ダダイズム / Dadaism
反芸術運動
概要
ダダイズムの発生と理論
「ダダ(Dada)」または「ダダイズム(Dadaism)」は、20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動。1916年にスイスのチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールで始まり、その後1915年にニューヨーク・ダダ、1920年にパリで開花、ほかに、ベルリン、ケルン、ハノヴァーなど世界中の都市で流行した。
その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。コラージュ、音詩、カットアップ、彫刻などの視覚的、文学的、音響的メディアを横断して行われた。
ダダイスムは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な芸術を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。ダダイズムは、現代資本主義の論理、理性、美学を否定し、無意味、不合理、反ブルジョア的な要素を含む表現をする芸術家たちが中心になって展開された。暴力、戦争、ナショナリズムに対して不満を表現し、急進的な極左との政治的親和が高かった。
ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、ハンス・リヒターによれば、ダダイスムは芸術ではなく「反芸術(Anti-art)」だという。これまでの伝統的な美術様式に沿った美学をダダイスムは無視した。
「ダダ」という運動名の由来に対する明確な意見の合意はない。よくある話では、ドイツ人芸術家のリヒャルト・ヒュルゼンベックがペーパーナイフを辞書に無造作に挿入したときに現れた言葉が「ダダ(木馬のフランス口語)」だったというものである。
また、「ダダ」という言葉は、子どもが最初に発する言葉のように思えるため、子どもらしさと不条理さを呼び起こす芸術性として付けられたと論じるものもいる。
ほかには、世界的な運動の広がりを反映して、どの言語においても似たような意味(あるいは全く意味がない)を想起させることを目的として、「ダダ」という言葉が使われたのではないかと推測するものもいる。
ダダのルーツとなっているのは第一次世界大戦前の前衛芸術である。視覚芸術においては、キュビスムから発展したコラージュ技法やワシリー・カンディンスキーの抽象理論を融合させ、現実や既存の慣習の制約から逸脱することに成功。
また、言語芸術においては、フランスの詩やドイツ表現主義の文章を融合させて、言葉と意味の親密な相関性を破壊した。
ただし、デュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、1915年から活動しており、スイスで発生したダダ運動を起源としておらず、個別のムーブメントとみなすのが一般的である。ダダの先駆的な芸術運動である「反芸術(Anti-art)」という言葉は、1913年頃にマルセル・デュシャンが作った言葉で、この言葉をもって最初のレディ・メイド作品を制作した。また、ニューヨーク・ダダはほかのダダイズムと異なり政治的問題と関連した動きは見られなかった。
ほかに、アルフレッド・ジャリの演劇『ユビュ王』やエリック・サティのバレエ『パラード』は、ダダイズムの先駆体とみなされている。ダダ運動の信念は1916年にヒューゴ・バルのダダ宣言に最初に集約された。
重要人物は、トリスタン・ツァラ、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バーダー、フランシス・ピカビア、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャン、クルト・シュヴィッタース、ベアトリス・ウッド、マックス・エルンストである。
この運動は後の前衛芸術やダウンタウン・ミュージック運動、シュルレアリスム、ヌーボー・リアリズム、ポップ・アート、フルクサスのなどのグループに影響を与えた。
重要ポイント
- 伝統的な芸術を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動
- 視覚的、文学的、音響的メディアを横断して行われた
- 世界中の都市で同時流行した
背景
