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【完全解説】マン・レイ「超現実写真家」

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マン・レイ / Man Ray

シュルレアル・フォトグラファー


マン・レイ「涙」(1932年)
マン・レイ「涙」(1932年)

概要


生年月日 1890年8月27日
死没月日 1976年11月18日
国籍 アメリカ
活動場所 パリ、ニューヨーク、カリフォルニア
タグ 画家、写真家、彫刻家、映像作家
ムーブメント ダダ、シュルレアリスム
代表作品

アングルのヴァイオリン

破壊されるべきオブジェ

公式サイト

http://www.manraytrust.com

マン・レイ(1890年8月27日-1976年11月18日)は、アメリカ・フェラデルフィア生まれ。おもにフランスのパリで活動した画家、写真家、彫刻家。

 

ダダ・シュルレアリスムのどちらの正式のメンバーではなかったものの、各ムーブメントを推進した重要な人物である。ダダではマルセル・デュシャンフランシス・ピカビアらとともにニューヨーク・ダダの活動において重要な役割を果たしている。シュルレアリスムにおいては、作品制作だけでなく、シュルレアリストたちの集合写真やポートレイト写真を撮影して記録化させることに貢献している。

 

ほかに「レイヨグラフ」と呼ばれる技法を発明したり、前衛的な映画も多数制作。マン・レイの弟子として活躍した写真家にリー・ミラーがおり、彼女とは「ソラゼリーション」とよばれる技法を共同発明している。妻はジュリエット・ブラウナー。

この作家のポイント


  • 商業写真家として成功
  • ニューヨーク・ダダのメンバー
  • レイヨグラフやソラゼリーションを発明

作品解説


アングルのヴァイオリン
アングルのヴァイオリン
贈り物
贈り物
涙
破壊されるべきオブジェ
破壊されるべきオブジェ

マン・レイのモデル


モンパルナスのキキ
モンパルナスのキキ
リー・ミラー
リー・ミラー
メレット・オッペンハイム
メレット・オッペンハイム

略歴


家庭環境と幼少期


芸術家としてのキャリアに比べて、マン・レイの幼少時代のことや自身の家族に関する詳細な情報は公的にはほとんど知られていない。

 

なぜならマン・レイ自身が「マン・レイ」以外の名前の存在を認めることさえ拒否しているほど、幼少時代のことを公にしたくなかったためだ。

 

マン・レイは1890年、アメリカのペンシルヴァニア州に南フィラデルフィアでエマニュエル・ラドニツキーという名前で、ロシア系ユダヤ人の移民の長男として生まれた。父親メラックは仕立屋、母親ミーニャはお針子で、ほかに1人の弟と2人の妹がいる。ラドニツキー一家は、1897年にニューヨークのブルックリンのウィリアムズバーグ周辺に移住した。

 

1912年にラドニツキー一家は姓を「レイ」に変更する。これは当時、民族差別やユダヤ人差別が一般的に流行っていたのが名前を変えた理由だといわれている。エマニュエルは「マニー(Manny)」というニックネームで呼ばれていたので、短縮して最初の「Man」をとり、ひとつづきの名前「Man Ray」を使用するようになったという。以降彼の名前は「マン・レイ」の署名を持って生み出されることになった。

 

マン・レイは仕立屋という親の職業や家庭環境から自分を切り離すことにこだわっていたことで知られるが、その仕立屋の環境で得られたモチーフや技術は、のちにマン・レイの作品に随所に影響を残している。

 

マン・レイ作品の中に現れる、マネキン、アイロン、ミシン、ピン、織り糸などの道具のほとんどすべては仕立屋と関連があるものである。美術史家はマン・レイのコラージュや絵画の技術と仕立屋の技術やスタイルはよく似ていると指摘している。

 

ユダヤ美術館でのマン・レイ個展「Alias Man Ray: The Art of Reinvention」のキュレーターを務めたマッソン・クレインは、マン・レイは最初のユダヤ人前衛芸術家であったかもしれないという。

