シュルレアリスム / Surrealism
超現実主義
概要
活動期間 | 1920年代〜1930年代 |
活動地域 | フランス、ベルギー、イギリス |
芸術家 | アンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト |
影響元 | ダダイズム、ジョルジュ・デ・キリコ |
影響先 | 抽象表現主義、ポストモダニズム |
シュルレアリスムは、1924年のアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」から始まる芸術運動である。
活動当初は、おもに美術と文学で用いられた前衛的な表現スタイルだったが、その後、芸術全体にわたって幅広く用いられるようになった。シュルレアリスムは絵画だけでなく、映画、文学、彫刻、音楽、ダンス、演劇、ファッションなど芸術表現の大半に適用できる表現方法として知られている。さらに、マンガ、アニメーション、ゲーム、インターネット動画など現代の芸術表現でもシュルレアリスムは利用されている。
アンドレ・ブルトンによれば、当初シュルレアリスム運動が理想としていたのは「夢と現実の矛盾した状態の肯定」だった。シュルレアリスト(シュルレアリスム表現をもちいる芸術家のこと)たちは、アカデミックな美術教育を習得した高度な描画技術で、不条理で非論理的な風景を描いたり、日常的な風景と奇妙な非現実的な生き物を並列して描いたり、自分自身の無意識を表現した。
驚異、意外な並列、不条理性がシュルレアリスム作品の特徴である。
しかしながら、多くのシュルレアリストたちは、シュルレアリスム表現の目的は、芸術であるとともにまず第一に哲学的な思考であり、日常生活に影響や変化を及ぼすものと考えていた。リーダーのアンドレ・ブルトンにいたっては、シュルレアリスム運動を個人の意識的革命や日常の革命にとどまらず、政治的革命、社会的革命も可能にすると考えていた。
シュルレアリスムは、もともとギョーム・アポリネールが考えた造語で、この言葉をブルトンが借用したところから始まっている。 フランス語の「シュル=超」という接頭語に「レアリスム=写実主義、現実主義」という語を組み合せた言葉で、日本語では一般的に「超現実主義」と訳される。
シュルレアリスムは第一次世界大戦中にスイスのチューリヒで発生したダダイスムから発展・派生した。シュルレアリスムのおもな活動地域や時代は1920年代のパリだったが、世界中にムーブメントとなって広まり、多くの国の視覚芸術、文学、映画、音楽、そして言語に影響を与え、さらには政治、哲学、社会科学にまで影響を及ぼした。
日本では1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が文壇で紹介した。日本の美術家の作品にシュルレアリスム風の表現が見られはじめたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られた。ただし全員、明確にシュルレアリスム表現をもとにして描いたと思えるものではなかった。
シュルレアリスムのポイント
- 夢と現実の矛盾した状態の表現である
- アンドレ・ブルトンが定義者であり指導者である
- あらゆる芸術、さらに生活、政治にまで影響を与えた
重要展覧会情報
シュルレアリスムと絵画 ―ダリ、エルンストと日本の「シュール」(ポーラ美術館)
日本において1928年にブルトンが発表した『シュルレアリスムと絵画』は、瀧口修造(1903-1979)によって早くも1930年に日本語に翻訳され刊行されています。
1930年代を通して「超現実主義」という訳語のもと最新の前衛美術のスタイルとして一大旋風を巻き起こします。しかしこうした広がりのなかでシュルレアリスムは、第二次世界大戦へと向かう時代の閉塞感と響き合い、しだいに現実離れした奇抜で幻想的な芸術として受け入れられていきました。
本展は、シュルレアリスム運動からどのようにシュルレアリスム絵画が生まれたのか、さらに日本における超現実主義への展開に焦点をあてる世界で初めての展覧会です。
主要出品作家:サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、古賀春江、三岸好太郎、瑛九、吉原治良など
シュルレアリスム関連人物リンク
・瀧口修造
技法
シュルレアリスムの基礎教科書
シュルレアリスムの解説本は多数ありますが、管理人がおすすめする書籍を紹介します。
『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)は、文学者で美術評論家の巖谷國士によるシュルレアリスムの解説書。さまざまなシュルレアリスム用語を断片的に解説するのではなく、シュルレアリスムの歴史に沿いながら、「いつ」「どこで」「どのような経緯で」「この技法が生まれた」と順序立てて解説するのが本書の特徴である。(続きを読む)
シュルレアリスムの歴史
運動の創設まで
「シュルレアリスム」という言葉は、ギヨーム・アポリネールが1917年3月に造りだした言葉である。
アポリネールはポール・デルメへの手紙で「あれこれ考えてみたが、私は最初に使った超自然主義(supernaturalism)という言葉よりも超現実主義(surrealism)という言葉を採用するほうがよいと思っている」と書いている。
アポリネールは、1917年5月18日に上演されたセルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ『パラード』のプログラムに文章を寄せたが、そのときに『パラード』について"surrealistic"と表現している。
This new alliance—I say new, because until now scenery and costumes were linked only by factitious bonds—has given rise, in Parade, to a kind of surrealism, which I consider to be the point of departure for a whole series of manifestations of the New Spirit that is making itself felt today and that will certainly appeal to our best minds. We may expect it to bring about profound changes in our arts and manners through universal joyfulness, for it is only natural, after all, that they keep pace with scientific and industrial progress. (Apollinaire, 1917) |
その後、1903年に脚本が作られ1917年に上演されたアポリネールの演劇『ティレジアスの乳房(Les Mamelles de Tirésias)』の序文であらためて「シュルレアリスム」という言葉が使われた。
第一次世界大戦による混乱は、パリを活動拠点にしていた詩人や画家を離散させた。離散した芸術家の多くは、そのあとに発生するダダ・ムーブメントに参加する。彼らは世界中に戦争の災禍をもたらした原因は、過剰な合理的思考や中産階級的な価値であると考えた。
ダダの芸術家たちは「反芸術」を掲げて集まり、パフォーマンスや著作、さまざまな芸術作品を発表する。戦後、彼らがパリに戻ったあともダダ運動は続けられた。
第一次大戦中、アンドレ・ブルトンは精神医学の研修生として精神病院に勤めていた。そこでブルトンは、「シェルショック(戦争ストレス)」で苦しむ兵士にジクムント・フロイトによる精神分析で治療を施していた。
またブルトンは、若き詩人で、のちにシュルレアリストに影響を与えたジャック・ヴァシェと出会う。ヴァシェこそが詩人で「パタフィジック(空想科学)」の創設者のアルフレッド・ジャリの精神的な後継者であると感じ、感銘を受けた。
ブルトンはヴァッシェの反社会的で、また確立された伝統的芸術への軽蔑的な姿勢を称賛した。のちにブルトンは「文学において、私はいつもランボー、ジャリ、アポリネール、ヌーヴォー、ロートレアモンを読んでいたが、最も影響を受けたのはジャック・ヴァシェである」と話している。
ブルトンはパリに戻ったあと、ダダ運動に参加する。ルイ・アラゴンやフィリップ・スーポーらと文学誌『文学』を発行。そこで彼らは理性の介入なしで自由に文字を書く「オートマティスム(自動記述)」の実験をはじめ、その内容を雑誌で公表した。
ブルトンとスーポーはさらに自動記述を発展させたシュルレアリスム文学『磁場』を1920年に刊行した。『文学』誌に影響を受けた多くの画家や詩人は、オートマティスムこそ既存の価値観を破壊するだけのダダよりも実際の社会変革を起こすための最良の方法だと信じ始めた。
『文学』誌には、ポール・エリュアール、ベンジャミン・ペレ、ルネクルべル、ロバール・デスノス、ジャック・バロン、マックス・モリス、ピエール・ナビル、ロジャー・ヴィトラック、ガラ・エリュアール、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、マン・レイ、ハンス・アルプ、ジョルジェ・マーキン、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、アントナン・アルトー、レイモンド・クノー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、マルセル・デュシャン、ジャック・プレヴェール、イヴ・タンギーが参加するようになった。
また、『文学』のメンバーはシュルレアリスムの理論を発展させて、シュルレアリスムこそヘーゲルの弁証法を理論的根拠とし、すべての二律背反を解消した超越的な観念が描写可能な重要表現であると提唱した。彼らの思想はまたマルクス主義弁証法、ヴァルター・ベンヤミンやヘルベルト・マルクーゼのような理論と似ていた。
自由連想、夢解析、無意識といったフロイト的手法がシュルレアリストにとって自由な想像力を解放するための最も重要なものとなった。しかし彼らは特殊性を擁護しながらも、一方で、理性の監督下にない狂乱的な思考に関しては拒否していた。サルバドール・ダリは次のように説明している。
「狂人と私の違いがひとつある。狂人は自分が正気であると思っているが、私は、おかしいことを分かっている。」
夢分析のほかに、一つの風景のなかに、通常では考えられない要素が接近し、その接近するイメージが発する視覚効果もシュルレアリスム表現の1つとした。それをデペイズマンと呼んだ。
ブルトンは1924年の「シュルレアリスム宣言」において、デペイズマンから生じる偶然的配置のアイデアについて説明している。1918年の詩人ピエール・ベルディのエッセイによると「接近する二つの現実の関係が遠く、それなのに適切であればあるほど、シュルレアリスムのイメージはいっそう強まる。二つの現実の偶然の接近から、ある特殊な光、イメージの光がほとばしる。」というものである。
シュルレアリスム・グループは、個人的、文化的、社会的、政治的なさまざまな側面で、実際の人間の生活や行動においても革命をもたらすことを目的としていた。彼らは根拠のない合理性や制約的な習慣や構造から人々を自由にしたかった。
ブルトンはシュルレアリムの狙いは「社会革命よ万歳。それだけだ!」と宣言し、ゴールとするものは、いくどか、共産主義やアナーキズムとつながるものであると考えていた。
シュルレアリスム宣言
1924年に、二つのシュルレアリスム・グループが結成され、それぞれがマニフェストを作成してシュルレアリスムの理論を発表した。両グループともギヨーム・アポリネールの造語”シュルレアリスム”の後継者であることを主張していた。
一つはイヴァン・ゴルをリーダーとしたグループで、ピエール・アルバート・ビロット、ポール・ダルメ、セリーヌ・アルノー、フランシス・ピカビア、トリスタン・ツァラ、ジュゼッペ·ウンガレッティ、ピエール・ルベルティ、マルセル・アーランド、ジョセフ・デルテイユ、ジャン・パンルヴェ、ロベール・ドローネーなどのメンバーで構成されていた。
もう一つはアンドレ・ブルトンをリーダーとしたグループで、ルイ・アラゴン、ロバート・デスノス、ポール・エリュアール、ジャック・バロン、ジャック=アンドレ・ボワファール、ジャン・カリヴェ、ルネ・クルヴェル、ジョルジュ・マーキンなどのメンバーで構成されていた。
イヴァン・ゴルは、1924年10月1日に『シュルレアリスム宣言』を、ゴルの最初で最後の雑誌『シュルレアリスム』に発表した。ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表する10月15日の二週間前に発表されている。
ゴルとブルトンははっきりと対立しており、”シュルレアリスム”という言葉の定義、ただ一点において論争をしていた。結果としてブルトンは、そのかけひきのうまさと多数決でゴルとの派閥闘争に勝利することになる。
シュルレアリスムの定義に対する優先権に関する争いはブルトンの勝利で終わったものの、その瞬間からシュルレアリスムの歴史は、個々のシュルレアリストが独自の見解を持つたびにブルトンの怒りを買うことになり、メンバーの分裂、離脱、破門が行われるようになる。悪評高いブルトン独裁の始まりである。
