ドロテア・タニング / Dorothea Tanning
一般的な女性の内面を表現
概要
生年月日 | 1910年8月25日 |
死没月日 | 2012年1月31日 |
国籍 | アメリカ |
表現媒体 | 絵画、著述 |
ムーブメント | シュルレアリスム |
配偶者 | マックス・エルンスト |
¥ドロテア・タニング(1910年8月25日-2012年1月31日)はアメリカの画家、版画家、彫刻家、作家、詩人。マックス・エルンストの妻。
「幻想美術 ダダ・シュルレアリム」展でシュルレアリスムに目覚め、シュルレアリスムグループに接触。マックス・エルンストと出会い結婚。エルンストの最後の妻となる。夢想的ヴィジョンを描く具象シュルレアリスム絵画から出発したが、戦後はしだいに抽象的な方向へ移行。晩年は詩人として活躍。
巌谷國士によれば、なにかと「生い立ち」や「業」の深さがにじみ出るシュルレアリストにおいて、タニングの絵画はごくごく一般的な女性の過程を描いたもので、当時としては「平凡」というまれな絵画なのが特長だという。
戦後は、アメリカからパリおよびセイヤンに住む。2012年、101歳で死去。最も長生きしたシュルレアリスト。
作品解説
略歴
シュルレアリスムまで
ドロテア・タニングの父親はスウェーデン人で、17歳のときアメリカ西部に憧れ旅に出たといわれる。イリノイ州で同じスウェーデン人移民の娘と出会い結婚する。その後アメリカ合衆国の市民権を得て、ドロテアはイリノイ州北西部の町ゲイルズバーグで、三人姉妹の次女として1913年8月25日に生まれた。
タニングは2年間(1928-30)ノックス大学に通ったあと、1930年に20歳で家出同然でシカゴへ出て、シカゴ美術大学へ入学する。しかし、入学後たった3週間ほどで退学したので、絵の勉強は実際は独学となる。
1935年にニューヨークへ移る。そこでタニングは商業美術家として働きながら、自分自身の芸術表現の方向性に悩む。しかし1936年、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で開催された「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展に感動しふっきれる。「自分の居場所をどこに見つければよいか」初めて悟ったという。
1939年7月、タニングはシュルレアリストたちに接触するためにパリへ向かう。しかし、タニングが訪れた時期は夏はヴァカンスの時期であり、パリには誰もいなかったという。結局、誰にも会えずにアメリカへ帰国する。
1941年にタニングは作家のホーマー・シャノンと結婚するも、半年後に別居、1年後に離婚。その後、ファッション広告のイラストレーターとして働き、タニングはそこでイラストレーターとしての創造性と才能を発揮する。
メイシーズ・デパートのアートディレクターが、シュルレアリストに関心を持っている彼女をシュルレアリスムや前衛芸術の画商であるジュリアン・レヴィ画廊に紹介する。すぐに画廊側からタニングの作品の展示の依頼がくる。ジュリアン・レヴィはタニングの個展を二度開催(1944年、1948年)し、また彼女をシュルレアリスムのグループへ紹介するため、ニューヨークで彼女の作品の展示を行う。その展示にはマックス・エルスントも参加していた。
シュルレアリスム時代
1942年、パーティで初めてマックス・エルンストと出会う。エルンストは、当時エルンストの妻のペギー・グッゲンハイムの画廊20世紀ギャラリーで、女性アーティストの作品展覧会を企画していたため、タニングの作品を出展するか検討しにアトリエへ行くことにする。
タニングの記憶では、そのときエルンストは彼女のポートレイト作品「誕生日」(1942年)に心を奪われていたという。
そのあと2人で趣味のチェスを楽しみ、同棲を始める。タニングとエルンストはニューヨークに数年間住んだ後、アリゾナ州のセドナへ移動。周囲一面が砂漠の風景という場所に家を建てて、そこで、アンリ·カルティエ=ブレッソン、リー・ミラー、ローランド・ペンローズ、イヴ・タンギー、ケイ・セージ、パベル・チェリーチェフ、ジョージ・バランシン、ディラン・トマスなど、国を越えてやってくる多くの芸術家たちを招いてパーティをしていた。タニングとエルンストは、1946年にハリウッドで、マン・レイとジュリエット・ブラウンと合同結婚式を挙げる。
1940年代から始まる彼女のシュルレアリスム絵画やエルンストをはじめシュルレアリストたちの親密な交友関係から、タニングはシュルレアリスム作家とみなされることが多いが、彼女は60年に及ぶ長い芸術人生のなかで、シュルレアリスム風だったのは1940年代ぐらいのもので、50年以降は、彼女だけの独特の絵画スタイルを発展させている。
「誕生日」や「小さな夜の曲」といった彼女の初期作品は、緻密で比喩的な夢のような世界のシュルレアリスム絵画である。1940年代後半を通じて彼女は、得体の知れない象徴的なオブジェや荒廃した空間を背景にエロティックな主題と非現実的な光景を組み合わせた表現をしていた。
この時代に彼女は、マルセル・デュシャン、ジョセフ・コーネル、ジョン・ケージなどと永続的な交友関係を生成した。またメトロポリタン・オペラ・ハウスでの『The Night Shadow』(1945年)を含むジョージ・バランシンのバレエコスチュームやセットなどのデザインも行い、ハンス・リヒターの前衛映画に2回、女優としても出演している。
シュルレアリスムから独自様式への移行
1949年に、タニングとエルンストはフランスへ移ったり、アメリカのセドナへ戻ったりしていたが、結局フランスへ落ち着く。理由はエルンストがドイツ人であったためマッカーシー時代に市民権取得で手間取ったため。タニングとエルンストはパリに住み、のちにプロヴァンスに移動し、そこで1976年にエルンストが亡くなる住む。
次の10年、タニングの絵から具象要素が減り抽象的になり、より示唆を含む内容の絵画に発展する。シュルレアリスムからタニングの自己スタイルに発展する移行時期がこの1950年代である。
シュルレアリスム時代から根本的な変化をするタニング、1957年の『不眠症』では、断片化され、プリズム的な作品になった。タニングの説明によれば「1955年頃、私のキャンバスは文字通り分裂し、鏡を破壊した」という。
独自様式以後
1960年代後半ごろには、タニングの絵はほぼ完全に抽象画となったが、まだいくぶん女性的な形態を示唆する表現が残っていた。
1969年から1973年まで、タニングは身体の三次元化に取り組み、「ホテルポピー 202号室」(1970–73) のようなぬいぐるみのような柔らかいオブジェとインスターレションに挑戦。
また1950年-70年のパリにいる間、タニングはほかにジョージ・ヴィザットやピエール・シェイブのアトリエで版画に積極的に取り組み、アラン·ボスケやルネ・クルヴェルな、アンドレ・ピエール・ド·マンディアルグなどさまざまな詩人とコラボーレションを行って、部数限定の詩集付きアーティストブックを制作した。
文筆業
タニングは小説や詩などの文筆活動も行っており、1943年の「ⅤⅤⅤ」で初めて短編小説を発表。また1964年に刊行された部数限定書籍「Demain」や1973年に刊行された「En chair et en」でエッチングとともに詩を載せている。
本格的に文筆活動に取り組み始めたのは1980年代にニューヨークに戻ってきてからで、1986年に最初の自伝『誕生日』を出版し、4ヶ国語で翻訳もされた。2001年には大幅に加筆した自伝『Between Lives: An Artist and Her World』を出版している。