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【美術解説】エゴン・シーレ「20世紀を代表するヌード画家」

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エゴン・シーレ / Egon Schiele

オーストリア表現主義


『ホオズキと自画像』(1912年)
『ホオズキと自画像』(1912年)

概要


生年月日 1890年6月12日
死没月日 1918年10月31日
国籍 オーストリア
表現媒体 絵画、ドローイング、版画
ムーブメント 表現主義、ウィーン分離派耽美主義
関連人物 グスタフ・クリムトオスカー・ココシュカ

エゴン・レオ・アドルフ・シーレ(1890年6月12日-1918年10月31日)はオーストリアの画家。表現主義の画家。クリムトの弟子であり、20世紀初頭のポートレイト絵画で最も影響力のある人物。

 

シーレの作品は、その強烈な個性と生々しい官能的な表現が特徴、またナルシスティックなセルフ・ポートレイト作品で知られる。

 

極端にねじれた身体造形と表現主義的な線がシーレの持ち味であり、美術史では初期表現主義の美術家として位置づけられている。

略歴


若齢期


エゴン・シーレは1890年にオーストリアのニーダーエスターライヒ州トゥルンで生まれた。

 

オーストリア国鉄トゥルン駅の駅長だった父アドルフ・シーレは、1851年にウィーンでバレンシュテット出身のドイツ人カール・ルドウィッグ・シーレとアロイシア・シマックとの間に生まれた。

 

エゴン・シーレの母マリー、旧姓スークップは、1861年にチェコのミルコヴィツェ出身の父フランツ・スークップと、チェスキー・クルムロフ出身のドイツ系ボヘミア人の母アロイジア・ポフェールの間にチェスキー・クルムロフ(クルマウ)で生まれた。

 

子どものときシーレは列車に夢中で、何時間もかけて列車を描き、絵に対する入れ込みに心配した父親がスケッチブックを破り捨てるほどだったという。

 

11歳のときシーレはクレムス近郊の町へ移り、中学校に入学する。学内や周囲からシーレは変なやつだとみなされたいた。恥ずかしがりやで無口だったシーレは、体育と美術をのぞいてはいつも成績が悪く、低学年の生徒たちと授業をすることもあった。

 

シーレは中学生ぐらいから、妹のゲルティと近親相姦的にあったとされ、実際に妹のヌードデッサンを多数残している。

 

シーレと妹の怪しげな雰囲気に気づいた父は、一度シーレと妹がいる鍵のかけられた部屋を打ち破って入り、彼らが何をしているのか確かめたことがあるという(そのときは二人で映画制作をしていただけだったという)。

 

また、シーレは16歳のときに、親の許可も得ずに12歳の妹と電車でイタリアのトリエステにでかけホテルで一泊したことがあった。

16歳のシーレ、1906年の自画像
16歳のシーレ、1906年の自画像

美術大学時代


14歳のときに父が梅毒で死ぬと、鉄道員だった母方の伯父レオポルド・キャザチャックがシーレの後見人となる。

 

伯父はシーレに跡を継いでもらうため大学に行ってほしかったが、シーレがアカデミズムにまったく関心がないことに悩む。結局、シーレの絵描きの才能を認めることにして、画家のルートヴィヒ・カール・ストラウスを家庭教師をつけることになった。

 

1906年にシーレは、かつてグスタフ・クリムトも学んだウィーンの美術工芸学校に入学するが、初年度にして複数の教員の推薦によって、より伝統的なウィーン美術工芸アカデミーへ編入することになる。

 

アカデミーでの主な教師はクリスチャン・グリーペンケルであった。グリーペンカールは非常に厳格で保守的なスタイルだっためシーレと相性が悪かった。3年ほどでシーレは退学する。

『Der Schmiedehof』(1905年)
『Der Schmiedehof』(1905年)

師匠クリムトとの出会い


「アーサー・ロエスラーの肖像」(1910年)
「アーサー・ロエスラーの肖像」(1910年)

1907年、シーレは若者に対して寛大だったスタフ・クリムトのもとへ弟子入りする。

 

クリムトもシーレに対して一目置いており、シーレの作品を購入したり、自身の作品と交換したり、見込みのありそうなパトロンを紹介してあげていた。貧しいシーレがモデルを雇う代金を立て替えてやることもあった。

 

またシーレをウィーン分離派とつながりのあった美術工芸工房「ウィーン工房」へ紹介する。

 

1907年から1909年にかけてのシーレの初期の作品には、クリムトの作品と強い類似性があり、またアール・ヌーヴォーの影響も見られる。

 

1908年にクリムトの協力でクロスターノイブルクで最初の個展を開催した後、シーレは1909年にアカデミーを退学。アカデミーに対して不満を持っていた生徒たちとともに芸術集団「ノイ・クンスト・グルッペ」を設立。

 

シーレは、クリムトやココシュカの影響を強く受けていた。初期の作品には、特にクリムトやココシュカの模倣が目立つが、すぐに独自のスタイルを確立した。

 

クリムトはシーレを1909年に開催したウィーン分離派展へ招待し、作品を数点出品した。この展示会は、エドヴァルド・ムンク、ヤン・トーロップ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホらフランス印象派の作家たちを多数紹介したもので、シーレはこれらから多大な影響を受ける。

 

アカデミー時代の表現の制約から自由になったシーレは、積極的に人型だけでなく性表現の探求、またフランス印象派の影響のもと表現主義の方向へスタイルを移し始めた。この頃からシーレは多くのグループ展に参加するようになる。

 