ダダはヨーロッパと北米で発生した非公式的な国際的な芸術運動だった。ダダの始まりは第一次世界大戦の勃発と関わりが深い。
多くの参加者にとって、この運動は戦争の根本的な原因であると考えられていたブルジョア民族主義や植民地主義の利益に対する抗議であり、また文化的および知的適合性に対する抗議活動だったという。
フランス国外の前衛的なサークルは、戦前のパリの芸術芸術の発展を知り、各国で前衛芸術を取り入れはじめた。バルセロナでは1912年にギャラリー・ダルマウでキュビズムの展覧会が開催されている。
また、ベルリンでは1912年にギャラリー・デル・シュトゥルムで、ニューヨークでは1913年にアーモリーショーで、プラハでは1914年にSVUマネスでそれぞれ前衛芸術の展覧会が開催されている。モスクワやアムステルダムでは1911年から1915年にかけて前衛集団「ダイヤのジャック」の展示が開催されている。
イタリアの未来派はさまざまな芸術家の作品に影響して発展した。その後、ダダはこれらさまざまな前衛芸術家たちの実験を融合させていった。
多くのダダイストたちは、ブルジョア資本主義社会の「理性」と「論理」が人々を戦争に導いたと考え、芸術表現においてそうしたイデオロギーを拒否し、また論理を拒否し、カオスと非合理性を受け入れていった。
ジョージ・グロスはのちに、ダダイストたちの芸術について「相互破壊の世界に対する」抗議運動としての意図があったと話している。ハンス・リヒターは「ダダは芸術ではなく、反芸術である」と話している。ダダはこれまで芸術が肯定してきたものすべてに反対する表現だった。そして、芸術が感性に訴えるものだとしたら、「ダダは人を不快させることを目的」としていた。
ヒューゴ・バルはダダについて「私たちにとって、芸術はそれ自体が目的ではありません。しかし、私たちが行きている時代に対して真に認識するものであり批判する機会です」と話している。
『アメリカン・アート・ニュース』の批評家は当時について、「ダダの哲学は、人間の脳から生まれた最も病的で、最も麻痺した、最も破壊的なものである」と述べている。
また、美術史家たちはダダの大半は 「これらの芸術家の多くが集団殺人の狂気の見世物以外の何物でもないと見たことへの反応 "と表現している。
数年後、ダダイストたちはこの運動について「戦後の経済的、道徳的危機の真っ只中で生まれた現象であり、救世主であり、怪物であり、その道を行くすべてのものを荒廃させたものだった」と話している。
ドナ・バッドの『芸術辞典』によれば以下のように定義されている。
ダダは第一次世界大戦の恐怖に対するネガティブな感情から生まれた。この国際的な運動は、チューリヒのキャバレー・ヴォルテールと関連のある芸術家や詩人たちのグループから始まった。ダダは理性や論理を拒否し、ナンセンス、非合理性、直感を重視した。ダダという名前の由来は不明である。ルーマニアの芸術家トリスタン・ツァラとマルセル・ヤンコが、ルーマニア語で「はい、はい」を意味する「ダ、ダ」という言葉を頻繁に使っていたことに由来するという説があります。別の説では、ダダという言葉はグループの会議中に、フランス・ドイツ語の辞書にペーパーナイフを挿入したら、そこにたまたま「木馬」を意味するフランス語の「ダダ」が書かれていたことが由来だともいう。 |
1915年から1917年にかけてのデュシャン、ピカビア、マン・レイらの作品は、もともとダダイズム的だったが、当時まだダダイズムは発生しておらず、「ニューヨーク・ダダ」という言葉はデュシャンとピカビアらが自身の活動を事後的にダダの歴史の位置づけたとされている。
1920年代に入るとヨーロッパではニューヨークから帰国したデュシャンやピカビアの協力を得てダダイズムが花開いた。しかし、ツァラやリヒターらダダイストたちは、チューリヒやベルリンでのダダ活動の優位性を主張していた。
ダダ・グループ
チューリヒ・ダダ
1916年、フーゴー・バル、エミリー・ヘンリング、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプ、ミハエル・ジャンコ、リヒャル・ヒュルゼンベック、ハンス・リヒターとその周辺の仲間たちは、スイス・チューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集合して、美術の議論とパフォーマンスを行った。
