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【美術解説】マリーナ・アブラモヴィッチ「パフォーマンス・アートのグランドマザー」

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マリーナ・アブラモヴィッチ / Marina Abramović

パフォーマンス・アートの母


もしアートに魅了され、パフォーマンスアートやその歴史に興味をお持ちであれば、この記事はきっと心を惹かれることでしょう。マリーナ・アブラモヴィッチの人生を深く探求し、彼女の芸術作品に隠された意味を探るとともに、なぜ彼女がパフォーマンス・アートの歴史の中でどのように特別な存在なのかを理解していただけるよう、皆様と共有したいと考えています。さて、彼女と彼女の芸術作品について、どんなことが見えてくるのでしょうか。それを一緒に探っていきましょう。

目次


概要


生年月日 1946年11月30日(セルビア共和国、ベオグラード生まれ)
学歴

ベオグラード美術大学(1970年)

ザグレブ美術大学(1972年)

国籍 アメリカ
表現媒体 パフォーマンス・アート、ボディ・アート、フェミニズム・アート、アート映像、持久力アート
代表作

・Rhythm シリーズ(1973–1974)

・ウライとのコラボレーション (1976–1988)

・クリーニング・ミラー(1995)

・スプリット・クッキング(1996)

・Balkan Baroque (1997)

・Seven Easy Pieces(2005)

・The Artist is Present (2010)

ムーブメント

コンセプチュアル・アート

関連サイト

https://mai.art/

マリーナ・アブラモヴィッチ(1946年11月30日生まれ)は、セルビア系アメリカ人の現代美術家、慈善家、アート映像作家です。

 

1970年初頭からパフォーマンス・アーティストとして活動を開始。作品を通じて以下のテーマを探求しています。

・芸術家と鑑賞者の関係性

・肉体を酷使した限界に挑戦

・精神の可能性

 

40年以上にわたる活動の結果、彼女は現代美術界で“パフォーマンス・アートの母”と称されています。

 

彼女は鑑賞者をパフォーマンスに参加させることで新しいアイデンティティの概念を開拓し、「痛み、血、肉体の限界への挑戦」に焦点を当てました。

 

2007年に、パフォーマンス・アートのための非営利団体である「マリーナ・アブラモヴィッチ・インスティチュート(MAI)」を設立しました。

重要ポイント

  • パフォーマンス・アートの代表的な芸術家
  • 鑑賞者との関係性を探求する芸術
  • 肉体を限界まで酷使した芸術

略歴


若年期


マリーナ・アブラモヴィッチは、1946年11月30日に、当時ユーゴスラビアの一部であったセルビアのベオグラードで生まれました。彼女の叔父はセルビア正教会の大司教ヴァルナヴァでした。

 

モンテネグロ出身の両親、ダニカ・ロシッチとヴォジン・アブラモビッチは第二次世界大戦中、ユーゴスラビアのパルチザンとして活動し、戦後、父は司令官として国民的英雄として称賛され、ユーゴスラビア政府の役職に就きました。

 

また、1960年代にはベオグラードの革命博物館のディレクターも務めました。アブラモヴィッチはインタビューで、家族を「赤のブルジョア」と表現しています。

 

彼女は6歳まで祖父母に育てられました。祖母は宗教に熱心であり、彼女の幼少期は教会で過ごし、祖母の儀式(朝にはろうそくを灯し、司祭が頻繁に訪れていました)に参加していました。

 

美術の正式な教育は受けてませんでしたが、早い時期から美術に興味を持ち、幼いころから絵を描くことを楽しんでいました。彼女の弟が生まれた6歳のときに両親と暮らし始め、ピアノ、フランス語、英語のレッスンを受けました。

 

アブラモヴィッチの実家での生活は、母親の厳しい監視に置かれた厳しいものでした。幼い頃、母親から暴力を受けていたと述べています。1998年のインタビューの中では、アブラモヴィッチは「母親は私と弟を完全に軍隊式に育てていた」と述べています。

