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【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」

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星月夜 / The Starry Night

ゴッホの代表作と同時に西洋美術史の代表作


フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

目次

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1889年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 73.7cm×92.1cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《星月夜》は、1889年6月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。73.7cm×92.1cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

 

月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。

 

《星月夜》は、サン=レミのサン=ポール療養院にゴッホが入院しているときに、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものである。「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター以外は何もない村里を見た」と、ゴッホは弟のテオに手紙をつづり、《星月夜》の制作背景を説明している。

 

激しい筆致で描かれた星空の下には、それとは対照的に教会を取り巻く謙虚なムードの家屋が広がっている。また、教会の尖塔は背景に波立つ青黒い山々を貫くように誇張して描かれている。

 

前景にある大きな木は糸杉である。糸杉はまるで炎のようでキャンバスの下端から上端まで描かれており、それは土地と空を視覚的に接続する役割を果たしている。 天と地を接続している糸杉は、一般的に天国と関連して、死の架け橋の象徴とみなされている。また糸杉は墓地の木ともみなされており、哀悼の意を表しているという。

 

《星月夜》は、精神病院の窓から見える風景が基盤になっているが、実際にこのような風景は存在していない。ゴッホの過去の記憶がコラージュされており、たとえば中央に見える教会はフランスの教会ではなく、ゴッホの故郷であるオランダの教会が描かれている。

 

1941年にアメリカのコレクターのリリー・P・ブリスからニューヨーク近代美術館に遺贈されたあと、現在まで同美術館が所蔵している。

この作品のポイント


  • ゴッホの代表的作品であり西洋絵画の代表的作品
  • 精神病院入院中、部屋の窓から見える風景からインスピレーションを得て制作した
  • ゴッホの過去の記憶がコラージュ的に表現されており現実的風景ではない

制作背景


「星月夜」は精神病院入院中に描かれた


1888年12月23日、フランス南部のアルルで、かの有名なゴッホの左耳自己切断事件が発生する。本格的にゴッホの精神状態がひどくなってきたため、翌年の1889年5月8日に、サン=レミのサン=ポール療養院に自主的に入院することに決めた。

 

この病院ではゴッホが入ったときの収容人数は半分以下で、また裕福な人には手厚い食事を提供をしていた。ゴッホは2階建ての寝室だけでなく、絵画のアトリエとして1階の部屋も自由に使うことができ、かなり快適な環境だったため、入院先として選んだとみられている。

 

療養院に入院している間、ゴッホはここで精力的に絵を描く。この時代に最も有名な作品を多数産みだしているその1つが本作の《星月夜》である。ほかに1889年5月に《アイリス》、1889年9月に《青い自画像》を制作している。

 

《星月夜》は6月18日ごろに描かれた。そのとき、弟のテオに星空シリーズの新しい習作を思いついたと手紙を書いている。

サン=レミのサン=ポール療養院
サン=レミのサン=ポール療養院

現在は精神病院は閉鎖し観光名所に


現在の正式な名称は「サン ポール ド モゾール修道院」である。ゴッホがアルルで耳切り事件を起こしたあと、この修道院に併設されていた精神病院にゴッホは入院していた。修道院の前は、オリーブ畑やひまわりを持っているゴッホの像があり、中に入ると、美しい回廊、庭園、ゴッホの部屋(再現)などがある。

療養院のゴッホの部屋。この窓から見える風景をゴッホは描いた。
療養院のゴッホの部屋。この窓から見える風景をゴッホは描いた。

21作品も存在する鉄格子窓から見た風景


《星月夜》を含めて少なくとも21作品の東向きの鉄格子の窓から見て描いた風景画が現在、見つかっている

 

ゴッホは、日の出、月の出、日差しを浴びた日中、曇の日、風の強い日、雨の日など天気の異なるさまざまな時間帯の同一風景を描いていた。《星月夜》は二階のベッドルームの窓からから見た東向きの風景であることには間違いない。

 

ただ入院当時、病院の職員から二階の寝室で油絵を描く許可は与えられておらず、ゴッホは部屋の一階のアトリエで昼間に絵画制作をしていたといわている。そのため《星月夜》は夜に見た風景の記憶を頼りに描いているのだろうと思われることがある。

 

しかし、単純にそう考えるのは間違いである。油絵制作は寝室できなかったものの、インクや木炭で紙の上にスケッチすることは可能だった。

 

こうした点からゴッホは、室で夜にスケッチ画をし、昼間にスケッチ画を元にして油絵を描いていたと思われる。

 

ゴッホは1889年5月23日ごろ、弟のテオに手紙で「窓から四角形の小麦畑が見える。朝になるとその栄光に満ちた小麦畑の上に朝日が昇る」と書いている。

 

なお、これらの東向きの窓から描かれた絵画に共通する要素は、画面右側に描かれたアルピーユ山脈のなだらかな丘の対角線である。また、21作品あるバージョンのうちの15作品は、小麦畑を囲む壁を越えて伸びる大きな糸杉の木が描かれている。

 

さらに糸杉の作品の中でも6作品は、本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。拡大された糸杉が現れる最も有名な作品は《糸杉と小麦畑(F717)》と《星月夜》で、通常よりも手前に近づけて描いている。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と小麦畑(F717)》(1889年)。画面右側に見える大きな糸杉が東向きの窓から描かれた絵画シリーズの目印の1つ。本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。
フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と小麦畑(F717)》(1889年)。画面右側に見える大きな糸杉が東向きの窓から描かれた絵画シリーズの目印の1つ。本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。

東向きの窓から見える風景シリーズの中で有名な作品の1つである《サン・レミーの裏にある山の風景(F611)》は、現在コペンハーゲンに存在するが、ゴッホはこの絵画のスケッチをたくさん描いている。

 

たとえば《嵐の後の小麦畑(F1547)》などが典型的である。ただし、この絵がアトリエか外で描かれたのかどうかははっきりしていない。

フィンセント・ファン・ゴッホ《サン・レミーの背後にある山岳風景(F611)》(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《サン・レミーの背後にある山岳風景(F611)》(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《嵐の後の小麦畑(F1547)》(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《嵐の後の小麦畑(F1547)》(1889年)

大きな糸杉が意味するものは?


絵の中で目立つ要素として中央を下から上まで貫いた大きな糸杉がある。

 

糸杉というモチーフは常に当時のゴッホの頭の中を占領していたもので、糸杉に対して「美しい線」を見出し、古代エジプトの記念碑として有名なオベリスクに相当する扱いとして見ていたという。

 

糸杉をモチーフにしたゴッホの代表作としては《糸杉と星の見える道》が挙げられる。美術史家によれば、《糸杉と星の見える道》は、プロテスタント世界でもっともよく読まれた宗教書の『天路歴程』から影響を受けていると指摘している。『天路歴程』に糸杉と大きな道のシーンがあるという。

 

ゴッホは1888年にアルルに滞在したころから糸杉が見える夜景の絵画を制作しはじめた。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》(1890年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》(1890年)

三日月と巨大過ぎる不自然な星々


《星月夜》の重要な要素はやはり星空である。

 

ゴッホはヴィクトル・ユーゴーやジュール・ベルヌの著作物が好きだったこともあり、星や惑星を「死後の世界」のイメージとして描いていると思われる。またゴッホは生涯の間、天文学に興味を持ち、かなり高度な天文学の知識と議論ができたという。

 

天文学的な記録からすると、ゴッホが当時描いた月は半円よりふくらんだ状態から欠けていく状態の月であり、ゴッホが描いた月は天文学上では正しくはないと指摘されている。また、当時三日月型であったとしても間違っているが、これはゴッホがデフォルメして描いたものだと考えられる。

 

《星月夜》は月以外に巨大な星々が印象的であるが、これもまた金星をデフォルメ化したものだと考えられている。1889年の春、プロヴァンスでは夜明けに金星がはっきりと見え、この作品が描かれた時期は金星がもっとも輝く時期であったという。そのため、糸杉の木の周辺に輝く大きな星群は、実際は金星である。

 

渦巻状の星雲が描かれているが、これは当時人気だったカミーユ・フラマリオンの天文学書に掲載されていたイラストレーションを元に描かれたものだと考えられている。

ゴッホが「星月夜」を描いた時期の星。金星が画面左側に存在する。
ゴッホが「星月夜」を描いた時期の星。金星が画面左側に存在する。

中央に見える村々は本当は存在しない?


ゴッホの寝室の東向きの窓からは絶対に見えなかった絵画の要素は村である。この村はサン=レミの村の丘からスケッチされた風景画を基盤にして、ゴッホが独自に付けたした要素だと思われる。

 

そのようなこともあって、美術史家のローナルド・ピクバンスは「さまざまなモチーフを意図的にコラージュしたもの」とし、《星月夜》ははっきりと「抽象絵画」と評している。

 

ピクバンスはゴッホが収容されていたから糸杉の樹は見えず、また、ほかに描かれている村や空の渦も含め、描かれてるモチーフのほとんどは実際の景色ではなく、ゴッホの想像の産物であると評している。

「F1541」スケッチ。丘の上から描いた村のスケッチ画を実際には見えないはずの小麦畑の風景画に付け足したと考えられる。
「F1541」スケッチ。丘の上から描いた村のスケッチ画を実際には見えないはずの小麦畑の風景画に付け足したと考えられる。

ゴッホにとっては抽象画の失敗作だった


ゴッホは膨大な手紙を書いているものの、《星月夜》への言及に関してはほとんどない。6月に星空を描いたという報告したあと、ゴッホは1889年9月20日ごろにテオに送った手紙で、その作品を「夜の習作」と書いている。

 

その後、9月28日、ゴッホが精神病院からテオに送った絵画のなかで、自分なりに少し良いと思っていたのは「小麦畑」「山」「果樹園」「青い丘とオリーブの木」「ポートレイト」「石場の入口」で、"残りの作品"に関しては特に感想はなかったとされている。

 

《星月夜》は、その"残りの作品"に含まれていた作品であり、ゴッホ自身はさほど関心はなかったようだ。ゴッホはテオに作品を実際に送付する際、郵便料金を節約するため、当初は《星月夜》に関しては送らず自分で所持をしていたという。

 

なお、1889年11月下旬ごろ、画家のエミーユ・ベルナードに送った手紙の中で、ゴッホは《星月夜》に関して失敗作であると説明している。また、バーナードへの手紙でゴッホは、星空上部中央に描かれた抽象現主義的に描かれた渦巻きについて「一度か二度は抽象的な方向へ向かおうとしたことがあったが、結局、間違いだった」と話している。

 

ゴッホは《星月夜》を抽象絵画作品の失敗とみなし、「星があまりに大きすぎる」とその理由を説明している。

医学的見地からゴッホは当時どういう状況だった?


ゴッホの伝記作家スティーブン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスはゴッホの絵画を幻覚的風景と単純に呼ぶことに慎重で、《星月夜》に対して医学的な知見から論議を行っている。その結果、ゴッホは当時、側頭葉てんかん、もしくは潜伏性と診断された。

 

「古くから知られている病気のような、"落ちていく病気"と呼ばれる手足を揺らす症状から始まり身体が崩壊していく種類のものではない。精神的てんかんだ。思考、知覚、疑問、感情の崩壊が現れ、しばしば発作的な奇行を起こすことがある」と二人は話している。

 

ゴッホは1889年7月に二度目の発狂を起こすことになるが、ネイファーとスミスは、ゴッホの発狂の源は彼が《星月夜》を描いたときに、すでに現れはじめていると指摘し、作品の創作意欲を打ち破る勢いで狂気が現れていると説明している。6月半ばのある日、現実感覚を超える勢いで、ゴッホは星空の絵画を描くことに夢中になって制作を行っていた。

使用されている顔料


《星月夜》はロチェスター工科大学の科学者とニューヨーク近代美術館によって共同で調査されている。顔料分析では夜空はウルトラマリンとコバルトブルーで塗られ、星や月には希少なインディアンイエローや亜鉛イエローが使われていることが分かっている。

作品の流通


・1889年9月28日に、ゴッホはパリにいる弟テオに他いくつかの作品と一緒に《星月夜》を送付している。

 

・ゴッホが死去し、半年後の1891年1月にテオも死ぬと、テオの未亡人であるジョーがゴッホの遺産の管理人となり《星月夜》の所有者となる。

 

・1900年に、ジョーはパリの詩人ジュリアン・レクラークに《星月夜》を売り払う。

 

・1901年に、ジュリアン・レクラークはゴーギャンの古い友人であるエミール・シューフェネッカーに転売。

 

・ジョーがシューフェネッカーからこの作品を買い戻す。

 

・1906年に、ジョーはロッテルダムのオルデンジール画廊に再度売り払う。

 

・1906年から1938年まで、ロッテルダム在住のジョージエット・P・ファン・ストークが画廊経由で購入し所有する。

 

・1938年以後、ファン・ストークがパリとニューヨーク在住のポール・ローゼンバーグに売り払う。

 

