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ジャポネズリ

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花魁(アイゼン以降)
花魁(アイゼン以降)

概要


「ジャポネズリ」(英語:Japanesery)とは、フィンセント・ファン・ゴッホが、自身の作品に日本美術の影響が含まれていることを表現するために用いた言葉。

背景


1854年以前、日本の海外貿易はオランダと独占契約されており、ヨーロッパに輸入される日本製品はおもに磁器や漆器であった。

 

その後、200年にわたる日本の鎖国政策を終わらると日本と西洋との自由貿易が始まり、1860年代以降ヨーロッパに入ってきた日本の木版画である浮世絵は、多くの西洋人芸術家のインスピレーションの源となった。

ゴッホが受けた日本美術の影響


ゴッホが日本の版画に興味を持ったのは、『The Illustrated London News』や『Le Monde Illustré』に掲載されたフェリックス・レガメイの挿絵を見たことがきっかけである。

 

レガメイは日本の技法にのっとった木版画を制作し、日本の生活風景を描くことが多かった。

 

1885年以降、ゴッホはレガメイなどの雑誌挿絵の収集から、パリの小さな商店で買える浮世絵の収集に切り替えた。ゴッホはアントワープの港町で日本の浮世絵を買い求め、後にその様式を絵画の背景に取り入れた作品もある。

 

ヴィンセントは安藤広重の『名所江戸百景』から12枚を所有しており、また二代目歌川豊国の「水浴する娘たち」(1868年)も購入していた。これらの版画は、彼の芸術の発展に影響を与えた。

 

ゴッホは自分のコレクションを同時代の人々と共有し、1887年にはパリで日本の版画展を開催した。弟のテオ・ファン・ゴッホとともにこれらの版画をしばらく扱い、最終的には数百枚を集め、現在はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館に所蔵されている。

 

その1ヶ月後、彼はこう書いている。

 

私の作品はすべて、ある程度日本美術に基づいている......。

 

ゴッホは浮世絵の模写を3点、『花魁』と広重を模した2点の習作を制作している。

 

ゴッホは浮世絵を扱う中で、日本美術を西洋に紹介し、後にアール・ヌーヴォーの発展に大きく貢献したジークフリート・ビングと出会うことになる。

 

 ゴッホは日本人画家を理想とし、それがアルルの「黄色い家」やポール・ゴーギャンとの理想郷であるアート・コロニー形成の試みにつながった。


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