なお、ブルトンはシュルレアリスムの目的を定義した1924年版にマニフェストを作成した。そこにはシュルレアリスムへの影響のこと、シュルレアリスム作品の実例、自動記述に関することなどが書かれていた。ブルトンはシュルレアリスムを次のように定義した。
Dictionary:シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。
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シュルレアリスム研究所の設立
『シュルレアリスム研究所』は、パリのグルネル通り15番地に設立されたシュルレアリスム作家や画家たちが集まる場所。1924年10月11日開設。
開設後最初の4日間は10月15日に射手座出版から刊行したブルトンの『シュルレアリスム宣言』の出版作業に追われた。その後、12月に機関紙『シュルレアリスム革命』の出版活動を行う。
また、シュルレアリストたちが会合したり、議論したり、インタビューを行ったり、またトランス状態でのスピーチなどの実験などが行われた。
機関誌『シュルレアリスム革命』
最初の『シュルレアリスム宣言』が出版されてすぐに、シュルレアリストは シュルレアリスム情報誌『シュルレアリム革命』を創刊した。発行は1929年まで続いた。初代編集長は、ナヴェルとペレで、その雑誌は老舗の科学情報誌『自然』をモデルにして編集された。
内容は一貫してスキャンダラスであり、革命的であり、そして刺激的なものであり、シュルレアリストたちを興奮させた。
初期において中心的に扱われていたのは詩人だったが、ジョルジュ・デ・キリコ、マン・レイ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソンなどシュルレアリスム要素のある画家の作品も次第に誌面で紹介されるようになった。
シュルレアリスム運動の拡大
1920年代中ごろのシュルレアリスム運動はカフェでの会合が中心だった。そこでシュルレアリストたちはドローイングのコラボレーション(優雅な屍体)を行ったり、シュルレアリスムの理論について論議を行い、またオートマティック絵画のようなさまざまな技法を発明した。
ブルトンは当初、視覚絵画に偶然の発見やオートマティスムへの順応性があるとほとんど思えなかったので、視覚絵画がシュルレアリスム運動に役立つ可能性があることを疑っていた。しかし、この問題はフロッタージュやデカルコマニーのような技法の発見によって解決した。
視覚絵画でシュルレアリスムが利用できると、運動に多くの画家が参加するようになる。ジョルジュ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、フランシス・ピカビア、イブ・タンギー、サルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、アルベルト・ジャコメッティ、バレンタイン・ユゴー、メレット・オッペンハイム、トワイヤン、山本悍右などが参加する。
また、ブルトンはパブロ・ピカソやマルセル・デュシャンなどもシュルレアリストとして称賛し、運動に参加することを促したが、彼らは直接参加せず、その周辺に距離を置いた状態で運動と関わり続けた。そのほかにはトリスタン・ツァラ、ルネ・シャア、ジョルジュ・サドゥールなどかつてのダダイストたちも参加した。
1925年に、パリグループとは別にベルギーのブリュッセルで、自律的なシュルレアリスムグループが結成された。そのグループには、エドゥアール=レオン=テオドール・メゼンス、ルネ・マグリット、ポール・ノーギュ、マルセル・ルコント、アンドレ・スリスなどが参加していた。
1927年には、ルイ・スキュトネールがブリュッセル・グループに参加。彼らは定期的にパリ・グループと接触していた。1927年にはギーマスやマグリットがパリに移動し、ブルトンのシュルレアリスム運動に参加する。
シュルレアリスムのルーツはダダ、キュビスム、カンディンスキーのような抽象絵画、表現主義、後期印象派、ヒエロニムス・ボス、原始的で素朴なプリミティブ絵画やアニミズム絵画まで含まれるといわれる。
1923年のアンドレ・マッソンのオートマティスム絵画は、無意識の考えを反映させた作品で、視覚美術がシュルレアリスムにも適用可能であることを証明された作品である。さらに、ナンセンスな表現のダダとシュルレアリスムを明確に区別する絵画として挙げられる作品である。
ほかの例でいえば、1925年のアルベルト・ジャコメッティの作品『Torso』は、彼の動作をシンプルに表現したものとして重要なもので、それは原始彫刻からインスピレーションを得て制作された。
しかしながら、美術の専門家のあいだで、ダダとシュルレアリスムを分別する決定的な作品として紹介されるのは、1927年作『The Kiss』と認識されている。ダダ時代は『Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person』(1919−1920)のようにエロティックな主題とかけ離れていたが、
『The Kiss』から公に直接的なエロティシズムな表現となっている。この作品では流水のように曲りくねる線や色からミロやピカソのドローイングからの影響があることが見て取れる。
ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画は、シュルレアリスムの理論と視覚絵画の関係を位置づけた重要なものである。1913年の『赤い塔』は、際立った色の対比を示したもので、のちに多くのシュルレアリトに影響を与えた。キリコはダリやマグリットにかなり影響を与えたものの、自身は1928年にシュルレアリムのグループから離れた。
1924年に、ミロとマッソンは絵画にシュルレアリスムを導入し始める。最初のシュルレアリスムの個展『ラ・パンテュール』は、1925年にパリのピエール画廊で開かれた。そこではアンドレ・マッソン、マン・レイ、パウル・クレー、ジョアン・ミロなどの作品が展示された。
この展示でシュルレアリスムは視覚絵画においても適用できることが確認され、フォトモンタージュを利用したものなど、従来のダダイスムの表現技法をシュルレアリスムが継承していることも確認された。
1926年5月26日には「シュルレアリスム画廊」が開設。マン・レイの個展が開催された。ブルトンは1960年代までシュルレアリスム運動を発展させ続けたが、1928年にシュルレアリスム運動の重要点をまとめた『シュルレアリスム絵画』を出版。晩年の1960年代まで内容は更新され続けた。
シュルレアリスム文学
テキストにおける最初のシュルレアリスム作品は、『文学』誌に掲載されたブルトンによるオートマティック作品『磁場』である。オートマティック文書においては、本来の字義上の意味は剥奪され、その言葉は詩的で、小さな声に変化する。
ただ、詩的性を強調するだけでなく、本来のビジュアルイメージから関連付けられている言葉の意味を無効化させる。この作用はマグリット作品「イメージと裏切り」などで応用表現されている。これは語と意味とを意識的に切断して言葉をオブジェ化するツアラの思想とは異なる。また統辞法の破壊してオノマトペ(擬音語)化するマリネティの思想とも異なる。
それは、天体が別の天体の影に隠されるように「書く主体」が一時的に消滅することである。この消滅後に立ち現れる精神の風景を言葉で写しとることがオートマティスムの目的である。「書く」という「主体的」な行為から意識的な表現(私)を追放しようとしたのがブルトンのオートマティスムで、それは写真に近いものである。「モノ・オブジェとしての言葉」がダダイスムの主張であるなら、シュルレアリスムは「無意識のイメージとしての語」を主張している。
本来の字義上の意味から逸脱した文書のため、シュルレアリスムのテキスト作品の多くは、作者が表現する思考やイメージで構成された内容から、意味を解析するのはほとんど無理である。
シュルレアリスム映画
・ルネ・クレール『幕間』(1924年)
・ジェルメーヌ・デュラック/アントナン・アルトー『貝殻と牧師』(1928年)
・マン・レイ『ヒトデ』(1928年)
・ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ『アンダルシアの犬』(1929年)
・ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ『黄金時代』(1930年)
・ジャン・コクトー『詩人の血』(1930年)
シュルレアリスム演劇
シュルレアリスムという言葉は、最初、ギヨーム・アポリネール原作で1917年に上演された演劇「ティレジアスの乳房」で使われ、のちにフランシス・プーランクによってオペラへと発展した。
初期のシュルレアリストの1人、アントナン・アルトーは、西洋演劇の大部分を否定し、演劇は神秘的であり、形而上学的な経験であるべきと思い前衛的な演劇スタイルを模索。アルトーは理性的な談話は「虚偽と幻想」から成り立つと考えてた。即興的で直接的な新しい演劇スタイルを導入することで、出演者の観客の無意識を揺さぶるとアルトーは考え、アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である”残酷劇”を提唱した。アルトーはその後の現代演劇に大きな影響を与えた1人である。
ほかに劇場でシュルレアリスムの実験をしていた重要なアーティストとしては、スペイン人劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカである。特に『共和国』(1930年)、『5年間』(1931年)、『無題の演劇』(1935年)が重要である。ほかのシュルレアリスム劇作家としてはアラゴンの『壁に戻れ』(1925年)やロジャー・ヴィトラックの『神秘的な愛』(1927年)、またガートルード・スタインの『点滅する言葉』(1938年)は、「アメリカン・シュルレアリスム」を表現した。
シュルレアリスム音楽
1920年代に何人かの作曲言えはシュルレアリスムに影響を受けている。ボフスラフ・マルティヌー、アンドレ・スーリー、エドガー・ヴァレーズなどが代表的な人物で、ヴァレーズの「アルカナ」は夢のようなシーケンスで作曲されている。スーリーは直接シュルレアリスム・ムーブメントに参加もしており、彼は特にマグリットと親しく、またポール・ナッシュとコラボレーション活動をしていた。
20世紀前半にフランスで活躍した作曲家集団「フランス6人組」のジェルメーヌ・タイユフェールは、シュルレアリスムから影響を受けたとみなされる作品をいくつか作っている。1948年のバレエ音楽《魔術師パリ Paris-Magie》、《小さなシレーヌ La Petite Sirène》、《教師 Le Maître》などが代表的な作品である。タイユフェールはまたクラウド・メルシ作詞による大衆音楽を作曲しているが、メルシの夫のアンリ・ジェイソンは1930年代にマグリットによってポートレイトを制作されている。
1946年にブルトンは、エッセイで音楽をシュルレアリスムの対象にすることに関してはむしろネガティブな意見を書いているけども、のちに、ポール・ガロンのようなシュルレアリストは、ジャズやブルースにおける即興音楽はシュルレアリスムの延長線上にあるということで、関心を示している。
一方、ジャズやブルースのミュージシャンたちもシュルレアリスムに関心を示しており、例えば、1976年の「世界シュルレアリスム展覧会」では、デビッド・ハニーボーイ・エドワーズによるパフォーマンスが披露されている。
政治とシュルレアリスム
社会変革を目指したシュルレアリスム運動は地域によってむらがあった。芸術的な実践を強調する場所もあれば、社会変革を目指す場所もあり、芸術と政治の両方を実践する場所もあった。
政治的にシュルレアリスムはトロツキスト、コミュニスト、アナーキストのどれかだった。ダダの分裂はアナーキストのコミュニストの思想的分裂ともいえる。ダダイスムはアナーキストだったが、シュルレアリスムはコミュニストだった。
ブルトンとその仲間たちは、一時期、レオン・トロツキーと国際左翼同盟をサポートしていた。特に政治思想が強いシュルレアリストは、ベンジャミン・ペレ、メアリー・ロウ、ジュアン・ブロウで、彼らは共産党に入党して活動を行なった。スペイン市民戦争の際には、マルクス主義統一労働者党に参加して戦った。
ウォルフガング・パレーンはメキシコでトロツキーが暗殺されたあと、反超現実的芸術雑誌『DYN』をメキシコで刊行し、芸術と政治の分離を提唱し、また抽象表現主義の基盤を準備も行った。
ダリは資本主義やフランコ独裁によるファシズムを支持し、共産主義者ではなかった。実際、ダリはブルトンとその仲間から裏切り者と見なされていた。
しかし、ブルトンのグループは、1920年代後半における共産党との思想の軋轢で見られるように、暴力的なプロレタリア闘争を優先することに対して反対していた。政治思想の異なりはシュルレアリスム内で分裂を起こした。たとえば、ルイ・アラゴンは芸術よりも政治活動を優先させるようになり、シュルレアリム・グループから離れた。
シュルレアリストは多くの場合、政治理念と彼らの芸術活動を連関させようとしてきた。1925年1月27日のマニフェストでは、パリを基盤に活動していた『シュルレアリスム研究所』の会員(アンドレ・ブルトン、ルイス・アラゴン、アントナン・アルトーなど)は、革命的政治に対する親密性を宣言していた。また1930年代になると、ルネ・マグリットをはじめ、多くのシュルレアリストが、自身が共産主義であることを明確に主張していた。