 

29歳まで夜10時以降の外出を許されることはなかったと語っています。そのため、ユーゴスラビアでの公演はすべてよる10時までに終わらせていました。

 

2013年のインタビューでは、アブラモヴィッチは「私の両親はひどい結婚生活を送っていました」 と語っています。 父親がシャンパングラス12個を壊して家を出た出来事については、「私の子供時代で最も恐ろしい瞬間でした」と述べています。

 

彼女は、1965年から1970年までベオグラードの美術大学で学んでいました。1972年にクロアチア社会主義共和国のザグレブにある美術大学でKrsto Hegedušićのクラスで修士課程を修了しました。

 

その後、セルビア社会主義共和国に戻り、1973年から1975年までノヴィ・サドの美術アカデミーで教鞭を執りながら、自身初の個展を開催しました。

 

1971年から1976年にかけてネシャ・パリポヴィッチと結婚した後、1976年にアムステルダムに行きパフォーマンスを上演したあと、アムステルダムへ移つことを決めました。

 

1990年から1995年までは、パリの芸術アカデミーとベルリン芸術大学の客員教授を務めました。また、1992年から1996年まではハンブルクの美術大学でも客員教授として活動し、1997年から2004年までブラウンシュヴァイク美術大学でパフォーマンスアートの教授を務めました。

キャリア


Rhythm 10, 1973


1973年にエディンバラで行われた彼女の最初のパフォーマンス『リズム10』では、アブラモヴィッチは儀式とジェスチャーの要素を探求しました。

 

20本のナイフと2台のテープレコーダーを使用し、アーティストはロシアのナイフゲームを行いました。このゲームは、手の指を広げた状態で自分の手の間にリズミカルにナイフを突き刺すものです。彼女が自分を切るたびに、用意しておいた20本の列にある新しいナイフを手に取り、その行為を録音しました。

 

ときどき失敗して指を傷つけるたびに、並べている20本のナイフから別のナイフに取り替えてナイフ・ゲームを続けました。テープを再生し、その音を聞きながら同じ動きを繰り返そうとし、過去と現在を融合させるようにしました。

 

彼女は身体と精神の限界、つまり痛みや刺す音、過去と複製から生じる二重音を探求しました。

 

このパフォーマンスでアブラモビッチが意図していたことは、敗した過去の動作(録音したテープ)と現在の動作を融合して、身体の物理的、精神的な探求を行うことでした。この作品でアブラモヴィッチは、パフォーマーの意識の状態を考え始めました。

「Rhythm 10」1973年
「Rhythm 10」1973年

Rhythm 5, 1974


『リズム5』は1974年に行われたパフォーマンスです。このパフォーマンスでは、アブラモヴィッチは極度の身体的痛みのエネルギーを再び呼び起こそうとしました。

 

アーティストはパフォーマンスの開始時に大きな石油で浸した星型の枠に着火しました。星の外で立っているアブラモヴィッチは、自分の爪や爪の間、髪の毛を切り炎に投げ入れ、それぞれの投入ごとに光が瞬くこととなりました。

 

共産主義の五つの星、または五芒星を焼くことは、物理的および精神的な浄化を象徴し、彼女の過去の政治的伝統にも触れています。

 

 

そしてパフォーマンスの最後には、アブラモヴィッチがその炎の星の中心に横たわって政治的メッセージを表現しました。

 

最初は、火の光と煙のために、観客はアーティストが星の中で酸素不足で意識を失っていることに気づきませんでした。しかし、炎が彼女の体に非常に近づいても彼女が動かない状態が続くと、医師や他の人が介入し、彼女を星から救出しました。

 

アブラモビッチはパフォーマンス後にこう話しています。「物理的な限界があることを理解していたので、とても腹が立ちました。意識を失うと、存在することができなくなり、パフォーマンスすることができなくなります」。