・1941年に、ニューヨーク近代美術館がローゼンバーグから《星月夜》を購入して、現在にいたる。

大衆文化に登場する「星月夜」


・ドン・マクリーンの「フィンセント」は、ゴッホにささげられた曲。ゴッホの伝記を読んだ1971年に書かれたという。「Starry Starry Night」という歌詞で始まるが、これはゴッホの「The Starry Night(邦題:星月夜)」から由来する。

 

・シンディ・ローパーのファーストアルバム「シーズ・ソー・アンユージュアル」の裏表紙に写っているハイヒールの靴底には、ゴッホの《星月夜》の絵画がカットアウトで貼り付けられている。ちなみに裏表紙のアートワーク担当は写真家のアニー・リーボヴィッツである。

 

・1990年の黒澤明の映画「夢」に出てくる画廊で、ほかのゴッホの絵画とともに《星月夜》がかけられている。

 

・ウディ・アレンが監督をつとめた映画『ミッドナイト・イン・パリ』の映画ポスターに《星月夜》が利用されている。

 

・「ザ・シンプソンズ」の第20シリーズの20話のエンディングで、マギーは《星月夜》の絵を描いている。

 

・英国BBC放送のSFドラマ「ドクター・フー」の第五期の10話「フィンセントと医者」の11番目の医者は、エイミー・ポンドとゴッホの時代に戻り、宇宙人の絵を描いている。

 

・2009年のアニメーション映画「コララインとボタンの魔女 3D」で、《星月夜》から影響を受けたと思われる背景が登場する。

シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」
シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」
「ミッドナイト・イン・パリ」の映画ポスター。
「ミッドナイト・イン・パリ」の映画ポスター。


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「ペール・タンギーの肖像」

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ペール・タンギーの肖像 / Portrait of Père Tanguy

タンギー爺さんの肖像


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1887年
サイズ 65.0 cm × 51.0 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 ロダン美術館

《ペール・タンギーの肖像》は、1887年にフィンセント・ファン・ゴッホが描いた油彩画。「タンギー爺さんの肖像」と呼ばれることもある。

 

ゴッホはタンギーを3点描いているが、そのうちの1点である。これらの作品はパリに移った後のゴッホの画風の進歩をよく示しており、ゴッホが自分自身に求めていた静寂さが伝わってくる。

 

本作品は、パリのロダン美術館に所蔵されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Portrait_of_P%C3%A8re_Tanguy、2022年6月9日


【美術解説】後期印象派「印象派と前衛の架け橋となった芸術運動」

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後期印象派 / Post-Impressionism

印象派と前衛の架け橋となった芸術運動


フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

概要


後期印象派は、1886年から1905年にかけて発展したフランスの芸術運動で、1886年に開催された最後の印象派展からフォービズムの誕生までの期間のことを指し、おおざっぱにいえば、印象派以後のフランス近代絵画というニュアンスだった。

 

後期印象派は、光と色の自然主義的表現を重視する印象派に反発する形で生まれた。そのためここでいう「後期」とは「印象派以降」というよりも「脱印象派」「反印象派」というニュアンスが強い。

 

後期印象派は、抽象性や象徴性を重視する。そのため、ナビ派、新印象派、象徴主義、クロワゾニスム、ポンアベン派、シンセティズムなどを含む。

 

具体的な作家名を挙げると、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンが後期印象派の御三家とされることが多い。

 

ほかに、ジョルジュ・スーラポール・シニャックの新印象派、オディロン・ルドン象徴主義もよく知られる。

 

彼らに共通するのは、若いころに印象派の影響を受けたことぐらいで、それ以外は印象派と反発するような独自のスタイルを歩んだ。したがって、まとまりのある、統一的な後期印象派様式があるわけではない。

 

後期印象派という言葉は1906年に美術批評家ロジャー・フライが使ったことが起源とされている。また、批評家のフランク・ラターは、1910年10月15日発刊の『Art News』でのサロン・ドートンヌのレビューで、オーソン・フリーズを「後期印象派のリーダー」と表現した。

 

3週間後にロジャー・フライは再び1910年にロンドンのグラフトン・ギャラリーで企画した展示「マネと後期印象派の作家たち」というタイトルで正式にこの言葉を使った。

 

この展覧会の出品者は、マネの他、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、セザンヌ、マティス、ドラン、ブラマンク、新印象主義の画家たちなど後期印象派の作家にフォーヴィズムなど20世紀初頭の前衛芸術家が混じったものだった。

 

印象派-後期印象派-20世紀美術という近代美術の流れが系統的に理解できたため、後期印象派は19世紀の美術と20世紀美術を橋渡しをする役目も果たしていたとされている。2年後には、イギリスやロシアの作家たちを含めた「第2回ポスト印象派」展が開催された。 

 

後期印象派は印象派を拡張し、表現における制限事項を定めることを拒否していたが、おおよそ「鮮やかな色彩」「厚塗り」「現実的・現代的な主題」といった特徴があった。

 

幾何学的形態や、表現効果を出すために形態を歪ませたり不自然もしくは独断的な色使いをする傾向があった。

重要ポイント

  • 印象派と20世紀初頭の前衛芸術の架け橋となった芸術運動
  • 印象派に反発して生まれたさまざまな表現形式の総称
  • ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホが代表的画家

作家


フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ
ポール・ゴーギャン
ポール・ゴーギャン
ポール・セザンヌ
ポール・セザンヌ
ジョルジュ・スーラ
ジョルジュ・スーラ

オディロン・ルドン
オディロン・ルドン
トゥールズ・ロートレック
トゥールズ・ロートレック
エドヴァンド・ムンク
エドヴァンド・ムンク
アンリ・ルソー
アンリ・ルソー

 

■参考文献

Post-Impressionism - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「ファン・ゴッホの椅子」

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ファン・ゴッホの椅子 / Van Gogh's Chair

黄色い家のゴッホの椅子


フィンセント・ファン・ゴッホ《ファン・ゴッホの椅子》,1988年
フィンセント・ファン・ゴッホ《ファン・ゴッホの椅子》,1988年

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年
サイズ 93.0 cm × 73.5 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 ロンドン国立美術館

《ファン・ゴッホの椅子》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ロンドンの国立美術館が所蔵している。

 

タイル張りの床の上に、素朴な木製の椅子と、藁で編まれたシンプルな座面が描かれている。椅子の座面には、装飾されたパイプとパイプタバコの入ったポーチが置かれている。背景にはゴッホの名前が書かれた玉ねぎの箱がある。

 

ゴッホの作品カタログ制作者であるヤン・ハルスカーは、「後年に、これほど多くのことが書かれたゴッホの絵はほとんどない」と指摘したほど、ゴッホの代表的なイメージとなっている。

背景


1888年5月7日、ゴッホはオテル・カレルから南仏アルルのカフェ・ドゥ・ラ・ガレに移った。経営者のジョセフとマリー・ジヌー夫妻と親交を深めたのだ。

 

そして、近くにあるラマルティーヌ広場2番地にある「黄色い家」に入居する予定で、ゴッホは家具を揃えていた。本作品はそのころに描かれたものである。

 

ゴッホは自分の作品を展示するギャラリーを求め、一連の絵画を描き始め、最終的に『ゴッホの椅子』(1888年)、『アルルの寝室』(1888年)、『夜のカフェ』(1888年9月)、『ローヌの星空』(1888年)、『静物』などの作品を制作した。

 

ほかに有名な『12本のひまわりのある花瓶』(1888年)なども描かれたが、いずれも「黄色い家」の装飾のための絵画だった。

絵画解説


ゴッホの椅子」は、ゴッホが同じ画家のポール・ゴーギャンと過ごした波乱に満ちた時間から生み出された作品である。

 

この作品とペンダント作品の《ポール・ゴーギャンの肘掛け椅子》は、ゴッホが青とオレンジ、ゴーギャンが赤と緑の補色で描かれている。

 

この2枚の絵は、ゴッホが耳を切り落とす前に描かれたものだが、入院した後も改良が続けられた。

 

ゴッホの「椅子」とポール・ゴーギャンの「肘掛椅子」の対比から、この二枚の絵の象徴性について多くの分析がなされている。

 

ゴッホの椅子がシンプルで気取らないのに対し、ゴーギャンの椅子ははるかに豪華で華麗なものである。このことは、ゴッホとゴーギャンの激しい関係に照らして解釈されている。

 

ゴッホは「この2つの習作でも、他の習作と同様に、私自身は明るい色彩による光の効果を求めていた」と述べている。

《ポール・ゴーギャンの肘掛け椅子》,1888年
《ポール・ゴーギャンの肘掛け椅子》,1888年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Van_Gogh%27s_Chair、2022年6月12日アクセス


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの寝室」

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アルルの寝室 / Bedroom in Arles

黄色い家のゴッホの寝室


フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》,1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》,1888年

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年
サイズ 72 cm × 90 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館

《アルルの寝室》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ自身が付けたタイトルは「寝室」である。

 

「黄色い家」として知られる、フランス、ブーシュ・デュ・ローヌ県アルルのラマルティーヌ広場2番地のゴッホの寝室を描いたものである。

 

右側の扉は上階と階段に通じており、左側の扉はゴーギャンのために用意した客間の扉である。

 

正面の窓からは、ラマルティーヌ広場とその庭園が見える。この部屋は長方形ではなく、正面の壁の左側の角が鈍角、右側の角が鋭角の台形であった。

 

ゴッホの手紙によると3つのバージョンがあり、それらは右側の壁に描かれた絵で簡単に見分けることができる。

ファースト・バージョン


ゴッホは、アルルに滞在していた1888年10月中旬に最初のバージョンに着手し、弟のテオにその狙いと手段を説明した。

 

「今回は私の寝室をシンプルに再現していますが、この部分には色をふんだんに使い、シンプルにすることでオブジェクトに適用されるスタイルに壮大さを加え、ある種の休息や夢を暗示するようになりました。私は、この構図を見ていると、思考や想像が停止してしまうと思うのです。

 

壁を淡いバイオレット色に塗りました。地面はチェックの生地で。木製のベッドと椅子はフレッシュバターのような黄色、シーツと枕はレモン色のライトグリーンです。ベッドカバーは緋色。窓は緑色。洗面台はオレンジ色、タンクは青。扉はライラック色。

 

そして、それだけです。この部屋には、シャッターが閉まっている他に何もない。

 

四角い家具は、揺るぎない休息を表し、壁の肖像画、鏡、瓶、そしていくつかの衣装もそうであるべきです。

 

この絵には白が使われていないので、額縁も白になるのですが、これは私に推奨されている強制的な休息と同じになるようにするためです。陰影は一切つけず、クレープに使われるようなシンプルな色のみで表現しました」。

 

ゴッホはこの手紙と、その少し後に書かれたゴーギャンへの手紙に構図のスケッチを添えている。手紙の中でゴッホは、この絵は病気で何日も寝たきりになったときに生まれたと説明している。

 

右側の壁には、ゴッホが友人のウジェーヌ・ボッホとポール・ウジェーヌ・ミリエの肖像画の細密画が描かれている。

ゴーギャンへの手紙に描かれたスケッチ。
ゴーギャンへの手紙に描かれたスケッチ。
テオの手紙に描かれたスケッチ。
テオの手紙に描かれたスケッチ。

絵画解説


ゴッホの椅子」は、ゴッホが同じ画家のポール・ゴーギャンと過ごした波乱に満ちた時間から生み出された作品である。

 

この作品とペンダント作品の《ポール・ゴーギャンの肘掛け椅子》は、ゴッホが青とオレンジ、ゴーギャンが赤と緑の補色で描かれている。

 

この2枚の絵は、ゴッホが耳を切り落とす前に描かれたものだが、入院した後も改良が続けられた。

 

ゴッホの「椅子」とポール・ゴーギャンの「肘掛椅子」の対比から、この二枚の絵の象徴性について多くの分析がなされている。

 

ゴッホの椅子がシンプルで気取らないのに対し、ゴーギャンの椅子ははるかに豪華で華麗なものである。このことは、ゴッホとゴーギャンの激しい関係に照らして解釈されている。

 

ゴッホは「この2つの習作でも、他の習作と同様に、私自身は明るい色彩による光の効果を求めていた」と述べている。

《ポール・ゴーギャンの肘掛け椅子》,1888年
《ポール・ゴーギャンの肘掛け椅子》,1888年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Van_Gogh%27s_Chair、2022年6月12日アクセス


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「小麦畑」

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小麦畑 / Wheat Fields


フィンセント・ファン・ゴッホ《日の出と小麦畑の風景》
フィンセント・ファン・ゴッホ《日の出と小麦畑の風景》

概要


《小麦畑》はフィンセント・ファン・ゴッホが、宗教的な学習や説教、自然とのつながり、肉体労働者への感謝、他者に安らぎを与える手段を提供したいという欲求から生まれた数十点の絵画シリーズ。

