アドルフ・ヴェルフリ / Adolf Wölfli
絵画、テキスト、音楽に彩られた聖アドルフ王国
概要
幼少期
アドルフ・ヴェルフリ(1864年2月29日-1930年11月6日)はスイスの画家。アール・ブリュットという言葉が使われ始めた時代の初期作家の1人として知られている。
アドルフ・ヴェルフリは、7人兄弟の末っ子としてスイスのベルンで生まれた。父ヤコブは石切り工だったが、アルコール中毒で犯罪を繰り返し、大半を刑務所で過ごしていた。ヴェルフリは幼少時にこの父親から肉体的、また性的虐待を受けていたという。
母親のアンナはクリーニングの仕事をして、1人で家族を支えていた。ヴェルフリが5歳になるまでに父ヤコブは完全に家族を見捨て、数年後に死去。母親もまた病に陥り、彼が8歳の時に死去した。
10歳に孤児になり、その後、ヴェルフリは国営養護老人ホームに預けられて育つ。児童労働者として働き、一時的に兵役に就いたが、子どもに対する性的虐待事件を起こして牢獄に入れられる。釈放後、またもや同様の罪で再逮捕。1895年にベルンにあるヴァルダウ精神病院に移され、そこで残りの人生を過ごすことになった。病院内ではかなり暴れて孤立し、特に精神病に苦しんで激しい幻覚におそわれていたという。
作品制作
入院後、ヴェルフリは絵を描き始めた。現在している初期作品(50枚の鉛筆でのドローイング)は1904年から1906年に描かれたものである。ヴァルダウ精神病院医者であるウォルター・モーガンタラー博士はヴェルフの絵画に関心を持ち始め、収集を始める。
1921年に博士はヴェルフリの担当患者だったアドルフ・ヴェルフリに関する論文『芸術家としての精神病患者』を出版し、アートワールドに衝撃を与えた。モーガンタラーの本には、もともと芸術に関心はなく精神病を発症した後に独自に絵画に目覚め、才能を発揮させるようになった患者の作品の詳細が書かれていた。
毎週月曜日の朝にヴェルフリは、病院から新しい鉛筆と印刷されていない2枚の大きな新聞紙を与えられていた。鉛筆は2日で使い切ってしまうため、誰かから鉛筆の使い残りを譲ってもらうなどして描いており、わずか5~7mm程度の長さの鉛筆でもヴェルフリは手のひらに器用に挟み込んで芯がなくなるまで丁寧に鉛筆を使い込んでいたという。紙に関しては、支給される白紙の新聞紙がなくなると、院内の他の患者や警備員から梱包紙を集めてそれに絵を描いていたという。クリスマスにプレゼントされる色鉛筆は彼にとっては最大の贈り物であり、最大2~3週間も鉛筆が持続すると喜んでいた。
ヴェルフリの絵画が独特なのは音符や楽譜などの音楽的な記号要素が多数組み込まれていたことである。当初は装飾的なかんじで音符や楽譜を絵に描いていたが、次第にヴェルフリは紙上で本格的に作曲をし始める。ポルカや行進曲などの作曲をし、病院では、自分が作曲した自らを称える歌をラッパで吹き鳴らしながら絵を描いていたこともあったという。
1908年、ヴェルフリは全体で25,000ページ以上、1,600点のイラストレーションで構成される45巻からなる半自伝的な叙事詩シリーズ『揺りかごから墓場まで』を制作。この作品はヴェルフリ自身の人生と幻想的な冒険譚がミックスされたもので、ヴェルフリ自身が“騎士アドルフ”や“皇帝アドルフ”となり、さらには“聖アドルフ2世”に変身して活躍するというものである。テキストとイラストレーションが中心であるが、ときには音楽、言葉、色などが万華鏡的に要素となって組み合わされた。
ヴェルフリは1930年にベルンのヴァルダウで死去。作品はワルダウ病院美術館に保存された。のちにアドルフ・ヴェルフリ財団が設立されると作品は財団へ移された。現在ヴェルフリの作品はベルン美術館に保存・展示されている。
展覧会情報
アドルフ・ヴェルフリの展覧会『二萬五千頁の王国』が、1月11日から兵庫県立美術館で開催されている。本展覧会はスイスのベルンにあるアドルフ・ヴェルフリ財団の全面協力を得た、日本初の本格的回顧展である。戦前のシュルレアリスムの画家たちなどにも影響を与えたその画業をたどるまたとない機会となる。3月7日から名古屋市美術館、4月29日から東京ステーションギャラリーに巡回する。