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【美術解説】四谷シモン「日本の球体関節人形シーンの草分け」

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四谷シモン /Shimon Yotsuya

日本の球体関節人形シーンの草分け


概要


生年月日 1944年7月12日生まれ
国籍 日本
表現形式 人形、芝居
ムーブメント 昭和アヴァンギャルド
関連人物 澁澤龍彦金子國義
代表作

・「ドイツの少年」

・「未来と過去のイヴ」

・「慎み深さのない人形」

四谷シモン(1944年〜)は日本の人形作家。俳優。1960年代の昭和アヴァンギャルドムーブメントを支えた人物の一人。「人形は人形である」という哲学から出発したが、「人形は自分で自分は人形」という「自己愛」と「人形愛」という哲学に次第に移行した。

 

幼少のころから人形に関心を持ち、ぬいぐるみ技法で制作を続けていたが、雑誌『新婦人』で澁澤龍彦が紹介していたハンス・ベルメールの作品に多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。

 

親友の金子國義とともに澁澤龍彦邸を訪れ、交友を深める。澁澤龍彦の後押しを受けて、銀座の青木画廊で初の個展『未来と過去のイヴ』を開催。一般的に人形作家として知られるようになる。

 

俳優やタレントとしても活躍。特に唐十郎率いる「状況劇場」では女形として人気を博し、寺山修司率いる「天井桟敷」とともに昭和アヴァンギャルドムーブメントを支えた。

 

78年には、現在にまで続く「エコール・ド・シモン(四谷シモン人形学校)」を開設。以降、人形教室を経営しながら、コンスタントに人形制作と作品の発表を続けている。

略歴


幼少期


四谷シモン(本名:小林兼光)は昭和19年7月12日五反田で、父の小林兼次郎と母の都多世の間に生まれた。

 

父兼次郎は秋田出身で独学でバイオリンを学び、タンゴの楽士として活動していた。母都多世は、創作ダンスの先駆者である石井漠門下のダンサーで、戦後は浅草百万弗劇場の舞台に出演していた。立川や横須賀の基地の進駐軍に踊り子をあっせんして、ギャラのピンハネのようなこともしていたという。また、シモンには3才年下の弟、兼人がいる。

 

シモンは幼少の頃、家の縁側にすわって紙皿にクレヨンで絵を描いたり、父が買ってきた人形たちを集めて、ひとつの家族のようにして遊んでいたという。

 

両親はいつも喧嘩をしており、喧嘩の間、シモンと弟は放置され、すがるものがないのでただ泣くことの繰り返しだった。その幼少期の家庭的不和のトラウマがのちに人形を作るきっかけになったと話している。

 

また、シモンは母が所属する三遊亭歌笑の踊り子巡業の一座に加わり、その巡業の高座にも上げられたが、舞台の上ではなぜか平気で、幼少期から舞台度胸のある子どもだったという。のちに、シモンはアングラ演劇に参加したり、芸能界でも活躍する。

 

幼少期の強烈な記憶のひとつに母親のストリップ姿があるという。10才にもなっていないシモンを母はストリップ劇場に連れていき、ストリップをして踊っている母の姿を見せられていた

 

9才の頃、母が家出をしてほかの男のもとへ行く。シモンはふと「この世ではだめなものはだめなんだ。どんなに望んでもこの願いはかなわないんだ」と思うようになる。その後、母と連絡がとれると、シモンと弟は母親が妾として1人暮らししている根津のもとへ移る。このとき「この世の仕組み」に気がつき、「人生が始まった」と思ったという。

 

妾宅の家は、春画が春画が描かれた絵皿や盃だらけだった。男が家にくるとシモンは追い出され、外で時間を潰す必要があり、映画館で映画をよくみていたという。男がいないときは、母と大衆演劇をよく見に行っていたという。

 

11才のとき、母が小料理屋を経営することになるり深川へ移る。「小菊」という店で新宿ゴールデン街のような二階建ての一階がカウター七席ぐらいのせまい店で、2階が住居だった。

 

あるとき、男が来て「おかあちゃんはどこだ」と訊かれ「知らないよ」と答えると、いきなり頭をひっぱたかれる。このときシモンは、愛人の男の個人を超えて、社会とか世間とかいうもの全体に対して復讐心が心に深く刻まれる。「どうしようもない世間のしくみ」を明確に理解したという。

 