若齢期


『贈り物』
『贈り物』

 マン・レイは、子どものころから芸術や機械工作に対する才能を発揮。1904年から1909年までブルックリンの男子高校に通う。

 

高校では建築家になるための訓練を受け、製図や機械工学、またレタリングなどを学なんだ。

 

この頃に身につけた製図学は、のちに基本的な美術の技法の土台となった。また在学中に地方の美術館へ頻繁に訪れては、過去の美術の巨匠たちの作品を独学で研究していた。

 

なお両親は絵描きになることに反対していたため、内緒で独学で絵を学ぶ。小遣いが足りなくなったら美術用品店で絵具のチューブを盗んでいたという。当時、マン・レイのお気に入りのモデルとなったのは、妹のドロシーだった。

 

高校卒業後、マン・レイの絵画の熱意に負けた両親は、自宅をリフォームして小さなスタジオ・スペースを彼に与える。その後4年間、マン・レイは自宅スタジオでプロの絵描きになるために着実な活動を続けた。また同時に商業画家としてお金を稼ぐために、マンハッタンのいくつか企業で技術書のイラストの仕事を始める。

 

1908年には「ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン」や「アート・ステューデンツ・リーグ」といった美術学校が主催するドローイング教室に登録。1912年には自立を目指してニューヨークにあるマグロウ社に、地図製作の図案家として勤務し始めた。

 

この時期、マン・レイはアルフレッド・スティグリッツのギャラリー「291」で見たヨーロッパの前衛美術画家やアッシュカン派の熱烈な支持者だったが、彼の画風自体はまだ19世紀スタイルで、20世紀的な前衛美術を自身の作品に取り入れるには至らなかった。

ニューヨーク時代


1913年、実家を出たマン・レイはニューヨークからハドソン川を超えて、ニュージャージー州リッジフィールドにある芸術家たちのコミュニティに居を移す。

 

そして週に3日はマンハッタンのマグロウ社へ仕事をするために戻るという生活を送り始める。

 

またこの頃、ベルギー出身の詩人、ドンナ・ラ・クールと出会い、ふたりはまもなく結婚する。マン・レイをマラルメやランボー、アポリネールらフランスの詩人たちの作品に触れさせたのは彼女である。また、この頃マン・レイは写真技術を習得する。

 

ニューヨークで生活している間、マン・レイは1913年のアーモリー・ショーやヨーロッパの現代美術を扱う画廊で見た作品に影響を受け、自身もキュビスム的な要素の入った作品を制作し始める。

 

また『階段を降りる裸体.No2』で絵画に動的な要素を付け加えることに関心を抱いていたマルセル・デュシャンと親交するようになり、マン・レイの作品にも動的な要素が現れ始める。「The Rope Dancer Accompanies Herself with Her Shadows」(1916年)が代表的な作品である。

 

1915年にマン・レイは、絵画やドローイングの初個展をニューヨークのダニエル画廊で開催。批評家たちから好評を得られることはなかったものの、作品はそれなりに売れ、その資金でマンハッタンでスタジオを開き、マグロウ社での勤務時間を減らすことにする。

 

なおスタジオのすぐ近くでは、デュシャンが「大ガラス」の制作案を練っており、夜になると、デュシャンとマン・レイは、若い彫刻家のベレニス・アボットを交えて酒杯を交わしていた。

 

また、マン・レイはダダや前衛美術ムーブメントに巻き込まれるためにこれまでの自分の絵を放棄、オブジェ制作を始める。独特なメカニカルで写真技術を用いた作品を生み出した。1918年に制作した「Rope Dancer」では、絵具とスプレーガンの技術を融合させ「アエログラフ」を開発する。

 

