ジョン・テニエル / John Tenniel
『不思議の国のアリス』のイラストレーター
概要
生年月日 | 1820年2月28日 |
死没月日 | 1914年2月24日 |
国籍 | イギリス |
職業 | 漫画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー |
ジョン・テニエル(1820年2月28日-1914年2月25日)はイギリスのイラストレーター、グラフィック・デザイナー、風刺漫画家。1893年に芸術的偉業を讃えてナイトの称号が与えられている。
テニエルはイギリスでは50年以上ものあいだ風刺漫画雑誌『パンチ』誌上で風刺政治漫画を描いてきた漫画家として知られている。
また、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)、『鏡の国のアリス』(1871年)の挿絵を担当したことで世界中で知られている。
略歴
幼少期
テニエルはロンドンの中心部シティ・オブ・ウェストミンスターにあるベイズウォーター
で、ユグノー移民でフェンシングとダンスの達人だった父ジョン・パブティスト・テニエルと母エリザ・マリア・テニエルとの間に生まれた。テニエルは5人兄妹だった。兄妹の1人メアリーはのちにコーニッシュウェア社を設立したトーマス・グッドウィン・グリーンと結婚している。
テニエルは少年時代からずっと物静かで内気な性格だった。有名になっても昔からずっと変わらず、環境変化の影響を受けなかった。伝記作家のロドニー・エルゲンはテニエルについて「生活や仕事は最高に紳士的であり、社会的地位の端で生活していた」と述べている。
1840年、20歳のとき、テニエルは父親とフェンシングの練習をしているときに、父親のフェンシングの保護先端がとれるトラブルのせいで、剣先が眼に刺さり大怪我をする。その後、テニエルの右目は徐々に見えなくなっていった。テニエルは父親を狼狽させたくなかったので、傷の話をすることはなかったという。
美術方面に関心があったにもかかわらず、テニエルは風刺ユーモア作家として知られるようになり、またチャールズ・キーンと知りあり、互い風刺似顔絵の才能を高めていった。
美術教育
テニエルは古典彫刻のデッサンの試験に受かり1842年に王立アカデミーに入学したものの、学校の美術教育に対して疑問を持ち、批判的だったので、結局学校をやめて独学で絵の勉強をするようになる。
テニエルは絵画を通じて古典彫刻を勉強したいと思っていたが、学校では絵の授業はまったく教えてくれず、不満が募っていったのが退学の理由だという。
テニエルは、ロンドンのタウンレイ・ギャラリーに通い古典彫像のデッサンをおこない、大英図書館でファッションや武具の本からイラストレーションの練習をし、リージェントパークにある動物園で動物を模写し、ロンドン劇場で俳優を描いた。
このような独自の絵画研究の過程で、テニエルは対象の細部を見て描くことを愛するようになった。しかしながら、彼は仕事を通じてせっかちになったので、記憶を頼りにして絵を描く能力も身につけることも楽しくなったという。
ほかに正式な美術教育に相当するものといえば、テニエルは芸術グループに参加したことだろう。そこはテニエルを息詰まらせたアカデミーの規則から自由だった。1840年代なかばにテニエルは「芸術家クラブ」や「クリップストーン・ストリート・ライフ・アカデミー」などに参加し、そこでテニエルは風刺イラスト作家の才能を育んでいった。