シュルレアリスムと共産党の結びつきを現す最も重要な文書が『自由のための革命芸術宣言』である。これはブルトンとディエゴ・リベラの共著として出版されたものだったが、実際にはブルトンとトロツキーとの共著だった。
1925年に、パリのシュルレアリスム・グループはフランス共産党を離脱し、フランス領モロッコにおけるフランスアブド・エル・クリムの氾濫を支援した。
1938年にアンドレ・ブルトンは妻のジャクリーヌ・ランバとメキシコ旅行をした際にトロツキーと会合した。
シュルレアリスム黄金期
1930年代を通じてシュルレアリスムは、美術業界のみならず広く一般大衆にも目が届くぐらいに運動を拡大していった。特にイギリスにおいては独自のシュルレアリスム・グループ「ブリティッシュ・シュルレアリスム・グループ」が創設され、発展した。ブルトンによれば、1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」は最高水準の国際展覧会となり、その後の現代美術における国際展覧会のモデルともなった。
ダリとマグリットの作品は、おもにシュルレアリスムを代表する絵画として一般的に認識されるようになった。ダリは1929年にシュルレアリスム運動に参加し、1930年から1935年の間に急速に独自のスタイル「編集法的批判的方法」を確立した。
1931年は、何人かのシュルレアリスム画家が、自らの絵画スタイルの発展や変革となったターニングポイントとなる年である。マグリットの場合は3つの大きな球体が浮遊する『空間の声』だったり、イヴ・タンギーにおいては溶解や液体形状が『岬の宮殿』がターニングポイントとなる作品だったりする。ダリは後に自身のトレードマークとなる『記憶の固執』をこの年に発表している。
1930年と1933年に、パリのシュルレアリスムグループは、機関誌『シュルレアリスム革命』の後継誌として、定期的に『革命に奉仕するシュルレアリスム革命』を発行する。
1936年から1938年の間、ヴォルフガング・パーレン、ゴードン・オンスロー・フォード、ロベルト・マッタらが、シュルレアリスムグループに参加。パレーンはフュマージュという技法、オンスロー・フォードは新型のオートマティスムを発明した。
この頃からシュルレアリスムは、個人的な問題、政治的な問題、理論的な問題などさまざまな面で、リーダーのブルトンとシュルレアリスムメンバーとの間で軋轢が増え始め、分裂して細分化されていく。
また、1930年代におけるシュルレアリスム作品の重要なコレクターとなるのが、後のマックス・エルンストの妻となるペギー・グッゲンハイムである。彼女は作品を収集するだけでなく、エルンストをはじめ、イヴ・タンギーやイギリスの芸術家ジョン・タナードなど、シュルレアリスム作家たちのプロモーション活動やギャラリー経営なども行った。
ほかに重要なコレクターとしてはイギリスの大富豪エドワード・ジェームズが挙げられる。彼はダリやマグリットをはじめ、数多くのシュルレアリストの作品を買い集め、生活を支えた。
1930年代の主要展覧会
・1936年:「ロンドン国際シュルレアリスム展」は美術史家ハーバード・リードによって企画され、アンドレ・ブルトンによって展示構成が行われた。
・1936年:ニューヨーク近代美術館は「幻想芸術 ダダとシュルレアリスム」という展覧会を開催。
・1938年:パリのボザールギャラリーで「国際シュルレアリスム展」が開催。この展覧会では世界中の国から60以上のアーティストが参加し、300以上の絵画、オブジェ、コラージュ、写真、インスタレーションが展示された。
シュルレアリストたちは、展覧会自体が創造的行為となるようなものにしようと、マルセル・デュシャンやヴォルフガング・パーレンやマン・レイなど多くの芸術家が招待された。
展覧会場の入口にはサルバドール・ダリの『雨降りタクシー』が設置され、ロビー横にはさまざまなシュルレアリストによってドレスアップされたマネキンが設置。
メインホールはパーレンとデュシャンが設計。湿気の多い葉や泥で覆われた床と石炭火鉢の上に天井から1200の石炭袋が吊り下げられ、まるで地下洞窟のようで、コレクターたちは懐中電灯を手にして美術を鑑賞することとなった。ウォルフガング・パーレンの部屋では草で小さな湖を作り、コーヒー焙煎の香りが充満していた。シュルレアリストたちは大変満足したが、鑑賞者は大いに憤慨した展覧会となった。
この国際シュルレアリスム展の展示は、インスタレーションや現代美術的な展示の先駆けとみなされている。
第二次世界大戦以後
第二次世界大戦はヨーロッパの一般庶民だけでなく、特にファシズムやナチズムに反対したヨーロッパの美術家や作家たちにも被害は及んだ。多くの重要なアーティストは北アメリカに逃亡。アメリカは相対的に安全性が高かったためである。
ニューヨークのシュルレアリスムコミュニティでは、アーシル・ゴーキー、ジャクソン・ポロック、ロバート・マザウェルなど、後のアメリカ現代美術を支える多くのアーティストが、逃亡したシュルレアリスムと接触していた。
芸術家たちはシュルレアリスムの無意識や夢の理論を受け入れ、ペギー・グッゲンハイム、レオ・スタインバーグ、クレメント・グリーンバークといったコレクターや美術批評家たちが、第二次世界大戦後のアメリカの美術の方向を抽象表現主義へ向かわせた。
抽象表現自体は、第二次世界大戦時に亡命してきたヨーロッパのシュルレアリストとアメリカ(特にニューヨーク)の芸術家たちが直接的に会合した中から発展したものである。特にゴーキーやパレーンのアメリカ美術の影響は大きい。ポップ・アートさえも、シュルレアリスムはアメリカ美術の急速な発展において最も重要な影響を与えてた事がわかる。
なおグリーンバーグはダリには批判的だった。その理由はほかの作家がメディウムにインスピレーションを得ているのに対し、ダリの関心ごとは意識の過程と概念を表象することであって、自分のメディウムの過程を表象することではなかったためである。
第二次世界大戦は、ほぼすべての知的、芸術的生産物に影を落とした。1939年にウォルフガング・パーレンはパリを去り、新しい世界へ亡命。イギリス領コロンビアの森の中を長期間旅した後、メキシコに移住して前衛美術雑誌『Dyn』を発刊。1940年にイヴ・タンギーはアメリカのシュルレアリスム画家ケイ・セージと結婚し、アメリカへ移住。ブルトンは1941年にアメリカへ亡命した。
フランスから亡命してきたシュルレアリストの多くはグリニッチ・ヴィレッジに滞在した。アメリカでシュルレアリスムの概念や運動を定着させようと、さまざまな試みが行われた。ひとつは雑誌による喧伝である。
シュルレアリスムに共感していたチャールズ・ヘンリ・フォードが編集していた雑誌『ヴュー』41年10−11月号では、ニコラス・カラス編集によるシュルレアリスム特集が組まれた。デュシャン、エルンスト、タンギーの作品が紹介され、ブルトンへのインタビューが掲載された。42年5月号は「タンギー特集」となった。
ブルトン自身がアメリカでシュルレアリスム中心の雑誌の発刊を始めた。エルンストがデザインした表紙『ⅤⅤⅤ』誌が1942年6月に刊行。ディヴィッド・ヘアを編集者として、ブルトンとエルンストが特別顧問として関わったが、実質的な編集権はブルトンにあった。内容は詩、美術、人類学、社会学、心理学など広範な領域にまたがるもので、ちょうど『ミノトール』のアメリカ版といってよいだろう。
1940年代、シュルレアリスムの影響は特にイギリスやアメリカで大きかった。マーク・ロスコはイブ・タンギーの有機的形態造形に影響を受けているように見える。ヘンリー・ムーア、ルシアン・フロイド、フランシス・ベーコン、ポール・ナッシュは、実際にシュルレアリスムの技法を実験的に使っていた。
イギリス人シュルレアリストの1人であるコンロイ・マドックスはシュルレアリスムの技法を使い続け、1978年の個展でシュルレアリスム作品を展示した。『無制限のシュルレアリスム』というタイトルでパリで開催されたマドックスの個展は、国際的に注目を集めた。彼の最後の個展は2002年で、その年に亡くなった。
マグリット作品は、実際のオブジェクトの描写において、より写実的な技巧に発展しつつ、1954年の『光の帝国』や1951年の『個人的価値』のようなデペイズマン的手法を使い続けた。彼の作品はダリ同様にポップ・カルチャーに大きな影響を与えた。またマグリットは、芸術的な語彙の入った作品や、「ピレネーの城」のような浮遊する物体の風景画を描き続けた。
1940,50,60年代の主要展覧会
1942年:「ファースト・ペイパーズ・オブ・シュルレアリスム」展(ニューヨーク):シュルレアリストたちは再びデュシャンに展示デザイナーを依頼。今回デュシャンは、部屋のスペース全体に糸を蜘蛛の巣のように張り巡らした。張り巡らされた糸は、展示された作品に鑑賞者が近づくことを防ぎ、糸の蜘蛛の巣を通して覗き見るしかけとなる。オープニングではシドニー・ジャニスの11歳の娘キャロルがその友達と会場でボール遊びに興じるイベントがあり、ボール遊びによって鑑賞者は作品への接近を阻まれた。
1947年:「国際シュルレアリスム展」(パリ、マーグ画廊)
1959年:「国際シュルレアリスム展」(パリ)
1960年:「魔術師の領域へのシュルレアリスムの闖入展」(ニューヨーク)
ブルトン死後のシュルレアリム
シュルレアリスムの終焉についてははっきりしていない。美術史家のなかには第二次世界大戦による芸術家たちの離散がはっきりとシュルレアリスム運動を終わらせたというものもいる。しかし、第二次世界大戦による芸術家の離散は、逆に世界各地に新たなシュルレアリスムの種を蒔いたという意見も多い。
美術史家サラーヌ・アレクサンドリアは「1966年のアンドレ・ブルトンの死が、組織化された形でのシュルレアリスム運動の終焉」と話している。ほかに、1989年のサルバドール・ダリの死をシュルレアリスム運動の終焉と結びつけるものもいる。
■共産圏
1960年代、左翼周辺に集っていた画家や作家たちは、綿密にシュルレアリスムと結びついてた。ギー・ドゥボールはシュルレアリスムから離れたが、アスガー・ヨルンをはじめ、多くはシュルレアリスムの技術や方法をはっきりと使っていた。
1968年のフランスの五月革命において、そのスローガンの中には多くののシュルレアリスムのアイデアが含まれており、ソルボンヌの壁にスプレーで落書きをした学生たちの方法はシュルレアリスムの方法とよく似ている。ジョアン・ミロは「1968年5月」という題の絵画を記念的に制作している。
ヨーロッパをはじめ全世界中において、1960年代から今日にいたるまで芸術家は、16世紀の卵テンペラや油絵具をミックスさせたような方法、「mischtechnik」と呼ばれる16世紀古典絵画の絵画技法と考えられるものとシュルレアリスムを組み合わせて絵を描いている。この絵画技法についてサンフランシスコ現代美術館のキュレーターであるミヒャエル・ベルが「バーリスティック・シュルレアリスム」と名づけている。代表的な作家はサルバドール・ダリやルネ・マグリットで、夢の世界を古典的な絵画技法をもって緻密に表現する方法である。
1980年代の間、「鉄のカーテン」を背景として、シュルレアリスムは再び「オレンジ・オルタナティブ」として知られる地下芸術抗議運動とともに政治の中に組み込まれていった。オレンジ・オルタナティブは、1981年にポーランドのワルシャワ大学で歴史学科を卒業したバールデマー・フィドリッチで創設した政治政党である。オレンジ・オルタナティブは、ヤルゼルスキ政権時において、ポーランドの主要都市において組織された大規模なデモ時に、シュルレアリスムの象徴や用語を使ったり、政権に対する抗議を壁にシュルレアリスム風に落書きして表現していた。
■フランス文学
現代フランス文学で、シュルレアリスムの存在を避けて通るわけにはいかない。イーヴ・ボンヌフォワ、ジョエ・ボスケ、ルネ・シャール、ジャック・プレヴェール、ジャン・タルディウのような詩人たち、ジョルジュ・シュアーデ、ロジェ・ヴィトラックのような劇作家、ジョルジュ・バタイユ、アラン・ジュフロワ、ミッシェル・レリス、レイモン・クノオのような著述家たち、モーリス・ブランショやロジェ・カイヨワのような批評家に影響をおよぼした。
フランス以外では、戦前にはブリュッセル、ロンドン、プラハ、ベオグラード、東京のグループの結成が、世界的に広げた。戦後にはことにラテン・アメリカに広がり、鉄のカーテンの下をはうつる草だった。
■戦後アメリカ文化とシュルレアリスムの影響
1940年初頭のアメリカ合衆国では、亡命シュルレアリスト画家たちが、ニューヨーク抽象表現派に決定的な影響を与えた。ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、マーク・ロスコ、アンディ・ウォーホルといった抽象表現主義からポップ・アートにかけてのアメリカ現代美術家は確実にシュルレアリスムの影響を受けている。抽象表現主義はオートマティスム系、ポップ・アートはデペイズマン系の流れを組む。
シュルレアリストの衝撃的な感覚は、ユーモア、映画、アール・ヌーヴォーの礼賛、アサンブラージュや発見されたオブジェ、シュルレアリスム的で、思わせぶりなエロティシズム、『ローズ・セラヴィ』もどきのアクロバット的な語呂あわせの店頭装飾や広告に、表れている。