「Rhythm 5」1974年
「Rhythm 5」1974年

Rhythm 2, 1974


『リズム5』で意識を失ったことをうけ、無意識の状態をパフォーマンスに取り入れた2部構成の『リズム2』を考案しました。このパフォーマンスは1974年にザグレブの現代美術ギャラリーで行われました。

 

第I部は50分間続き、彼女は「カタトニアを患う患者に投与される、体の姿勢を変えるように強制する薬を摂取しました」と説明しています。その薬により、筋肉が激しく収縮し、彼女は体全体のコントロールを完全に失いながらも、何が起こっているのか意識を保っていました。

 

10分間の休憩の後、彼女は「暴力的な行動障害を持つ統合失調症の患者を落ち着かせるために投与される薬」を服用しました。パフォーマンスは5時間後、薬が切れたところで終了しました。

「Rhythm 2」1974年
「Rhythm 2」1974年

Rhythm 4, 1974


『リズム4』はミラノのギャレリア・ディアグラマで行われました。

 

このパフォーマンスでは、アブラモヴィッチは、高出力の業務用ファンが設置された部屋の中で、一人で裸でひざまづいていました。彼女はゆっくりとファンに近づき、できるだけ多くの空気を吸い込み、肺の限界に挑戦したが、程なくして彼女は意識を失っいました

 

アブラモヴィッチの以前の経験である『リズム5』では、観客がパフォーマンスに干渉したことがあり、彼女は意識を失ってもパフォーマンスが中断されないように特定の計画を立てました。

 

パフォーマンスが始まる前に、アブラモヴィッチはカメラマンに、ファンではなく彼女の顔だけを焦点に置くように依頼しました。

 

これは観客が彼女の意識を失っていることに気づかず、したがって干渉することがないようにするためでした。皮肉なことに、アブラモヴィッチが意識を失って数分後、カメラマンは続行を拒否し、救助を求めました。

「Rhythm 4」 1974年
「Rhythm 4」 1974年

Rhythm 0, 1974


『リズム0』は、鑑賞者とパフォーマーの関係の限界を試したもので、アブラモヴィッチのパフォーマンスで最もよく知られている1974年の作品です。

 

彼女は自ら受動的な役割を割り当て、主体となった鑑賞者が彼女に対して起こすアクションの実験しようとしました。

 

テーブルの上に72個のさまざまなオブジェが用意され、鑑賞者は好きなオブジェを手にしてアブラモヴィッチの身体の上でそれを自由に使うよう指示された。アヴラモヴィッチは自身を「物体」化することにしました。

 

オブジェクトには快楽を与えるものもあり、痛みを与えたり彼女を傷つけるものもありました。その中にはバラ、羽、ハチミツ、ムチ、オリーブオイル、ハサミ、メス、銃、そして一発の銃弾などが含まれていました。

 

6時間にわたり、アブラモヴィッチは観客によって上半身が脱がされ、手にはポラロイド写真を握らされ、乳房に薔薇の花びらが貼られ、腹には赤い色で文字が書かれました。

 

最後に、アブラモヴィッチが客体(物体)の状態から主体へ戻り観客に向かって歩き出すと、観客は怯えて、会場から逃げ出しました。ホテルに帰った彼女の髪の一部は恐怖のあまり白髪になったと言われています。

これは、行動に社会的約束がない状況になると人間がどれほど脆弱で攻撃的になるかを実験したものでした。最初は鑑賞者はそれほど積極的ではなく、非常に受動的でした。しかし、自分たちの行動にルールがないことを理解し始めると、アブラモヴィッチに対する態度はケモノのようにになっていきました。

 

彼女の衣服は剥奪され、傷つけられ、価値を失い、アブラモヴィッチが「聖母マリア、母親、そして売春婦」と表現したイメージになっていました。

 

