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【美術解説】ヒエロニムス・ボス「初期フランドルの異端画家」

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ヒエロニムス・ボス / Hieronymus Bosch

初期フランドルの異端画家


概要


生年月日 1450年
死没月日 1516年8月
国籍 オランダ
表現媒体 絵画
ムーブメント

初期フランドル派

ルネサンス

幻想美術

代表作

・《快楽の園》

・《聖アンソニーの誘惑》

ヒエロニムス・ボス(1450年-1516年8月)は初期フランドル派の画家。日本ではヒエロニムス・ボッシュと表記される事も多い。

 

風変わりなイメージや緻密な光景、宗教思想や神話のイラストレーション作品で知られる。シュルレアリスムのルーツの1つとみなされている。

 

生涯のうちにボスの作品は、ネーデルランド、オーストリア、スペインなど幅広い地域で人気を呼び、作品が収集されている。特に地獄の不気味で悪夢的な描写の作品が人気だった。

 

ボスの絵画には、異様な怪物や動物、奇妙な植物や建物といった、想像力の限りを尽くして創り出された不可思議にして奇怪なモチーフが、混沌とした世界を現出させているものがある。

 

ボスの生涯のほとんどは知られておらず、数少ない記録が残っているだけである。スヘルトーヘンボスにある祖父の家で生まれて、人生の大半をこの町で過ごした。先祖のルーツは、現在のドイツのアーヘン地方周辺にあるという。

 

ボスの悲劇的かつ幻想的なスタイルは、16世紀に北方芸術に広く影響を及ぼした。特にピーテル・ブリューゲルがボスの影響を受けていたことは有名である。

 

ボスの作品は、現代の視点から解説することは非常に難しい。ボスをアダム派と言われる異端の一派や、薔薇十字騎士団のような秘密結社と結びつけてみたりする試みも存在する。ボス自身は経験なカトリック信者だった。

 

今日、ボスは人間の欲望と深淵な恐怖を洞察する個性的な画家として受け止められており、特に美術史のスタイルやカテゴリを付けることは困難な作業となっている。宗教改革の際に作品の大部分が破壊されて消失しており、現在、確実にボスが描いたとされる作品は25作品残っている。代表的な作品は『快楽の園』である。

『最後の審判』
『最後の審判』
『聖アントニウスの誘惑 左扉』
『聖アントニウスの誘惑 左扉』

略歴


生涯


ヒエロニムス・ボスの本名はイェルーン・ファン・アーケン(Jeroen van Aken)。オランダ語でイェロニムス・ボス(Jheronimus Bosch)。彼は自身の絵画の多くにオランダ語のイェロニムス・ボス(Jheronimus Bosch)とサインをしている。この名前は彼の生誕地であるベルギー国境近くのヘルトゲンボッシュ(公爵の森)に由来している。

 

ボスの生い立ちや美術学習についてはほとんどわかってない。手紙や日記は残っておらず、ヘルトゲンボッシュ市の記録や聖母マリア修道会の会計帳簿に記録されているボスに関する少ない記録からしかわからない。彼の人柄や芸術の意図に関しては何も知られていない。

 

ボスの生年月日もはっきりとしたことはわかっていない。1516年に亡くなる直前に描かれた手描きの肖像画(自画像の可能性もある)から、1450年頃と推定されている。この肖像画には、おそらく60代後半である。

 

ボスはブラバント公国の都市ヘルトゲンボッシュで生まれ、生涯をそこで過ごした。彼の祖父ヤン・ファン・アーケン(1454年没)は画家で、1430年の記録に初めて現れる。ヤンには5人の息子がいたが、そのうち4人は画家だった。ボスの父アントニウス・ファン・アーケン(1478年頃没)は、宗教的友愛グループ「聖なる聖母の兄弟団」の芸術顧問を務めていた。

 

一般的には、ボスの父か叔父が絵を教えたと考えられているが、彼らの作品は現存していない。

 