昭和31年、シモン一家は王子へ移る。この頃からシモンは布を使った人形を作りはじめる。川崎プッペの本を見ながら、ジョーゼットという布で人形を作っていたという。

 

王子に越したあと、母から父に会いに行くように言われひとり、北池袋のバラックの長屋でゴミの山のようなところに住んでいた父のもとへ行く。絵具をもらったが、父の家を出たあとすぐに捨て「汚い!」という言葉だけが心の中に渦巻く汚い!」という言葉だけすべてを「関係ない」ことにして切り捨てたかったという。

 

王子中学に入学。友人もできなかったシモンはますます人形制作に没頭するようになる。また、人形作りの林俊郎のアトリエをたずね、人形作りのアシスタントになる。学校の授業が終わると毎日赤羽のアトリエへ通い、手伝いをした。ここでは、生まれて初めてプロの人形作家からぬいぐるみ作りの技術を覚える。

 

中学二年のときに、人形作家・川崎プッペのアトリエを訪ねる。プッペは戦前から有名で、中原淳一たちとともに活躍していた。シモンは『フランス人形のやさしい作り方』という本で以前からプッペの影響を受けていた。

 

母親の再婚をきっかけに原宿へ移り、外苑中学に転向する。ここでシモンは新宿や渋谷の愚連隊と関係している悪い連中と親しくなり、不良になっていく。外苑中学卒業後、進学せずしばらくぶらぶらした生活を続け、中野の洋品店キクヤでアルバイトをしていたときに栄養不足が原因で肋膜炎になり、入院する。

四谷シモンの母
四谷シモンの母

新宿へ


退院して回復すると、酒場でアルバイトを始め、新宿へ移り、これまでの昼の仕事から夜の仕事へ変わっていく。この頃、ロカビリーの全盛時代で、酒場には連日生バンドが演奏しており、ロカビリーを見ているうちに自分で歌いたいと思うようになり、ボーカル教室に通い始める。

 

また同時期、ジャズ喫茶で金子國義と知り合い、金子を通じてコシノジュンコとも知り合うようになる。この頃知り合った彼らがシモンの精神の核になる。

 

酒場のアルバイトで何軒か転々しているうち、そのなかの一軒で流行のモダン・ジャズを流している店があった。店のマスターが女性ボーカル好きで、ジュリー・ロンドン、クリス・コーナー、ニーナ・シモンらの輸入盤をいつもかけており、そのときにシモンはニーナ・シモンに影響を受け、彼女のレコードを購入するようになり、金子が「シモン」というニックネームを付けたので、このころから「シモン」と名乗りはじめる。四谷はまだなく、単純に「シモン」と呼ばれていた。

 

金子が務めていたデザイン会社をやめて四谷左門町へ移ると、四谷で毎日、当時の仲間で集まりおしゃべりをする生活を続ける。当時、男ばかりの集まりの「世田谷婦人会」というのがあり、それを真似て、金子やシモンをはじめとした四谷の男たちの集まりの四谷婦人会」というサークルを作り始める。これが四谷シモンの名前の由来となる。

 

また、この頃、雑誌『それいゆ』のスター内藤ルネや女優としてデビューする前の江波杏子とも知り合う。この頃のシモンはなんとなくいつも近しい人達と一緒にいて、若くて貧乏でなんとも定まらないボワーっとした状態だったが、この頃のメンバーは将来に色んな意味で関わってきた。

 

また、酒場でアルバイトをするかたわら、朝日新聞社主催の現代人形美術展に応募すると、一発で入選し、人形作家としてスタート地点に立つことになる。

 

人形を作る一方で、ロカビリー歌手にもなりたかったので、歌やピアノのレッスンを重ねているうちに、紹介でロリポップというバンドで歌手をすることになる。ロリポップは、佐々木功の前座バンドとして活動することになった。

 

しかし、あまりにハードなスケジュールのため過労で入院し、すっかり体力に自身がなくなりロカビリー歌手をやめる。

 

また、酒場のアルバイトに戻るかたわら人形制作を再び始めていると、酒場のお客さんからサルバドール・ダリという画家の作品を見てごらん」と教えてもらい、ダリの画集を手に入れ、シュルレアリスムの表現世界に熱中しはじめる。

 

その後、四谷片町へ移り、昼は人形を作り、夜は新宿で飲む毎日を過ごす。金子は四谷左門町で油絵を描き始めていた。

 