後にアブラモヴィッチが語ったように、「私が学んだのは...もし観客に任せると、彼らはあなたを殺すことができる。...私は本当に犯された気持ちになりました。彼らは私の服を切り刻み、バラの棘を私の胃に刺したり、一人が銃を私の頭に向け、別の人がそれを取り上げたりしました。それは攻撃的な雰囲気を作り出しました。計画通り6時間後、私は立ち上がり、観客に向かって歩き出しました。誰もが実際の対立を避けるために逃げ出しました」。

 

アブラモヴィッチの作品では、自分のアイデンティティを他人の視点から確認するだけでなく、各人の役割を変えることで、人類のアイデンティティや本質が明らかにされ、示されます。これにより、個人の経験が集団的なものに変わり、力強いメッセージが生まれます。

 

また、アブラモヴィッチの芸術は女性の身体を客体化したもので、彼女は自分の身体を動かずに観客に自由にさせることで、受け入れられる範囲の限界を試そうとしました。自分の身体を物のように提示することで、彼女は危険や身体の疲れなどの側面を探求しています。

ウライとのコラボレーション作品


1976年にアブラモヴィッチはアムステルダムへ移動した後、西ドイツのパフォーマンス・アーティストのウライに出会う。アブラモヴィッチとウレイはコラボレーションを始めるようになる。この年から二人は同棲し、パフォーマンス活動を始めた。

 

コラボレーションが始まったときの2人のおもななコンセプトは、自我と芸術アイデンティティだった。彼らは不断の動き、変化、プロセス、そして「アート・バイタル」を特徴とする「関係性のある作品」を探求した。

 

これは10年に及ぶ影響力の高いコラボレーション・ワークの始まりだった。2人とも個々の文化的遺産の伝統や儀式的欲望に関心をもっていた。その結果、2人は「The Other」と呼ばれる共同の芸術スタイルを採用することにした。彼らはそれを「双頭体」のようなものと話し、発表した。

 

2人は同じ服を着て、まるで双子のようにふるまい、完全な信頼関係を生成する。2人はこの幻影的なアイデンティティを定義したことにより、本来ある個々のアイデンティティは小さくなっていったという。

 

アブラモビッチとウレイのパフォーマンスは、身体の限界に挑戦したり、男性と女性の原理、サイキックエネルギー、超越的な瞑想と非言語的なコミュニケーションを探求した。

マリーナ・アブラモヴィッチとウライ。1978年
マリーナ・アブラモヴィッチとウライ。1978年

批評家の中には、フェミニストの主張として両性具有的な存在状態という考えを探求しているのではないか批評するものもいるが、アブラモヴィッチ自身は、意識的に両性具有的な存在を探求しようとは考えていない。

 

彼女のパフォーマンスの歴史の中でのこの段階について、彼女は次のように述べている。"この関係の最大の問題は、二人のアーティストのエゴをどうするかということでした。私も彼と同じように自分の自我をどうやって捨てていくかを探さなければならなかったし、私たちが『死の自己』と呼んでいる二卵性の存在のような状態を作り出すためには、どうすればいいのかを探さなければならなかった」。

 

●『宇宙の中の関係』(1976年)では、1時間に渡って何度もぶつかり合いながら、男性と女性のエネルギーを「あの自分」と呼ばれる第三の成分に混ぜていく。

『移動中の関係』(1977)では、二人は美術館の中で車を365周走らせる。車からは黒い液体がにじみ出し、一周ごとに一年を表す彫刻のような形を形成させる。(365周した後、二人はニューミレニアムに入ったと考えている)。

『時間の関係』(1977年)では、彼らはポニーテールで縛られて16時間、背中合わせに座っていた。そして、一般の人を部屋に入れて、一般の人のエネルギーを使って自分たちの限界をさらに押し広げることができるかどうかを試した。

『Breathing In/Breathing Out』(1977年)では、二人のアーティストは口をつなぎ、酸素を使い切るまでお互いの吐く息を吸い合うという作品を考案した。パフォーマンス開始から17分後、二人は意識を失い、肺に二酸化炭素が充満した状態で床に倒れた。この個人的な作品は、他人の生命を吸収し、交換したり破壊したりする個人の能力についての考えを探求している。