 

1885年にオランダで制作された《麦束》から、1888-1890年にフランスのアルル、サンレミ、オーヴェル・シュル・オワーズで描かれたカラフルでドラマチックな作品まで、彼の芸術家としての成長を示す麦畑の作品群。

 

「ゴッホと神』の著者であるクリフ・エドワードは、次のように述べている。

 

「ゴッホの人生は統合の探求であり、具体的にはゴッホが関心を持った「宗教」「芸術」「文学」「自然」の観念をいかに統合するかであった」。

 

プロテスタントの牧師を目指していたものの、結局、聖職に就くことができなかったゴッホは、人生の意味について最も深い感覚を表現し、伝える手段として芸術に目を向けはじめた。

 

ゴッホは、絵を描くことを天職と考えるようになった。「(世の中に対して)ある種の恩義を感じ、感謝の気持ちから、絵や図形の形で何らかの記念品を残したいと思うようになったという。

 

またゴッホは、パリからアルルへ向かう際、都市生活から脱却し、畑で働く労働者たちとともに働き、「自分の芸術と人生に、農村の労働に見合った価値を与える」ことを目指したのだった。

 

ゴッホは、麦畑を描いた一連の作品において、象徴主義や色彩を用い、彼の深く感じた精神的な信念、肉体労働者への感謝、自然とのつながりを表現したのである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Wheat_Fields、2022年6月13日アクセス


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの寝室」

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オーヴェルの教会 / The Church at Auvers

空虚で悟りのない教会


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1890年
サイズ 74 cm × 94 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 パリ、オルセー美術館

《オーヴェルの教会》は、1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩画。実物の教会は、パリの北西27kmに位置するフランス、オーヴェル・シュル・オワーズ市のエグリーズ広場にある。本作品は、パリのオルセー美術館が所蔵している。

 

《オーヴェルの教会》は、「オーヴェールの市庁舎」や茅葺き屋根の小さな家を描いた他の作品とともに、ヌエネン時代の風景を彷彿とさせる。

 

サンレミでの病院の最後の数週間は、すでに北仏への郷愁が見え隠れしていた。オーヴェルへの出発の2週間ほど前に書いた手紙の中で、「病気の間、私は記憶の中で小さなキャンバスを描いていたのですが、それは後で見ていただくとして、北の思い出です」と書いている。

 

1890年6月5日、妹のヴィルヘルミナに宛てた手紙の中で、この絵について説明したとき、彼はヌエネンに戻ってから行った同様の作業について具体的に言及している。

 

「村の教会の大きな絵があります。シンプルな深い青色、純粋なコバルト色の空を背景に、建物が紫色に見える。ステンドグラスの窓は群青色のしみのように見え、屋根は紫色と部分的にオレンジ色をしている。手前には緑の植物が咲き乱れ、砂には太陽の光のピンク色の流れがある。これはヌエネンで描いた古い塔と墓地の絵とほとんど同じだが、今の絵の方がより表情豊かで、より豪華な色彩になっているのだろう」。

 

この「シンプルな深い青」は、同じ時期にオーヴェル・シュル・オワーズで描かれた《アデリーヌ・ラヴーの肖像》にも使われている。

 

《オーヴェールの教会》の前景は太陽によって明るく照らされているが、教会自体は自らの影の中にあり、「自らの光を反射することも発することもない」のである。

 

ゴッホがこのような暗い教会を描いているのは、過去にプロテスタントの牧師になろうとして挫折した経験が背景にある。

 

1880年7月の弟テオへの手紙で、シェイクスピアの『ヘンリー四世』第一部から「空虚で悟りのない説教」の象徴として教会を説明している。ゴッホによれば、シェイクスピアの酔っぱらいファルスタッフの神のようだという。

 

教会前の道が別れているが、これは《カラスのいる麦畑》でも描かれている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Van_Gogh%27s_Chair、2022年6月12日アクセス


フィンセント・ファン・ゴッホの健康状態

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《冬》,1886/1887年
《冬》,1886/1887年

概要


フィンセント・ファン・ゴッホの健康状態について、コンセンサスは得られていない。1890年の彼の死は、一般的に自殺と考えられている。彼が患った可能性のある病気については、多くの対立する仮説が唱えられてきた。

 

ゴッホが患っていただろう病気としては、

  • てんかん
  • 双極性障害
  • 境界性人格障害
  • 日射病
  • 急性間欠性ポルフィリン症
  • 鉛中毒
  • 淋病
  • メニエール病
  • 統合失調症
  • 統合失調感情障害
  • 物質使用障害
  • 非自殺性自傷障害「自傷」
  • 不安障害

 

の可能性などが挙げられる。

症状・特徴


ゴッホの手紙やサン・レミの保護名簿などの資料には、さまざまなゴッホの身体症状が記されている。

 

消化不良や胃の調子が悪い、幻覚、悪夢、躁病、鬱病、昏迷、欠伸、インポテンツ、不眠、不安などである。

 

ゴッホはある種の発作や危機に見舞われ、そのうちの1回、1888年12月23日に耳の一部、あるいは全部を切り落としてしまったのである。この発作の後、彼はアルルの病院に収容され、「全身譫妄を伴う急性躁病」と診断されている。

 

この病院の若い研修医フェリックス・レイは、「一種のてんかん」である可能性を示唆し、精神てんかんと名づけた。

 

このてんかん発作は、1890年になると頻繁に起こるようになり、最も長く、深刻だったのは1890年2月から4月にかけての約9週間であった。

 

最初の混乱と意識喪失の発作に続いて、茫然自失と支離滅裂の時期が続き、その間は絵を描くことも、絵を描くことも、手紙を書くこともできなくなっていた。

 

ゴッホの手紙の中で最も頻繁に訴えられているのが、胃と消化不良の問題である。また、幻覚や悪夢に悩まされることもあった。しばしば発熱に苦しんだり、不眠症の発作を訴えることもあった。

 

ハーグで淋病と診断される3週間前から眠れなくなった(不眠と発熱は伝染病によるものと思われる)。ときには、一種の呆然とした状態に陥ることもあった。

 

ゴッホはアルルに到着した夏、弟のテオに自分のインポテンツを報告し、その1ヶ月後、ベルナールに手紙を書いたとき、まだインポテンツが頭から離れないようだった。

 

ゴッホは晩年の手紙のなかで何度か自殺について触れているが、ナイフェとスミスは、ゴッホが基本的に自殺には反対していたことを指摘している。

ふるまい


アメリカの精神科医ディートリッヒ・ブルーマーなど多くの分析者が、フィンセント・ファン・ゴッホが患っていたもののひとつは双極性障害であったということに同意している。この精神疾患は、治療しなければ、それ自体が蓄積され、より強くなっていく。

 

双極性障害は、躁病とうつ病を特徴とし、躁病時は、無謀な行動、多幸感、衝動性などが見られる。うつ病時は、抑うつ、怒り、優柔不断、社会的引きこもりなどの症状を特徴とし、しばしば死や自殺の考えを繰り返す。

 

これらの症状の多くは、彼の伝記を通してわかり、彼の行動の多くを説明できる。

 

ゴッホは幼い頃から絵画と宗教に強い関わりを持ちながら育った。オランダの叔父の画商で働いた後、ロンドンの別の画商に移り、そこで大家の娘、ウジェニー・ロワイエと恋に落ちた。

 

しかし、プロポーズを断られ、初めて精神を病んだ彼は、神に捧げるために人生すべてを変えることになる。この20歳の時の挫折は、彼の健康状態を悪化させる第一歩となり、1890年の自殺につながった。

 

ある著者は「ゴッホには精神疾患の家系があった」と指摘しており、ファン・ゴッホは遺伝的に受け継がれると広く考えられている双極性障害の症状を見せているという。

 

当時、キリスト教会の正式な信者であるファン・ゴッホは、司祭になることを志望していた。しかし、その乱れた生活ぶりは、1878年頃、ヨーロッパ各地の神学校から不合格にされるなど、軽蔑と拒絶の対象となるばかりであった。

 

ゴッホの無謀な行動、優柔不断で衝動的な行動は、すべて双極性障害であることを示唆している。

 

美術の画商として作品を追い求めながら、「こんな価値のない美術品は買わないでくれ」と客に言うようなことは、双極性障害によって非常によく説明できる。

 

優柔不断とアイデンティティの問題は、次の年に見ることができる。ゴッホはその後10年間、恋愛のもつれを原因に頻繁に引っ越しをしている。

 

1880年にブリュッセルに移り住み、画家となる。そこで、従姉妹のケイトに求婚するが、拒絶されたため、ハーグに移り住む。1886年、愛人のクラシナ・マリア・ホーリックが売春の仕事やアルコール中毒になったため、パリに移り住む。

 

ゴッホは弟テオの小さなアパートに身を寄せ、招かれざる客として玄関先に姿を現した。パリでは、絵を描くことで冷静になり、感情を落ち着かせることができたようだ。

 

ゴッホは、喫煙、アルコールとコーヒーの過剰摂取、食事制限、時には断食など、健康を害するさまざまな行為に耽っていた。

 

その結果、当然のことながら栄養失調に陥った。彼はパイプから手を放せず、死の床でもパイプを吸い、何度か吸い過ぎを自覚している。また、アルコール、特にアブサンを過剰に飲んでいた。

 

ゴッホが絵の具を食べていたという証拠がいくつかあり、絵の具を食べたことは、1890年の新年ごろの発作と関係があるかもしれない。

 

1890年1月、ゴッホの発作が再び起こった後、テオは手紙で「もし絵具をそばに置くことが危険だと認識したら、しばらくそれを片付けて、ドローイングを描いたらどうですか」と助言した。絵具は有毒性物質なので、ゴッホが絵具を食べていたなら、油絵を描くのは危険だと教えた。

《耳に包帯を巻いた自画像》,1889年
《耳に包帯を巻いた自画像》,1889年

芸術におけるゴッホの家族

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芸術におけるゴッホの家族 / Van Gogh's family in his art

フィンセント・ファン・ゴッホ《エッテンの庭の記憶》,1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《エッテンの庭の記憶》,1888年

概要


芸術におけるゴッホの家族とは、フィンセント・ファン・ゴッホがゴッホの家族のために、あるいは家族について制作した作品のことを指す。

 

1881年、ゴッホは祖父(フィンセント・ファン・ゴッホ)と妹のウィルの肖像画を描いた。

 

ヌエネンに住んでいた頃、1885年の父の死後、《聖書のある静物》を制作し、父を追悼している。

 

また、1884年から1885年にかけて、両親の牧師館とその庭、教会を描いた多くの絵画やデッサンを制作している。

 

アルルでの絶頂期には、母と妹を描いた『画家の母の肖像』、『エッテンの庭の記憶』、妹ウィルを描いたと思われる『小説読本』を制作している。

 

ゴッホはサン・レミのサン・ポール精神病院にいたとき、母と妹への贈り物として数点の絵を描き、弟テオとその妻ヨハンナには、フィンセントと名付けた息子の誕生を祝して《アーモンドの花》という絵を描いた。

フィンセント・ファン・ゴッホ(祖父)


フィンセント・ファン・ゴッホの祖父(1789年生まれ)もフィンセント・ファン・ゴッホという名前であった。

 

画家の最初の伝記作家である義妹でテオの妻のヨハンナ・ファン・ゴッホによると、祖父は牧師で、マリーヌのヨハンナ・ファン・デル・ファンとヨハネス・ファン・ゴッホの息子であったという。

 

ヨハンナ・ファン・ゴッホは、ヨハネスについて「はじめは彼の父と同じように金線引きをやっていたが、後に聖書の先生となり、ハーグの回廊教会の事務員となった」と書いている。彼女はヨハネスについて、知的で義務感にあふれ、優れた業績で賞や証書を授与された人物と表現している。

 

彫刻家で生涯独身だった大叔父の遺産により、フィンセント・ファン・ゴッホ(祖父)はライデン大学で神学を学ぶことができた。学業を順調に終え、ベンスホップ牧師館に定着した後、1810年にE・H・フリダーグと結婚した。

 

二人は1857年3月7日にエリザベートが死亡するまで結婚生活を続け、フィンセント・ファン・ゴッホ牧師は 1874年まで存命した。

フィンセント・ファン・ゴッホ、画家の祖父の肖像 1881年
フィンセント・ファン・ゴッホ、画家の祖父の肖像 1881年

父と母


テオドロス・ファン・ゴッホ


父テオドルス・ファン・ゴッホは1822年2月8日に11人兄弟の一人として生まれ、6人兄弟の中で唯一、父と同じ牧師になった。

 

テオドルスは、1849年にユトレヒトの神学課程を無事修了し、オランダの北ブラバント地方の村、グロット・ズンデルトで牧師の職を得ることができた。1849年4月1日、ツンデルトで父フィンセント・ファン・ゴッホに承認された。

 