特にアメリカ西海岸のヒッピー・ムーブメントにともなって発生したドラッグ文化やサイケデリック文化にシュルレアリスム表現が明確に見られる。シュルレアリスム的感覚は受け継がれていった。これがその後、ロウブロウ・ポップシュルレアリスムや日本におけるアングラ文化にもへつながっている。
ヒッピー・ムーブメント直後に発生したアレハンドロ・ホドロフスキーやデビッド・リンチなどのアメリカのミッドナイト・カルト・ムービーにもシュルレアリスムの遺伝子は確実に受け継がれている。映像に関していえばほかに、共産圏のアート・アニメーションにシュルレアリスム的感覚は受け継がれていいる。「エイリアン」のデザインで知られるH.R.ギーガーはダリから直接影響を受けている。
■拡散と卑俗化するシュルレアリスム
シュルレアリスムの現代の意識は、思いつくままにあげれば、ほかにもナンセンス詩、エロティック・アート、ポルノグラフィ、子どもと狂人の創造力、幻想芸術のながい伝統などが挙げられきりがない。シュルレアリスムの伝搬の成功は、一方でとてつもなく希薄化し、また教義がひどく卑俗化した。シュルレアリスムはあまりにも拡散し、曖昧になりすぎて、わけがわからなくなったのである。シュルレアリスムの表層・うわべな部分がとりあげられて、剽窃されたのである。シュルレアリスムの技法がコンテクストとはなれて取りあげられ、勝手に使われてきたのである。シュルレアリスムが手段から目的に変化した。
シュルレアリスム本来の目的は「生活を変える」ことである。シュルレアリスムは「生活を変える」きっかけとなる手段であり目的ではない。シュルレアリスムはフロイトの心理療法を下敷きにしたものであり、生活と芸術を一体化することを目的としたアール・ヌーヴォの思想にちかいものである。
しかし、現在のシュルレアリスムは教養ある金持ちの消費のための贅沢品となり、美術館向きの展示作品になり代わり、過剰なまでの回顧展や学位論文が刊行されている。これらは歴史的現象となっている常識を証明するが、シュルレアリスム本来の意向とはほとんど関係がない。元々、ファインアートにおけるB級アートとして始まったシュルレアリスム。もう一度、現代におけるシュルレアリスムの遺伝子を新たに発見し、再編集してみてはいかがだろうか。
日本とシュルレアリスム
日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が紹介しはじめたといわれる。
絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、1928年3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号である。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。
日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。 ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。
1930年6月、このブルトンの著作「シュルレアリスムと絵画」の日本語訳が、瀧口修造の翻訳によって出版される。日本で刊行された翻訳書がシュルレアリスム絵画のイメージを広めるのに、大きな貢献をした。瀧口は自身も自動記述系のシュルレアリストであったことから、特にジョアン・ミロなどの自動記述系の芸術家を中心に彼のシュルレアリスム美術論を展開していった。
ほかに日本でシュルレアリスム絵画のイメージを広めた人物では澁澤龍彦が挙げられる。澁澤龍彦は瀧口とちがって、ポール・デルヴォーやダリなど、デペイズマン系の芸術家を中心にシュルレアリスム美術論を展開した人物である。また、ハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ、マックス・ワルター・スワンベルクのような傍流のシュルレアリストたちも紹介した。
澁澤のほうが瀧口よりも一般大衆に広く読まれており、特にサブカルチャーにおいてその影響も大きい。
※日本とシュルレアリムに関してはこちらのページで今後更新していく予定。
シュルレアリスム簡易名鑑
・ルイ・アラゴン
1897年パリに生まれる。詩人、エッセイスト、小説家にしてジャーナリスト。医学生だったが言語の才を発揮。パリのダダ運動に参加してのち、ブルトンやエリュアールらとともにシュルレアリスムの中心人物のひとりとなり、『パリの農夫』(1926年)、『文体論』(28年)など多くの重要な作品を発表。機関紙「文学」「シュルレアリスム革命」の時代を通じて活躍したが、32年には共産党に転じ、82年に亡くなるまで党を代表する作家だった。
1896年マルセーユ生まれ、1948年にイヴリーで没する。詩人、演劇理論家、俳優にして演出家。24年にシュルレアリスム運動に加わり、シュルレアリスム研究センターの所長となる。「シュルレアリスム革命」誌上でも活躍したが、彼の代表作はむしろのちに孤立してから書かれたもので、どんな流派の影響もうけていない。麻薬と「残酷」演劇、絶対と陶酔の探究のはてに、その内的体験は彼を狂気へとおいやった。精神病院でデッサンもこころみる。
・ジャン・アルプ
1887年ストラスブールに生まれる。詩人、画家、彫刻家。1913年にケルンでエルンストと出会う。16年、ツァラとともにチューリヒでダダ運動をおこし、19年にはエルンスト、バールゲルトとケルン・ダダで活躍。22年パリに移り、シュルレアリスム運動に参加。25年には最初のシュルレアリスム展に出品(キリコ、エルンスト、クレー、マン・レイ、マッソン、ミロ、ピカソらが加わる)。以来、その作品は現代芸術の原動力のひとつである。66年没。
・ピエール・アレンシスキー
1927年ブリュッセルに生まれる。ベルギーの画家、作家。49年から51年まで、デンマークやベルギーを中心とする芸術家集団「コブラ」を指揮。60年代に入ってからシュルレアリスム運動に参加。彼の絵は表現主義とオートマティックな線描との接点にある。
・モーリス・アンリ
1909年カンブレーに生まれる。ドーマル、ジルベール・ルコント、シマとともに「多いなる賭」の擬似的シュルレアリスム運動に参加。つづいて32年から51年まで、シュルレアリストと交流する。画家、オブジェ作家、素描家であり、マンガのなかにシュルレアリスムを導入した。84年没。
・ジャック・ヴァシェ
1896年パリに生まれ、1919年ナントで自殺。16年、アンドレ・ブルトンはナントの病院で彼と出会い、決定的な感化をうけた。その間の事情はブルトンの『失われた足あと』に詳しい。事故とも自殺ともつかぬその死は、シュルレアリストたちのあいだで一種の英雄伝説に仕立てられた。
・ロジェ・ヴィトラック
1899年ロートのパンカスに生まれ、1952年にパリで没。詩人にして劇作家であり、22年に「文学」誌に加わる。彼は『ヴィクトルあるいは権力下の子どもたち』『トラファルガー決戦』『わが父のサーベル』などにおいて、シュルレアリスム固有のユーモアを演劇に導入している。28年ごろ脱退、のちにバタイユに協力。
・ジョルジュ・エナン
1914年カイロに生まれる。エジプトの詩人。パリに出てシュルレアリスムのグループに加わり、エジプトにもどってから運動をこころみる。48年にカイロでシュルレアリスム雑誌「砂の分け前」を創刊したが、翌年には手をひく。
・ポール・エリアール
本名ウジェーヌ・グランデル。1895年にサン・ドゥニで生まれ、1952年にパリで死す。ブルトンおよびアラゴンとともに、「文学」から「シュルレアリスム革命」にいたるところ、シュルレアリスム運動の指導的グループを形成して活動し、またシュルレアリスムにおける最大の詩人のひとりとみなされもした。エルンストなどの画家たちとの関係も重要で、『見せる』(39年)のような美術論・詩集がある。38年ごろにグループをはなれてコミュニストたちに再接近し、第二次大戦中は抵抗運動に参加。共産党では旧友アラゴンと再会している。
・リヒアルト・エルツェ
1900年ドイツのマグデブルクに生まれ、21年から26年まで、ワイマールのバウハウスで活動。32年にパリでシュルレアリストたちとまじわり、大戦前にスイスへ移ったが、のちにまたドイツにもどる。人間に似た形態をもつ生命体のような風景を描くその作品は、エルンストの作品とともに、ドイツの生んだ力強いシュルレアリスムの表現となっている。
1891年ドイツ・ラインラントのブリュールに生まれる。1913年にベルリンで秋季展に出品し、ケルンでアルプに会う。のちにアルプ、バールゲルトとともにケルン・ダダを創始。21年、彼のコラージュははじめてパリに送られ、未来のシュルレアリストたちに霊感をあたえた。翌年パリに出てパリに出て定住し、ブルトン、デスノス、エリュアール、ペレ、クルヴェルらとともに、「眠り」による「自動記述」の最初の実験をおこなう。画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。『絵画の彼方』(37年)など、シュルレアリスムの絵画論を代表する著述もある。その変幻自在の幻想的な作品には、「コラージュ」や「フロッタージュ」をはじめ、自身の発明になる多くの新手法が用いられている。また偶然の作用にかんする彼の熱心な読解作業は、かつてのロマン派がこころみた諸探究を、もっとも現代的な心理学的方法にむすびつけたものである。大戦中ニューヨークよアリゾナに住んだが、のちパリおよびセイヤンにもどり、76年に没。
・ジャック・エロルド
1910年ルーマニアのピアトラに生まれる。30年からパリにあって、34年以後は断続的にシュルレアリスムに参加。「結晶」ないしは鉱物的構造と、雲や焔の戯れとを交錯させる彼の絵は、こんにちシュルレアリスムの「驚異」がもたらしたもっとも豊かで力強い成果のひとつとなっている。87年にパリで死す。
・エドガー・エンデ
1901年ハンブルクのアルトナに生まれる。画家。ミュンヘンで制作、31年以後同地に住み、ドイツ・シュルレアリスムの一角を占める。作家ミヒャエル・エンデはその息子である。
1913年ベルリンに生まれ、スイスに住む。画家、オブジェ作業としてシュルレアリスムに参加。行動の自由さを創意に富む性格によって、生活においても芸術においても、もっとも完全な「女性のシュルレアリスト」のひとりであった。85年に没。
・ロジェ・カイヨワ
1913年ランスに生まれる。詩人、批評家。初期には「大いなる賭」のメンバーと交流、32年にブルトンと出会い、シュルレアリスム機関誌に寄稿する。のちにバタイユと接近し、人類学的研究をおこなう。幻想文学・美術の専門家となるが、その理論にはシュルレアリスムと相容れぬ一種の古典主義傾向がある。78年に没。
1917年にロンドンの上流階級の令嬢として生まれる。作家、画家。感受性ゆたかに幻想的な妖精世界をくりひろげる彼女の作品は、生来シュルレアリスムの要求に合致しているものだろう。パリに出てエルンストの妻となったが、大戦中に別離を強いられ、スペインの精神病院へ。その後、メキシコに住んで活動を続けている。
・アレクサンダー・カルダー
1898年フィラデルフィアに生まれる。彫刻家。パリで絵を学び、針金で「サーカス」の連作を発表。1932年パリでオブジェ・モビールをはじめる。シュルレアリストとも交流。76年没。
メキシコの女性画家(1907-54)。父はハンガリー系ユダヤ人。母はスペイン人とインディオの混血。25年に交通事故にあい、後遺症を負う。療養中に絵を描きはじめ、強烈な土俗的幻想世界を展開。29年にディエゴ・リベラと結婚、37年には亡命中のトロツキーと、38年にはブルトンと知り合う。40年、メヒコ市でのシュルレアリスム国際展に出品した。
1888年ギリシアのヴォロスに生まれる。アーケードや柱廊、謎、人体模型、形而上的風景の画家。カルロ・カッラとともにパリで「形而上絵画」を提唱してアポリネールに認められ、のちにブルトンやエリュアールの熱烈な称賛をうける。エルンスト、マグリット、タンギーほか、シュルレアリストたちにあたえた影響は決定的なものがある。しかし1910年年代後半以後、彼の作品は霊感を喪失し、旧態依然たるアカデミズムへと埋没していったため、一種の幻滅を味わわせた。78年、ローマで没する。
・レーモン・クノー
1903年ルアーブルに生まれる。詩人、小説家、数学者、文献者にして哲学者。そn広範囲にわたる作品は、24年から29年までの間、シュルレアリスム運動に参加していた時期に着手されたものである。28年にはシャトー通りの住民のひとりだった。76年、パリで没。
・ジュリアン・グラック
本名ルイ・ポワリエ。1901年サン・フロラン・ル・ヴェエイユに生まれる。39年の処女作『アルゴルの城にて』において、暗黒小説の伝統とシュルレアリスムとの確固たる結合を示し、ブルトンの称賛をえた。47年ごろからシュルレアリストたちと交流したが、いわゆる運動には参加せず、むしろ孤立を守って着実な作家活動をつづけている。52年『シルトの岸辺』でゴンクール賞に推されたが、拒否。ある意味では、現存のもっともシュルレアリスム的な文章家ともいえる。
・ルネ・クルヴェル
1900年パリ生まれ。35年同地で自殺した。詩人、小説家、エッセイスト、パンフレット作者であり、シュルレアリスム運動の最初期の参加者のひとり。20年に心霊術の手ほどきをうけ、「眠りの時代」の発端を画する。早すぎた死のために彼の才能はじゅうぶんな開花を見たとはいいがたいが、この運動にはめずらしい同性愛者として、また哲学の研究者として、独自の思索、深い苦悩につらぬかれた作品群をのこしている。