ヘルトゲンボッシュは、15世紀に現在のオランダ南部のブラバントで栄えた都市で、当時はブルゴーニュ領ネーデルラントの一部であり、末期にハプスブルク家との結婚を経て、ハプスブルク領の一部になっていた。ボスの作品がスペインやオーストリアで収集されたのはハプスブルグ領であったことが起因しているだろう。

 

1463年、町で4,000軒の家が壊滅的な火災に見舞われる事件が起きたが、当時(約13歳)のボスはこれを目撃してトラウマになったと言われている。ボスは現役中に人気画家となり、しばしば国外から依頼を受けるようになった。 1486年7月、彼は非常に尊敬されている聖母同胞団に加入した。

 

1479年から1481年の間に、ボスは数歳年上のアリエット・ゴヤーツ・ファン・デン・ミーリーンと結婚。夫婦は近くの町オイルショットに移り住んだ。そこは裕福な家系出身の妻が家と土地を相続していた。

 

聖母同胞会の帳簿には、1516年にボスが亡くなったことが記されている。その年の8月9日、聖ヨハネ教会で彼を偲ぶ葬儀が行われた。

作品


ボスは少なくとも16点の三連画を制作しているが、そのうち8点は完全無傷で、5点は損傷している。ほとんどの作品が16世紀の宗教改革運動での偶像破壊のあおりを受けて紛失したという。

 

ボス作品は一般的に、初期(1470〜1485年頃)、中期(1485〜1500年頃)、後期(1500年頃〜没後)の3つの時期に分類される。ステファン・フィッシャーによれば、現存するボスの絵画のうち13点は後期に完成したもので、7点は中期に完成したものとみなされている。

 

ボスの初期について、彼の工房での活動とおそらくいくつかのドローイングの面から研究されている。実際、工房で教えていた生活たちはボスから影響を受けていた。

 

透明な釉薬を何度もかけて滑らかな表面に仕上げることで、ブラシワークを隠すという伝統的なフランドル絵画のスタイルとは対照的に、ボスは比較的大雑把な描き方をすることもあった。

 

インパスト絵画と呼ばれる荒い表面のボスの絵は、15世紀から16世紀初頭の偉大なオランダ画家たちのストローク跡など筆致をできるだけ隠し、人為性を感じさせない神聖な作品に仕上げようとしていた伝統様式とは異なるものだった。

 

ボスは自分の絵画に日付を入れていないが、当時としては珍しく、いくつかの絵画にサインをしているが、彼のものと思われるサインは確かではない。

 

16世紀後半に、スペインのフィリップ2世がボスの絵画のたくさん購入しているため、現在ではマドリードのプラド美術館に《魔術師の崇拝》、《土の喜びの庭》、《七つの大罪と四つの最後のもの》の卓上絵、《ヘイウェイン三部作》が所蔵されている。

絵具素材


ボスはおもにオーク材のパネルに油絵具を使って作品を描いた。ボスが使う画材はかなり限られたもので、当時の普通の顔料しか使っていなかった。青空や遠景には主にアズライトを、葉や前景にはマラカイトやバーディグリスなどの緑銅釉や絵具を、人物には鉛錫黄色や黄土色、赤湖などを用いている。

快楽の園


『悦楽の園』(1490−1510年)
『悦楽の園』(1490−1510年)

ボスの最も有名な三連画は《快楽の園》(1495年~1505年頃)で、左の『エデンの園』と右の『最後の審判』が中央のメインパネルを囲むように配置されている。フィッシャーは、ボッシュが中期から後期にかけて描いた移行期の絵画であるとみなしている。

 

左側のパネルでは、神はアダムとイヴとともに革新的に若々しい姿で神が描かれている与ほかに、描かれているのはエキゾチックな動物や珍しい半有機的な小屋のような形をした動物たちが住む風景である。

 

中央のパネルには、無邪気で独りよがりな喜びに満ちた裸体と、幻想的な複合動物、特大の果実、ハイブリッドな石の造形などが大パノラマで描かれている。

 