ダダという言葉は、当時、チューリッヒ大学の学生だったトリスタン・ツァラによるもので、ツァラによると『ラルース小辞典』から偶然見つけたとしているが、ほかにルーマニア語で二重の肯定という意味もあるという。
当初、ダダは宣言するほどの理論や思想はもっておらず、第一次世界大戦の嫌悪と既成の価値観への不信から発生し、それはただの乱痴気騒ぎに近いものだった。
ニューヨーク・ダダ
ダダイスム運動のなかで最もよく知られているのが、マルセル・デュシャン率いるニューヨーク・ダダの活動だ。
デュシャンたちは、当初、特に自分たちの集まりを「ダダ」と認識していなかったものの、その反発的な姿勢がヨーロッパで発生したダダと相通じるところがあったため、周囲から「ダダ」と呼ばれるようになった。
デュシャンがのちの現代美術に残した最大の遺産ともいうべきものはレディ・メイド(既製品)である。レディ・メイドでデュシャンがしたことといえば、どこにでもある大量生産された製品のどれかを選び、なんら手を加えることなく、これを展覧会場に置くことだった。
ベルリン・ダダ
ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。
政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演など政治的表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。
1918年2月、ヒュルゼンベックはベルリンで最初のダダのスピーチを行い、4月にドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。ハンナ・ヘーヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。また、この時期にグロスはジョン・ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘーヒらとフォトモンタージュを開発した。
ケルン・ダダ
ケルンでは1920年に、マックス・エルンストやヨハネス・バールゲルト、ハンス・アルプが物議をかもすダダの展示を行い、そこでは反中産階級的な感情やナンセンスに焦点をあてられた。
当初は応用美術館の入口ホールで行われる予定だったが、バールゲルトとエルンストの作品が美術館の館長によってはずされた。そこで彼らはパブの裏庭、男子便所の先に作品を展示した。
参加者は、聖衣で身を包んだ女性が猥褻な詩を朗読している間に男子便所前を通過して展示場所の中庭に進むことが要求され、進んだ先の中庭にはエルンストの作品である大きな丸太がおかれており、参加者は一緒に用意された斧で丸太を叩くことが求められた。
またバールゲルトは、血のような赤い水の入った水槽のなかに目覚まし時計が入った作品を展示したが、その水面には女性の髪の毛が浮かんでいた。警官は過激なその展示を中止させたが、何度か再開した。
パリ・ダダ
フランスの前衛芸術は、ギョーム・アポリネールやアンドレ・ブルトン、マックス・ジャコブ、クレメント・パンサー、そのほかのフランス文学批評家や詩人たちが定期的にトリスタン・ツァラと手紙でやりとりしていたので、基本的にチューリッヒ・ダダと並行していたといっていい。
むしろ、チューリッヒ・ダダがブルトンをはじめパリの芸術家たちとやりとりをしていなかったらダダはチューリッヒという小さな都市で起こった芸術運動でおわり、世界的な広がりをもつことはなかっただろう。チューリッヒ・ダダは、パリを再び活気づかせ、世界的な芸術の潮流に大きな影響を及ぼすことになった。
1919年以後、チューリッヒ・ダダがマンネリ化して衰退しはじめると、ツァラはブルトンやピカビアの誘いに応じてパリへ移動する。1920年1月にツァラが住み込んだピカビアのアパートがパリにおけるダダの拠点となった。ツアラはすぐにブルトンとパリ・ダダを開始。さまざまなパフォーマンスを行なう。
しかしパリ・ダダは政治的な姿勢はなく、チューリッヒと異なってアナーキストと両輪になるような試みもなく、本質的には文学的で合理的であった要素がツァラに合わなかった。ツァラは伝統的なダダの姿勢でナンセンス的に道化風に行動していたが、ブルトンは本質的に真面目だったため、ツァラの感覚的で道化的な方法に挑発されることに疲れてしまった。
そしてブルトンとツァラが決別すると、ブルトンはダダを合理的で無意識の解放する芸術手段へと応用し、「シュルレアリスム」運動を始めることになった。
オランダ・ダダ
