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【アヴァンギャルド】ガロ「前衛的で実験的な漫画雑誌」

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月刊漫画ガロ

前衛的で実験的な漫画雑誌


概要


「ガロ」は1964年に長井勝一によって編集された日本の月刊漫画雑誌。青林堂発行。オルタナティブアヴァンギャルドな作風が特徴である。

 

初期の「ガロ」は、白土の忍者漫画『カムイ伝』を中心に構成され、おもに大学生に支持された。また辰巳ヨシヒロやつげ義春といった劇画漫画家たちに影響を与え、多くの新人漫画家を発掘した。

 

ピークは1971年(「カムイ伝」終了時)で発行部数は8万。以後は部数が減少し続け、80年代なかばには2万部発行、実売3000部台にまで落ち込んだ。1991年に「ガロ」はゲームソフト会社に買収され、1992年には長井が編集長を辞し、山中潤が編集長に就任。しかし長井は死去する1996年まで「ガロ」の後見人であり続けた。

 

難解マンガ 呉智英


商業性・大衆性・娯楽性をかならずしも目指さないマンガが出現しはじめた。この種のマンガは、小説における純文学を連想させ、かつての文学青年と同じ意味でのマンガ青年を生んだ。

こうして、マンガは、従来の常識だった「大衆娯楽」という規定からはみ出すことになる。いわゆる難解マンガをはじめとする実験作や前衛作が次々に試みられた時代であった。その牽引車になったのが「ガロ」「COM」の2つの月刊誌である。

「ガロ」は、貸本誌の出版を手がけてきた長井勝一があらたに設立した青林堂から64年に創刊された。「ガロ」は白土三平の「カムイ伝」を主柱としていたが、そのほかにも、商業性のとぼしい実験的作品新人の作品にも門戸がひらかれており、この時期、次のような作家が活躍した。

●水木しげる。怪奇、戦記、諷刺の諸短編、また鬼太郎ものの連載、エッセーなども連載した。

 

●楠勝平。江戸の職人の姿を甘さをおさえた情緒で描くのを得意とした。病弱だったため作品数は少なく、また締め切りの厳しい一般のマンガ誌に執筆することも少なかったが、生命を刻みこむようにして描いた作品には熱烈な読者がついている。


●つげ義春。思い切った実験作を発表。66年の「沼」、68年の「ねじ式」など、従来のマンガの概念を超えた幻想的な作品は、詩人や演劇人など広い範囲のひとびとに衝撃をあたえ、難解マンガの祖となった。

●つげ忠夫。つげ義春の弟。うらぶれた中年男スラムの住人など、人生の陰を感じさせる人たちの凄みのある線で描く。

●滝田ゆう。遊郭ものが独特のもちあじ。

●林静一。土着的なテーマとリリシズムが融合した作品が多い。上村一夫に影響をあたえている。

●佐々木マキ。ストーリー性を排除したイラスト的な作品注目された。

●勝又進。農村を舞台とした現代の民話に秀作が多い。

●鈴木翁二、安部慎一、古川益三、ますむらひろしは私小説風の作品メルヘンで人気をはくした。大阪在住の川崎ゆきおのように、野暮ったさキッチュ感を逆手にとって、ロマン的心情を描く特異な作家も出てくる。

●花輪和一、ひさうちみお、蛭子能収、渡辺和博、みうらじゅん、根本敬らは近代的ヒューマニズムにたいする挑発的姿勢が強い。

女流作家も多い。やまだ紫、杉浦日向子、近藤ようこ、肥後十三子、森下裕美、内田春菊といったマンガ家も登場してきた。(現代マンガの全体像 呉智英)

 

ガロの存在意義 根本敬


『ガロ』という漫画雑誌は載っている漫画の全部が全部面白くある必要はないと思います。ここでいう面白くないというのはもちろん、「ジャンプ」や「ビッグコミック」その他キオスクの店頭で飛ぶように売れている漫画雑誌一般に見受けられる最大公約数的な通りの良い娯楽性の有無ということです。


 で、「ガロ」という漫画雑誌の存在意義は昔も今も、異能とか異端とか、特殊とか、狂人とか、そして時には天才とか世間様に見なされた、最大公約数的な面白さと折り合わない、漫画界の無頼の徒に与えられた貴重な表現の場、という事につきると思います。


 ハッキリいえば、漫画を描く奴なんてものは、一般誌も「ガロ」も問わず、どっかで歯車が狂ってりゃ宮崎勤氏のごとき犯罪的行為に及んだり、精神病院のお世話になるような奴(他に業が深い、という云い方も可)が圧倒的に多いんだから、そんなのがピュアな心根で漫画表現に挑み、自己探求とか自己鍛錬に打ち込めば、自ずと世間とは必ずしも折り合わぬ、奇異な作風、奇異と呼ぶほどでなくても、そいつ独自の世界が拓けてしかるべきもんだと思いますね。