『Breathing In/Breathing Out』(1977年)
『Breathing In/Breathing Out』(1977年)

『インパラビリア』(1977年、2010年に再演)では、二人の異性のパフォーマーが全裸で狭い出入り口に立っている。一般の人々は通過するために二人の間に挟まなければならず、その際に二人のうちのどちらかを選ばなければならない。

●『In AAA-AAA』(1978)では、2人のアーティストが向かい合って立ち、口を開けたまま長い音を出した。2人は徐々に距離を縮めていき、最終的にはお互いの口の中で直接叫ぶまでになった。

●『休息のエネルギー』

1980年、ダブリンで開催されたアートエキシビションで、 ウレイはアブラモビッチの心臓に矢を向けた弓と矢を使って、お互いにバランスをとるパフォーマンス『休息のエネルギー』を披露した。ウレイはほとんど力を入れずに、指一本で簡単にアブラモヴィッチを殺すことができました。

 

これは、男性が女性に対してどのような優位性を持っているかを象徴しているように思える。また、弓の柄はアブラモビッチが持ち、自分に向けている。弓の柄は弓の中で最も重要な部分です。

 

これがウレイがアブラモビッチに弓を向けているのであれば、全く別の作品になるが、彼女が弓を持つことで、自分の命を握りながら彼を支えているかのようにも見える。

●『ナイトシーの交差点』は1981年から1987年までの間に22回の公演を行った。1日7時間、椅子を挟んで黙々と座り続けた。

●「恋人たち」

1988 年、アブラモヴィッチとウレイは、数年間の緊張した関係を送ったあろ、二人の関係に終止符を打つたためにスピリチュアルな旅に出ることを決意した。「恋人たち」と呼ばれる作品で二人はそれぞれ万里の長城を歩いた。

 

アブラモビッチはこう説明している。「歩行は完全に個人的なドラマになりました。ウレイはゴビ砂漠から、私は黄海からあるきはじめました。それぞれが2500キロを歩いた後、途中で出会い、さよならと言いました」。

 

彼女はこのウォーキングを夢の中で思いついたと言っており、このパフォーマンスは神秘主義、エネルギー、魅力に満ちた関係にふさわしい、ロマンチックな結末だと思うものを与えてくれたという。

 

のちにアヴラモヴィッチは「我々はお互いに向かって歩き、この長大な距離を歩いた後、ある特定の形態での終了を必要としていた。それは非常に人間的である」と話している。「それはある意味では、よりドラマチックで、より映画のエンディングのようなものです... 最終的には何をするにしても、あなたは本当に一人なのですから」。

 

彼女は歩いている間に、物理的な世界や自然とのつながりを再解釈を考えていたという。地面にある金属が彼女の気分や存在状態に影響を与えていると感じた。 また、万里の長城が中国政府の許可を得るまでに8年を要し、その間に二人の関係は完全に解消していた。

 

●「The Artist Is Present」

2010年3月14日から5月31日まで、ニューヨーク近代美術館で、アブラモヴィッチのパフォーマンスを再現する回顧展が開催された。これはMoMAの歴史においてパフォーマンス・アートに最大の展覧会である。

 

展示期間、アブラモヴィッチは736時間30分、沈黙のまま、訪れる鑑賞者と椅子すわって向かい合うパフォーマンス「The Artist Is Present」を行った。オープニングナイトでは、かつてのパートナーのウライが現れて彼女を驚かせた。

●裁判問題

2015年11月、ウレイはアブラモヴィッチが彼らの共同作品の売上を補償する1999年の契約の条件に従い、不十分なロイヤリティの支払いが行われたと主張して裁判所に訴えた。

 

2016年9月、オランダの裁判所は、アブラモヴィッチに対して元共同創作者であり恋人でもあるUウレイに、彼らの共同作品をめぐる芸術的なコラボレーションの売上の取り分として25万ユーロを支払うよう命じた。