またデュシャンのように、「選択」し、「改変」したオブジェクトの制作、修正レディメディド作品を多数制作するようになる。1921年のレディメイド作品「贈り物」はアイロンの底に釘を打ち付けたもので、「Enigma of Isidore Ducasse」は布で包み、紐でしばった目にみえないオブジェクトだった。この時代のほかの作品は、ガラス板にエアブラシで描いたものだった。

 

1920年、マン・レイは、デュシャン最初の光学機械で、初期キネティックアートの代表作でもある「 Rotary Glass Plates」の制作を手伝う。それはモーターで回転するガラス板のものだった。同年マン・レイは、コレクターのキャサリン・ドライヤーとデュシャンと「ソシエテ・アノニム」を設立。

 

また、1920年にマルセル・デュシャンと1号限りの発行となる「ニューヨーク・ダダ」の雑誌を発行。デュシャンの女装姿「ローズ・セラヴィ」を表紙にしたその雑誌に、ダダイスムの創始者であるトリスタン・ツァラは「彼らをニューヨーク・ダダと認める」とお墨付きを与えた。

 

しかしダダの実験精神は、元々、野性的で混沌としたニューヨークの街にはあまり合わなかった。マン・レイは「ダダの実験はニューヨークにあわなかった。なぜならニューヨーク全体がダダであり、ヨーロッパのようにライバルとなる旧勢力が存在しなかったからだ。」と言っている。

 

1921年、フランスに帰国したデュシャンは、マン・レイにパリに来るよう誘う。その頃、マン・レイはすでにアドン・ラクロワと離婚し、スタジオでひとり暮らしをしており、またダニエル画廊で開いた3回目の個展もうまくいかなかったためフランス移住を決める。パリにはマン・レイの作品を理解してくれる土壌があり、またデュシャンはマン・レイのためにパリの生活拠点などを手配した。

パリ時代


『破壊されるべきオブジェ』
『破壊されるべきオブジェ』

1921年7月、マン・レイはパリへ移住する。デュシャンはサン・ラザール駅でマン・レイを迎え、その日のうちにアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポーらシュルレアリストたちのところへ連れて行き、マン・レイを紹介した。

 

マン・レイは、多くのアーティストが集まるモンパルナス地区に住み始め、そこでアートモデルでパリの上流階級サークルの歌手ことモンパルナスのキキ(アリス・プラン)と出会い恋に落ちる。

 

キキは1920年代のほとんどをマン・レイと行動をともにしていた。またキキはマン・レイの著名な写真作品のモデルとなり、またマン・レイの実験映画『エマク・バキア』でも出演している。

 

だがどこに行っても派手にたちまわり、歌い踊って男たちのひく彼女に、やがてマン・レイの嫉妬を誘うようになる。1929年には、マン・レイはキキから離れ始め、シュルレアル写真家でアシスタントだったリー・ミラーと関係を持ち始めた。

 

生活の糧を得るため、マン・レイはそれから20年間、職業写真家として仕事を始めた。初期のマン・レイの顧客はシュルレアリストたちだった。ピカビアはマン・レイに自ら収集した作品の撮影を依頼している。また今日われわれがよく目にするシュルレアリストたちの集合写真やポートレイトの多くはマン・レイによって撮影されたものである。ブラックやピカソ、マティスらの作品も記録撮影するようになった。

 

マン・レイは、次第にフランスの売れっ子写真家となる。ジェームズ・ジョイス、ガートルード・スタイン、ジャン・コクトー、ブリジット・ベイト・ティチェナー、アントナン・アルトーなどの芸術界の重要なメンバーの多くが、マン・レイのカメラの前にたった。

 

1925年にパリのピエール画廊でジャン・アルプ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと最初のシュルレアリストの展示に参加。この時代の重要な作品としてはメトロームに目玉を付けた『 破壊されるべきオブジェ』やモンパルナスのキキの裸体をバイオリンに見立てた『アングルのバイオリン』などがある。特に異なる要素の並列した『アングルのバイオリン』は、シュルレアリストとしてのマン・レイの代表的な作品の1つとして紹介されるケースが多い。