 

 でもそんなのは極端ははなし、てめえの内蔵や排泄物を人前にさらけ出す様な部分もあるんで、健全なる善男善女には全然喜ばれません。だからたいていの社会性を備えた漫画家は商売として成立せしめ、かつ儲けるためにも、自分自身の澱を、10倍20倍に水増しして、作家活動頑張っているわけだ。(もっとも最近は最初から澱みなどなく、社会への適応力バリバリの奴も多いみたいだが)


 それで大抵の漫画家はめでたく最大公約数の面白さの中に収まって、どうにか世間との折り合いをつけていくんだが、中にはごく少数ながら、資質や美意識がそれを許さなかったり、不器用だったり頭がいかれてるため(他に業が深すぎる、という云い方も可)水増しできない奴がいて、そういう漫画家たちが、「ガロ」に描けばいいのだ、本来。少なくとも私はそう勝手に思い込んでいる。


 漫画界を病院に例えるなら、「ガロ」は間違いなく精神病院です。(ガロ曼荼羅)

 

昭和40年会・ガロ・現代美術


「昭和40年会」、それは昭和40年-1965年に生まれたことと、現代美術を志すという共通項以外は、何も接点がなく、同じ主義も持たない若いアーティストたちがつくったグループである。メンバーは松蔭浩之、会田誠、小沢剛、土佐正道、大岩オスカール幸男、有馬純寿、パルコキノシタの7人である。この7人は21世紀の日本アート界を確実に面白くする!

 

松蔭:小沢が今に至るのって、昔の「ガロ」の影響大なわけでしょ。その「ガロ」との接点は?


小沢:僕は、14、5歳のときに「ビックリハウス」でサブカルチャーみたいなものに出会って、そのうち、今のエロ本になる前の「宝島」を通過して「ガロ」に行き着いた。ストーリー展開や技術的部分、編集方法もそれまで読んでいたマンガとまるきり違うのでショックを受けて。半分くらいは理解できなかったけど、新鮮に思えた。それから古本屋で昔のも探して読んだりしているうちにどんどん惹かれていって、10代のうちは“心の拠り所”ぐらいにまでになってたよね。


会田:大学生の時も毎月買っていたよね。


小沢:生協で(笑)。その後も、30歳でアメリカに行くまで買ってた。


有馬:読みだしたころは誰が描いていた。


小沢:えーっと、蛭子能収がメインだったね。あとアラーキーの「浪漫写真」があったり、南伸坊がエッセイ書いていて。渡辺和博がときどき出ていた。


パルコ:ひさうちみちおととかね。あと、表紙が湯村輝彦になってから、だいぶグラフィック色が強くなって。80年代ってグラフィックが相当パワーもってた時代だったね。


小沢:そうだね。それがメインストリートだった。その頃、通っていた近所の古本屋さんの「キミは「ガロ」が好きかね」と聞かれていて「いやもうスターなんす。特にこの新しく出てきたみうらじゅんとか根本敬とかいいんすよ~」って言ったら「いや~、今のはダメだ。白土三平を読め」って言われた(笑)。そういう世代間のギャップみたいなのをよく覚えているけど。


松蔭:オレたちって、人生の選択を迫られて、たまたま美大や芸術関係に行っただけで、思春期の頃「芸術」とか「マンガ」とかってボーダーを引かずにサブカル系のものに触手を伸ばしてたよね


パルコ:でも糸井重里とかが書いていた頃はすごい売れてたイメージがあるけど、そうでもない。長い目で見ても「ガロ」が爆発的に売れた時期ってないんだよね。


小沢:白土三平の頃が最盛期だね。


松蔭:アンチメジャーというか、アングラな存在だったからね。いわゆるメジャーとは違うやり方で生まれてきたものだから、ビッグヒット飛ばさなくてもいいわけじゃん。コアな人たちに電波を発して、固定客を確保すればよかったんであって。


有馬:あの頃は、サブカル系がメジャーマイナーとかマイナーメジャーっていわれてカッコよさげだったし。たとえば「ガロ」もYMOの3人が読んでるとかって聞いて僕らは知ったんだよね。でも、僕は「ガロ」でなく東京三世社とかのSF系に行っちゃったんだんけど(笑)。


会田:ところでNYでは、いまだにアートは確固たるメジャーな存在としてあるんだ。大御所キュレーターのばあさんに作品を見せたとき「20世紀のアートは科学的な分析なのです」なんて講釈がはじまって「僕はアートはエンタテイメントだと思う」と言ったら「いえ、アートとエンタテイメントはディファレントですっ」なんて返されてさ。その人が古臭いとも言えるけど、世界のアート界の根強い認識だとも思う。でも日本だと確固たるコンテンポラリーアートなんて一度も存在したことがない。その存在感のなさや境界の曖昧さから、「ガロ」や日本グラフィック展の面白さが派生していったんじゃない?