1965年の春、酒場でのアルバイトを続けながら漠然と人形を作っていたときに大きな転機が訪れる。大岡山の書店で『新婦人』という雑誌を手にとり、パラパラめくっているとドイツのシュルレアリスト、ハンス・ベルメールの人形の写真が掲載されており、見た瞬間「何、これが人形?」という火花のような感覚が身体を貫く。

 

写真を紹介した記事の中に「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉があったが、シモンは文字とおりにその写真に痙攣したという。そして、その日から、ハンス・ベルメールという名前とともにそれを紹介していた澁澤龍彦という文学者の名前が特別なものになった。

 

それまで知っていた人形はポーズがついたものがほとんだったが、ベルメールの人形は動かすことができポーズが固定されないし、タイトルもなかった。「人形」はただ「人形」なのだという当たり前のことを教えてくれ、人形はただ「かわいい」人形本来の姿に気づかせ、出会わせてくれたという。

澁澤龍彦、龍子夫人
澁澤龍彦、龍子夫人
江波杏子、金子國義
江波杏子、金子國義

四谷シモンの誕生


ベルメールと澁澤龍彦にショックを受けてまもなく、自分の部屋を飾る目的で油絵を描いていた金子國義の絵を見て驚いた高橋睦郎が澁澤龍彦を金子の部屋に連れてくる。澁澤はすぐに金子の作品にほれこみ、金子と澁澤の蜜月が始まる。

 

その余波で、金子はシモンを「A LA MAISON DE M.CIVECAWA」(澁澤さんの家の方へ)というサブタイトルがついた土方巽の暗黒舞踏公園「バラ色ダンス」に誘い、シモンはそこで初めてみる暗黒舞踏に強い衝撃を受け、土方巽の魅力にしびれる

 

翌1966年、澁澤が北鎌倉の新居に飾る絵と、『O嬢の物語』の挿絵を金子に依頼するようになると、シモンは澁澤の今までの本を読み始め、文学者・澁澤龍彦のすごさや、当時進んでいたサド裁判の意味をひしひしと感じ始め、澁澤龍彦に関心を持ち始める。

 

金子と交流があったことから、1967年の正月、金子に誘われて北鎌倉の澁澤邸を訪問し、澁澤龍彦と初めて会合した。

 

また、ちょうどそろ頃、唐十郎率いる状況劇場に参加していた金子から芝居で使う人形を作って欲しいと依頼される。その頃は、舞台に出すような大きな人形を作ったことがないのでイメージがあわず、結局、金子が粘土で即興的に作ったものを使うことになったが、公演当日、シモンは金子を訪ねて、新宿のピットインで開催される状況劇場の公園「時夜無銀髪風人<ジョン・シルバー>」を訪ねる。また、そこはいつもシュルレアリスムの話をしているという噂だった。

 

そこで、金子から劇団主催者の唐十郎を紹介され、唐十郎という人に惹きつけられる。彼は両手に山盛りのヘアピンを持ち、「これ全部僕の頭にさしてくれない?」といった。そのとき、こういう変な人にようやく会えた、そう思ったという。世の中の異様なもの、奇怪なるものに憧れていたシモンは、状況劇場での表現に火照るような喜びを感じる。

 

また、客席には、詩人の瀧口修造、澁澤龍彦、種村李弘らを代表する作家・文化人が勢揃いしていた。異常なものに惹かれる性癖、シモンの中にある「異常願望」が、新宿の湿った闇と唐十郎に出会いバチバチと発火しはじめたという。それから、シモンは唐の状況劇場に女優として参加することになる。このときの俳優名は「小林紫紋」だった。

 

草月会館の舞台を見た舞踏家の中嶋夏が、自身のリサイタルへの出演を依頼し、シモンは女装でヌードショーを行った。

 

また、この頃、ベルメールの写真の載っていた雑誌『新婦人』を手にとったきっかけとなった表紙イラストを担当していた宇野亜喜良、マリ夫妻と知り合う。マリ夫人からグラフィックデザイナーの植松國臣を紹介されると、彼から東急百貨店開業キャンペーンの仕事を頼まれるようになり、ポスター用の胸像のマネキンを制作することになる。このときに、雑誌で初めて「四谷シモン」の人形だとクレジットされた。

 

その後、状況劇場の紅テントの芝居『由井正雪』に「的場のお銀」役で出演する。この時から「四谷シモン」の芸名を使うようになった。

1971年 吸血鬼 四谷シモン:高石かつえ役 後方は根津甚八
1971年 吸血鬼 四谷シモン:高石かつえ役 後方は根津甚八

本格的な人形作家として活動


内藤ルネのアトリエで初めて西洋の球体関節人形を見たときから、シモンの人形創作の方向性は固まっていた。それは職人的な人形を作ることだった。

 