テオドルス・ファン・ゴッホ牧師は、カルヴァン派の教義を信奉するプロテスタント教会「オランダ改革派教会」の牧師であった。

 

1851年5月、テオドルスは、書籍業を営む父を持つアンナ・コルネリア・カーベントゥスと結婚した。ヨハンナ・ファン・ゴッホによると、テオドルスは「ハンサムな牧師と呼ばれ、人柄もよく、精神的にもすばらしい資質をもっていた」とある。

 

フィンセント・ファン・ゴッホは、1885年3月にテオドルスが急逝した数ヵ月後に、父のオランダ語公認聖書を描いた《聖書のある静物》(F117)を制作している。

 

聖書は、ヴィンセントが慣習にとらわれていると考えた父親の信仰を象徴している。彼は、イザヤ書53章の一節を開いたページを描いている。聖書の前に置かれたエミール・ゾラの小説『生きる喜び』は、彼にとって世俗の象徴であった。燃え尽きたろうそくは、父親の人生とヴィンセントの信仰の消滅を表しているのだろう。

《聖書のある静物》,1885年
《聖書のある静物》,1885年

アンナ・ファン・ゴッホ


アンナ・コーネリア・カーベンタスは、1819年9月10日、ハーグで王室御用達の装丁家ウィレム・カーベンタスのもとに生まれた。妹のコルネリアはテオドラスの弟で画商のフィンセント・ファン・ゴッホと、姉は聖職者のストリッカーと結婚した。

 

アンナは敬虔な聖職者の妻として、教区で夫の手伝いをするようになった。

 

彼女は芸術を好み、「草花の絵でノートを埋め尽くす」ほどの芸術家肌であり、ヘンドリック・ファン・デ・サンデ・バクフイゼンに絵画を学んだ。

 

成長した3人の息子と夫に先立たれながらも、「彼女のエネルギーと精神は、稀な勇気をもって悲しみに耐えていた」という。

 

《画家の母の肖像(ゴッホ)》(F477)は、母親を撮影したモノクロの写真をもとに制作されたものである。緑色の背景に、気配りやプライドの高い、立派な中産階級の女性に見える。

 

ゴッホは寝室に飾るために《エッテンの庭の記憶》(F496)を描いた。年上の女性は自分の母親、格子縞のショールをまとった年下の女性は妹のウィルとみなされている。ウィルには、「ディケンズの小説に出てくるような印象を受けた」と語っている。

《画家の母の肖像(ゴッホ)》,1888年
《画家の母の肖像(ゴッホ)》,1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《エッテンの庭の記憶》,1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《エッテンの庭の記憶》,1888年

ウィルは絵の中の母親の後ろに立っている。二人の背後には、腰をかがめて庭仕事をしている女性がいる。母と娘は左のフレームの前景を埋め尽くしており、まるでその場から歩き出したかのようである。妹への手紙の中で、彼はこの絵について説明している。

 

「散歩に出た二人の婦人のうち若い方は、緑とオレンジのチェックが入ったスコットランドのショールを身につけ、赤い日傘を差しています。老婦人は黒に近い紫色のショールをかけている。しかし、シトロンイエローやピンクや白が混じったダリアの束が、地味な姿に爆発的な色彩を与えているようです。その後ろには、数本の杉の低木とエメラルドグリーンのヒノキがある。ヒノキの向こうには、淡い緑と赤のキャベツ畑が広がり、その周りを小さな白い花が縁取っている。砂地の道は生々しいオレンジ色で、スカーレットゼラニウムの2つの花壇の葉はとても緑色をしている。最後に、隣接する平面には、青い服を着た女中が、白、ピンク、黄色、朱赤の花を咲かせる植物をふんだんに並べている」

 

「似ているとは言い難いですが、私にとっては、この庭の詩的な性格と様式を、感じたままに表現しています。仮に、散歩に出かけている二人の女性が、あなたと私たちの母親だとしましょう。図的な色の選択は、地味なバイオレットにダリアの激しいシトロンイエローの斑点があり、私には母の個性を示唆しているのです」。

 

キャリアの絶頂期を迎えたフィンセントは、大切な絵を家族に譲り渡すことを楽しんでいた。ヴァイオレット色のアイリス、バラの花束などは母親に贈られた。

 

また、オリーブを摘む女性を描いた3枚のうち、最も解像度が高く、様式化された絵は、妹と母のために描かれたものである。

《静物:アイリスと花瓶》.1890年
《静物:アイリスと花瓶》.1890年
《オリーブを摘む女性》,1889年
《オリーブを摘む女性》,1889年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Van_Gogh%27s_family_in_his_art、2022年6月17日アクセス


フィンセント・ファン・ゴッホの初期作品

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フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人(ミレーの模写)》,18881年
フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人(ミレーの模写)》,18881年

概要


ゴッホが絵を書き始めたのは遅い。初期作品は、フィンセント・ファン・ゴッホが27歳と28歳のとき、本格的な芸術探求を始めた1881年と1882年に描いた絵画と素描の作品群から構成されている。

 

この2年間、ゴッホはいくつかの場所で暮らした。1881年に約1年間学んだブリュッセルを離れ、エッテン(北ブラバント州)の実家に戻る。エッテンで住民の何人かを描いている。

 

1882年1月、ゴッホはハーグに行き、義理のいとこアントン・モーヴに師事し、モーヴの資金援助を受けてアトリエを構えた。

 

1882年、ゴッホはハーグの絵の依頼を受けたが、現在では傑作とされているこの絵は、当時は受け入れられなかった。

 

ゴッホは当初、主に水彩で絵を描いていた。モーヴの指導のもと、ゴッホは1882年に油絵を描き始める。ゴッホが魅了された主題は労働者階級や農民で、ジャン=フランソワ・ミレーなどの作品に触発されていた。

背景


幼年期


1869年7月、ゴッホの叔父であるセント_ファン・ゴッホの援助により、ハーグの画商グーピル・アンド・シーで働きはじめる。

 

研修の後、1873年6月にグーピルからロンドンに転勤になり、ブリクストンのハックフォード通り87番地に下宿し、サザンプトン通り17番地のグーピル社に勤めた。

 

仕事も順調で、20歳の時には父親以上の収入を得ていた幸せな時代だった。大家の娘、ウジェニー・ロワイエに恋をするが、ロワイエはゴッホを拒絶。ゴッホはますます孤立し、宗教に熱中するようになった。

 

父と叔父の計らいでパリに渡り、販売店で働くことになった。しかし、美術品が商品として扱われることに憤りを感じ、そのことは顧客にも知られるようになり、1876年4月1日、雇用を打ち切られた。

 

ゴッホは、労働者に奉仕する聖職に興味を持ち、オランダで一時期学んだが、その熱意と自らに課した禁欲主義により、信徒のための聖職に短期間就くことを諦めた。 

 

彼はやや袂を分かち、教会の体制を拒否しながらも、自分にとって慰めとなる大切な個人的霊性を見出した。

 

1879年になると、彼は人生の方向転換を図り、「神と人間への愛」を絵画で表現できることを知った。

 

1880年、ゴッホは芸術家として役に立ちたいという思いを書き残している。「偉大な芸術家、真剣な巨匠たちが、その傑作の中で語ることの本当の意味を理解しようとすること、それが神につながる。ある人はそれを本の中で書き、語り、別の人は絵の中で語る」。

 

ブリュッセルに移ったゴッホは、美術学校ではなく、独学で学ぶことを決意し、オランダ人画家アンソン・ファン・ラパールにしばしば師事した。このとき、パリ・グーピル商会で画商として働いていた弟テオは、ゴッホに仕送りを始め、この習慣は兄弟の生涯を通じて続いた。

ゴッホが描いた「ハックフォード通り87番地」の絵
ゴッホが描いた「ハックフォード通り87番地」の絵

エッテン、ドレンテ、ハーグ


1881年4月、ゴッホは両親とともにオランダのエッテン(北ブラバント州)の田園地帯に移り住み、近所の人々を題材にして絵を描き続けた。

 

夏には、最近未亡人となった従兄弟のキー・フォス=ストリッカーと散歩をしたり、話をしたりして過ごすことが多くなった。彼女は母の姉で、画家に好意を寄せていたヨハネス・ストリッカーの娘である。

 

ゴッホはストリッカーとの結婚を望んでいたが、彼女の「二度と二度と結婚しない」と決定的に断られる。経済的に自立できてきない点で、結婚は問題外だった。

 

ゴッホは深く傷ついた。その年のクリスマス、彼は父親と激しく喧嘩し、お金の贈り物を拒否して、ハーグに旅立った。

 

1882年1月、ハーグに居を構えた彼は、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴェ(1838-88)を呼び寄せた。モーヴェは彼に油彩と水彩の絵画を紹介し、アトリエを構えるための資金を貸した。

 

しかし、石膏模型から絵を描くことをめぐって、二人はすぐに仲たがいしたようである。ゴッホは、この仲違いについて、実際はモーヴがアルコール依存症の娼婦クラシナ・マリア・"シエン"・ホーニック(1850-1904)とその幼子との共同生活をすることを認めなかったのだろうと推測している。

 

シエンと出会ったのは1月末のことで、彼女には5歳の娘がおり、妊娠中だった。7月2日、シエンは男の子、ウィレムを出産。ゴッホの父親は、シエンとその子供たちを捨てるように息子にかなりの圧力をかけた。フィンセントは反発した。

 

ゴッホの叔父で画商のコルネリスは、ゴッホの街を描いた20枚の墨絵を依頼し、画家は5月末にそれを完成させた。6月、淋病にかかり、3週間入院。

 

この夏から油絵を描き始める。

 

1883年秋、1年の交際を経て、シエンと2人の子供の元を離れ、ゴッホはオランダ北部のドレンテ県に移り住む。同年12月、孤独に駆られ、当時北ブラバント州ヌエネンに住んでいた両親のもとに身を寄せる。

ハーグのアトリエから見た屋上(1882年)、水彩、個人蔵
ハーグのアトリエから見た屋上(1882年)、水彩、個人蔵

画家としての発展


ゴッホは学生時代に水彩画を描いていたが、現存する作品は少なく、現存する作品の中には作家性が問われるものもある。

 

大人になってから美術に取り組んだ彼は、シャルル・バルグが編集し、グーピル社から出版された『Cours de dessin』を模写して、初歩的なことから始めた。

 

2年も経たないうちに、絵の依頼を受けるようになった。1882年春、アムステルダムの有名な現代美術ギャラリーのオーナーである叔父のコルネリス・マリヌスは、ハーグのデッサンを依頼した。しかし、ゴッホの作品は、叔父の期待に応えられるものではなかった。

 

マリヌスは、今度は対象を細かく指定して再度の依頼をしたが、またしても失望された。それでもゴッホは頑張った。可変式のシャッターを設置し、アトリエの採光を改善し、さまざまな画材を試してみた。

 

1年以上かけて、「白と黒」の高度に精巧な習作である人物画を制作したが、当時は批判を受けるだけであった。しかし、今日では、この作品は彼の最初の傑作として認識されている。

農民


ゴッホに大きな影響を与えた写実主義運動に関連する「農民ジャンル」は、1840年代にジャン=フランソワ・ミレーやジュール・ブルトンなどの作品から始まった。

 

ミレーやブルトンの作品を「高みにあるもの」という宗教的な意味を持ち、「麦の声」と表現していた。

 

ゴッホは大人になってからも、人に仕えること、特に肉体労働者に仕えることに関心を持っていた。

 

若い頃、彼はベルギーのボリナージュで炭鉱労働者に仕え、奉仕した。それは、宣教師や労働者のための牧師になるという彼の使命に近づくように思われた。

 

ゴッホが好んだ作家や画家に共通しているのは、貧困や社会的弱者への感傷的な扱いだった。ゴッホは農民の絵を描くことについて、弟のテオにこう書いている。「こんなに好きなものを、どうやって描いたらいいのだろう。耕す農夫のように、自信を持って、自分が合理的なことをしているという確信を持って、鍬を引きずるように、絵を描かなければならない。馬がなければ、自分が馬である。」

《棒や鋤を持つ男》 1882年
《棒や鋤を持つ男》 1882年

作品


1881年


《キャベツと下駄のある静物画》 1881年 アムステルダム・ファン・ゴッホ美術館 (F1)
《キャベツと下駄のある静物画》 1881年 アムステルダム・ファン・ゴッホ美術館 (F1)
《鎌を持ったしゃがんだ少年》 黒チョークと水彩 1881年 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ (F851)
《鎌を持ったしゃがんだ少年》 黒チョークと水彩 1881年 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ (F851)
《縫い物をする女性》 水彩 1881-82 P・N・デ・ブール財団、アムステルダム (F869)
《縫い物をする女性》 水彩 1881-82 P・N・デ・ブール財団、アムステルダム (F869)