1875年エナン・リエタール生まれ、1948年に死す。38年、63歳にしてはじめて絵を描きはじめた霊媒画家。彼の緻密な「不思議絵画」は、ブルトンをはじめとするシュルレアリストたちを感嘆せしめた。
・アーシル・ゴーキー
1905年アルメニアのホルコム・ヴァリに生まれる。表現派的傾向のある画家だが、ニューヨークでマッタやブルトンと会い、彼らから影響をうけた。彼の絵は多感な個性と悲劇的な生活の表現ともいえる。48年、苦悩のはてに絞首自殺。
・ジョルジュ・サドゥール
1904年生まれ。ナンシーでティリヨンらと交流、ともにパリへ出てシャトー通りに住み、シュルレアリスムのグループに加わる。29年、兵学校の生徒を公然と侮辱したため投獄されそうになる。それを逃れるためもあって、アラゴンとハリコフの作家会議へ。その後グループを離れ、映画史の領域で精力的な仕事をする。67年没。
・ジョゼフ・シマ
1891年プラハに生まれる。「大いなる賭」グループの芸術面での代表者。神秘主義的発送をもつ彼の絵は、瞑想の実践から生まれた内的生活の啓示を表現している。
1901年グリゾン(スイス)のスタンパに生まれる。29年、まず離教派シュルレアリストたち(バタイユ、レーリス、ランブール、マッソン、ヴィトラック)とまじわり、ついで31年から34年にかけて、ブルトンら公認の「グループ」に接近。その後は孤立しながらも、彼の作品は世界的な名声を得ている。シュルレアリスムのもっとも美しい彫刻、シュルレアリスムにおいて考えられるもっとも力強いオブジェは、彼のものであったといえるかもしれない。66年死去。
・マルコルム・ド・シャザル
1902年モーリシャス島のヴァコアスに生まれる。18世紀に移住したスウェーデンボリの弟子の後継で、彼自身もこの神秘思想家の影響を強くうけている。同島でひそかに活動していたが、47年、特異な散文集『サンス・プラスティック』によってブルトンに認められ、以来シュルレアリストと交流する。81年没。
・ルネ・シャール
1907年ヴォークリューズのリール・シュル・ソルグに生まれる。30年から37年まで運動に参加し、30年代におけるもっとも有力なシュルレアリスム詩人nひとりとなる。しかし、戦後の詩集に響いている深い歌声は、あらゆる限定をこばむものとなっている。88年に死去。
・マルセル・ジャン
1900年ラ・シャリテ・シュル・ロワールに生まれる。画家、詩人、批評家。パリに出て30年ごろからエルンストと交流。32年にシュルレアリスムのグループに加わり、「革命のためのシュルレアリスム」「ミノトール」誌に協力。戦後は「フロッタージュ・ポエム」などをこころみる。59年、ハンガリー人アルパード・メゼーと、『シュルレアリスム絵画の歴史』を出版。93年没。
・インドリヒ・シュティルスキー
1899年チェルムナ生まれ、1942年プラハに死す。チェコスロヴァキアの画家。34年にプラハのシュルレアリスム集団を設立し、妻ワイヤンとともに指導者となる。色彩を使ったコラージュの開発者としても知られ、死の直前には聖職者侮辱のコラージュ集を仕上げた。
1899年ベルリン生まれ。苦悩の半生をへてのち、1956年に自己流の絵を描き始める。狂気をはらみ、自然発生的にシュルレアリスムを体現するその作品は、ブルトンらによって熱く迎えられた。長く西ベルリンの「壁」の近くに住み、82年に没。
1938年プラハ生まれ。57年から人形劇、コラージュ、オブジェ制作を開始、63年以来、特異な魔術的アニメーション映画をつぎつぎに発表。現在なお戦闘的シュルレアリストを自称し、妻エヴァとともに独自の運動を展開している。
・ロジェ・シルベール・ルコント
1907年ランス生まれ。43年にパリで自殺。詩人、「人工楽園」の探索者であり、シュルレアリスムに近い雑誌「大いなる賭」の中心人物のひとり。過敏で深遠な人格の持主で、物質世界に順応しがたく、その形而上的関心と行動のダンディスムによって、一種の「世紀病」を体現した。
・スキュトネール・ルイ
1905年ベルギーのオリニーで生まれる。詩人、エッセイスト、アフォリズム作家、26年にマグリット、メサンス、ヌージュ、ゴーマンらのベルギー・シュルレアリストのグループ展に参加。夫人もまた詩人で、イレーヌ・アモワールの筆名で書いている。87年没。
・フィリップ・スーポー
1897年セーヌ・エ・オワーズのシャヴィルに生まれ、パリでくらす。大ブルジョワ家庭出身の詩人、作家。「文学」誌の同人とともにパリのダダ運動に参加し、ついで初期シュルレアリスム運動の一員となったが、1929年に除名され、小説家、旅行家、ジャーナリストとして多彩な後半生をおくる。アンドレ・ブルトンとの共作で、「オートマチック」な最初の作品『磁場』(20年)を書いたことは忘れられない。長命だったせいかさまざまな回想録をのこし、90年に没。
1912年スウェーデンのマルメに生まれる。画家。56年ごろ、シュルレアリスムと接触。ブルトンをして「生涯のもっとも大きな出会いのひとつ」といわしめた。想像上の妖精世界を現出させしめる彼の作品は、理想主義的サンボリスムの画家と共通のものをもっている。
本名はキャサリン・リン・セージ。アメリカの女性画家、詩人。1898年オーバニーの裕福な家庭に生まれ、イタリアへ。ついでパリにわたる。1937年にシュルレアリストたちと出会い、タンギーと結婚。合衆国にもどって夫婦でウッドベリーに住む。期待と不安をたたえた「ゴースト・シティ」のごとき光景を描きつづけたが、61年、夫タンギーを追うようにして自殺。
・エメ・セゼール
1912年ロランに生まれる。マルティニック島の偉大な黒人シュルレアリスム詩人。当地の雑誌「正当防衛」や「熱帯」、39年に発表した『帰郷手帳』などによってブルトンに迎えられる。
・クルト・セリグマン
スイス出身の画家(1901-62)。34年ごろからシュルレアリスムに接近、38年の国際展では「超家具」と称するオブジェを出品して話題をまいた。以後は魔術の研究に没頭、著述家として知られる。第二大戦中はニューヨークにあり、44年ごろまでシュルレアリスムに協力。
・カレル・タイゲ
チェコの詩人、芸術理論家でコラージュ作家(1900-51)。両大戦間の同国の前衛芸術運動の中心的役割をはたす。34年、プラハにシュルレアリスム集団を結成、理論的指導者となる。写真コラージュや詩的タイポグラフィーにも注目すべきものがあった。
・瀧口修造
1903年富山県生まれ、79年東京に死す。詩人、批評家。26年ごろ西脇順三郎を通じてシュルレアリスムを知り、28年に『地球創造説』を発表。また30年にはブルトンの『超現実主義と絵画』の翻訳を出版し、以来多くの詩作、美術論、翻訳などによって、日本におけるシュルレアリスムの体現者となる。大戦中は投獄されたが、戦後になってもその立場は一貫して変わらず、若い尖鋭な芸術家たちの精神的支柱となる。ミロ、デュシャンらとも交流。現在、『コレクション瀧口修造』を刊行中。
1913年、移民スウェーデン人の娘として、合衆国イリノイ州のげイルズバーグに生まれる。42年にジュリアン・レヴィ画廊でエルンストと出会い、46年に結婚。夢想的ヴィジョンを描くレアリスムから出発したが、しだいに地平の風景をもたぬ揺れ動く空間や、官能と野生にみちた幻の舞台へと移行した。パリおよびセイヤンに住む。
1904年、スペインのフィゲーラスに生まれる。画家、著述家。未来派やキュビスムの段階をへたのち、29年ごろパリでシュルレアリスムに加わり、詩人たちから熱狂的に迎えられた。「偏執狂的批判的」方法の発明者である彼の絵は、アカデミックな技巧を駆使して幼児期的妄想を綿密に描き出す。のちに、たえざる自己宣伝とスキャンダリズムの結果もあって世界的な名声を得たが、ブルトンらシュルレアリストのグループからは除名された。戦後は原子物理学やカトリック教に色気を出す。カタルーニャのカダスケに妻ガラとともに住み、89年に没。
1900年にパリで生まれる。55年に合衆国コネティカット州のウッドベリーで死去。ブルターニュの家系の出で、この半島の風土、ケルト的想像界とのむすびつきを自覚。21年からプレヴェールらと知り合い、25年にはシュルレアリスムに参加、独学で驚くべき作品を描き続ける。39年には合衆国へ亡命して市民権を得、画家ケイ・セージとともにくらす。画家として、芸術におけるシュルレアリスムを代表するすばらしい連続的作品をのこして去ったが、それらは無意識および幼年期の深い源泉に汲み、なにか本質的なイメージの世界を現出させたものである。
・トリスタン・ツァラ
1896年ルーマニアのモイネシュテぃに生まれる。1963年にパリで死んだ。詩人だが、彼の名は概してダダ運動そのものと同一視される。事実、16年チューリヒでダダを創始し、そのもっとも活発な指導者となった。20年、パリにあらわれて「文学」誌グループとまじわる。この雑誌運動の延長であるシュルレアリスムからは最初ははなれた位置にいたが、28年に参加。だがのちにふたたび離脱して共産党に入党、抵抗運動にも加わった。その光彩陸離たる作品群はこんにち再評価されつつある。
・アンドレ・ティリヨン
1907年生まれ。24年ごろ、ナンシーでサドゥールやフェリーとつきあう。25年に共産党に入党、他方シュルレアリスムに強い関心をいだく。27年にパリに出てブルトンらと出会い、32年までシャトー通りに住む。「革命のためのシュルレアリスム」誌の時代に政治面で活躍し、その後はなれてゆく。88年、回想記『革命なき革命家たち』を発表。
・ロベール・デスノス
1900年パリ生まれ。45年、チェコスロヴァキアのテレジン収容所で死んだ。「オートマティスム」をはじめて実地に生きた詩人のひとり。みずから催眠術をかけて眠りに入り、口述記述によって驚くべきテクストを書き続ける。『自由か愛か!』(27年)など。長くシュルレアリスムの主力メンバーのひとりだったが、29年の抗争の末に運動を去り、ジャーナリズムの世界で活躍した。
・デュアメル、マルセル
1900年パリ生まれ。映画俳優にしてアメリカ文学の翻訳者。24年、シャトー通りに居をかまえ、プレヴェール、タンギーのグループを同居させる。行動のシュルレアリストである彼は、のちに「黒のシリーズ」を企画・編集した。77年に死す。
1887年ノルマンディーのブランヴィルに生まれる。ジャック・ヴィヨンおよびレーモン・デュシャン・ヴィヨンとは兄弟である。1913年、旅行中のニューヨークで、『階段を降りる裸体』がスキャンダラスな成功をおさめる。第一次大戦後にパリにもどり、しばしばシュルレアリスムに協力。25年にとつぜん制作を停止し、以後さまざまな造型表象や言葉の遊戯などによって、芸術における「創造」の神話を失墜させてゆく。こうしてシュルレアリストたちからは現代芸術の鍵になる人物とみなされていたが、50年代に入って、とくに若い芸術家たちが彼の作品にあらたな魅力を見出すようになる。自分の活動について質問をうけたとき、彼は「私は呼吸器具である」と答えた。68年に死去。
・ジャン・ピエール・デュプレー
1929年ルーアンに生まれる。詩人でもあり、彼の書物『その影の背後に』はブルトンの序文を得た。冶金師となり、のちに彫刻をはじめる。59年にパリで自殺。
1897年ベルギーのアンテーに生まれる。イタリア、フランスの旅行の途上、シュルレアリスムを発見。彼の絵は、16世紀のマニエリストたちの女性像や、アントワーヌ・ヴィールツの『美女のロジーヌ』や、キリコの柱廊や機関車などを、夢遊病者たつ裸婦の歩む想像世界のうちに統一している。運動には直接参加しないまま、シュルレアリスム展にしばしば出品。長くブリュッセルに住んだが、94年に没。
・エンリコ・ドナーティ
1909年ミラノ生まれ。34年から40年までパリに住む。合衆国に亡命してブルトンに会い、48年からシュルレアリスムに参加。オートマティスムを応用する彼の画風は、当時かなり清新なものであった。
・ルネ・ドーマル
1908年アルデンヌ生まれ。44年パリに死す。詩人にして作家、批評家、インド文学の研究者。15歳のころから「呪われた詩人たち」や隠秘学に興味をいだく。ランスの高等中学の友人ジルベール・ルコントやロジェ・ヴァイヤンとともに「ル・グラン・ジェ」誌をはじめ、シュルレアリストたちと接触。のちにアルプスの近くを転々とし、シュルレアリスム的な未完の小説『類推の山」をのこす。
・オスカル・ドミンゲス
1906年カナリア諸島のテネリーフェに生まれる。画家。35年からパリでシュルレアリスムに加わり、「デカルコマニー」の方法を創始。きわめて特異な「超現実的オブジェ」なども制作したが、58年の大晦日、パリで自殺。
1889年ラ・フェールに生まれる。広告用の蝋人形をつくるかたわら、自己流のエロティックなタブローを描いていたが、30年シュルレアリストに発見される。しかしグループには加わらず、あくまで傍系のシュルレアリストとして、露骨な見世物風の夢想場面を構成しつづけた。75年没。
1902年チェコスロヴァキアに生まれた女性画家、詩人。36年にプラハでシュルレアリスム集団を創立し、夫シュティルスキーとともに活動。第二次大戦下のプラハで深い苦悩を体験したが、『眠る女』などを描いたのちに、パリに移住。当地ではブルトンとそのグループにどこまでも忠実に、独特の優美な想像的世界をくりひろげていった。80年没。
・ピエール・ナヴィル
1903年パリの裕福な家庭に生まれる。「シュルレアリム革命」誌の編集委員として活動したが、27年に決別。以後もっぱら政治運動に身をゆだね、やがてトロツキーを支持、第四インターナショナルの創立に一役かう。シュルレアリスムと共産主義の接点にあった重要人物のひとり。妻ドゥニーズも忘れがたいそんざいである。