シモンにとって人形制作と芝居はまったく別のものである。芝居は即興的や発作的に表現できるが、人形制作にはそのような芸術的表現はないという。「芸術」とはほど遠い地味な作業をコツコツ続けていく必要があり、芝居と人形制作は全く別のもだから両立できたという。

 

嵐山光三郎が、自身が編集する雑誌『太陽』の昭和45年2月号「特集・世界の人形」で、シモンの創作活動を5ページにわたり紹介する。このなかで、18才のときの作品から、制作中のものまで、3作品がカラーで大きく取り上げられ、このことは後に人形作家として活動していくうえで、大きな力となった。

 

同時期、植松國臣から、大阪万国博覧会の仕事の手伝いを依頼され、繊維館パビリオンの空間を占めるための人形を制作することになる。当時、シモンはシュルレアリスムの画集をよく見ていて影響を受けていたこともあり、ルネ・マグリットの代表作である山高帽に黒いフロックコートの男をモチーフとした作品『ルネ・マグリットの男』を制作する案を出す。人形の制作はマネキンの会社に依頼し、2メートルくらいある大きな人形を15体制作し、パビリオンに設置した。

モデルとして活動


写真家の細江英公からモデルになってほしいと要請される。被写体がこれまで実際に過ごした街を背景に写真を撮るというコンセプトで、東京を背景にシモンに出演してほしいというものだった。細江は以前に土方巽を故郷の秋田で撮影した作品『かまいたち』を作っており、その流れの一環だった。

 

シモンは浅草の芸者が着ていた着物を借りて、白塗りで東京のあちこちの街で撮影された。この細江によるシモンの写真は、『季刊・写真映像9』の巻頭に掲載され、その後抜き刷り作品も作ることになり『四谷シモンのプレリュード』という三十部限定の私家版写真集となった。

 

このときの写真は、「シモン 私風景」というタイトルでのちにロンドンのテート・モダンで展示され、同美術館のコレクションにもなっている。

細江英公『荒川放水路河川敷、四ツ木付近』 1971年
細江英公『荒川放水路河川敷、四ツ木付近』 1971年

1972年2月、紀伊國屋画廊にて、朝倉俊博、有田泰而、石元泰博、加納典明、沢渡朔、篠山紀信、十文字美信、細江英公、宮崎皓一、森田一朗による「10人の写真家による被写体四谷シモン展」開催する。

 

当時を代表する総勢十名の写真家がシモンを被写体にした作品を5点ずつ出品するものだったが、シモンは被写体だけでは満足できず、人形作品も出品する。

 

このときに出品されたのが『ドイツの少年』である。展覧会は大盛況で、『ドイツの少年』を中心に土方巽、四谷シモン、寺山修司、唐十郎らが並んでいる写真をよく見かけるが、それはこの展覧会のオープニングの細江の写真である。『ドイツの少年』は、人形作家として本格的に出発する手がかりとなった。

 

シモンは人形を人間に近づけたいという理想、人間のように見せたいという願望が強くある。そのほうがゾクゾクするからだが、リアルな人間の人形を追求すると死体が人形にもっとも近くなるという。そのため、シモンにとって良い人形とは「このお人形さん、まるで生きているみたい」と言われるような人形ではなく、息がとまって死んでいる人間に近い、凍てついた人体表現だという。

 

楳図かずおは、雑誌「プリンツ21」シモンの人形について次のように批評している。

「シモンさんの人形はきれいなんだけど、エロティック、そして大胆なポーズをとらずにアピールしているのが面白い。表情やポーズで媚びないで、あくまで人形は人形っていうかたち。人形っていうよりはもう「死体」ですね。シモンさんの作品は人形から「死体」に進化している。それって素晴らしいですよ。」

 

また、この写真展は多くのカメラ雑誌に取り上げられる一方、これまでアングラ劇団の役者として印象が強かったシモンが人形作家として注目される一因となった展覧会でもあった。

細江英公『10人の写真家による被写体四谷シモン展』1972年
細江英公『10人の写真家による被写体四谷シモン展』1972年

初個展「未来と過去のイヴ」で人形作家


翌1973年4月、青木画廊を訪ね、10月頃に展覧会をさせてほしいと頼み、同時にお金を貸してほしいと頼む。人形を作るにも収入がなく、家賃も払えない状態だった。青木画廊のオーナー・青木外司は快く承諾してくれ、何度かにわけてお金を貸した。