シーレの作品はもともと斬新だったが、クリムトの装飾エロティシズムと表現主義的な歪みを取り入れることで、さらに大胆で前衛的になった。

 

1910年のシーレのセルフ・ポートレイト作品『手を挙げながらひざまづく裸体』は、その独特な感情や性的な正直さ、従来の美の理想に代わる具象的な歪みの使用によって、両ジャンルのエネルギーの再確立に貢献した。

 

シーレはこの頃、ゴッホの「ひまわり」へのオマージュや、風景画、静物画も描いている。

『トリエステ港』(1907年)
『トリエステ港』(1907年)

シーレは、裸の人間の姿に対する過激で発展的なアプローチで、学者と進歩的な人々の両方に挑戦しました。

 

この型破りな作品とスタイルは、厳格なアカデミズムに反し、その歪んだ線と具象表現の激しい表示で性的騒動を引き起こした・当時、彼の作品の露骨さを不愉快に思う人も多かった。

 

1910年プラハ、1912年ブダペストのノイクンストグルッペ、1912年ケルンのゾンダーブント、1911年からミュンヘンの分離派展など、多くのグループ展に参加するようになる。

ウォーリーとエディス


1911年、シーレは17歳の少女ヴァルブルガ・ヌージル(ヴァリ)と出会い、ウィーンで同棲し始める。

 

彼女はシーレの絵画のモデルとして知られているが、彼女の生い立ちについてはよくわかっていない。もともとはクリムトのモデルで愛人の1人だったと考えられている。

 

シーレとヴァリは、狭苦しく喧騒的なウィーンから離れ、シーレの母の故郷であり現在はシーレ美術館のある南ボヘミアのチェスキー・クルムロフへ移る。

 

この町はシーレの家族とつながりが深い町で保守的な田舎であったにもかかわらず、シーレは町のティーンエイジャーたちに声をかけ、法的に問題のあるヌードモデルの仕事をもちかける。

 

それが原因で住民から強い反発を買い、追い出されることになる。シーレの作品は次第に複雑さを増し、やがて死や再生といったテーマを扱うようになる。

 

二人はウィーンにいったん戻り、芸術制作に心地よい環境を求めて、ウィーンから西へ35キロ離れた場所にあるノイレングバハの町へ移る。

 

しかし、たちまちシーレのアトリエはノイレングバハの不良少女や娼婦のたまり場となり、またもやシーレは町の住民から反発を買う。

 

1912年4月、シーレは未成年少女への誘惑や淫行の疑いで逮捕される。シーレのアトリエに家宅捜索に入った警察官は、数百点もの猥褻画を押収。

 

裁判の結果、未成年の誘惑と拉致、および未成年がアクセスしやすい場所に猥褻画を陳列したという罪状で有罪判決となる。

 

24日間の拘留と3日間の禁錮刑の判決を受け、シーレは投獄されることになった。法定で裁判官はろうそくでシーレのポルノ絵画を1枚燃やしたという。

 

『ノイレングバッハ刑務所の天井』(1912年)
『ノイレングバッハ刑務所の天井』(1912年)

1914年、シーレはウィーン郊外のヒーツィンクにアトリエを持つ。

 

アトリエの向かい側に両親と居住していたハルムス家のエディットとアデーレ姉妹と出会う。彼女たちは中産階級のプロテスタントの家庭で、父親は錠前師だった。

 

1915年、シーレは社会的な信用を得るため中産階級の令嬢エディットとの結婚に踏み切るが、一方でウォーリーとは離れることはなく愛人関係は続いたままだった。

 

シーレはヴァリにエディットと結婚の理由の説明をするものの、ショックを受けたウォーリーは、そんな結婚を受け入れるわけなくシーレのもとを去る。以後二度と会うことはなかった。

 

シーレはこの時の経験を絵画として描いている。1919年制作の『死と処女』はヴァリのポートレイトを基盤にしているが、シーレの姿は新しい衝撃、つまりエディットの衝撃に撃たれたものとなっている。

 

1915年2月、シーレは友人に「結婚したがヴァリではない」と手紙で書いている。

 

ハルムス家の反対があったにもかかわらず、シーレとエディットは1915年6月17日に結婚、その日はシーレの両親の結婚記念日でもあった。

「死と処女」(1915年)
「死と処女」(1915年)
「エディス・シーレ」(1915年)
「エディス・シーレ」(1915年)

晩年


第一次世界大戦の勃発はシーレの人生や作品に変化を与えた始めた。結婚してから3日後、シーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集された。最初プラハに駐留して軍隊の業務報告書を作成する役割を与えられた。

 

後にシーレが芸術家だと分かると、エディットはシーレとともにプラハの町のホテルに呼ばれて泊まり、シーレ自身は同僚の兵士たちと宿舎に住むことになった。二人は指揮官からときどきお会うことを許された。

 

シーレはおもに後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。

 

更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。

 

1917年までにシーレはウィーンに戻り、芸術活動に再び専念することになる。非常に多作な時期で、芸術家として成熟期に入り始めた。

 

1918年にウィーンで開催された分離派の49回目の展示に招待され、シーレは50もの作品をメインホールで展示した。

 

また『最後の晩餐』のキリストの位置をシーレ自身に置き換えた展示会のポスターのデザインも行った。展示会は成功をおさめ、この展示会をきっかけにシーレの評判は大きく上昇し、絵の価格があがり、多くのポートレイト絵画が売れるようになった。

 

1918年秋、妻エディットが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹り、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、10月31日に亡くなった。

「第49回分離派展示会」(1918年)
「第49回分離派展示会」(1918年)

■参考文献

Egon Schiele - Wikipedia :

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