・ポール・ヌージェ
1895年ボルドー生まれ。詩人、エッセイスト。マグリット、メサンスとともにベルギー・シュルレアリスムの指導的存在。「ディスタンス」「コレスポンダンス」「マリー」「ドキュマン34」「レ・レーヴル・ニュー」などの雑誌に散逸していた彼の作品は、『笑わぬことの歴史』に集成された。1967年没。
・ヴィステラフ・ネズヴァル
1900年プラハに生まれる。詩人、チェコのシュルレアリスム運動の推進者のひとり。33年にパリでシュルレアリストたちと出会い、翌年プラハに集団をつくる。35年にはブルトンとエリュアールを招待する。38年からは方向を変え、共産党員として活動するようになった。58年没。
・マルセル・ノル
ストラスブールに生まれる。1923年ごろからグループと交流、24年の『シュルレアリスム宣言』では正式メンバーに加えられている。「シュルレアリスム革命」誌にも自動記述や夢物語を発表、27年にはジャック・カロ通りに「シュルレアリスム画廊」を開設するなどしているが、32年にアラゴンを支持して運動からはなれる。
・エンリコ・バイ
1924年ミラノに生まれる。51年ごろ「核運動」グループの一員として出発し、59年のシュルレアリスム国際展を機に運動に加わる。ガラスや布や木材などを縦横に用い、既成の風景画や静物を転置して独特の想像世界をつくる。
・インドリヒ・ハイズレル
1914年クラスト生まれ。53年パリに死す。トワイヤン、シュティルスキーとならぶチェコ出身の代表的シュルレアリスト。38年プラハのシュルレアリスム集団に加わり、47年にはパリに移って、翌年から雑誌「ネオン」を編集。
・オクタビオ・パス
1914年メキシコ生まれ。今世紀の同国を代表する詩人、批評家。31年、シュルレアリスムの影響下に前衛雑誌「バランダル」を創刊、詩を発表しはじめる。37-38年にヨーロッパを旅し、ブニュエルやデスノスと出会う。メキシコではペレやカリントンとも交流。戦後にはパリでブルトンと親密な関係をむすび、一時シュルレアリスムのグループに協力。
・モーリス・バスキーヌ
1901年ロシアのハリコフに生まれる。神秘思想家でもあり、「ファンタゾフィー」を創始した。46年から51年にかけてシュルレアリスムに協力。奇怪な象徴的絵画を描き、ブルトン『秘法17』の豪華本にエッチングを添えた。
・ジョルジュ・バタイユ
1897年ビロンに生まれる。今世紀西欧を代表する、だがきわめて特異な思想家、作家。異常な少年期をおくったのち、パリで国立古文書館に勤める。1920年代にはシュルレアリスムを羨望しつつ批判し、29年創刊の「ドキュマン」誌で論陣を張る。30年代なかばにはブルトンとも協調関係をもったが、37年に「社会学研究会」を組織してシュルレアリスムの脱退者を集める。強力な「敵対者」の位置を占めたが、晩年にはブルトンとのあいだに相互理解があったといわれる。62年没。
1908年パリに生まれる。画家。バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラが本名で、作家ピエール・クロソフスキーの弟。直接シュルレアリスム運動に加わったことはないが、34年の最初の個展がブルトンらに注目され、「ドキュマン34」や「ミノトール」誌などを通じて紹介された。幼児性と虚妄性が顕著な、沈黙にみちたエロティックな画面を構成し続けている。
ヴォルガング・パーレン
1907年ウィーン生まれ。59年にメキシコで自殺した。画家、エッセイスト、理論化であり、最初アブストラクトの段階を踏んでいたが、30年から41年までシュルレアリスム運動に加わる。フランス、ドイツ、イタリアで学んでから39年までパリに住み、以後メキシコに移ってシュルレアリスム的な雑誌「ディン」を創刊。火焔でカンバスを焦がす「フュマージュ」の発明者でもある。
・ジャック・バロン
1905年パリに生まれる。17歳にして運動に加わり、シュルレアリスム詩人の秘蔵っ子といわれる。アポリネールの影響いちぢるしい『アリュール・ポエティック』(25年)は、のちに『海の木炭』(49年)へと発展した。
・シモン・ハイタイ
1922年ハンガリーのビアに生まれる。49年にはパリで、シュルレアリスムの影響下に、特異な幻想的人物像を描き始める。しばらく孤独な生活をおくっていたが、52年にブルトンらに迎えられる。しかしそれ以後、彼はむしろジョルジュ・マテューのグループに接近し、55年にシュルレアリスムを離れた。
・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
1909年パリに生まれる。考古学をおさめてのち作家活動に入る。早くからシュルレアリスムに共感をもち、47年には運動に参加したが、むしろ超然とした位置にあることを好み、しだいに直接活動からは遠ざかる。「驚異」と「異様」、黒いユーモアと残酷なエロティスムにみちた彼の小説は、現代幻想文学の最高峰のひとつをなす。美術・文学批評にも優れたものがある。95年没。
1881年スペインのマラガに生まれる。ブルトンの『シュルレアリムスと絵画』によって芸術家の頂点にある者とされ、1938年ごろまでシュルレアリスムの一員とみなされる。彼自身シュルレアリスム「グループ」の集会にはしばしば参加し、その大きな影響をうけている。戦後には共産党員となって批判を浴びる。その生涯と作品については、ローランド・ペンローズの『パブロ・ピカソ』(58年)などがある。73年に没。
1879年キューバの外交官の子としてパリに生まれ、1953年同地で死んだ。その名はダダおよびシュルレアリスムと切り離すことができない。はじめ、13年ニューヨークのアーモリー・ショーに出品、つづいてツァラやアルプと知り合い、19年にはパリにもどってシュルレアリストたちとまじわる。現代芸術におけるさまざまな新傾向の先駆者だったが、彼自身はけっして一派の一手法のみにとどまらない。詩人、画家であり、意想外でしかも優美なふるまいに出る「ダンディー」でもあった。彼の影響をうけた芸術家や詩人の数はいやましている。
1908年アルゼンチンに生まれた女性画家。両親はトリエステ人。退廃的な魔術の画家であり、レズビアン的幻想家であり、すでにラファエル前派に滞在していた「超現実化」の傾向を再現してみせる。パリに住み、96年に死す。
1900年スペインのカランダに生まれる。20年パリに出て音楽などを研究していたが、28年にはシュルレアリスムのグループとまじわり、その理論と志向に刺戟されて最初の映画を制作する。『アンダルシアの犬』(28年)、『黄金時代』(30年)がそれであり、「シュルレアリスム映画」の衝撃と名声を世界に広めた。のちにメキシコに渡り、晩年はフランスでも映画を撮ったが、いずれの作品にもシュルレアリスムの刻印がある。83年メキシコで没。
・ジャン・ブノワ
1922年カナダのケベックに生まれる。47年以後、妻のミミ・パランとともにパリに住む。寡作の画家であるが、絵画ならぬイヴェント『サド侯爵の遺言執行式』(49-50年)によって一躍注目されるようになる。59年、シュルレアリスムに参加。
・プラシノス、ジゼール
1920年イスタンブールに生まれる。14歳のときブルトンに発見され、「ミノトール」および「ドキュマン34」誌上に数篇の詩が紹介された。15歳で最初の詩集を出版、のちにいくつかの小説を書く。その初期作品は「詩人だれもが彼女をねたむ」といわれた。
・テオドール・フランケル
1896年パリに生まれる。1964年に死す。精神病医。高等中学時代からブルトンの同級生であり、ともにパリ大学の医学部に進む。「文学」誌、ダダ、初期シュルレアリスムの時代を通じて交友をつづけ、各運動の貴重な目撃者であったが、彼自身は文学的活動を好まず、作品はなにものこしていない。妻ビアンカとバタイユの妻、マッソンの妻とは姉妹であった。
1896年オルネ県のタンシュブレーに生まれる。詩人、エッセイスト、オブジェ作家であり、シュルレアリスム最大の理論化である。パリの初期ダダ運動において重要な役割をはたしたが、21年ツァラおよびダダと決別。24年に『シュルレアリスム宣言』を起草して以来、この運動の理論的支柱となる。『ナジャ』(28年)や『シュルレアリスムと絵画』(同)、『通底器』(32年)や『狂気の愛』(37年)など、その多くの著作は青春の活気をよびおこし、現代の芸術、文学、美学および倫理に絶大な影響をおよぼした。第二次大戦中にはニューヨークに亡命、46年にパリにもどってからも運動をつづけ、正統シュルレアリスムの最高具現者としてその聖堂を守り続けたが、66年にパリで死去。
・ジャック・プレヴェール
1900年パリに生まれる。25年、弟のピエールや友人のデュアメル、タンギーらとともにシュルレアリスムに参加、32年に離反した。言葉の自由奔放さと、日常生活のなかに驚異を見出す鋭い感覚によって、その詩は当代のもっとも豊かなものに数えられる。また俗謡や映画のなかにシュルレアリスムを導入。たとえば、マルセル・カルネが監督した彼のシナリオに、『天井桟敷の人々』『悪魔が夜来る』などがある。77年没。
・ピエール・プレヴェール
1906年パリに生まれる。ジャックの弟で、おなじく映画制作に従事するが、その作品には驚異とユーモアとの遭遇があり、シュルレアリスムが生かされている。『さらばレオナール』『大クラウスと小クラウス』など。
・ヴィルヘルム・フレディー
1909年コペンハーゲンに生まれる。おそらくデンマークにおける最初のシュルレアリスム画家。彼の展覧会は毎回スキャンダルの種をまいているが、とくに「超現実的オブジェ」の奔放な表現には見るべきものがある。47年のシュルレアリスム国際展などにも参加した。
1903年ルーマニアのピエトラ・ナムツに生まれる。画家、彫刻家。25年にパリに出て、キリコやシュルレアリスムの画家たちの影響をうける。32年にタンギーの紹介で運動に参加。当時、片目の自画像を描いたが、38年にドミンゲスらとの喧嘩のさいにその片目を喪失。個人的な妄想と、集合的無意識の産物とおぼしい象徴的イメージの総合を追求しつづけ、すこぶる特異な絵画世界の実現にいたる。66年没。
・デヴィッド・ヘア
1917年ニューヨークに生まれる。画家であり、オートマティスムをよりどころとする。第二次大戦中、ニューヨークに亡命してきたシュルレアリストたちを迎え入れ、ブルトン、デュシャンとともに雑誌「W」を創刊。「ケミカル・ペインティング」(42年)などの方法でも知られる。
1902年ポーランドのカトーヴィツェに生まれる。画家、素描家、写真家。変形可能のフェティッシュ的オブジェ「人形」の作者。36年にナチスをのがれてパリに移住し、シュルレアリスムに参加。戦後は妻ウニカ・ツュルンと悲劇的な生活をおくる。彼の数多いデッサンには、固有の心理的・性的発想が示されていた。75年没。
・バンジャマン・ペレ
1899年ナント近郊のレゼに生まれる。1959年にパリで死んだ。シュルレアリスム運動を代表する詩人のひとりであり、生涯を通じて忠実なシュルレアリスムの使徒だった。幻想味と挑戦的態度に柔和な性格の入り交じる彼の作品は、日常言語から汲まれた尽きせぬイメージの花火であり、シュルレアリスムの定義に合致するものでもある。革命の闘士としての一徹な態度もまた同様であった。ピエール・ナヴィルとともに、「シュルレアリスム革命」の最初の編集人をつとめる。スペイン内乱時には反フランコ軍に参加。第二次大戦中はメキシコにわたり、2つの重要な『アンソロジー』の著者となる。
・ローランド・ペンローズ
1900年ロンドンに生まれる。26年からピカソ、エリュアール、エルンストと知り合い、イギリスにおけるシュルレアリスムの指導的存在となる。詩人、写真家、画家でもあり、きわめて特異なコラージュをつくる。83年没。
・ジャック・アンドレ・ポワファール
1902年生まれの写真家、画家、詩人。21年に「固ゆで卵」詩のグループの中核となり、34年にシュルレアリスム運動に参加。もともと医学生だったが、マン・レイの助手となって写真の道に入る。「シュルレアリスム革命」誌に協力しつづけるが、29年にはブルトンと対立し、以後グループを離れた。61年没。
1898年ベルギーのレシーヌに生まれる。1925年ごろから幻想に没頭していたが、27年にパリのシュルレアリストたちと知り合って以来、異常なものへの感覚をさらに強め、人関関係では対立のあったものの、生涯シュルレアリスムの表現思想に忠実だった。人を面くらわせるような彼の作品の形而上的性格は、「神秘の巨匠」の名に恥じない。単純で正確な絵画表現をもって、事物をその日常的な意味から引き離し、本質的存在いおいて復元するべくつとめる。エルンストやタンギーとともに、シュルレアリスムの生んだ偉大な「描写派」のひとりである。67年没。
1896年オワーズのバラニーに生まれる。1922年にミロと親交をむすび、つづいてランブール、バタイユ、レーリスと知り合って、24年、シュルレアリスム運動における最初の画家のひとりとなる。彼のオートマティックなデザインは、ほとんど毎号のように「シュルレアリスム革命」誌を飾った。のちに「存在の神話学」「生贄」など、多分に形而上的な探求に没頭し、大きな成果をあげる。87年没。
・マッタ
1911年チリのサンティアゴに生まれる。35年からパリでル・コルビジエの建築アトリエにいたが、38年にブルトンとシュルレアリストたちに認められ、運動に加わる。第二次大戦中はニューヨークに移住し、45年から48年までのあいだ、その混沌としたオートマティックな宇宙的画面の表現によって、海外におけるシュルレアリスムの革新者の地位を築く。のちちにその作品は一種の革命的政治観がくわわる。