 

状況劇場の役者は1971年にやめていたので、その後は人形作りに没頭する日々となった。目が醒めたら飯を食ってすぐにとりかかり、限界がきたら寝る。ひたすらその繰り返しで半年間ぶっ続けで創作をしていた。

 

半年で、12体の人形を制作する。12体作ろうと思ったのは、漠然と一ダースにしたいという感覚だった。

 

個展のタイトル未来と過去のイヴは、澁澤龍彦に頼んでもらったオマージュから付けてたものである。当時、創作する人間にとって、澁澤から一筆もらうということは巨大な力があった。金子國義がのしあがったきっかけの個展タイトル「花咲く乙女たち」も澁澤が与えたオマージュだった。

 

個展の案内状には澁澤が付けたタイトルのほかに瀧口修造の「人形螺旋」という文章を掲載し、篠山紀信が撮影した写真が掲載された。

 

人形は初日に8体売れ、翌日12体すべて完売した。大成功だった。展覧会は朝日新聞の「展評」欄ほかいろいろな新聞で取り上げられた。新宿のアンダーグラウンドで生きてきたことが花開いたのだと思ったという。この展覧会によってシモンはようやく「人形作家」としてデビューする確信ができ、これで人形を作り続けていけると感じたという。

 

「未来と過去のイヴ」は金髪で青い目をして、赤い口紅をして、ハイヒールを履いているパターン化した人形である。

『未来と過去のイヴ 7』1973年
『未来と過去のイヴ 7』1973年

青木画廊での第一回個展のあと、シモンは今以上に自分流の人形感を模索する。当時の人形は作家はどこか人形を「アート」に高めたいと思いながら、逆に「アート」にとらわれて、結局手工芸品という枠から出ていないように思え、シモンは工芸的ではない、もっと違う人形の世界を模索し続け、ベルメールとの出会いからこれが自分進む方向だと決めた。

 

また、生活の基盤となる仕事として「十人の写真家による被写体四谷シモン展」をプロデュースしてくれた鶴本正三が経営する、コレクターズコレクションという会社を手伝う。そこで、人形を商品化し、シモンドールという40センチくらいの愛らしい人形が生まれた。三越で置くとよく売れたという。

 

また、海外から仕入れたアンティーク・ドールから型をとって再現するアンティーク・リプロダクションを行う。日本初の西洋のアンティーク・ドールの再現、量産だった。10万円以下で商品化したところ、大当たりとなった。

 

1976年、日本橋三越の「日本洋画商協同組合展・春の祭典」で、金子國義と二人展を開催する。このとき状況劇場の女形のようにギラギラした作品『慎み深さのない人形』を出品する。この人形はピエール・モリニエを意識した作品であるという。

『慎み深さのない人形』1975年
『慎み深さのない人形』1975年

略年譜


   
1944年 ・7月12日、東京・五反田に小林家の長男として生まれる。本名は小林兼光。父・兼治郎はタンゴの楽師、母・都多世は石井漠門下のダンサー。
1947年

・弟・兼人が生まれる。

・父と母の喧嘩が激しくなる。

1948年 ・母が落語家・三遊亭歌笑らの一座に加わり、高座に上がる。
1949年 ・父がお土産に人形を買って帰り、初めて人形と出会う。
1951年

・大田区立池雪小学校入学。

・小学校にて、父のヴィオリン引きで母がストリップを披露。

1953年 ・母がガソリンスタンドを経営する笠井という男の妾になり家出する。
1954年

・シモンと弟は母を探しにいき、そのまま根津八重垣町の母のもとに住みつく。

・文京区立根津小学校に転入。

・映画『新諸国物語 笛吹童子』を観てしゃれこうべのお面を作る。

1955年

・母が深川で小料理屋を開いたため、門前仲町に引っ越す。江東区立数矢小学校に転入。

・母に別の男の影がちらつく。苛立つ笠井氏にシモンは殴られる。世間に対して復讐心が生まれる。

・父が訪ねてくるが取り合わず。

1956年

・北区西ヶ原に引っ越す。北区立滝野川小学校に転入。

・母が麦茶屋をはじめ、笠井氏に買ってもらった王子の家に引っ越す。

・紙粘土や布を使った人形を作り始め、日本橋・高島屋の人形展に通うことになる。

・川崎プッペの存在を知る。

1957年

・北区立王子中学校に入学。

・日本橋・高島屋に飾られていた人形が好きになり作家・林俊郎を訪ねる。内弟子・坂内俊美の手伝いをすることになる。そこでぬいぐるみの技法をおぼえる。

1958年

・母再婚。弟とともに叔母の家に預けられる。王子の家を売り、再婚相手の娘も交えた五人暮らしをはじめるが、その後再婚相手の事業が失敗。行く先を失い原宿のアパートへ移る。母に言われて質屋に通う毎日。