1882年


荒天の日、ゴッホはハーグ近郊のビーチリゾート、シェベニンゲンでイーゼルを立て、屋外で《荒天のシェベニンゲンの海の眺め》(F4)を描いた。

 

印象派は野外で絵を描いたことを評価されることが多いが、彼らが最初というわけでもない。しかし、ほとんどの場合、その場でスケッチをし、アトリエで制作する。このときゴッホは、厚塗り絵の具に砂粒が入るような強い風と格闘していた。砂はほとんど削り取られたが、塗料の層に砂粒が入り込んでいる状態になっている。

 

白波の立つ海、脅える空、風に吹かれる旗など、波乱の天候がよく描かれている。この絵は2002年12月にゴッホ美術館から盗まれ、2016年9月にイタリア・ナポリで発見された。

《荒天のシェベニンゲンの海の眺め》 1882 アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館(F4)
《荒天のシェベニンゲンの海の眺め》 1882 アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館(F4)

ゴッホが《森の少女》あるいは《森の白衣の少女》のために描いた習作(F8)について、いかに自分がこの作品を楽しんでいるかを述べ、観客の感覚をいかに誘発し、絵画をどのように体験させたいかを説明している。

 

「森の中のもうひとつの習作は、乾いた棒で覆われた地面にある緑色のブナの大きな幹と、白い服を着た少女の小さな姿です。この作品をクリアに保つこと、そして異なる距離に立つ幹の間にスペースを確保すること--遠近法によってそれらの幹の場所や相対的な大きさが変化する--、その中で人が呼吸して歩けるように、そして木の香りを感じられるようにすることに、大きな困難がありました」。

 

《森の少女》(F8a)では、少女は巨大な樫の木に覆い隠されている。この絵は、ゴッホが少年時代に家族から逃れるためにズンデルトの森に逃げ込んだ時のことを思い起こさせるのかもしれない。

《森の白衣の少女》 1882 オランダ、オッテルロー、クレラー・ミュラー美術館(F8)
《森の白衣の少女》 1882 オランダ、オッテルロー、クレラー・ミュラー美術館(F8)
《森の少女》(F8a) 1882
《森の少女》(F8a) 1882

1882年11月、ゴッホは労働者階級の様々な性格を描くために個人を描き始めた。《くたびれ果て》はそのシリーズの一つである。

 

1882年11月24日、ファン・ゴッホは弟のテオに、《くたびれ果て》(F997)のモデルとなったアドリアヌス・ズイデルランドについて、「禿げた頭にパッチの入ったボンバジンスーツを着た、年取った労働者のなんと美しい姿だろう」と書き送った。

 

ズイデルランドは、オランダ・プロテスタントの「老人と女性のための修道院」の住人であった。ゴッホは、モデルになってくれた住人に少額の報酬を支払っていた。ゴッホは鉛筆画を描く際、黒鉛筆の光沢を打ち消すために牛乳を定着剤として使い、「ベルベットのような黒」に仕上げている。

《くたびれ果て》(F997),1882年
《くたびれ果て》(F997),1882年

【美術解説】アントン・モーブ「ゴッホに影響を与えたハーグ派メンバー」

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アントン・モーブ / Anton Mauve

ゴッホに影響を与えたハーグ派メンバー


アントン・モーブ《牛のいる風景》
アントン・モーブ《牛のいる風景》

概要


生年月日 1838年9月18日
死没月日 1888年2月5日
国籍 オランダ
表現形態 絵画
ムーブメント 写実主義

アントニー・"アントン"・ルドルフ・モーヴ(1838年9月18日 - 1888年2月5日)は、オランダの画家。

 

写実主義のハーグ派の主要メンバーで、また色彩の名手であり、義理の従兄弟であるフィンセント・ファン・ゴッホの初期キャリアに非常に大きな影響を与えた。

 

 

農民が畑で働く姿を描いた作品が最もよく知られている。羊の群れを描いた作品は、特にアメリカのパトロンに人気があり、「羊が来る」シーンと「羊が行く」シーンで価格差が生じるほどであった。

略歴


ゴッホの農民画

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ファン・ゴッホ 1881-12年 エッテン-シェベニンゲン 縫い物をする女 F 869 JH 83
ファン・ゴッホ 1881-12年 エッテン-シェベニンゲン 縫い物をする女 F 869 JH 83

概要


『農民画』は、フィンセント・ファン・ゴッホが1881年から1885年にかけて制作した一連の作品群。

 

ゴッホは、農民をはじめとする労働者階級の人々に特別な愛着と共感を抱いていた。特に、ジャン=フランソワ・ミレーなどの農民風俗画を好んでいた。

 

ゴッホは農民という題材に高貴さを感じ、近代美術の発展において重要であるとみなしていた。ゴッホは、かつて牧歌的な環境であったオランダの風景が工業化によって侵食され、職業を変える機会の少ないワーキングプアの生活が変化していることを目の当たりにしていた。

 

ゴッホは、オランダやベルギーの農民、織工、漁師など、働く男女の人物像を描くことに特に関心を寄せていた。この時期のゴッホの作品の大部分を占める人物研究は、彼の芸術的成長において重要で基礎となる要素となった。

背景


農民という主題


写実主義運動における「農民の主題」は、1840年代にジャン=フランソワ・ミレーやジュール・ブルトンらの作品に始まる。ゴッホは、ミレーやブルトンの作品を「高みにあるもの」という宗教的な意味を持ち、"麦の声 "と表現している。

 

ミレーがゴッホに与えた影響について、ゴッホ美術館は「ミレーの絵画は、農民とその労働を描いた前例のないもので、19世紀美術の転換点となるものである」と述べている。

 

ミレー以前は、農民の姿は絵画的な風景やノスタルジックな情景を構成する多くの要素のひとつにすぎなかった。ミレーの作品では、個々の男女が勇壮でリアルな存在となった。ミレーはバルビゾン派の主要な画家の中で唯一、「純粋な」風景画に関心を持たなかった画家である」。

ジャン・フランソワ・ミレー 《ラ・シャリテ》 1859年
ジャン・フランソワ・ミレー 《ラ・シャリテ》 1859年

芸術的発展と影響


1880年、27歳のとき、ゴッホは画家になることを決意する。その年の10月にブリュッセルに移り住み、初歩的な勉強を始めた。

 

1881年4月にエッテンに戻り、両親と暮らしながら独学で美術を学んだ。グーピル商会の本店で画商をしていた弟のテオは、ゴッホを励まし、ゴッホの費用を負担するようになる。

 

ゴッホはイラスト入りの雑誌の画像を見ながら独学で絵を描いていた。フランスの画家シャルル・バルグが書いた2冊の画集は、ゴッホの重要な学習資料となったという。

 

1871年に書かれた『Cours de dessin』と『Exercises au fusain pour préparer à l'étude de l'académie d'après nature』の2冊で、ゴッホはデッサンのコピーを作ったり、ヌード画像を着衣描写に転用したりしている。

 

1882年1月、ハーグに居を構えたゴッホは、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴ(1838-88)に声をかけた。モーヴはゴッホに油彩と水彩の絵画を教え、アトリエを構えるための資金を貸した。

 

ゴッホは、娼婦クラシナ・マリア・"シエン"・ホーリック(1850-1904)など、ワーキングプアの人々を描き始め、彼女と関係を持つことになる。ゴッホは、自分のアトリエがいつの日か貧しい人たちの憩いの場となり、彼らが食事や住居、ポーズをとるためのお金を受け取ることができるようになることを夢見ていた。

 

しかし、ゴッホの作品はあまり評判がよくなかった。モーヴとグーピル社の経営者H.G.テルスティグは、絵は粗く、魅力に欠けると批評していた。ゴッホは、自分の絵の未熟さの特徴を、あくでできたこっぴどい「黄色い石鹸」になぞらえた。

 

5歳の娘マリアと一緒に暮らすうちに、ゴッホとシエンの関係は変化し、ゴッホの家族は大いに落胆した。モーヴはゴッホに突然冷たくなり、手紙も返さなくなりはじめた。ゴッホはモーヴがシエンとその幼い娘との関係を認めなかったのだろうと考えていた。ゴッホはシエンとその娘を描いたデッサンを何枚も描いている。

 

シエンとの関係を解消したゴッホは、1883年9月にドレンテに移り住み、風景画を描いた。その3ヵ月後には、当時ヌエネンに住んでいた両親のもとに戻った。

 

1884年、ゴッホは農村の生活や風景を描いた作品「織り子」シリーズを制作した。短期間ではあるが、アイントホーフェンで絵画教室を開いた。この年の終わり頃、ゴッホはシャルル・ブランの色彩理論の影響を受け、補色の実験を始めた。

 

1885年、ゴッホは農民の習作を重ね、最初の大作《ジャガイモを食べる人たち》に結実させた。ゴッホは作品で、特に地味な色や黒を混ぜた色を使い、それが17世紀の巨匠たち、例えばフラン・ハルスのようだと感じていた。しかし、弟のテオは、印象派の作品を参考にして、作品を明るくするようにと度々言っていた。

 

フィンセントの父であるテオドルス・ファン・ゴッホは1885年3月26日に死去。11月、フィンセントはアントワープに移り住む。

【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」

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ジャガイモを食べる人々 / The Potato Eaters

貧しい人々を描いたゴッホ初期作品の自信作


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1885年 
サイズ 82cm × 114cm
メディウム 油彩
所蔵者 ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

《ジャガイモを食べる人々》は1885年にフィンセント・ファン・ゴッホが制作した油彩作品。82cm × 114cm。アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館が所蔵している。ゴッホの農民を主題とした絵画シリーズの傑作とみなされている。

 

この絵の油絵の原画はオッテルローのクレラー・ミュラー美術館にあり、また、この絵のリトグラフも制作され、ニューヨーク近代美術館などに所蔵されている。

構図


 1885年の3月から4月上旬にかけて、ゴッホは《ジャガイモを食べる人々》の習作スケッチをしており、それをパリにいる弟テオに送っているが、テオはこの作品に関してあまり関心を持たなかったとされ、また画面全体が暗すぎると批判も浴びた。

 

4月13日から5月初めまで制作を続け、同年末に小筆で修正を加えた以外はほぼ完成していた。

 

テオの反応をよそに、当時のゴッホとしては自身が本当に表現したかった農民の姿を描いたベスト作だったと述べている。また、かなり難易度の高い構図を描き上げて、自身が優れた画家への道を歩んでいることを証明したかったという。

 

 

ゴッホは貧しい農民の厳しい現実を描写しなければないと考えており、意図的に卑俗で醜いモデルを選んだが、完成した作品は自然であり汚れのない美しい作品であると思っていた。

 

2年後、パリで妹のウィレミナに宛てた手紙の中で、ゴッホは『ジャガイモを食べる人々』を最も成功した絵だと考えていたと書いている。

 

「自分の作品について思うことは、ヌエネンで描いたジャガイモを食べる農民の絵は、結局のところ私がやった最高の作品だということだ」。

 

しかし、この作品は描かれてすぐに友人のアントン・ファン・ラパルドから批判された。これは新進芸術家としてのゴッホの自信に打撃を与え、彼は友人にこう返した。

 

「あなたには...私の作品をあなたのような形で非難する権利はない」(1885年7月)、その後 「私はいつもやり方を学ぶためにまだできないことをやっている」と書いた。(1885年8月)と言っている。

 

フィンセント・ファン・ゴッホは、ベルギー人画家シャルル・ド・グルー、特に彼の作品《夕食前の祝福》を賞賛していたことが知られている。ド・グルーの作品は、農民の家族が夕食の前に恵みを口にする様子を荘厳に描いたものである。

 

ド・グルーの作品は、農民の家族が夕食の前に恵みを口にする様子を荘厳に描いたものである。この絵は、キリスト教の「最後の晩餐」の表現と密接に関連していた。

 

ゴッホの《ジャガイモを食べる人々》は、このド・グルーの作品から着想を得ており、ゴッホの作品にも同様の宗教的意味合いを見出すことができる。

シャルル・ド・グルー《夕食前の祝福》1861年
シャルル・ド・グルー《夕食前の祝福》1861年

バージョン


《ジャガイモを食べる人たちの第2習作》 1885年 クレラー・ミュラー美術館 オッテルロー
《ジャガイモを食べる人たちの第2習作》 1885年 クレラー・ミュラー美術館 オッテルロー
《ジャガイモを食べる人たちの習作》 1885年 個人蔵 (F77r)
《ジャガイモを食べる人たちの習作》 1885年 個人蔵 (F77r)
《ジャガイモを食べる人たちの習作》
《ジャガイモを食べる人たちの習作》

リトグラフ


ゴッホは《ジャガイモを食べる人たち》の構図をリトグラフにしてから絵に取り掛かった。テオに印象を送り、友人に宛てた手紙には、このリトグラフを記憶に基づいて一日で制作したと書かれている。

 

