鏡地獄
レンズに取り憑かれた男の顛末
概要
「鏡地獄」は、1926年10月に『大衆文芸』に掲載された江戸川乱歩の小説。鏡、レンズ、ガラスに興味を持っていた男の奇妙な話で、乱歩によれば科学雑誌『科学画報』に掲載されていた「球体の内面を全部鏡にし、その中に人が入ったらどのように写るでしょうか」という質問から着想を得たという。
要約
彼は中学で物理学を教わるようになると、レンズや鏡の理論に興味をもちだし、そのときから病気といってもいいほどのレンズ狂に変わってきたのです。
やがて中学を卒業しますと、彼は進学もしようとせず、庭の空き地にちょっとした実験室を新築し、その中で鏡の道楽をはじめたのです。そうして朝から晩まで社会との接点をもたず実験室にこもるようになりますと、彼の病気は恐るべき加速度をもって進み始めました。
彼は、上下左右を鏡の一枚板で張り詰めた、俗にいう「鏡の部屋」を作りました。このころから、彼の健康が日一日と損なわれて行くように見えました。が、肉体が衰えるのと反比例に、彼の異様な病癖はますます募るばかりでした。シャブ中の患者とよく似たような症状といえますでしょう。
彼は莫大な費用を投じて、さまざまの形をした鏡を集めはじめました。平面、凸面、凹面、波型、筒型… 広い実験室の中は、毎日かつぎこまれる変形鏡で埋まってしまうほどでした。さまざまな鏡の部屋の中央で踊り狂う彼の姿は、あるいは巨大に、あるいは微小に、あるいは細長く、あるいは平べったく、あるは曲がりくねり、あるいは胴ばかりが、あるいは首の下に首がつながり、あるはひとつの顔に眼が4つでき、まるで狂人の幻想です。
そして、そんな狂乱状態が続いたあとで、ついに悲しむべき破滅がやってきたのです。とうとうほんもののキチガイになってしまったのです。それが「鏡の玉」事件です。
ある日、私は彼の使用人に呼ばれました。実験室に入ると、内部から笑い声の響いている大きな玉が転がっていました。その物体は、玉乗りの玉をもうひと回り大きくしたようなもので、外部には一面布が張り詰められ、それが広々と取り片付けられた実験室の中を、生あるもののように、右に左にころがりまわっているのです。そして内部から動物のとも人間のともつかぬ笑い声のような唸りが、シューシューと響いているのでした。
私は鏡のボールに近づいて、声のもれてくる箇所をしらべました。空気拔きの穴を見つけてこわごわ中をのぞくて、中には何か妙に眼をさすような光が、ギラギラしているばかりで、人のうごめく気配と、不気味な、狂気めいた笑い声が聞こえてくるほかには、少しも様子がわかりません。
「もしや」
もう何を考える余裕もありません。ただこの玉をぶち壊す一方です。私は大ハンマーで玉を叩きつけ壊しました。
その中から這い出してきたのは、まぎれもない彼だったのです。いうまでもなく彼は発狂していたのです。彼はなぜ発狂しなければならなかったのか。いや、それよりも彼は、ガラス玉の内部で何をみたか。それは到底人間の想像を許さぬところです。