川崎プッペのアトリエを弟と訪ねる。

・現代人形美術展や日展など人形を盛んに見に行くようになる。人形を作り続けたいと考える。

・学芸大学前に引っ越す。不良仲間と付き合い万引き事件をおこす。

・学区外に引っ越したことを理由に学校を辞めさせられ、外苑中学校に転入。

1959年 ・自由が丘に引っ越す。外苑中学校卒業。
1960年

・代々木の日本デザインスクールに入学するが、すぐ辞める。

・家を出て奥沢にひとりで住むことにする。自由が丘の寿司屋でバイトをしながら林俊郎に師事。

・制作した少女のぬいぐるみが2000円で売れる。

1961年

・坂内俊美の紹介でぬいぐるみ作家・水上雄次の内弟子となるが、水上雄次が癌になり独立をめぐる内弟子との争いが勃発。教室を辞める。

・中野の洋品店「キクヤ」に住み込みで勤めはじめるが栄養失調になり辞める。

・新宿のジャズ喫茶に出入りして川井昭一と知り合う。

・バーでバイトを始める。新宿ACBに出入りしてロカビリー歌手になろうかと思う。

・川井の紹介で金子國義と出会い、コシノジュンコ内藤ルネ江波杏子らと知り合う。

・歌手のニーナ・シモンが好きだったので『シモン』と名乗り始める。

1962年

・日立化成のカレンダーのためコマーシャル用人形を作る。

・朝日新聞社主催『現代人形美術展』にぬいぐるみ『希望』を出品し入選。

・ロカビリー歌手になるべくオーディションを受けて落選するが、佐々木功の前座歌手となる。公演について廻る日々。

 

1963年

・披露のため発生した昔の盲腸の傷が癒着、手術の疲労で虚脱状態になる。

・ロカビリーをやめて新宿のバーに戻る。

1965年

・四谷片町に引っ越す。

・大岡山の古本屋で『新婦人』を手に取り、そのなかで澁澤龍彦がハンス・ベルメールを紹介する記事「女の王国」を観て衝撃を受ける。今まで持っていたぬいぐるみの材料をすべて捨てる。内藤ルネが球体関節人形を持っていると聞いて見せてもらう。