ゴッホは1882年にハーグで初めてリトグラフの実験をしている。彼は小規模なグラフィック作品を好み、イギリスの版画の熱心なコレクターであったが、グラフィック媒体での制作は比較的少なかった。 1882年12月3日ごろの手紙の中で、彼は次のように述べている。

 

「しかし、例えば版画の「ザ・グレイス」(木こり一家や農民の食卓)が、一気に最終形まで作られたと考えるのは大間違いだと思います。いや、たいていの場合、小さなものでも、イラストレーションという仕事を軽く考えている人が想像しているよりも、ずっと真剣な研究によってのみ、その堅固さと骨太さが得られるのだ......。とにかく、大きな額縁に入った絵は、とても充実しているように見えるのに、あとで見ると、とても空虚で、不満な感じがするのです。一方、木版画やリトグラフ、銅版画など、たまに見過ごすと、時間が経つにつれて愛着がわき、そこに何か大きなものを感じ取ることができる」。

リトグラフ(1885年4月) 裏向き、アムステルダム、ライクスミュージアム蔵
リトグラフ(1885年4月) 裏向き、アムステルダム、ライクスミュージアム蔵

ハーグ派からの影響


ゴッホといえば、ポスト印象派のイメージが強いが、実はもっと身近なところでは、アントン・モーヴやヨゼフ・イスラエルスといったハーグ派の画家たちがルーツとなっている。

 

1884年6月中旬に書かれた弟テオへの手紙の中で、ヴィンセントはこう述べている。

 

「新しい名前がたくさん出てくると、その名前を全く見たことがない僕には理解できないことが多いんです。印象派という言葉も、自分が思っていたのとは違うものだということはわかりましたが、何をもって印象派とするのか、まだはっきりしません。でも、私自身は、たとえばイスラエルスを見ていると、非常に多くのことを感じるので、何か違うもの、新しいものに興味を持ったり、熱望したりはしないんです」。

 

ゴッホが《ジャガイモを食べる人々》を描く前に、イスラエルスが《食卓の農民》で同じ主題を扱っており、1882年3月11日にテオに宛てた手紙のコメントから判断すると、ゴッホはこれ(あるいは少なくともその変形)を見て、自分なりのバージョンを制作する気になったのだろう。構図的には、両者とも背中を向けた人物を中心にした構図で、非常によく似ている。

 

《農民一家の食卓》で得た関心と同時に、ゴッホはよりシンプルな生活様式を好むようになった。ゴッホは、細かいことを気にしない性格で、弟のテオに宛てた手紙にこう書いたことがある。

 

「お金をもらうと、たとえ断食していても、食べ物のためではなく、絵を描く力が高まります。一方、私の命綱は、住んでいるところの人たちとの朝食と、夕方のクレメリーでのコーヒーとパンです...」。

 

ゴッホは、かなり裕福な家庭の出身でありながら、中産階級に感情移入していたようだ。労働者階級の生活の厳しい現実を題材にしていたのである。

 

また、彼は単純にジャガイモ、オランダ語ではアールダペルの持続性に感心していた。Aardappelは直訳すると「大地のリンゴ」で、よりシンプルで心のこもったライフスタイルをイメージしている。

盗難事件


1988年12月、クレラー・ミュラー美術館から《ジャガイモを食べる人々》の初期版、《織姫のインテリア》、《乾燥ひまわり》が窃盗団に盗まれた。1989年4月、窃盗団は身代金250万ドルを要求し、《織姫のインテリア》を返還した。他の2作品は1989年7月14日に警察が回収したが、身代金は支払われていない。

 

1991年4月14日、フィンセント・ファン・ゴッホ国立美術館で《ジャガイモを食べる人々》の最終版を含む主要絵画20点が強奪される事件が発生した。しかし、逃走車のタイヤがパンクし、絵画を残して逃走せざるを得なくなった。強盗から35分後、絵画は回収された



【画商】テオ・ファン・ゴッホ「ゴッホを死ぬまで経済的に支援した実弟」

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テオ・ファン・ゴッホ / Theo van Gogh

ゴッホを死ぬまで経済的に支援した実弟


フィンセント・ファン・ゴッホが1887年に描いたこの肖像画は、長い間自画像と考えられていたが、2011年に弟のテオ・ファン・ゴッホのものであると再評価された。
フィンセント・ファン・ゴッホが1887年に描いたこの肖像画は、長い間自画像と考えられていたが、2011年に弟のテオ・ファン・ゴッホのものであると再評価された。

概要


生年月日 1857年5月1日
死没月日 1891年1月25日
国籍 オランダ
職業 画商
関連人物 フィンセント・ファン・ゴッホ

テオドロス・ファン・ゴッホ(1857年5月1日-1891年1月25日)は、オランダの美術商。

 

フィンセント・ファン・ゴッホの弟で、テオの揺るぎない経済的・精神的支援により、兄は完全に絵画に専念することができた。テオは兄が37歳で亡くなった半年後、33歳で亡くなった。

 

テオは画商として美術界に大きな影響を与え、オランダとフランスの現代美術を一般に紹介する上で重要な役割を果たした。

略歴


テオドルス・ファン・ゴッホは、1857年5月1日、オランダの北ブラバント州にあるグルート・ズンデルトという村で生まれた。

 

テオドルス・ファン・ゴッホとアンナ・コルネリア・カーベンタスの息子である。兄は画家のフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)である。

 

テオは、パリの美術商グーピル&シーのオランダ事務所(ハーグ)で数年間働いていた。1873年1月1日、テオはブリュッセル事務所に最年少の社員として入所した。ロンドン事務所に異動した後、ハーグの事務所に移り、美術商として成功を収めた。

 

1884年にはパリ本店に異動し、1884年にはブソッド&ヴァラドンと名乗るようになった。

 

1880年から1881年の冬にかけて、当時オランダに住んでいた弟で画家のフィンセント・ファン・ゴッホに画材を送るとともに、毎月の資金援助を行っている。

 

テオは、パリでアンドリース・ボンジェとその妹のヨハンナに出会う。1889年4月17日にアムステルダムでヨハンナと結婚し、二人はパリに移住した。1890年1月31日、パリで息子ヴィンセント・ウィレムが誕生した。6月8日、一家はパリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズに住むヴィンセントを訪ねる。

 

1890年7月、ヴィンセントは37歳で死去。テオは脳の感染症である麻痺性痴呆を患い、フィンセントの死後、急速に健康を害するようになった。その後、衰弱し、半年後(1891年1月25日)、デン・ドルダーで33歳の生涯を閉じた。

 

テオの曾孫であるテオ・ファン・ゴッホもまた、イスラム文化における女性の扱いを批判する短編映画を制作した後、2004年にイスラム過激派にアムステルダムの路上で殺害され、物議を醸した映画監督である。

ファン・ゴッホとの関係


テオは兄のフィンセントを生涯尊敬していたが、フィンセントが芸術の道に進む以前から、彼とのコミュニケーションは困難であった。兄と弟のコミュニケーションは、価値観の相違に悩まされ、手紙を書き続けたのは明らかにテオの方であった。

 

フィンセントはテオから送られてきた手紙を保管していなかったことが知られているが、一方でテオは兄からの手紙をすべて保管していた(テオ宛の手紙は全部で651通)。

 

そのため、ヴィンセントの回答は残っているが、テオの回答はほとんど残っていない(テオからヴィンセントへの手紙は32通残っている)。

 

テオはフィンセントの精神状態をよく気にかけており、兄の数少ない理解者であった。テオはフィンセントがアーティストとしての生活を維持できるように、お金を渡していたことが知られている。

 

また、フィンセントのアーティストとしての生き方を、揺るぎない精神的な支えと愛情で支えてた。テオがフィンセントに送った手紙や通信の大半は、賞賛と励ましで満たされている。

 

また、フィンセントはテオにドローイングや絵画のアイデア、日々の体験談などを送り、テオを喜ばせ、注目させた。

印象派を積極的に紹介した画商


テオはフィンセント・ファン・ゴッホの弟として知られ、芸術における大きな役割のひとつはフィンセントのキャリアに影響を与えたことだが、テオ自身も多くの重要な貢献をしています。

 

テオは、クロード・モネやエドガー・ドガといった印象派の画家の作品を展示し、購入するよう雇い主であるグーピル社を説得し、一般大衆に紹介する上で重要な役割を果たしている。

 

1886年、テオはフィンセントをパリに招き、3月からモンマルトルのアパートをシェアする。そこで、テオは、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、アンリ・ルソー、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラを紹介し、1888年にはアルルに移ったフィンセントと共同生活するようゴーギャンを説得させる。

 

テオはフィンセントとゴーギャンの仲人をしただけでなく、ゴーギャンがアルルに移り住む決め手となったのは、テオ・ファン・ゴッホが二人を経済的に支援することを計画し、最終的にコミットしたためである。

 

生活費や仕事上の経費、ブルターニュのポンアベンからアルルまでゴーギャンが積み立てた旅費も彼が負担した。テオは、ゴーギャンとフィンセントの関係が不安定になり、手に負えなくなったとき、特に耳の切断騒ぎのように、ゴーギャンと連絡を取り合う相手でもあった。

 

テオは2人のアーティストの中間的存在であり、安定した存在であったため、2人は2ヶ月間(63日間)多作することができた。

 

デュラン=リュエルやジョルジュ・プティと競合していた若い画商は、印象派のアートマーケットで重要な地位を占めることになる。1888年にはアンティーブからモネの絵画を10点出品した。

 

テオはピサロとも親交があり、1888年秋にはピサロの最新作を数点展示し、1890年にはピサロの展覧会を開催している。

 

ドガは、1888年1月に小さな裸体画展を開くことを許可し、その1年後には彼の作品の一部を展示する展覧会を開いた。テオはシスレー、ルノワールや、ベスナール、カリエール、ラファエリといった「近代人」にも興味を抱いていた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Theo_van_Gogh_(art_dealer)、2022年6月25日アクセス


ポール・ガシェ「晩年のゴッホを治療した医師」

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ポール・ガシェ / Paul Gachet

晩年のゴッホを治療した医師


《ポール・ガシェ》 フィンセント・ファン・ゴッホの絵(1890年)、第二版
《ポール・ガシェ》 フィンセント・ファン・ゴッホの絵(1890年)、第二版

概要


生年月日 1828年7月30日
死没月日 1909年1月9日
国籍 フランス
職業 医師
関連人物 フィンセント・ファン・ゴッホ

ポール・フェルディナン・ガシェ(1828年7月30日-1909年1月9日)は、フランスの医師。

 

フィンセント・ファン・ゴッホがオーヴェル・シュル・オワーズで過ごした最後の数週間の治療を行ったことで知られている。

 

ガシェは芸術家、特に印象派の偉大なパトロンであり、またアマチュア画家で、作品には自分の生まれ故郷にちなんで「ポール・ファン・ライセル」とサインを入れている。

略歴


ポール・ガシェはリールで生まれ育った。一家はメヘレンに移った後、ガシェの父は1844/1845年に勤めていた会社の新しい支店を立ち上げるために転勤する。

 

パリ大学在学中、暇を見つけては絵を学び、ギュスターヴ・クールベやエドゥアール・マネの絵画を収集した。

 

学士号を取得した後、ビセートルとサルペトリエールの精神病院に勤務する。アルマン・トルーソーを師と仰ぐ。1858年、論文「Étude sur la Mélancolie」(Éditeur du Montpellier Médecal)で医学博士号を取得する。

 

パリに戻ると、個人的にホメオパシー診療所を設立する。1868年にブランシュ・カステットと結婚。1869年、娘のマルグリット・クレメンティーヌ・エリサが生まれる。

 

1872年、ガシェはオーヴェル・シュル・オワーズに移る。この町は、市の中心部から27キロメートルほど離れたところにあり、芸術家たちに人気のある町であった。

 

そこで医業を続けながら、カミーユ・ピサロやポール・セザンヌといった画家たちとも交流し、セザンヌは彼の屋根裏部屋にアトリエを作るのを手伝った。

 

ガシェはギュスターヴ・クールベ、シャンフルーリー、ヴィクトル・ユゴーとも知り合いで、ほかに化学者アンリ・ネスレの友人でもあり、ネスレの新しい粉ミルクを自分の子供の患者に処方していた。

 

また、ブランシュ・ド・メザンというペンネームで、医学や芸術批評の本を出版した。

 

シャルル・メリヨンがシャラントンに収容された後、メリヨンと多くの時間を過ごす。1882年、オーギュスト・ルノワールの肺炎からの回復を見守る。エドゥアール・マネに足の切断を勧める。しかし、マネはこの助言に従わなかった。

 

ガシェの墓は、パリのペール・ラシェーズ墓地の52区にある。

ファン・ゴッホとの関係



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Gachet、2022年6月25日アクセス



【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「悲しむ老人(永遠の門)」

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悲しむ老人 / Sorrowing Old Man

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1890年 
サイズ 80 cm × 64 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 クレラー・ミュラー美術館

