキーフを伝手にシアトルに移り、ゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で油彩の個展を行う。
シアトルに一年ほど滞在したあとニューヨークへ移り、最初はコロンビア大学の近くにあるニューヨーク仏教会などに寄宿。1959年1月までにダウンタウンのアート・シーンに近い東十二丁目に移り、以後はビレッジやチャイナタウン、チェルシー地区あたりに住む。
草間が渡米したころのアート・シーンは、アートの中心がパリからニューヨークに移り変わり、抽象表現主義の第二世代の全盛期の頃だった。また、草間はポロックのアクション・ペインティングに刺激され、まもなく代表作「無限の網」を発表し、注目を浴びるようになる。
「無限の網」はフランク・ステラが自前で購入し、自宅の居間にかけて長く手放さなかったこともあり、美術史的価値が非常に高いものとなった。ステラが購入した「無限の網」は現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている。またドナルド・ジャッドは草間の「白の大作」を購入した。またこの頃に、ジョゼフ・コーネルに出会う。
「集積」と「強迫観念」
草間が渡米してからの成功は早く、1961年には前衛ムーブメントの代表的なアーティストに成長していた。草間はスタジオをドナルド・ジャッドや彫刻家のエヴァ・ヘッセがいるビルに移す。エヴァとは親しい知り合いとなった。その後、1966年までの数年間の草間は、最も作品の生産的な時期だった。
1960年代の草間の代表的なスタイルが「アキュミレーション(集積)」と「オブセッション(脅迫観念)」。ともに「無限の網」の延長線上にある作品である。椅子やソファや台所用品などありとあらゆるオブジェに男根形の布製突起を貼り付けて集積させた「ソフト・スカルプチャー」が代表的な作品である。これらの作品は、作品自体が集積だが、個々の作品が集積されて、環境インスタレーションに発展する表現である。鏡、ライト、音楽などを使って「トータル・アート」と呼ばれるようになる。
さらに「トータル・アート」の発展として草間自身が芸術作品となる。草間は自作の服を着て、自作のドローイングに囲まれて制作するようになるが、集積が発展していくと自分自身の身体も作品となって集積されていくわけである。ヌードの草間が男根のソファに横たわる「集積No.2」や「自己消滅」などが有名な作品である。
ハプニング
売れっ子だったにも関わらず、この時代の草間は作品の売上からほとんど利益を得ていなかったという。また過労で度々入院することもあり経済的に困難な状況だった。オキーフは草間の経済的困難を食い止めるために、作品を購入したり、オキーフ自身がディーラーとなって草間を助けた。
1967年から1969年の間の草間はハプニングが中心となり、たいてい彼女は水玉模様を身体に塗ってヌード・パフォーマンスを行っていた。ウォール街や国連本部といった保守的な場所で行ったヌード・パフォーマンスは古い世代に大きな衝撃を与えた。
ニューヨークのセントラルパークで「不思議の国のアリス」を題材にしたヌード・パフォーマンス、そしてニューヨーク近代美術館でヌード・パフォーマンスを行った後の1969年8月、米紙デイリー・ニュースは見出しで「これは芸術か?」と問うた。
表現内容はベトナム戦争の抗議活動が中心で、特に有名なのは1968年にニクソン米大統領に宛てた「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」と題する公開書簡である。この中で草間は「暴力を使って暴力を根絶することはできません。優しく、優しくしてください、親愛なるリチャード。あなたの雄々しい闘争心をどうか鎮めてください」と書いている。
ハプニングは草間だけでなく、複数の人々で構成されている芸術表現である。スタジオ内で「乱交」するものと街頭で裸デモするとに別れ、どちらでも水玉模様のボディ・ペインティングがされている。
ナルシスの庭
1966年に草間は第33回ヴェネチア・ビエンナーレに参加。これは招待作家ではなくゲリラ参加である。出品作品「ナルシスの庭」はプラスティック製のミラーボール1500個をイタリアのパビリオンの外にある芝生に敷き詰めたもので、それらは「キネティック・カーペット」と呼ばれた。
ベネチア・ビエンナーレでの「ナルシスの庭」の展示は、ほぼ草間が強引に設置したものであるが、当局は最初、黙認していた。しかし、彼女が黄金色の着物を着て、その芝生にたち、1個1200リラでミラー・ボールを一個観客に売るという行為は直ちに阻止されてしまった。
草間はでその球体を販売していた。たぶん草間作品の中でも最も悪名高いといわれるこの作品は、美術市場の商品化や機械化への挑発的な批評であり、また同時に草間のヨーロッパにおけるメディアを通じたプロモーション活動戦略の一つだったといえる。
コーネルの死と帰国後の著述業
1973年親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去。コーネルの死をきっかけに草間は体調が悪く病気がちだったため、日本へと帰国。体調さえ回復すれば、またニューヨークに戻るつもりだったが、結局東京に活動拠点を置くことにする。