オランダのダダ運動はおもにテオ·ファン·ドースブルフが活動の中心だった。彼は前衛集団「デ・ステイル」の創始者や雑誌「デ・ステイル」の編集長としてもよく知られている。
ファン・ドースブルフはダダ活動の焦点をおもに詩にあて、デ・ステイルにデ・ステイルフーゴ・バル、ハンス・アルプ、カート・シュヴィッタースといった有名ダダ作家を紹介し、オランダとチューリッヒ・ダダの橋渡しをした。
ドースブルはシュヴィッタースと知り合いになり、1923年、一緒に「オランダ・ダダ・キャンペーン」を開催した。そこれでドースブルフはダダに関する小冊子を発行し、シュヴィッタースは詩を朗読し、Vilmos Huszárは「メカニカル・ダンシング・ドール」を展示し、テオ・ファン・ドースブルフはピアノで前衛的な演奏を行った。
略年譜
年 | |
1912年 | ・アルチュール・クラヴァンがパリで雑誌『メントナン』を発行。 |
1913年 | ・マルセル・デュシャンがアーモリー・ショーに『階段を降りる裸体No.2』を出品。 |
1915年 |
・3月に、マン・レイが雑誌『リッジフィールド・ガズーク』を発行。 |
1916年 | ・2月5日、ドイツからの亡命詩人フーゴ・バル夫妻を中心とするチューリッヒの若い知識人たちが、文芸カフェ「キャバレー・ヴォルテール」を開店。 |
1917年 |
・1月、スペインのバルセロナで、フランシス・ピカビアが雑誌『391』を創刊。 ・7月と12月に、アルプ、ヤンコ、ファン・レースの作品が掲載された雑誌『ダダ』が発行される。 ・マルセル・デュシャン編集による雑誌『ブラインド・マン』で「リチャード・マット事件」に関する論説が掲載。 |
1918年 |
・4月、最初の大規模な「ダダの夕べ」がベルリンで開かれ、リヒャルト・ヒュルゼンベックが『ダダイズム宣言』を発表。のちにヒュルゼンベックによりクラブ・ダダが設立され、雑誌『デア・ダダ』が発行される。 ・7月23日、ダダの集会でツァラが「ダダ宣言1918」を発表し、ダダ運動の本格的な活動を開始。 ・11月9日、フランスのアヴァンギャルドの指導者だった詩人ギヨーム・アポリネールが死去。 |
1919年 |
・クルト・シュヴィッタースが、ハノーファーで詩集『アンナ・ブルーメ(花のアンナ)』を出版。 |
1920年 |
・『ダダ大全』がベルリンで出版。 ・5月26日、ガヴォー・ホールでフェスティバル・ダダが開催される。 ・6月、ベルリン・ダダが「第一回国際ダダ見本市」を開催。 |
1921年 |
・4月、デュシャンとマン・レイが1号だけで終わった『ニューヨーク・ダダ』を刊行。 ・5月2日、マックス・エルンストの展覧会がパリのサン・パレイユ書店で開かれる。 ・5月、ダダがアカデミー・フランセーズ会員で代議士の作家モーリス・バレスを「精神の安全の侵害の罪」で模擬裁判にかける。 ・6月、クラヴァンがニューヨークでの講演中に騒動を起こし、投獄される。 ・9月、シュヴィッタースがハンナ・へーヒとラウール・ハウスマンと共にチェコのプラハでアンチ=ダダ・メルツの夕べを開催。 |
1922年 |
・2月、ブルトンがパリ会議を計画し、モダニズムのさまざまな流派の代表者を集めた委員会を発足。 ・9月、ドイツのイェーナとヴァイマールで「ダダに関する会議」が開かれる。 ・シュヴィッタースが雑誌『メルツ』を創刊。 ・マン・レイがレイヨグラフ作品『甘美なる場』を発表。 ・ハンス・アルプとゾフィー・トイバーが結婚。 |
1923年 |
・7月6日に、「ひげの生えた心臓の夕べ」が開かれたが、『ガス心臓』そしてマン・レイの短編映画『理性への回帰』の上演中にブルトンのグループが妨害。パリ・ダダの事実上の終焉を迎える。 ・村山和義が日本で「マヴォ」というグループを結成し、同名の雑誌を創刊。 |
1924年 |
・7月に、ツァラがそれまでさまざまな雑誌で発表していた宣言をひとつにまとめ、『7つのダダ宣言』として出版。 ・ブルトンが新しいグループを結成し、雑誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、その後11月に『シュルレアリスム宣言』を出版。 |
1943年 |
・ゾフィー・トイバーが死去。 |
1948年 |
・クルト・シュヴィッタースが死去。 |
1963年 |
・トリスタン・ツァラが死去。 |
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Dada、2020年4月11日アクセス