・ピエール・マビーユ
フランスのエッセイスト、医学者(1902-52)。「ミノトール」誌の時期にシュルレアリスムに接近、同誌上で清新な芸術論を展開した。多分に神秘的な傾向をもち、知られざる「不思議」作家の系列を発掘・研究する。
・ロール・マリー
パリに生まれる。夫のシャルル・ド・ノアイユ子爵とともに、シュルレアリスムをはじめて支援し、世に紹介したメセナのひとり。彼女の絵は驚異の小径を歩んでいる。
ユーゴラスビア生まれの写真家、画家。一時マン・レイの助手にしてモデル。1935年から37年にかけてシュルレアリスムを通過したころには、のちに孤独な隠遁生活は予想されなかった。修道女のように神秘体験を追い、俗世との交渉を経つ。
・ジョルジュ・マルキーヌ
画家、詩人(1898-1969)。ロシア人とデンマーク人のヴァイオリニストの子としてパリに生まれる。24年、最初の運動参加者のひとりとなって、ブルトンらとまじわる。俳優、校正係、旅芸人など、数多くらの職人をもった。のちに合衆国に移り、絵を描き続ける。「行動のシュルレアリスト」の一典型かもしれない。
・アルベルト・マルティーニ
1876年オデルツォに生まれる。1954年ミラノの死す。24年パリに出てエルンスト、マグリット、ピカビアらと交流。以後シュルレアリスムの影響下に制作をつづけたが、彼の画風はむしろ現代マニエリストの一方の極を示している。
・ジョイス・マンスール
1928年イギリスのバウデンに生まれる。エジプト人の女性詩人、小説家。53年ごろ、パリでブルトンと出会って認められ、運動に参加。以後その残忍なエロティスムと、夢幻イメージの爆発によって(『充ち足りた死者たち』)など)、特異な詩的世界を形成する。86年没。
1893年スペイン・カタルーニャのモンロッチで生まれる。画家として出発し、1917年にバルセロナでピカビアと出会う。24年パリでシュルレアリストたちとまじわり、『宣言』にも署名。25年にはピエール画廊での最初のシュルレアリスム展に参加し、以来この運動の代表的な画家のひとりとなった。彼のオートマティックな絵は、謎めいた世界のなかの人間の謎めいたい心理状態とかかわりをもち、つぎつぎに出現する斑点によって新しい現実を生起せしめる。形態と色彩におけるその全き自由は、つねに幼年期の自然な感動にむすびついてたものである。晩年はマジョルカ島のパルマに住み、83年に没する。
・E・L・T・メサンス
1903年ブリュッセルに生まれる。はじめ作曲家、つづいて詩人、コラージュ画家となり、マグリットとともにベルギーのシュルレアリスムを主導する。その作品は洗練と諧謔味をそなえている。ロンドンで活動し、71年に死去。
・マックス・モリーズ
1903年パリに生まれる。シュルレアリスムの初期メンバーのひとりで、とくに「シュルレアリスム革命」創刊号に書いたエッセー「魅せられた眼」は、シュルレアリスム絵画を語る最初の文章のひとつ。29年に脱退。77年に没。
1900年アジャンに生まれる。特異な偏執的手法をもって、もっぱらエロティスムを探究していた画家。54年からシュルレアリストと交流し、最初の展覧会にはブルトンの序文を得た。ボルドーを拠点とし、密室にこもって女装写真を撮る。76年、ピストル自殺。
・ヴァランティーヌ・ユゴー
1888年ブーローニュ・シュル・メールに生まれる。女性画家、夢幻的な挿絵や肖像画の作者。はじめロシア・バレエ団などに協力していたが、28年からブルトン、クルヴェル、エリュアールらと親しくつきあう。68年に没。
・ジョルジュ・ユニェ
ブルターニュとロレーヌの血を引く詩人、劇作家、批評家、装幀家(1906-74)。幼児をアルゼンチンですごし、パリへ出てマックス・ジャコブらとつきあう。26年にシュルレアリスムに加わり、とくに画家たちと交流。数々の書物・オブジェの装幀によって一領域を招いたが、41年ごろ、政治的見解の相違のゆえに離脱。74年に死去。
・ラウル・ユバック
1910年ベルギーのマルメディに生まれる。34年から38年にかけてシュルレアリスムに加わり、「ミノトール」誌に注目すべき「ソラリザシオン」を発表。ブニュエルの映画に協力したこともある。写真家であり、のちには画家となって「コブラ」運動に参加。85年没。
・フェリックス・ラビッス
1905年ドゥエに生まれる。画家にして悪魔学研究家。架空の愛をうたう絵物語の構成や、芝居、オペラ、バレエの舞台装置もする。シュルレアリスムのグループに加わったことはないが、エリュアール、デスノス、プレヴェールらに認められ、その名を知られるようになる。82年没。
・ヴィフレド・ラム
1902年キューバのサグアに生まれた。画家。父は中国人、母はアフリカ系黒人とインディオと白人との混血。24年スペインに渡り、37年にはパリへ出てピカソに評価される。38年からシュルレアリスムに加わり、40年、ブルトンの『全き余白」に挿絵を描く。彼の「ジャングル」や「アイドル」には、原始の激しさがそのまま生き生きと体現されており、自然と神話の入り交じる精妙なポエジーの世界を呈する。82年没。
・ジョルジュ・ランブール
1901年ルアーヴルに生まれる。マッソン、レーリス、バタイユ、クノーの友人として、22年、初期シュルレアリスムのグループに加わった。稀有な美しさをもつ詩的散文集『栄ある白馬』をのこしたが、29年に決別。小説『ヴァニラの木』も忘れがたい。
・ジャック・リゴー
1899年パリに生まれる。1929年に自殺。「文学」グループの一員であり、「シュルレアリスム革命」にも協力した。自殺を「天職」とし、シニカルで辛辣なユーモアと、隠されることで逆に挑戦と化してゆく絶望を体現していたが、これらはダンディスムによって救われることのない、第一次大戦後の青年に特有のものであった。
・マルコ・リスティッチ
1902年ベオグラードに生まれる。ユーゴスラヴィアのシュルレアリスム運動の推進者のひとり。22年から前衛雑誌活動をはじめ、「文学」誌に紹介される。26年にパリに出てブルトンと出会う。32年にはベオグラードで「不可能」誌を発行、「シュルレアリスム、今日、ここに」をも出版したが、33年、苛酷な検閲にあって当地の運動は解体する。
1886年メキシコに生まれる。画家、ヨーロッパで学び、帰国後は土着の民衆文化をといれて制作。妻のフリーダ・カーロとともに亡命中のトロツキーを擁護し、ブルトンとも親しく交流。38年、この両巨頭の共同声明「独立革命芸術のために」の代理署名者となった。
リュカ、ゲラシム
1913年ブカレストに生まれる。詩人、コラージュ作家。30年ごろから当地で前衛的活動をはじめ、38年にはパリに出てシュルレアリストたちと交流。戦後の45年、ルーマニアのシュルレアリスム運動を指揮する。52年にはパリに定住し、エロルドと共作などしていたが、94年、セーヌに身を投げて死す。
・ジャック・ル・マレシャル
1928年パリに生まれた画家。60年、ブルトンによって称賛され、その混沌とした都市画像が注目を集める。以後、独立不遜の精神をもって、情熱的な画風を保持。
1890年フィラデルフィアに生まれる。合衆国におけるダダ、シュルレアリスムの先駆者、推進者。1915年にデュシャンやピカビアと知り合い、22年にはパリに出て「文学」の詩人たちと交流。稀有な画家、オブジェの発明家、写真家、映画作家、回想記作家であり、その作品は現代芸術のもっとも豊かな所産のひとつに数えられる。とくに彼の多領域にわたる写真の数々は、当代の文学および芸術の歴史のこのうえもない挿絵となるであろう。第二次大戦中は帰国したが、戦後はまたパリにもどり、76年に死去。
・ミシェル・レーリス
1901年パリに生まれる。作家、批評家、人類学者。ジャコブ、ピカソ、ルーセルらと知り合い、25年からシュルレアリスムに参加。夢の記述や「語彙集」の作者であるが、彼がこんにちのフランス文学に占める高い地位は、『遊戯の規則』シリーズにあらわれる「日常生活の現象学」によるものだろう。90年没。
・パトリック・ワルドベルグ
1913年合衆国サンタ・モニカに生まれる。美術批評家。41年、妻の彫刻家イザベル・ワルドベルグとともにニューヨークに亡命中のブルトン、エルンストらと出会う。戦後はフランスに定住してシュルレアリストと交流、51年の「カルージュ事件」以後は離反した。シュルレアリスムに対しては批判的でありつつ、その知見の広さをいかして多くのモノグラフィーを書く。85年没。
シュルレアリスム年表
※ワルドベルグによる年表。シュルレアリスム運動そのものはブルトン死後もつづいてゆくのだが、それがじつはアンドレ・ブルトンの存在と一体をなすものだったとする見方もなりたつだろう。年表の次のページに唐突に現れるブルトンの子どものころの写真が暗示的である。したがって、ここではシュルレアリスム=ブルトンと定義し、1966年以後の出来事を増補することはしない。
1916年 | ・アンドレ・ブルトン、ナントでジャック・ヴァッシュと出会う |
1917年 | ・ブルトン、パリでギヨーム・アポリネールと交流。ルイ・アラゴンやフィリップ・スーポーを織る。 |
1918年 | ・ギヨーム・アポリネール死す。 |
1919年 |
・ジャック・ヴァシェ死す。 ・ブルトンとスーボー、「自動記述」をはじめる。 ・雑誌「文学」創刊。アラゴン、ブルトン、スーポーの三人による編集。 ・ポール・エリュアールが加わる。 ・「文学」の三人がパリのフランシス・ピカビア邸を訪問。 |
1920年 | ・トリスタン・ツァラがパリに来て、フランシス・ピカビアと合流。ダダ運動のさまざまなデモンストレーションをおこなう。アラゴン、ブルトン、スーポーも参加。 |
1921年 |
・マックス・エルンストの「コラージュ」展、パリのオ・サン・パレイユ画廊にて。 ・ブルトン、ティロルでエルンストと会う。ウィーンにジクムント・フロイトを訪問。 |
1922年 |
・「文学」誌の周辺に、ロベール・デスノス、ルネ・クルヴェル、ロジェ・ヴィトラック、ジョルジュ・ランブール、ジャック・バロンらが集まる。 ・「眠りの時代」。交霊術や催眠術によって、デスノス、クルヴェルらが眠ったまま語り、書く。 ・マン・レイ、エルンストのパリ到着。彼らもグループに加わる。 ・アンドレ・マッソンの「四元素」。ランブールを通じて未来のシュルレアリストたちに紹介される。 ・マルセル・デュシャン、「彼女の独身者たちによって裸にされた、花嫁さえも」の制作停止。 |
1924年 |
・ジョアン・ミロ、「耕された土地」や「アルルカンの謝肉祭」を描く。マッソンを通じて彼も「文学」グループに加わる。 ・アントナン・アルトー、ジョルジオ・デ・キリコ、フランシス・ジェラール、マティアス・リュベック、ジョルジュ・ランブール、マックス・モリーズ、ピエール・ナヴィル、レーモン・クノー、そのほかが新しく加わる。 ・ブルトン、「シュルレアリスム宣言-溶ける魚」を発表。 |
・機関誌「シュルレアリスム革命」創刊。パリにシュルレアリスム研究所を開設。所長はアルトー。 ・アナトール・フランスの死にさいして、侮辱的なパンフレット「死骸」を発行。 ・マルコ・リスティッチの指揮で、ユーゴスラヴィアにシュルレアリスム集団おこる。 |
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1925年 |
・ミシェル・レーリス、ジャック・プレヴェール、イヴ・タンギー、マルセル・デュアメル、ピエール・ブラッスールらの参加。 ・26人のシュルレアリストたちの署名による「1925年1月27日の声明」。 ・詩人、在日本大使ポール・クローデルの反動的態度を告発するパンフレット。 ・パリのカフェ・クロズリー・デ・リラでの「サン-ポル-ルー祝賀会」の席上、反愛国主義的デモンストレーション。 ・最初のシュルレアリスム展がひらかれる。パリ、ピエール画廊。 ・エルンストによる最初の「フロッタージュ」作品集『博物誌』刊行。パリ、ジャンヌ・ビュシェ画廊に展示。 ・「シュルレアリスム革命」グループが極左「クラルテ」グループと接近。 |
1926年 |
・集団遊戯「甘美な死骸」がシャトー通りではじまる。 ・マン・レイの映画『エマク・バキア』。 ・ベルギーでルネ・マグリット、E.L.T.メサンス、ポール・ヌージェ、ルイ・スキュトネール、マルセル・ルコント、カミーユ・ゴマーンらがシュルレアリスムに接近。 |
1927年 |
・ブルトンほか数名が共産党に入党。ただしブルトンはまもなく失望して脱退。 ・政治論争さかん。スーポーとアルトーはシュルレアリスムを離れる。 ・シュルレアリスム画廊(マルセル・ノル主催)、パリに開設。 |
1928年 |
・ブルトン『ナジャ』『シュルレアリスムと絵画』刊行。 ・マン・レイとデスノスによるシュルレアリスム映画『ひとで』。 ・ルイス・ブニュエルのシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』。サルバドール・ダリが協力。 ・シュルレアリストの一部が雑誌「大いなる賭」一派(ロジェ・ジルベール-ルコント、ルネ・ドーマル、ロジェ・ヴァイヤン、ジョゼフ・シマ、モーリス・アンリほか)と交流。 |
1929年 |