・金子國義のアパートに遊びに行き、高橋睦郎を知る。高橋睦郎が、金子國義に澁澤龍彦、唐十郎を引きあわせたことが、のちに大きな転機をもたらす。

1967年

・1月、北鎌倉の澁澤龍彦邸を金子國義とともにはじめて訪れる。

・四谷坂町に引っ越し、弟と暮らす。

・新宿・ピットインの楽屋で唐十郎に出会う。

・状況劇場『ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴篇』に出演、小林紫紋を名乗る。

・渋谷東急本店開店キャンペーンでディスプレイ用の人形を作る。

・パリへ発つが、日本語が通じないうえ寒いので20日あまりで帰国。出国のため取り寄せた戸籍謄本で父が死んだことを知る。

1968年

・状況劇場『由比正雪』に出演、四谷シモンを名乗る。

・この頃アンティークドールを売って生活する。

1969年

・状況劇場『腰巻お仙 振袖火事の巻』ゲリラ公演、『少女都市』に出演。状況劇場と天井桟敷の乱闘事件がおこり、警察に二晩拘留される。

・植松國臣から大阪万国博覧会「せんい館」の依頼をうけ『ルネ・マグリットの男』を制作。

・映画『新宿泥棒日記』に出演。

1970年

・大阪万国博覧会「せんい館」にて『ルネ・マグリットの男』を発表。

・嵐山光三郎編集の雑誌『太陽』に「犯された玩具」というサブタイトルで人形創作活動が紹介される。

・状況劇場『河原者の唄(ボタンヌ袋小路ショー)』、『愛のリサイタル』、『ジョン・シルバー 愛の乞食篇』に出演。

1971年

・等々力に引っ越す。

・状況劇場『吸血姫』に出演。

・状況劇場『あれからのジョン・シルバー』に出演。以後13年間、状況劇場の舞台には立たない。

・テイチクレコードより金井美恵子とともにレコード『春の画の館』を発売。歌詞が近親相姦を思わせるため放送禁止になる。

・細江英公の被写体となった『四谷シモンのプレリュード(シモン・ある私風景)』が雑誌『季刊写真映像』に発表され、私家版写真集刊行。

1972年

・新宿大京町に引っ越す。

・紀伊國屋画廊にて、朝倉俊博、有田泰而、石元泰博、加納典明、沢渡朔、篠山紀信、十文字美信、細江英公、宮崎皓一、森田一朗による「10人の写真家による被写体四谷シモン展」開催。