《悲しむ老人(永遠の門)》は、フィンセント・ファン・ゴッホが1882年に描いた初期のリトグラフ作品《くたびれ果て》をもとに、1890年にサンレミ・ド・プロヴァンスで制作した油彩画。

 

この絵は、自殺とされる死の2カ月ほど前に体調を崩し、療養していた5月上旬に完成した。1970年のカタログレゾネでは、「くたびれ果て:永遠の門」というタイトルがつけられている。

リトグラフ


このリトグラフは、1882年にハーグの施療院で年金生活者で退役軍人のアドリアヌス・ヤコブス・ズイデルランドを描いた一連の習作のひとつで、また、以前描いたデッサンと水彩画を再制作した鉛筆画『くたびれ果て』をもとに制作されたものである。

 

ズイデルランドは、ハーグ時代のゴッホのお気に入りのモデルだった。彼は何十ものドローイングに登場し、禿げた頭と目立つ白いひげで簡単に識別できる。彼は、ゴッホの後に象徴的な絵画である《悲しむ老人(永遠の門)》の基礎となったドローイングのモデルだった。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《くたびれ果て》,1882年
フィンセント・ファン・ゴッホ《くたびれ果て》,1882年

 なお、『くたびれ果て』の源泉は、フーベルト・フォン・ヘルコマーの《チェルシー病院の日曜日》である。これは、ゴッホは、1875年にイギリスに滞在していたときに見た、ロイヤル・アカデミー絶賛された絵画となった倒れた老兵を描いた《最後の招集者》の版画である。

 

ゴッホがリトグラフに初めて挑戦したのは、そのわずか2日後のことだった。彼はこう書いている。

 

 

「画家は自分の作品にアイデアを盛り込もうとする義務があるように思います。私はこの版画で、このことを言おうとしたのです。しかし、これは暗い鏡に映った薄暗い反射に過ぎない現実ほどには、美しく、印象的に言うことはできない。ミレーが信じていた「高いところの何か」、つまり神と永遠の存在を証明する最も強力な証拠の一つは、囲炉裏の隅に静かに座っている老人の表情に、おそらく本人が意識することなく見られる、言葉にならないほどの感動であると私には思われるのです。同時に、虫の知らせでは済まされない、尊いもの、高貴なもの。... これは神学的な話ではなく、貧しい木こりやヒースの農夫や鉱夫にも、永遠の故郷を身近に感じるような感情や気分に浸る瞬間があるという事実に過ぎないのだ」。

フーベルト・フォン・ヘルコマー《最後の招集者》,1875年
フーベルト・フォン・ヘルコマー《最後の招集者》,1875年
フーベルト・フォン・ヘルコマー《チェルシー病院の日曜日》,1875年
フーベルト・フォン・ヘルコマー《チェルシー病院の日曜日》,1875年

その後、彼はこのリトグラフと、同じくズイデルラントを描いた、聖書を読む老人とお祈りをする老人の絵について、珍しく自らの宗教的感情を表現した文章を書いている。

 

「この2つの作品と最初の老人の作品の意図は同じで、クリスマスと新年の特別なムードを表現することです。... その形に賛成か反対かはさておき、それが誠実なものであれば尊敬に値するし、私としては、少なくともその種の老人と同じように、誰が、何がそこにいるかはよくわからないが、高いところにあるものを信じる気持ちがあるという意味で、それに十分共感し、必要性さえ感じるのだ」。

 

このリトグラフのインプレッションは7点知られており、そのうちの1点には「永遠の門」と注釈がある。同じテーマは、後に1883年に描かれた2枚の座った女性の習作で再び取り上げられている。

 

2021年、オランダの個人コレクションに1910年から保管されていた1枚の絵が、ゴッホ美術館によって鉛筆画《くたびれ果て》の原画の下絵として鑑定され、展示されることになった。

 

ゴッホ美術館は、以前からこの下絵の存在を知っていた。

 

1998年、アメリカの神学者キャサリン・パワーズ・エリクソンは、『永遠の門』について次のように書いている。

 

「ゴッホが初めて手がけたリトグラフ『永遠の門』では、「墓の向こうの人生」を信じることが重要なテーマとなっている。1882年にハーグで制作されたこの作品には、火のそばに座り、両手で頭を抱えた老人が描かれている。

 

ゴッホは晩年、サン・レミの精神病院で療養中にこの絵を油彩で描き直した。前かがみで拳を握り、悔しさをにじませた顔は、悲しみに包まれているように見える。

 

この作品は、ゴッホがつけた『永遠の門』という英語のタイトルがなければ、確かに完全な絶望のイメージを伝えていただろう。それは、ゴッホが深い悲しみや苦しみの中にあっても、神と永遠への信仰にしがみつき、それを作品に表現しようとしたことを示している」。

《両手で頭を抱える老人(永遠の門)》(F1662, JH268)、リトグラフ、1882年、テヘラン現代美術館など多数所蔵、左下に画家の注釈「永遠の門」がある。
《両手で頭を抱える老人(永遠の門)》(F1662, JH268)、リトグラフ、1882年、テヘラン現代美術館など多数所蔵、左下に画家の注釈「永遠の門」がある。

背景


フィンセント・ファン・ゴッホは、人生の最後の2年間、何らかの精神疾患に苦しんでいた。1888年12月24日、ゴッホが耳にまつわる有名な事件の後、アルルの病院に運ばれた際の公式診断は「全身譫妄を伴う急性躁病」だった。病院の若き研修医フェリックス・レイも「てんかんの一種」を示唆し、精神てんかんと特徴づけている。

 

ゴッホの病気に関する現代的な診断については、現在も意見が一致していない。てんかんや双極性障害、アブサンの飲み過ぎや喫煙、性病が悪化した可能性などが指摘されている。

 

症状はさまざまだが、最も深刻な症状としては、混乱と意識喪失の発作が起こり、その後、昏睡と支離滅裂の期間が続き、その間は絵を描くことも、絵を描くことも、手紙を書くことさえもできなかったという。

 

1890年2月22日、ゴッホは最も深刻な再発に見舞われ、ヤン・ハルスカーは彼の人生の中で最も長く、悲しいエピソードと呼び、4月下旬まで約9週間続いた。

 

この間、テオに手紙を書けたのは1890年3月の一度だけで、それも完全に呆然としていて書けないという短いものだった。

 

テオに再び手紙を書いたのは4月末だが、その手紙から、この間、悲しみや憂鬱を抱えながらも少しは絵を描いていたのだということがうかがえる。

 

「この2ヶ月間、何を話したらいいのか、物事は全くうまくいっていないし、私はあなたに話すことができないほど悲しくて退屈で、自分がどの地点にいるのかもはや分からない... 病床にありながら、記憶をたどりながら、小さなキャンバスをいくつか描きましたが、それは後でご覧いただくことにして、北部の記憶 ... とても憂鬱な気分です。」

 

ハルスカーは、これら「北部の記憶」シリーズのドローイングや絵画の中に、彼の精神的な崩壊の兆候をはっきりと見ることができるという。《悲しむ老人》はそのときに描かれた作品群の1枚である。

 

《悲しむ老人「永遠の門」》が、4月の手紙の中で言及されたキャンバスの一つであるかどうかは定かではないが、ハルスカーは、ゴッホが過去のリトグラフを記憶に基づいてこれほど忠実に模写したのは驚くべきことだったと述べている。とはいえ、この絵は明らかに過去(北部)への回帰であり、1970年のカタログ・レゾネもハルスカーも、この絵が1890年5月にサン=レミーで描かれたものであると述べている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/At_Eternity%27s_Gate、2022年6月27日アクセス


【美術解説】ゴッホの静物画

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ゴッホの静物画


《コーヒーミル、パイプケース、水差しのある静物》 1884年 クレラー・ミュラー美術館 オッテルロー (F52)
《コーヒーミル、パイプケース、水差しのある静物》 1884年 クレラー・ミュラー美術館 オッテルロー (F52)

概要


静物画は、ゴッホの初期作品において描かれた多くのドローイング、スケッチ、絵画の主題である。

 

オランダで制作された静物画の多くは、ゴッホがヌエネンに住んでいた1884年から1885年にかけてのものである。地味な色彩が多く、物体を横切って落ちる光の実験を行っていた。

 

次の2年間(1886~1887年)では、ゴッホが静物画を描く際の題材、色彩、技法を一変させることになる。パリでは花の静物画を多く描き、色彩、光、そして近代画家から学んだ技法を試した。

目次


背景




【作品解説】フィンセント・ヴァン・ゴッホ作品一覧

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フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧

代表作


《ひまわり》
《ひまわり》

1987年3月30日、ロンドンで行なわれたオークションにて、ゴッホの《ひまわり》(F457)を安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が58億円で落札。その後、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で展示されることになる。(続きを読む


《星月夜》
《星月夜》

《星月夜》は、1889年6月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。73.7cm×92.1cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。(続きを読む


《じゃがいもを食べる人々》
《じゃがいもを食べる人々》

ゴッホは貧しい農民の厳しい現実を描写しなければないと考えており、意図的に卑俗で醜いモデルを選んだが、完成した作品は自然であり汚れのない美しい作品であると思っていた。(続きを読む


《ペールタンギーの肖像》
《ペールタンギーの肖像》

《ペール・タンギーの肖像》は、1887年にフィンセント・ファン・ゴッホが描いた油彩画。「タンギー爺さんの肖像」と呼ばれることもある。 ゴッホはタンギーを3点描いているが、そのうちの1点である。これらの作品はパリに移った後のゴッホの画風の進歩をよく示しており、ゴッホが自分自身に求めていた静寂さが伝わってくる。(続きを読む


《医師ガシェの肖像》
《医師ガシェの肖像》

《医師ガシェの肖像》は1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ死ぬ前の数ヶ月間、世話をしていたポール・ガシェ医師を描いたものである。(続きを読む


《カラスのいる麦畑》
《カラスのいる麦畑》

《カラスのいる麦畑》は、1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。一般的にはゴッホの死の最後の一週間のうちに描かれたゴッホの最後の作品と見なされている。(続きを読む


シリーズ作


静物画(オランダ編)
静物画(オランダ編)

静物画は、ゴッホのオランダ初期作品において描かれた多くのドローイング、スケッチ、絵画の主題である。 オランダで制作された静物画の多くは、ゴッホがヌエネンに住んでいた1884年から1885年にかけてのものである。(続きを読む


農民画
農民画

『農民画』は、フィンセント・ファン・ゴッホが1881年から1885年にかけて制作した一連の作品群。ゴッホは、農民をはじめとする労働者階級の人々に特別な愛着と共感を抱いていた。特に、ジャン=フランソワ・ミレーなどの農民風俗画を好んでいた。(続きを読む


初期作品
初期作品

ゴッホが絵を書き始めたのは遅い。初期作品は、フィンセント・ファン・ゴッホが27歳と28歳のとき、本格的な芸術探求を始めた1881年と1882年に描いた絵画と素描の作品群から構成されている。(続きを読む


小麦畑
小麦畑

《小麦畑》はフィンセント・ファン・ゴッホが、宗教的な学習や説教、自然とのつながり、肉体労働者への感謝、他者に安らぎを与える手段を提供したいという欲求から生まれた数十点の絵画シリーズ。(続きを読む


その他の作品


《悲しみ》
《悲しみ》

《悲しみ》は、ゴッホが画家になる決心をして2年後に描かれた作品で、ゴッホのドローイング作品において最もよく知られているマスターピース。描かれている女性は、ゴッホの当時の愛人で娼婦だったクラシーナ・マリア・ホールニク(続きを読む


《アイリス》
《アイリス》

《アイリス》は、1889年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。フランスのサン・ミレ修道院のサン・ポール・ドゥ・モウソーレ病院に入院しているときに描いた作品の1つ。(続きを読む


《開かれた聖書の静物画》
《開かれた聖書の静物画》

《描かれている重厚な聖書》は、ファン・ゴッホの父親が所有していたものである。ゴッホの父親はプロテスタントの牧師だった。ゴッホは本作品を父の死の直後に描いている。(続きを読む


《火の付いたタバコをくわえた骸骨》
《火の付いたタバコをくわえた骸骨》

《火の付いたタバコをくわえた骸骨》は1885年から1886年にあたりにフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。骸骨とタバコに焦点を当てた小作品で、おそらく1885年から1886年にかけての冬に制作されている。(続きを読む


《高級売春婦》
《高級売春婦》

《高級売春婦》は、1887年にフィンセント・ファン・ゴッホが制作した油彩作品。ゴッホはアントワープに住んでいた1885年に日本の浮世絵に多大な影響を受ける。(続きを読む


《黄色い家》
《黄色い家》

《黄色い家》は1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。《通り》と呼ばれることもある。このタイトルは1888年5月1日にゴッホが借りたフランスのアルルにあるラマルティーヌ広場2丁目の角にあった4フロアの家屋のことを指している。(続きを読む