右側のパネルは、人類が悪の誘惑に屈し、永遠の呪縛を受けている地獄の世界が描かれている。夜に設定されたこの絵は、冷たい色、拷問された人物と凍った水路を特徴としている。

解釈


・20世紀になって芸術的カラーが変化し、ボスのような芸術家がヨーロッパの想像力をかいたてるようになったとき、ボスの芸術は異端的な集団(たとえば語るカタル人や、アダム派、自由心霊兄弟団)や、理解不能な異民族の習慣に触発されたものではないかという論争が起きた。

 

・エラスムスはヘルトゲンボッシュの共同生活兄弟会で教育を受けており、町は宗教的に進歩的であったため、エラスムスの辛辣な文章とボスのしばしば大胆な絵画との間に強い類似性があるのは当然であると考える人もいる。

 

・ボスの作品はイタリア・ルネッサンスの「グロテスク」のように、単純に人を刺激させたり、驚かせたりするために作られた絵画であると考えた人もいた。

 

・旧来の巨匠たちの作品が、日常的に人々が経験する物理的な世界に基づいていたのに対し、ボスは、美術史家ウォルター・ギブソンの言葉を借りれば、「目の前で形がちらつき、変化していくように見える夢の世界、悪夢の世界」を鑑賞者に突きつけている。

 

・1560年、スペイン人のフェリペ・デ・ゲバラは、ボスの絵画に関して、ボスは「怪物とキメラの発明者」に過ぎなかったと書いている。

 

・17世紀初頭、美術家の伝記作家カレル・ファン・マンデルは、ボスの作品を「不思議で奇妙な空想」で構成されていると評しているが、彼はボスの絵画は「見ていてぞっとするようなものではなく、気持ちのいいものではないことが多い」と結論づけている。

 

・最近数十年の間に、学者たちはボスのビジョンは幻想的だったり異常的なものではなく、同時代の正統的な宗教的信念体系を反映しているという見解を示している。ボスの罪深い人間性の描写や天国と地獄の概念は、現在では中世後期の教典文学や説教と一致していると考えられている。

 

・そのため、ボスの芸術は、詩人ロバート・ヘンリーソンのような北方ルネッサンスの他の人物に見られるように、特定の道徳的・精神的な真理を教えるために制作された宗教界であり、描かれたイメージは正確で計画的な意味があると考えられている。

帰属に関する議論


ボスの現在している作品の正確な数はかなり議論の的になっている。ボスのサインが確認できるのは現存する絵画のうち7点のみだが、実際に彼が描いたかどうかは不明である。

 

16世紀初頭以降、彼の絵画の多くの複製やバリエーションが流通し始めたことが知られている。また、彼のスタイルは非常に影響力があり、多くの芸術家に模倣された。

 

長年にわたり、学者たちは、かつて彼の手によるものと考えられていた作品を帰属させる作業は少なくなってきている。これは、赤外反射法のような技術の進歩により、研究者が絵画の下絵を調べることができるようになったことが一因である。

 

20世紀初頭から半ばにかけて、トルネイやバルダスといった美術史家たちは、ボスの手によるものと思われる絵画30~50点を特定しているが、後に発表されたゲルト・アンバーフェルトの論文では、ボッシュの手によるものは25点の絵画と14点のドローイングにすぎないとしている。

 

2016年初頭、ミズーリ州カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館に展示されている小さなパネル《聖アンソニーの誘惑》は、ヒエロニムス・ボスの工房によるものとされてきたが、ボス研究保存プロジェクトによる集中的な法医学的研究の結果、ボス自身の作品であることが確認された。

 

一方、ボス研究保存プロジェクトは、これまでボスの作品とされてきた《プラドの七つの大罪》とヘント美術館の《十字架を運ぶキリスト》という2つの有名な絵画は、ボス自身の手によるものではなく、ボスの工房によるものとするべきかどうかについても疑問を呈している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hieronymus_Bosch、2020年4月18日アクセス



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