・雑誌『アサヒカメラ』にて篠山紀信が『ドイツの少年』を撮影。

1973年

・大岡山に引っ越す。

・歌謡ショー『唐十郎・四角いジャングルで唄う』に友情出演。

・青木画廊にて第一回個展「未来と過去のイヴ」を開催。澁澤龍彦からオマージュをもらう。

1974年

・『未来と過去のイブ』が「第11回日本国際美術展」(東京ビエンナーレ)の招待作品になる。

1975年

・エッセイ集『シモンのシモン』(イザラ書房)刊行。

・日本橋三越の「日本洋画商協同組合展・春の祭典」に出品。

1976年 ・かつての向田邦子が住んだという西麻布のマンションに引っ越す。
1978年

・人形学校「エコール・ド・シモン」開校。

・エッセイ集『機械仕掛の神』(イザラ書房)刊行。

・パリの装飾美術館の「間-日本の時空展」に出品。

1980年

・青木画廊にて第2回個展「機械仕掛の少年」開催。

・TBSドラマ『真夜中のヒーロー』の小道具に人形作品数体が使用される。

1981年

・紀伊國屋画廊にて「第一回エコール・ド・シモン人形展」開催。

1982年

・青木画廊にて個展「ラムール・ラムール」開催。

・富山県立近代美術館の「瀧口修造と戦後美術」に出品。

1983年

・アメーバ性肝膿瘍にかかり入院。

・紀伊國屋画廊にて「第2回エコールド・シモン人形展」開催。以後同画廊で毎年開催することになる。

1984年

・13年ぶりに状況劇場の公演、『あるタップ・ダンサーの物語』に出演。

・青木画廊にて個展「未来と過去のアダム」開催。

1985年

・NHK大河ドラマ『春の波濤』にレギュラー出演。

・澁澤龍彦監修『四谷シモン 人形愛』(美術出版社)刊行。

1986年

・TBSドラマ『女の人さし指』に準レギュラー出演。

・青木画廊にて個展「四谷シモン人形展1973-1986」開催。

1987年

澁澤龍彦死去。以後しばらく人形を作れなくなり、教会や座禅にでかける。

・松竹・関西テレビ制作ドラマ『女と男』に出演。

・TBSドラマ『麗子の足』に出演。

1988年

・澁澤龍彦の生前から着手している人形「天使シリーズ」の第1作目が完成。

・TBSドラマ『男どき女どき』に出演。

1989年

・TBSドラマ『わが母の教えたまいし』に出演。

・映画『キッチン』に出演。

・新版『シモンのシモン』(ライブ出版)刊行。

・宮城県美術館の「美術の国の人形たち」に出品。

1990年

・TBSドラマ「隣の神様」出演。

・TBSドラマ「思い出トランプ」出演。

1991年

・TBSドラマ『女正月』出演。

・青木画廊の「眼展 Augen Ⅶ」に出品

1992年

・TBSドラマ『華燭』出演。

・フジテレビドラマ「怪談 KAIDAN」出演。

・埼玉県立近代美術館の「アダムとイヴ」などに出品。

1993年

・TBSドラマ『家族の肖像』

・新版『四谷シモン 人形愛』(美術出版社)刊行。

1994年

・雑誌『ユリイカ』にて1年間、12冊にわたって「機械仕掛の少女 2」などが表紙として使用される。

・TBSドラマ『いとこ同志』出演。

・徳島県立近代美術館の「20世紀の人間像-4 現代との対話」などに出品。

1995年

・TBSドラマ『風を聴く日」出演。

・TBSドラマ『いつか見た青い空』出演。

・NHKドラマ『涙たたえて微笑せよ-明治の息子・島田清次郎』出演。

・aptギャラリーにて個展「四谷シモン展-人形」開催。

・青木画廊の「眼展 Augen X-Ⅱ」に出品。

1996年

・TBSドラマ『響子』に出演。

・TBSドラマ『言うなかれ君よ、別れを』に出演。

・O美術館の「ひとがた・カラクリ・ロボット展」などに出品。

1997年

・TBSドラマ『空の羊』に出演。

・TBSドラマ『蛍の宿』に出演。

・『日本の名随筆 別巻81人形』(作品社)に選者として参加。

1998年

・TBSドラマ『終わりのない童話』に出演。

・TBSドラマ『昭和のいのち』に出演。

・写真集『NARCISSISME』(佐野画廊)刊行。

・画廊春秋の「種村季弘<奇想の展覧会>実物大」などに出品。

1999年

・TBSドラマ『小鳥のくる日』に出演。

・TBSドラマ『あさき夢みし』に出演。

・中京大学アートギャラリーC・スクエアの「種村季弘<奇想の展覧会>実物大 Part Ⅱ」などに出品。

 

(参考文献:プリンツ21「四谷シモン」

人形作家「四谷シモン」


●ベルメール

「新婦人」という雑誌には僕の人生を変える一枚の写真が載っていました。ハンス・ベルメールの人形の写真です。全体は人間の下半身が2つ胴体でつながったようなぐにゃぐにゃとした形で、その股ぐらから少女の顔が突き出しているのです。瞬間、「何、これが人形?」ということが僕の体を火花のように貫きました。その写真を紹介した記事のなかに「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉がありましたが、僕は文字どおりその写真に痙攣したのです。エロティシズムに驚いたのではなく、「関節があって動くこと」、だからポーズがいらないということがいちばん大きかったのです。

 

●アングラ演劇

唐十郎と寺山修司はのふたりは、アングラ劇団を率いるものとして同じようにくくられることが多いようですが、芝居の方向性、作り方はまったく違っています。唐十郎は、子役出身の役者です。きちっと台本がある本格的な芝居を作るようになっていきます。自ら台本を書くという文学性のある世界に入っていくにつれ、芝居そのものが凝縮する方向に進んだのです。いろいろなものが一見脈絡なく絡み合った芝居で物語は複雑ですが、意外に情感的で、ドラマそのものを重視しています。ただ、そのドラマが要求するリアリティが劇場という「枠」に収まり切らないことからテント芝居にこだわっているのだと思います。唐の芝居は難解で、正直いって一度見ただけでは理解できません。何回かみているうちに、「あ、これがさっきのあれとつながっているのか、なるほど」と把握するという感じです。観客もそういうふうに楽しんでいるのだと思います。唐はサルトルや実存主義に強く影響を受けているし、劇団員も思想や文学をかなり勉強していた、いわゆる屁理屈集団でした。

 

寺山さんは、まず既存の劇場そのものに対する反発が強かったのではないでしょうか。だから街頭で移動しながら芝居をし、観客もそれについてまわるような見せ方をして、芝居そのものを壊すという拡散的な方向に向かいました。

 

●自己愛

20数年間人形を作ることを教えていて、すべての生徒にいえることがひとつあります。全員の作品にその人の「自分」が出ているのです。それを見ていると、人という生き物はこんなにも自分自身から逃れられない自己愛の強い存在なのだなと感じます。人形は具体的なものですから、表現に個が出やすいということはあります。料理や花の生け方などにもその人の個性はでますが、いかんせん人形はヒトガタですから、明快に個性が露出するのです。人形には作者本人に似るなにかがどうしても出てしまうものなのです。

 

そんなことを考えているうちに、逃れ切れない自己愛、ナルシズムが誰にでもあるならば、あえてそれをテーマにして意図的に作品化しようと思いました。人形というのは自分自身であり、分離しているようでしていないという作為的、幻想的な考え方をするようになったのです。こうして生まれた「ナルシズム」「ピグマリオ二スム・ナルシシズム」などの作品は、絵画や写真のセルフポートレートとは少し違っていますが、おそらく「これも僕です」といえるものではないかなと思っています。

 

「人形は人形である」というところから出発しましたが、人形は自分で自分は人形という、自己愛と人形愛の重ね合わせが現段階での僕の考え方です。

 

インタビュー




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