社会主義リアリズム / Socialist realism
社会主義国で採用された「理想化された写実主義」
概要
社会主義リアリズムは、ソビエト連邦で発展した理想化された写実的な芸術。1932年から1988年までの間、ソビエト連邦および第二次世界大戦後の他の社会主義国でこの芸術様式が採用されていた。
社会主義リアリズムは、何よりもまず、プロレタリアートの解放などの共産主義的価値観の誇張された描写が特徴である。
リアリズムという名称が付いているが、19世紀の写実主義や社会的関心事をリアルに描く現実描写と決して混同してはいけない。「リアリズム」という名称にもかかわらず、この芸術様式で描かれる人物は、非常に理想化されていることが多く、特に彫刻においては古典彫刻の技法に重きを置いていることが多い。
社会主義リアリズムは、1920年代初頭の発展から、1960年代後半から1991年のソビエト連邦の崩壊に至るまで、ソビエト連邦で公式に認められた芸術の主要な形態だった。
発展
社会主義的リアリズムは、数十年にわたり、多様な社会の中で何千人もの芸術家によって発展した。
ロシア美術におけるリアリズムの初期の例としては、移動派やイリヤ・イエフィモヴィチ・レピンの作品が挙げられる。これらの作品には政治的な意味合いはなかったが技術的な側面が見られる。
1917年10月25日、ボリシェヴィキがロシアを支配した後、芸術的スタイルに著しい変化が見られるようになった。ツァーリの没落からボリシェヴィキの台頭までの間に、芸術的研究の時期が存在した。
ボリシェヴィキが支配権を握った直後、アナトリー・ルナチャルスキーは、人民教育委員会のトップに任命され、新しく誕生したソビエト国家における芸術の方向性を決定する立場に置かれることになった。
ルナチャルスキーは、ソ連の芸術家が従うべき単一の美術モデルを指示したわけではないが、後に社会主義リアリズムに影響を与えることとなる人体に基づく美学のシステムを開発した。
彼は、「健康な肉体」「知性的な顔」「親しみやすい笑顔」を鑑賞することは、本質的に生命力を高めるものであると信じていた。また、芸術は人体に直接的な影響を与え、適切な状況下で芸術はポジティブに働くと結論付け、「完全な人物」を描写することで人々が完璧なソビエト人となる芸術教育になると考えた。
ソビエト芸術の運命を左右した2つの主要なグループがあった。ロシア未来派と古典主義である。カジミール・マレーヴィチがロシア未来派に属していた芸術家の一人として知られており、彼の軌跡を追うことで社会主義リアリズムの成り立ち、社会主義国における前衛芸術の衰退の理由もわかる。
未来派の多くは、ボリシェビキ以前から抽象芸術や左翼芸術を制作していたが、共産主義は過去との完全な決別を必要であるとし、それゆえソビエト芸術もそうであると考えていた。一方、古典主義者は日常生活をリアルに表現することの重要性を説いていた。
レーニン政権下と新経済政策の下でにおいては、ある程度の民間営利企業が存在し、未来派も伝統派も資本を持つ個人のために芸術を制作することができていた。
しかし、1928年頃までに、ソビエト政府が民間企業を廃止するほどの力と権限を持つようになると、未来派や前衛芸術などの少数派芸術グループの支援を止めるようになった。この時点ではまだ「社会主義リアリズム」という言葉は使われていなかったが、その特徴がソ連の規範となりつつあった。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Socialist_realism、2020年11月25日アクセス