 

1934年に、毛皮で包んだカップオブジェで知られるシュルレアリストのメレット・オッペンハイムは、マン・レイの写真集のためにヌードモデルになった。大きな印刷機に手をかけたオッペンハイムの写真作品が有名である。

 

アシスタントで愛人のリー・ミラーとマン・レイは「ソラリゼーション」の写真表現を開発。マン・レイは「レイヨグラム」と呼ばれるカメラを用いずに印画紙の上に直接物を置いて感光させる方法も考えついた。

 

マン・レイはいくつかの前衛的なショートフィルムを制作しており、それらは「実験映画」と呼ばれている。「理性への回帰」(1923年、2分)、「エマク・バキア」(1926年、16分)、「ひとで」(1928年、13分)、「サイコロ城の神秘」(1929年、27年)である。マン・レイはまたマルセル・デュシャンの映画作品「アネミック・シネマ」(1926年)の制作も手伝い、またフェルナン・レジェの「バレエ・メカニック」(1924年)の制作にも携わった。ルネ・クレールの映画「エントランス」(1924年)では、チェスをしているマンレイとデュシャンのシーンがある。

晩年


第二次世界大戦が勃発すると、戦禍を避けてマン・レイはパリからアメリカへ避難する。マン・レイは1940年から1951年までカリフォルニアのロサンゼルスに住んだ。

 

ロサンゼルスに着いて、ほどなくしてマン・レイはジュリエット・ブラウナーと出会う。プロのダンサーでアートモデルとして活躍した彼女はマン・レイと同じルーマニアに祖先を持つユダヤ系アメリカ人だった。

 

1946年にマン・レイとジュリエット・ブラウナーは、同じくアメリカに避難してきたマックス・エルンストとドロテア・タニングたちととともに合同結婚式を挙げる。

 

1941年に本格的な制作活動に入る。写真ではなく油彩中心の絵画だった。パリ時代のように写真の仕事はほとんど引き受けることはなく、レイヨグラフの実験やオブジェ制作など美術活動に専念した。しかし、アメリカでのマン・レイの活動は芳しくなかった。

 

当時アメリカでは新流派「抽象表現主義」が流行りだしていたし、またマン・レイ自身はそれらのムーブメントに関わらろうとは思わなかった。

 

マン・レイはアメリカそのものに耐えられなくなってきた。彼はこの国の美術鑑賞者は20年遅れていると感じていた。なによりもアメリカの金銭至上主義的な体質にうんざりしていた。結局、1951年に再びパリのモンパルナスに、ジュリエットと戻ることになる。

 

また、この時期に日本の若い彫刻家の宮脇愛子がマン・レイに気に入られ、積極的にポートレイト写真を撮影されている。マン・レイはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のポーズを宮脇にとらせて撮影した。

 

パリに戻ってからも写真より画家としての活動に専念し続けたが、あいかわらず画家としてのマン・レイの評価は低めで、とくにアメリカの批評家からは、様式が一貫していないと非難を浴びたりした。ポートレイト写真を撮る機会は減ったものの、女優カトリーヌ・ドゥヌーブの肖像など名作は晩年まで生み出していた。

 

1963年、マン・レイは自伝「セルフ・ポートレイト」を出版。

 

1976年11月18日、肺感染症が原因でパリで死去。モンパルナスの墓地に埋葬された。マン・レイの墓碑銘にはジュリエットの意向で「関わりをもたず、だが無関心ではなく」と刻まれている。ジュリエット・ブラウナーは1991年に亡くなったとき、同じ墓に埋葬された。彼女の墓碑銘には「また一緒に」と刻まれている。ジュリエットは、マン・レイの死後、彼の財団を立ち上げて、美術館に多くの作品を寄付した。

実験映画


●参考文献

Man Ray - Wikipedia

 

●画像

マン・レイ財団


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