 

アムステルダムの裁判所はその判決の中で、ウレイが1999年のオリジナル契約書に明記されていたように、彼らの作品の売り上げの20%の純額のロイヤリティを受け取る権利があると判断し、アブラモヴィッチに25万ユーロ以上のロイヤリティと2万3000ユーロ以上の訴訟費用を遡って支払うよう命じた。

 

さらに、1976年から1980年までの期間をカバーする「ウレイ/ブラモヴィッチ」、1981年から1988年までの期間をカバーする「アブラモヴィッチ/ウレイ」と記載された共同作品については、完全な認定を行うよう命じられた。

Cleaning the Mirror, 1995


『鏡の掃除』は、5台のモニターに映し出された映像の中で、アヴラモヴィッチが膝の上で汚れた人骨をこすり洗いしている。それぞれのモニターは、頭部、骨盤、肋骨、手、足など各部位に特化して映し出されている。

 

それぞれの映像は、それぞれの音で撮影されており、オーバーラップしている。骨格がきれいになっていくにつれて、アブラモビッチ自身は、かつて骨格を覆っていた灰色の汚れに覆われるようになる。

 

この3時間のパフォーマンスは、弟子たちが自らの死と一体となるための準備をするチベットの死の儀式のメタファーに満ちている。

 

この作品は3つのシリーズで構成されている。『鏡の掃除 #1』は、MoMAで上演された3時間の作品である。『鏡の掃除 #2』は、オックスフォード大学で上演され90分で構成されている。『鏡の掃除 #3』は、ピットリバーズ美術館で5時間上演された。

Spirit Cooking, 1996


アブラモヴィッチは、1996年、ヤコブ・サミュエルと共同で「スピリット・クッキング」と呼ばれる「媚薬のレシピ」のレシピ本を制作した。

 

たとえば、あるレシピでは「13,000グラムの嫉妬心」と書かれており、別のレシピでは「新鮮な母乳と新鮮な精子の乳を混ぜる」と書かれていた。

 

この作品は、幽霊が光や音、感情などの無形のものを餌にしているという一般的な信念に触発されて制作したものだという。

 

1997年、アブラモヴィッチはマルチメディア作品「スピリット・クッキング」を制作した。これはイタリアのローマにある「Zerynthia Associazione per l'Arte Contemporanea」に設置された作品で、豚の血を使って「謎に満ちた暴力的なレシピの指示」がギャラリーの白い壁に描かれた。

 

アレクサ・ゴットハルトによると、この作品は「私たちの生活を整理し、正当化し、私たちの身体を封じ込めるための儀式への人間性の依存についてのコメント」であるという。

 

アブラモヴィッチはまた、「スピリット・クッキングという」レシピ本を出版した。「スピリット・クッキング」はのちに、アブラモヴィッチがコレクター、寄付者、友人のために時折行うディナーパーティーのエンターテイメントの形に発展した。

Balkan Baroque, 1997


アブラモヴィッチは、1990年代にバルカン半島で起こった民族浄化にちなんで、何千頭もの牛の血まみれの骨を4日間かけて精力的に掻きむしった。この作品は、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した。

Seven Easy Pieces


2005年11月9日から開始されたニューヨークのグッゲンハイム美術館におけるアブラモヴィッチの個展「Seven Easy Pieces」では、アブラモヴィッチは、7時間7連泊で、彼女は60年代から70年代に行なわれた5人のアーティストの代表的パフォーマンスを、アブラモビッチが再演するというイベントであった。これらのパフォーマンスは、肉体的にも精神的にも非常に集中力を要する骨の折れるものだった。7日間にわたって行われたパフォーマンスリストは以下のものとなる。