・バロン、ランブール、マッソン、ナヴィル、プレヴェール、クノー、ヴィトラックらの離反。「ドキュマン」誌のジョルジュ・バタイユ周辺に集まる者あり。 ・ブニュエル、ダリ、ルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール、アンドレ・ティリヨンなどが参加。 ・ツァラとブルトンとの和解。 ・チェコスロヴァキアにシュルレアリスト集団が生まれる。ヴィテスラフ・ネズヴァル、インドリヒ・シュティルスキー、トワイヤン、カレル・タイゲ。 ・ジャック・リゴーの自殺。 |
1930年 |
・ブルトン『シュルレアリスム第二宣言』を刊行。 ・雑誌「革命のためのシュルレアリスム」創刊。 ・デスノスの脱退。離別派によるブルトン弾劾のパンフレット「死骸」が発行される。 ・モンパルナスのパー・マルドロールの開店に反対して、シュルレアリストたちの暴力沙汰。ルネ・シャールが負傷。 ・ジャン・コーペンヌとサドゥールが、サン・シール兵学校の一生徒に脅迫状を送る。出版界は激怒してシュルレアリスム締めだしをはかる。サドゥールは3ヶ月間の禁錮刑を宣告される。 ・ブニュエルの映画『黄金時代』、パリのステュディオ21にて上映。右翼が殴りこんで映画スクリーンと会場に展示されていた絵をめちゃくちゃにする。 ・シュルレアリストたちによる「象徴的機能をもつオブジェ」の制作。 |
1931年 |
・アルベルト・ジャコメッティが参加。 ・シュルレアリストたちは、コミュニストによる「革命的作家芸術家連盟」(AEAR) |
1932年 |
・アラゴン、ハリコフの作家会議に参加して帰国後、シュルレアリスムと決別して共産党に入る。 ・このころ、ヴィクトル・ブローネル、ロジェ・カイヨワ、モーリス・アンリ、メレ・オッペンハイム、アンリ・パストゥーロー、ギー・ロゼー、アルテュール・アルフォー、ジョルジュ・ユニェ、マルセル。ジャンなどが加わる。アンティル諸島でも、ジュール・モヌロを中心に作家集団ができる。 |
1933年 |
・ブルトン、AERAから批判をあびる。 ・シュルレアリストたちを中心とする豪華な美術雑誌「ミノトール」が創刊される。 ・サロン・デ・シュルアンデパンダンで、シュルレアリスムのグループ展。ヴァシリー・カンディンスキーが招待出品。 |
1934年 |
・ジョルジェ・エナン、エジプトでシュルレアリスト集団を指揮する。 ・シュルレアリストたちは、父親殺しの死刑囚ヴァイオレット・ノジエールにオマージュをささげる。 ・ブリュッセルで「ドキュマン34」の特集号、「アンテルヴァンシオン・シュルレアリスト」発行。 ・ジャック・エロルド、ジゼール・プラシノス(14歳)、ドラ・マール、レオ・マレの参加。 ・リヒアルト・エルツェ、パリでシュルレアリストたちと接触。 |
1935年 |
・ヴォルフガング・パーレンとハンス・ベルメールが加わる。 ・パブロ・ピカソとの親密な交流。ピカソのの彫刻、詩篇。 ・コペンハーゲンとカナリア諸島のテネリーフェで、シュルレアリスム国際展。 ・ブルトン、シュルレアリスムを侮辱したイリア・エレンブルグに平手打ちをくらわす。そのためコミュニストの主催する「文化擁護のための世界作家会議」に出席を拒否される。 ・それに関連して、ルネ・クルヴェルの自殺。 ・プラハで「シュルレアリスム国際ビュルタン」創刊。 ・オスカル・ドミンゲス、ピエール・マビーユ、ジャック・B・ブリュニウスが加わる。 ・ブリュッセルで「シュルレアリスム国際ビュルタン」第三号を発行。 ・ブルトンとバタイユの一時的接近。「コントル・アタック」運動。これは「革命的知識人による反ファシズム共闘連盟」であった。 |
1936年 |
・オスカル・ドミンゲスによる「あらかじめ対象を想定しないデカルコマニー」。 ・モスクワ裁判を非難するパンフレット発行。 ・最初の「オブジェ・シュルレアリスト」展。パリ、シャルル・ラットン画廊。 ・東京で山中散生らの「エシャンジュ・シュルレアリスト」。 ・ローランド・ペンローズの指揮下に、ロンドンでシュルレアリスム国際展。アイリーン・エイガー、ヒュー・S・ディヴィーズ、デヴィッド・ガスコイン、ハンフリー・ジェニングズ、ヘンリー・ムーア、パウル・ナッシュ、ハーバード・リードらの参加。「シュルレアリスム国際ビュルタン」第四号を発行。 |
1937年 |
・アルトー、ロデスの精神病院に入る。 ・クルト・セリグマンが加わる。 ・パーレンによる「フュマージュ」の実験。 ・ブルトン、パリにシュルレアリスム画廊「グラディーヴァ」を開設する。 ・東京で瀧口修造らが『アルバム・シュルレアリスト』を刊行。 |
1938年 |
・パリのボザール画廊にて、シュルレアリスム国際展。 ・ロベルト・マッタ・エチャウレンが加わる。 ・ペンローズとメサンスによる雑誌「ロンドン・ビュルタン」が創刊される。 ・メキシコでブルトンとレオン・トロツキーによる宣言「独立革命芸術のために」。 ・アムステルダムにて、シュルレアリスム国際展。 ・エリュアールの離別。彼はまもなく共産党に入党し、アラゴンと合流した。 ・ダリの追放。ファシズムへの傾倒と金銭崇拝、スキャンダル主義などがその理由だった。 |
1939年 |
・ブルトンとリベラ(トロツキー)の提唱による「独立革命芸術家国際連盟」(FIARI)の機関誌「鍵」が創刊される。 ・タンギーとマッタ、アメリカ合衆国へ。パーレン、メキシコへ。 |
1940年 |
・ヴィフレド・ラムの参加。ピカソの紹介による。 ・メキシコにて、シュルレアリスム国際展。 ・ドイツ軍がパリを占領。シュルレアリストたちはマルセーユに集まり、特製タロット・カード「ジュ・ド・マルセーユ」をつくる。 |
1941年 |
・シュルレアリストたちの亡命、ブルトン、マッソン、エルンストは合衆国へ。ペレはメキシコへ。 ・マルティニックにて、エメ・セゼールの指揮するアンティル諸島のシュルレアリスム機関誌「トロピック」創刊。 ・ブカレストにシュルレアリスム集団誕生。ゲラシム・リュカ、トロストほか。 ・占領下のパリでシュルレアリストたちの地下活動。エリュアール、アンリ、ドミンゲス、ラウル・ユバック、ノエル・アルノー、J・F・シャブラン、エロルド、レオ・マレ、ユニェ。 ・ニューヨークで、ロベール・ルベル、パトリック・ワルドベルグ、デヴィッド・ヘアらがシュルレアリスムに加わる。 |
1942年 |
・雑誌「VW」(トリプル・ヴェ)の第一号、ニューヨークで発行。デュシャン、ブルトン、エルンスト、ヘアによる。 ・雑誌「ディン」の第一号、メキシコで発行。パーレンによる。 ・ニューヨークでシュルレアリスム国際展。 ・エルンスト、ニューヨークでドロテア・タニングと出会う。 |
1943年 |
・ポール・ヌージェ『ルネ・マグリットまたは禁じられたイメージ』刊行。ブリュッセル。 ・セリグマン、アメリカでシュルレアリスムと決別。 ・ロジェ・ジルベール-ルコントの死。 |
1944年 |
・ピカソ『尻尾をつかまれた欲望』、パリのレーリス家で朗読。 ・ニューヨークでブルトンがアーシル・ゴーキーを発見。 ・ルネ・ドーマルの死。未完の小説『類推の山』が残される。 ・シャルル・デュイの加入。 ・マティアス・リュベック、ナチスに人質としてとらえられ、銃殺される。 |
1945年 |
・ペレ、『詩人の不名誉』をメキシコで出版。これはフランスでの地下抵抗運動から生まれたエリュアール、アラゴンらの「政治参加」詩を攻撃するパンフレットだった。 ・チェコのテレジン捕虜収容所に送られていたデスノス、チフスに感染して死す。 |
1946年 |
・ブルトン、パリにもどる。シュルレアリスム運動再開の準備。 ・アルトー、ロデスの精神病院を出る。 |
1947年 |
・「即位式の決裂」。共産党に対するシュルレアリスムの不信をふたたび表明した集団宣言。 ・ブルトンとその友人たちは、シュルレアリスムに反対するツァラの講演を妨害する。 ・シュルレアリスム国際展、パリ、マーグ画廊。 |
1948年 |
・ペレ、パリにもどる。 ・インドリヒ・ハイズレルにより、シュルレアリスム機関誌「ネオン」を創刊。 ・シュルレアリストたち、ガリー・デイヴィスの「世界市民」運動に協力。 ・マッタとブローネルが除名される。 ・プラハ、つづいてチリのサンティアゴで、シュルレアリスム国際展。 ・反宗教的パンフレット「神の犬ども犬小屋に帰れ」。 ・アントナン・アルトー死す。 ・アーシル・ゴーキー、アメリカで自殺。 |
1949年 |
・ジャン-ピエール・デュプレーが加わる。 ・チリのシュルレアリスム運動を指揮していたホルヘ・カセレスの死。 |
1950年 |
・『半世紀シュルレアリスム年鑑」刊行。ラ・ネフ、パリ。 ・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの参加。 ・文学賞に反対するジュリアン・グラックのパンフレット「胃袋つき文学」発行。 ・ダリ、カトリックに改宗。 |
1951年 |
・マックス・ヘルツァーにより、ウィーンで『シュルレアリスム出版物』を刊行。 ・オクタビオ・パス『鷲か太陽化』を出版。メキシコにて。 ・ミシェル・カルージュ事件。このカトリックの批評家はある司祭館の会議場で講演しようとした。一部シュルレアリストたち(アドルフ・アケル、モーリス・バスキーヌ、アンリ、エロルド、ルベル、パストゥーロー、セーグル、ワルドベルグ)はそれを妨害しようとしたために除名。 ・ブルトン、そのカルージュと決別。 ・ピエール・ド・マンディアルグ、批評家賞をうける。 ・ジュリアン・グラック、ゴンクール賞受賞を拒否する。 ・ロジェ・ヴィトラックの死。 |
1952年 |
・シュルレアリスム、アナーキスト連盟の機関誌「リベルテール」に協力。 ・ザールブリュッケンにて、エドガー・イェネの組織による「ヨーロッパのシュルレアリスム絵画」展。 ・ポール・エリュアールの死。 |
1953年 |
・タンギー、しばらくパリにもどる。 ・集団遊戯「たがいのなかに」。参加者同士の「相互浸透」をひきおこすゲームだった。 ・インドリヒ・ハイズレルの死。 |
1954年 |
・ガリア芸術に対するシュルレアリストたちの関心が高まる。 ・ジョイス・マンスールの参加。 ・アルジェリア戦争に抗議するパンフレットを発行。 ・フランシス・ピカビアの死。 |
1955年 |
・ヴィネツィアのビエンナーレにおいて、エルンストが絵画大賞、アルプが彫刻大賞、ミロが版画大賞をうける。エルンストのみシュルレアリスムから除名された。 ・イヴ・タンギー、アメリカで死す。 |
1956年 | ・ソヴィエトの独裁に反対するブダペストの大衆蜂起をたたえたパンフレット「ハンガリー、昇る太陽」を発行。 |
1957年 |
・集団実験「アナロジー・カルタ」。 ・ブルトン、『魔術的芸術』を出版。多くの識者から寄せられたアンケート回答を併録。 |
1958年 |
・核物理学者に反対するパンフレット「物理学者よマスクをとれ、実験室を空にしろ」を発行。 ・オスカル・ドミンゲスの自殺。 |
1959年 |
・ブルトン、マッタおよびブローネルと和解する。 ・バンジャマン・ペレの死。 ・ジャン・ピエール・デュプレーの自殺。 ・ヴォルフガング・パーレンの自殺。 |
1960年 |
・「エロス」をテーマとするシュルレアリスム国際展。ダニエル・コルディエ画廊、パリ。ハンス・ベルメール、F・シュレーダー・ソンネンシュターン、マックス・ワルター・スワーンベリーなども出品。 ・ニューヨークでの展覧会にダリの近作の出品をゆるしたデュシャンに対する抗議。 ・ブルトン、ジャン・ポーランとともに、「詩王」としてジャン・コクトーをえらぶことに反対する委員会に加わる。 |
1961年 | ・ケイ・セージの自殺。彼女は画家・詩人であり、イヴ・タンギーの未亡人であった。 |
1963年 | ・トリスタン・ツァラの死。 |
1964年 |
・パリのシャルパンティエ画廊で、ワルドベルグの組織による「シュルレアリスム、源泉、歴史、系統」展を開催。ブルトンおよび25人のシュルレアリストたちはこの展覧会に反対する。 ・エルンストとプレヴェールによる『犬どもは渇いている』。 |
1965年 |
・ドイツで移動回顧録「リヒアルト・エルツェの作品」。 ・サンパウロのビエンナーレにおいて、フェリックス・ラビッスによる「無審査」出品、「シュルレアリスムと幻想芸術」。 ・シャルル・フーリエの標語「絶対的隔離」を冠するシュルレアリスム国際展。ウイユ画廊、パリ。 ・ブルトンの大著『シュルレアリスムと絵画』増補決定版が刊行される。 |
1966年 | ・アンドレ・ブルトン死去。 |
■参考文献
・パトリック・ワルドベルグ『シュルレアリスム』
・巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』
・速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 : イメージの受容と創造』
・谷川渥『シュルレアリスムのアメリカ』
・大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八-一九五三』
■画像引用元
※1:https://www.moma.org/collection/works/78456 2018年12月13日アクセス
※2:http://kanshokyoiku.jp/keymap/momat07.html 2018年12月11日アクセス
※3:https://en.wikipedia.org/wiki/Surrealist_automatism 2018年12月15日アクセス
※4:https://gazette-ic.com/post/22599539880/lafemme100tetes 2018年12月15日アクセス