ダイアン・アーバス / Diane Arbus
アウトサイダーな人々を撮影
概要
生年月日 | 1923年3月14日 |
死没月日 | 1971年7月26日 |
国籍 | アメリカ |
表現媒体 | 写真 |
配偶者 | アラン・アーバス(1941年結婚、1969年離婚) |
ダイアン・アーバス(1923年3月14日-1971年7月26日)はアメリカの写真家、作家。
ジョエル・ピーター・ウィトキンと同じく、小人、巨人、両性具有者、身体障害者、双子、見世物小屋芸人など、アウトサイダーな人々や隔離的な場所に押し込められる人々をシュルレアリスティックに撮影した写真表現で知られています。
アーバスにとって写真は「やや冷徹に、やや不快」に表現する最適な道具であり、また真実を緻密に明らかにするという信念を持っています。
アーバスには被写体自身が自分に対して抱いてるナルシスティックなイメージと、自分が被写体に対して抱いているイメージの違いを意識して撮影する姿勢があり、そのため、彼女は被写体に対して正面姿勢で、真正面から、直接的に強いストロボ・ライティングを行ないます。
この撮り方は人によっては非常に冷酷な演出を行うため、アーバスに写真を撮られるということは、本来よりも美しく虚飾されるのではなく、まったく逆ですべてを暴き出されるということなってしまうのです。
アーバスは表層的な美よりも精神的なものを、社会の問題より個人の問題を、偶発的な現象よりも不変で特徴的な部分を、繊細さよりも困難や危険を恐れない勇気に価値を見出しました。
彼女は若いころから慢性的な鬱病に苦しめられ、肝炎も患っており、精神的に追い詰められて、最後には自宅の浴槽で自殺しました。
生前から彼女は評価が高かったですが、死後、評価はさらに高まり、1972年にはヴィネチア・ヴィエンナーレでアメリカ人で最初の写真家として作品が展示されました。1972年から1979年にかけての彼女の世界巡回展が行われ200万人の動員を達成。2003年と2006年にもアーバス作品の巡回展が行われました。また2006年にはアーバスにオマージュを捧げる映画『毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト』が公開されました。
チェックポイント
- 双子の少女の写真の作者
- 両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人などアウトサイダーな人々を撮影
- ニュー・ドキュメンタリー運動の代表的な写真家
作品解説
略歴
裕福な芸術家庭に生まれる
ダイアン・アーバスは1923年、ユダヤ人夫婦デヴィッド・ネメロブとガートルード・ルセック・ネメロブの間に生まれました。
父ルセックはマンハッタン五番街の有名デパート『ルセックス』の社長だったため、アーバスは非常に裕福な家庭環境で育ちました。1930年代の世界大恐慌の時代でもアーバスの一家はほとんど影響を受けることはなかったようです。
父は退職後絵描きになり、妹も彫刻家でデザイナー、そして一番上の兄のハワード・ネメロブはのちにポストアメリカ文学者となり、その息子のアメリカのアレクサンドリア・ネメログは美術史家です。このようにダイアンの家系は芸術一家でした。
夫ともに商業写真家として活動
ダイアン・ネメロブはエチカ・カルチャー・フィールドストーン・スクール予科に入学し、1941年、18歳のときに幼なじみの恋人アラン・アーバスと結婚します。
1945年に2人の間に娘ドーン・アーバスが生まれます。ドーンはのちに著述家になりました。1954年には次女エイミー・アーバスが生まれます。エイミーはお母さんと同じ写真家になりました。なおダイアンとアランは1959年に別居し、1969年に離婚しています。