・ブルース・ナウマン 「ボディー・プレッシャー」

・ビト・アコンチ 「シードベッド」

・バリー・エクスポート 「アクション・パンツ:生殖パニック」

・ジーナ・ペイン 「コンディショニング 自画像における3つの段階における第一段階」

・ヨーゼフ・ボイス 「死んだうさぎに写真をどう説明するか」

・マリーナ・アブラモビッチ「リップス・オブ・トマス」

マリーナ・アブラモビッチ「他の世界への侵入Entering the other side」

(参考サイト:http://www.shinyawatanabe.net/writings/content57.html

MoMAで回顧展


2010年3月14日から5月31日まで、MoMAでは、クラウス・ビーゼンバッハのキュレーションによるパフォーマンス・アートの展覧会として、アブラモヴィッチの作品の大規模な回顧展とパフォーマンス・レクリエーションが開催された。

 

展覧会の期間中、アブラモヴィッチは736時間30分にもわたる静的で無音の作品「The Artist Is Present」を上演し、美術館のアトリウムで動かずに座っていた。その間、観客は交互に彼女の向かい側に座ることができた。

アブラモヴィッチは、MoMAの2階アトリウムの床にテープで描かれた長方形の中に座り、照明が椅子に座っている彼女と向かいの椅子に照らした。

 

展覧会の開場から数日後には、アトリウムに人だかりができ、毎朝、開場前からアブラモヴィッチと一緒に座るために、列に並んでいた人たちの中には、より良い場所を求めて駆けつける人もいました。

 

ほとんどの来場者は5分ぐらいアブラモヴィッチと一緒に座っていたが、中には丸一日アブラモヴィッチと一緒に座っていた人もいた。

 

アブラモヴィッチは、このショーが彼女の人生を「完全に変えた」と言います。レディー・ガガがこのショーを見て宣伝した後、アブラモヴィッチは新しい鑑賞者を発見したという。12歳、14歳から18歳くらいまでの子供たち、普段は美術館に行くこともなく、パフォーマンス・アートに興味もなく、何が何なのかも知らないような一般の人々が、レディー・ガガの宣伝を見て、やってきたという。

その後


2009年には、アブラモヴィッチはキアラ・クレメンテのドキュメンタリー映画『Our City Dreams』と同名の本で特集されている。出版社によれば、Swoon、ガーダ・アーメル、キキ・スミス、ナンシー・スペロを含む特集された5人のアーティストは「個々がニューヨークへの貢献と切り離せない作品作りへの情熱を持っている」という。

 

アブラモヴィッチは、2010年にMoMAで開催された回顧展「The Artist Is Present」で、彼女の生涯とパフォーマンスを描いたドキュメンタリー映画「Marina Abramović.The Artist Is Present」で主題となった。

 

この映画はアメリカのHBOで放送され 、2012年にはピーボディ賞を受賞した。 2011年1月にはセルビアの『ELLE』の表紙を飾った。キム・スタンレー・ロビンソンのSF小説『2312』では、"アブラモヴィッチ "と呼ばれるパフォーマンスアート作品のスタイルが紹介されている。

2013年6月、トロントのトリニティ・ベルウッズ公園で開催されたルミナト・フェスティバルで、アブラモヴィッチのインスタレーションが世界初公開された。

 

アブラモヴィッチは、ニューヨークのハドソンにある33,000平方フィートのスペースに、パフォーマンス・アートのための非営利財団であるマリーナ・アブラモヴィッチ・インスティテュート(MAI)を設立した。また、サンフランシスコにパフォーマンス研究所を設立。ロンドンを拠点に活動するライブアート開発会社のパトロンにもなった。

 

2014年6月にはロンドンのSerpentine Galleryで新作『512 Hours』を発表。 ショーン・ケリー・ギャラリー主催の『Generator』(2014年12月6日)では、参加者は目隠しをされ、サウンドキャンセリング・ヘッドフォンを装着して無の探究を行った。

 

2015年3月、アブラモビッチは「信頼、脆弱性、接続で作られた芸術」と題したTEDトークに出演した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Marina_Abramovi%C4%87、2020年4月28日



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