1975年に西村画廊で個展を開催。「冥界からの死のメッセージ」と題するコラージュ作品を展示する。翌1976年に大阪フォルム画廊東京店において、個展「生と死への鎮魂に捧げる-オブセッショナルアート展」を開催。ソフト・スカルプチャーやコラージュが展示された。
どちらも死を主題として展示で、父親、ジョゼフ・コーネルといった身近な人びとがたくさん亡くなっていき、また草間自身が体調不良の時期であり、強く死生観を意識したものだった。
直感的でシュルレアリスィックな小説や短編小説、詩を書くなど著述業を始める。1978年には処女作品「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表した後、1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞。これらの小説には、彼女の幼年期の幻視体験をモチーフにしたものがある。
1977年に草間は新宿区にある晴和病院に入院し、最終的には、病院での創作活動が中心となった。ここから草間は著述業と並行するかたちで、さまざまな絵を描き始める。入院生活は、マイナス要素にはならず、逆にその後の草間芸術を発展するための基盤となった。
1970年代の草間の絵画スタイルは、キャンバスにハイカラーのアクリル画に変化した。
※草間彌生の80年代の著作物例。
再評価と1990s
ニューヨークから離れて、実際には芸術家としては忘れ去られた。草間が再び世界的に注目を集めるようになるのは、1980年代後半や1990年代から始まる回顧展からである。草間は再び芸術家として活発に活動を始める。著述から絵画に戻り、以前の作品に近づいていく。
1989年にニューヨークの国際現代美術センターで開催された『草間彌生回顧展』がきっかけでアメリカの美術関係者を中心に最注目が始まる。この年に日本人として初めて「アート・イン・アメリカ」の表紙絵を飾ったことも大きい。
1993年には第45回ヴィネツィア・ビエンナーレの日本館から参加して成功。このときは小さなカボチャが敷き詰められた「無限の鏡の部屋:かぼちゃ」を展示し、草間は鏡の部屋に入り、魔術師スタイルの格好をして、カボチャの彫刻を作っていた。カボチャは彼女の自画像であり変身願望の1つであるという。カボチャはその後、草間の一種のトレードマークとなった。
また、1998年にニューヨーク近代美術館で開催された回顧展『ラブ・フォーエバー:草間彌生 1958〜1968』で草間の再ブレイクに拍車をかけた。
2000sから現在
草間が2000年から2008年にかけて制作したインスタレーション作品「ここにいるが、いない」はイスとテーブルが設置されたシンプルな家具の部屋だが、 壁にはUV光で輝く何百もの水玉蛍光が装飾されている。結果として無限の空間が広がっているように見え、部屋の中に設置されているものは消滅しているように見える。
「新しい空間の案内」は、赤と白の水玉模様のオブジェのシリーズ「塊」はフロリダ州パンデイナス湖に設置されている。草間の最も有名な作品である「ナルシスの庭」は、世界のさまざまな場所にあり、2000年にフランスのディジョンにあるル・コンソーシアム、2003年にドイツのブラウンシュバイクにあるクンストヴェリン、2004年にニューヨークのホイットニー・ビエンナーレの一部として、2010年にパリのチュイルリー庭園に設置されている。
2017年にはワシントンD.Cにあるハーシュホーン博物館と彫刻の庭で、50年に及ぶ活動の回顧展が開催され、この展覧会で約20ある『永遠の鏡の部屋』のうち6つが展示されるのが目玉で、アメリカとカナダの5つの美術館を巡回する。
アートマーケット
1960年代、ベアトリス・ペリーズ・グレス・ギャラリーは、アメリカでの草間のキャリア生成に重要な役割を演じた。草間と長い付き合いのある東京の画商オータファインアーツは、1980年代から草間を扱っている。
2000年代初頭から草間はヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。その後にロバート・ミラー・ギャラリー、次いでガゴシアン・ギャラリーと契約。2012年に草間はガゴシアン・ギャラリーから離れ、2013年にデビッド・ズワイナー・ギャラリーと契約を結んだ。現在はデビッド・ズワイナー・ギャラリー、オータファインアーツ、ヴィクトリア・ミロ・ギャラリーと契約している。
草間の作品はオークションで強く値動きする。特に1950年代後半から1960年代の絵画作品は高価格をマークし、草間作品は現役の女性アーティストでは世界で最も高額である。2008年11月にクリスティーズ・ニューヨークは、ドナルド・ジャッドが所有していたことで知られる1959年制作の絵画『無限の網』シリーズの『No.2』を出品し、510万ドルで落札された。当時の現役叙せー雅代ぅsとで最高価格だった。
サザビーズ香港は、2015年10月のオークションで『No. Red B』を出品。約606万ドルで落札された。最も高額の落札作品は、2014年11月にクリスティーズ・ニューヨークで出品された『White No.28』で約710万ドルで楽札された。