ダイアンの写真に対する興味は1941年、アルフレッド・スティーグリッツのギャラリーを訪れたときから始まります。ここでマシュー・ブラディ、ティモシー・H・オサリバン、ポール・ストランド、ビル・ブラント、ウジェーヌ・アジェら多くの写真家について学なんだようです。1940年代初頭に、ダイアンのお父さんは彼ら写真家たちのデパート広告のために起用しています。なお、夫のアランは第2次世界大戦時にアランはアメリカ軍信号隊の写真家として参加しています。
1946年、戦争が終了するとダイアンと夫のアランは「ダイアン&アラン・アーバス」というユニット名で商業写真作家として活動を始めます。2人はおもに『グラマー』『セブンティーン』『ヴォーグ』『ハーパーズ バザー』といった女性ファッション誌を中心に写真の仕事をしていました。
しかし、当時彼らはファッション業界で嫌われていたようです。『グラマー』誌では200ページ以上、『ヴォーグ』では80ページ以上担当していたにもかかわらず、アーバスのファッション写真は“並の品質”として酷評されていました。
芸術写真家に転身
1956年、アーバスは商業写真の仕事を辞めてしまいます。以前ベレニス・アボットのもとで写真の勉強はしていましたが、1956年にニュースクール大学で教鞭をとっていたリゼット・モデルのもとで写真を学び直します。このリゼット・モデルこそが、のちによく知られるダイアン・アーバスの写真の直接的なルーツとなります。
卒業後、アーバスは1959年『エスクァイア』『ハーパーズ バザー』『サンデー・タイムズ・マガジン』といった雑誌で仕事を始めました。
1962年頃にアーバスはきめ粗い長方形の135フィルムのニコンカメラからローライフレックスの二眼レフカメラに替えて、きめ細かな正方形の写真撮影をするようになります。これがダイアンの代表作「一卵性双生児」の撮影カメラとなります。さらに、モデルに励まされ、ダイアンはアウトサイダーな人々を撮影し始めます。両性具有者、身体障害者、服装倒錯者、双子、小人、施設に収容されている人などです。
ドキュメンタリー写真
1964年にアーバスは、ローライ製カメラに加え二眼レフのマミヤカメラを使い始めます。また彼女の撮影方法も変わり始めます。被写体との強い個人的な関係性を確立するもので、長年にわたって被写体を何度も撮影するようになりました。
1967年にアーバスの芸術的評価を高めた展示が開催されます。ニューヨーク近代美術館で開催された『ニュー・ドキュメンツ』で、キューレーターはジョン・シャーコフスキー。写真家ガリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーとの3人展で、ドキュメンタリー写真に焦点をあてた企画でした。
この企画以後、「ニュー・ドキュメンタリー」という新しい写真表現の流れが世界中に広がっていきました。写真史におけるアーバスの評価もおおよそ、ニュー・ドキュメンタリーの文脈上のものといってよいでしょう。1968年には、雑誌『エスクィア』で南カリフォルニアの田舎の小作農民のドキュメンタリー写真を発表します。
シャーコフスキーは1970年にアーバスを起用し、『報道写真から』というフォトジャーナリズム展のための研究を行います。この企画は過去50年の新聞から優れた報道写真を225作品を取り上げたもので、アーバスは特にウィージーが撮影した写真が好きだったようです。
晩年
晩年は以前よりも露光を柔らかめにして知的障害の人々が見せるさまざな表情を撮影したシリーズを始めます。実際にニュージャージーの養護施設を訪ねて撮影しました。撮った作品についてアーバスは「叙情的で優しく美しい、天使」ものと思っていましたが、リゼット・モデルはこれらの写真は気に入らなかったようです。
アーバスは気分障害だったようです。1968年にアーバスは「私は激しいアップダウンをする」と書いています。また彼女の元夫も「アーバスは気分が激しく変化する」と話しています。肝炎を患わったことで、さらに症状は悪化していきます。
1971年7月26日、ニューヨークにあるウェストベス芸術コミュニティで生活しているときに、アーバスはオーバードーズとリストカットで自殺をはかり、2日後、自宅の浴槽で死亡しているアーバスが発見されました。享年48歳でした。