《アルルの女》
《アルルの女》

ゴッホがアルルに滞在していたときに寝泊まりし、また黄色い家の家具を調達していたカフェ「カフェ・ド・ラ・ガール」のオーナーのジョゼフ・ミシェルジヌーの妻マリー・ジヌーを描いた作品である。(続きを読む


《アルルの寝室》
《アルルの寝室》

《アルルの寝室》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ自身が付けたタイトルは「寝室」である。 「黄色い家」として知られる、フランス、ブーシュ・デュ・ローヌ県アルルのラマルティーヌ広場2番地のゴッホの寝室を描いたものである。(続きを読む


《ファン・ゴッホの椅子》
《ファン・ゴッホの椅子》

《ファン・ゴッホの椅子》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ロンドンの国立美術館が所蔵している。 タイル張りの床の上に、素朴な木製の椅子と、藁で編まれたシンプルな座面が描かれている。(続きを読む


《夜のカフェ》
《夜のカフェ》

《夜のカフェ》は1888年9月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。アルルのラマルティーヌ広場30番地にあったゴッホが寝泊まりをしていたカフェ「カフェ・デ・ラ・ガール」の店内を描いた作品である。(続きを読む


《赤い葡萄畑》
《赤い葡萄畑》

《赤い葡萄畑》は1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホが生前中に売れたたった1枚の記念的作品として知られている。(続きを読む


《夜のカフェテラス》
《夜のカフェテラス》

《夜のカフェテラス》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。この作品を描いた翌年1898年にゴッホは耳切断事件を起こして入院することになるが、これは事件前に滞在していたフランスのアルル時代に制作されている。(続きを読む


《ローヌ川の星月夜》
《ローヌ川の星月夜》

《ローヌ川の星月夜》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホがアルル滞在時に、夜のローヌ川の堤防の一角の風景を描いたものである。(続きを読む



《糸杉と星の見える道》
《糸杉と星の見える道》

《糸杉と星の見える道》は、1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホが糸杉を主題に置いた主要作品の1つとしても知られており、フランスのサン・レミ・ド・プロヴァンスで制作した最後の絵画作品である。(続きを読む


《悲しむ老人(永遠の門)》
《悲しむ老人(永遠の門)》

《悲しむ老人(永遠の門)》は、フィンセント・ファン・ゴッホが初期のリトグラフ作品をもとに、1890年にサンレミ・ド・プロヴァンスで制作した油彩画。 この絵は、自殺とされる死の2カ月ほど前に体調を崩し、療養していた5月上旬に完成した。1970年のカタログレゾネでは、「使い古されたもの:永遠の門」というタイトルがつけられている。(続きを読む


《オーヴェルの教会》
《オーヴェルの教会》

《オーヴェルの教会》は、1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩画。実物の教会は、パリの北西27kmに位置するフランス、オーヴェル・シュル・オワーズ市のエグリーズ広場にある。本作品は、パリのオルセー美術館が所蔵している。(続きを読む



【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)」

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アルルの跳ね橋(ラングロワ橋) / Langlois Bridge at Arles

日本の木版画の影響を受けて描かれた風景画


《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》1885年
《アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)》1885年

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年 
サイズ 49.5 cm × 64.5 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 ヴァルラフ・リヒャルツ美術館

《アルルの架け橋》は、フィンセント・ファン・ゴッホが制作した4点の油彩画、1点の水彩画、4点のドローイング作品の主題である。

 

ゴッホが南仏のアルルに住んでいた1888年に制作されたこれらの作品は、形式と創作の側面が融合している。

 

ゴッホは、遠近法で描写する際に正確な線と角度を作り出すために、ハーグで製作し使用した透視図法フレームを使用している。

 

ゴッホは日本の木版画に影響を受け、色彩を簡略化して調和と統一感のあるイメージを作り出したことがわかる。

 

青や黄色などの対照的な補色を使い、作品に躍動感を持たせた。また、絵の具を厚く塗るインパストという手法で、光の反射を色で表現していた。

 

運河にかかる跳ね橋という題材は、彼の故郷であるオランダを思い起こさせるものだった。彼は弟のテオに頼んで、この絵の1枚を額装してオランダの画商に送った。再建されたラングロワ橋は、現在ポン・ヴァン・ゴッホと名付けられている。

背景


アルル


ゴッホがラングロワ橋の絵画とドローイングを制作したのは35歳のとき。南仏のアルルに住み、最高の作品を生み出していたころで、キャリアの絶頂期を迎えていた。

 

アルル、ニーム、アヴィニョン地域のひまわり、畑、農家、人々などを主題にした作品で、この時期はゴッホにとって多作で、15ヶ月足らずで約100点のデッサンを描き、200点以上の絵を描き、200通以上の手紙を書いた。

 

運河、跳ね橋、風車、茅葺き屋根のコテージ、広大な畑など、アルルの田園風景は、ゴッホにオランダでの生活を思い起こさせた。

 

アルルは、ゴッホが自分自身に求めていた安らぎと明るい太陽をもたらし、より鮮やかな色彩、強烈な色のコントラスト、変化に富んだ筆致による絵画を探求するための条件を整えたのである。

 

また、オランダでの芸術教育の原点に立ち返り、特にリードペンを使ってのデッサンを得意とした。

ラングロワ橋


ラングロワ橋は、アルルからブークへの運河にかかる橋の一つである。19世紀前半、地中海への運河網を拡大するために建設された。水上交通や道路交通を管理するために、閘門や橋も建設された。

 

アルル郊外にある最初の橋は、正式には 「Pont de Réginel」だが、管理人の名前では「Pont de Langlois」としてよく知られている。

 

1930年、当初の跳ね橋は鉄筋コンクリート製のものに建て替えられたが、1944年、退却するドイツ軍によって、地中海の港、フォス・シュル・メールにある橋を除く運河沿いの橋はすべて爆破された。

 

1959年、フォス橋はラングロワ橋の跡地に移設することを前提に解体されたが、構造上の問題から、最終的には元の場所から数キロメートル離れたモンカルドロックで再度、組み立てされた。

 

弟テオに宛てた手紙によると、ゴッホは1888年3月中旬頃にラングロワ橋の近くで洗濯をする女性の習作を始め、4月2日頃には橋の別の絵に取り掛かっていたようである。これが、彼がアルル運河に架かるラングロワ橋を描いたいくつかのバージョンのうちの最初のものである。

 

ゴッホのラングロワ橋の作品について、『ゴッホとゴーギャン』の著者であるデボラ・シルヴァーマンは、次のように語っている。

 

「ゴッホが描いた橋は、ノスタルジアとジャポニズムを織り交ぜた風変わりな作品と見なされてきた。ゴッホは、橋に関する絵画やデッサンの制作時「風景の中にあるこの工芸品の機構の構造、機能、構成要素」に注意を払いながら制作した」。

遠近法


アルルでゴッホは、ハーグで作った透視図法を再び使い始めた。この装置は、屋外の光景を見るときに、近くにあるものと遠くにあるものの比率を比較するために使用された。

 

ラングロワ橋の作品のいくつかは、このフレームを使用して制作されている。その使用により「メカニズムとしての跳ね橋の探求」を深めた。

日本の影響


ラングロワ橋は、ゴッホに広重の版画「すみだ大橋にかかる大橋の夏のにわか雨」を思い起こさせた。日本の木版画に触発されたゴッホは、日本の芸術作品の技法を自分の作品に取り入れようとした。ラングロワ橋についてエミール・ベルナールに宛てた手紙の中で、彼は次のように書いている。

 

「日本人が自分の国で何の進歩もないとしても、それでも彼らの芸術はフランスで影響を与え続けていることは疑いようがない」。ゴッホのラングロワ橋の絵は、日本的な美意識から、色彩を簡略化し、調和と統一感のあるイメージを表現している。

 

アウトラインは動きを表現するために使用された。色彩の濃淡は少なく、複数の微妙な色彩のバリエーションを好んだ。ラングロワ橋は、ゴッホに広重の「大橋の上のにわか雨」を思い出させ、青空に黄色の模様など、日本の版画の活力と南仏の光の活力を感じさせる色彩を選ぶようになった。

 

これらのアプローチは、より強いインパクトを与え、田舎のライフスタイルのシンプルでプリミティブな質を描き出している

同じような構図で描かれた3枚の絵


《洗濯する女性とアルルのラングロワ橋》 1888年 クレラー・ミュラー美術館(オッテルロー、オランダ) (F397)
《洗濯する女性とアルルのラングロワ橋》 1888年 クレラー・ミュラー美術館(オッテルロー、オランダ) (F397)

《アルルのラングロワ橋と洗濯する女性たち》は、ゴッホの最も象徴的で最も愛されている絵の一つであり、アルル時代の最初の傑作として認められている。

 

この絵には、運河沿いでよく行われる日常が描かれている。黄色い小さな荷車が橋を渡り、スモックに色とりどりの帽子をかぶった女性たちが岸辺で麻布を洗っている。

 

ゴッホはこの作品において、色彩理論や「同時対比の法則」の知識を巧みに利用している。

 

草原は赤橙と緑の交互の筆致で描かれている。橋、空、川には、黄色と青の補色が使われている。補色を使うことで、それぞれの色のインパクトが強まり、鮮やかで色彩的に統一された全体 を作り出している。

 

『ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンの思想と芸術』の著者であるナオミ・マウアーは、この絵におけるゴッホの技術的・芸術的な完成度について述べている。

 

「構図的には、橋の垂直方向と水平方向の幾何学模様と水面への反射が、キャンバスに古典的な対称性と均衡を与える大きな中央の十字架を作り出しています。この中央の幾何学的な枠組みは、上方の空と下方の堤防に反響し囲まれているが、丘と海岸の大きな起伏、円形の波紋に囲まれた洗濯婦の丸い結び目、右側の柔軟でわずかに曲がった草によって緩和され活気を帯びている。ラングロワの橋は、形式的にも色彩的にも、ヴィンセントが自然を色彩的・形式的な本質的要素にまで抽象化し、これらの要素から、人間とその作品が完全に統合された、調和のとれた織りなす統一体を創造していることを示しています」。

 

《アルルのラングロワ橋》(水彩画)では、金具、鉄の支え、ブレース、鎖の滑車など、橋の細部を水彩画で精密に描き込んでいる。

《アルルのラングロワ橋》 水彩画 1888年 個人蔵 (F1480)
《アルルのラングロワ橋》 水彩画 1888年 個人蔵 (F1480)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Langlois_Bridge_at_Arles、2022年6月27日アクセス


ジャポネズリ

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花魁(アイゼン以降)
花魁(アイゼン以降)

概要


「ジャポネズリ」(英語:Japanesery)とは、フィンセント・ファン・ゴッホが、自身の作品に日本美術の影響が含まれていることを表現するために用いた言葉。

背景


1854年以前、日本の海外貿易はオランダと独占契約されており、ヨーロッパに輸入される日本製品はおもに磁器や漆器であった。

 

その後、200年にわたる日本の鎖国政策を終わらると日本と西洋との自由貿易が始まり、1860年代以降ヨーロッパに入ってきた日本の木版画である浮世絵は、多くの西洋人芸術家のインスピレーションの源となった。

ゴッホが受けた日本美術の影響


ゴッホが日本の版画に興味を持ったのは、『The Illustrated London News』や『Le Monde Illustré』に掲載されたフェリックス・レガメイの挿絵を見たことがきっかけである。

 

レガメイは日本の技法にのっとった木版画を制作し、日本の生活風景を描くことが多かった。

 

1885年以降、ゴッホはレガメイなどの雑誌挿絵の収集から、パリの小さな商店で買える浮世絵の収集に切り替えた。ゴッホはアントワープの港町で日本の浮世絵を買い求め、後にその様式を絵画の背景に取り入れた作品もある。

 

ヴィンセントは安藤広重の『名所江戸百景』から12枚を所有しており、また二代目歌川豊国の「水浴する娘たち」(1868年)も購入していた。これらの版画は、彼の芸術の発展に影響を与えた。

 

ゴッホは自分のコレクションを同時代の人々と共有し、1887年にはパリで日本の版画展を開催した。弟のテオ・ファン・ゴッホとともにこれらの版画をしばらく扱い、最終的には数百枚を集め、現在はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館に所蔵されている。

 

その1ヶ月後、彼はこう書いている。

 

私の作品はすべて、ある程度日本美術に基づいている......。

 

ゴッホは浮世絵の模写を3点、『花魁』と広重を模した2点の習作を制作している。

 

ゴッホは浮世絵を扱う中で、日本美術を西洋に紹介し、後にアール・ヌーヴォーの発展に大きく貢献したジークフリート・ビングと出会うことになる。

 

 ゴッホは日本人画家を理想とし、それがアルルの「黄色い家」やポール・ゴーギャンとの理想郷であるアート・コロニー形成の試みにつながった。

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