松蔭:そうだね。もともと「ガロ」には、意識的に、芸術とマンガをリンクさせて、面白いアンダーグラウンドをつくろうなんていう作為はなかったよね?


編集部:そうですね。マンガ家も好きなように描いて、それが小沢さんに影響を与えたみたいに、自然発生的にアートとの関わりができていっただけですね。(出典元:ガロ 2001年3月号)

ガロの歴史(転載元:『ガロ』2000年2月号)


実験精神


「月刊漫画ガロ」が創刊されたのは、1964年7月24日。創刊号(9月号)は130ページ・130円だった。青林堂という法人自体は、62年に創立されていたが、当時末期にあった貸本店向け漫画単行本を出す出版社であり、知名度もそれほど大きいものではなかった。

 

「ガロ」創刊は、96年に死去した初代編集長・長井勝一が、白土三平により「忍者武芸帳」に次ぐ新しい長編の構想を開き、それを掲載するための雑誌を創ろうと話し合ったというのが、直接のきっかけだった。このことは、漫画出版の流れという大枠で見れば、貸本漫画から雑誌への転換期の象徴と見ることができる。

 

白土の長編漫画「カムイ伝」が登場するのは4号目にあたる12月号からで、それ以降白土は、60年代を通じて、ほぼ毎回、数百ページという分量でこの大作を描き、当時の知識人や大学生、漫画を読まなかったと言われる層、にも衝撃を持って迎えられた。

 

また、水木しげるも一連の短編作品、エッセイ「ロータリー」、「イソップ式漫画講座」などを創刊号から精力的に執筆して高い評価を受けるようになっていく。この時期の代表的な作家に、諏訪栄(小島剛夕)、楠勝平らがおり、また、65年には有名な「つげ義春さん、連絡ください」という文句が「ガロ」の欄外に載った。それを見たつげが、水木しげるのアシスタントをやりながら作品を発表し始める。また当時、池上遼一も、水木しげるのアシスタントをやりながら「ガロ」に作品を発表していった。

 

「ガロ」は、このように貸本漫画以来のベテラン作家が、自由に自分の描きたい作品を発表する場であると同時に、無名の新人たちが自分を伸ばしていく場でもあった。藤沢光男やおがわあきらが、その最初期の新人である。そして、65年6月号で白土三平が「マンガを描こう」と呼びかけると、それに応じて125篇の作品が集まり、そのなかから星川てっぷ、つりたくにこ、渡二十四などがデビューした。

 

白土が、この呼びかけで強調したのは「実験精神」ということだったが、実際これ以後、66、7年にかけて続々と登場する新人たちは多種多彩で、それぞれが個的に自分のマンガ表現の形を探る力作を発表していった。また、創刊号に内山賢治や李春子の童話が載っていたように、マンガ以外の読み物ページがあるというのも「ガロ」の伝統で、その初期を代表するものとして「カムイ伝」が始まった翌月からスタートした佐々木守の「日本忍法伝」と「目安箱」がある。

 

「ガロ」が売れ出したのは66年の秋からだったと言われている。当時の執筆者には勝又進、田代為寛、佐々木マキ、林静一、さらに日野日出志、仲佳子、矢口高雄、淀川さんぽといった新人たちが続々と登場した。彼らはそれぞれのスタイルで、それまでの漫画表現の枠を広げようと競い合った。また、つげ義春は「李さん一家」、「紅い花」といった傑作を毎月のように発表していった。さまざまな才能が漫画という場において、それぞれの力を最大限に発揮しつつ、互いの差異を肯定しあう時代であり、「ガロ」はまさにその先頭を走っていたのである。

新人発掘


「ガロ」の新人育成と実験漫画に刺激され、手塚治虫は67年に「COM」を創刊し、「火の鳥」の連載を開始する。それから数年の間、「ガロ」と「COM」が双璧と呼ばれ競合する時代が続いた。

 

当時の漫画における大手出版社の動きとしては、68年の「月刊ビッグコミック」の創刊がある。すでに大手の出版する漫画雑誌としては「少年マガジン」や「少年サンデー」があり、特に「少年マガジン」はこの前年に百万部を越える勢いを示していたが、「ビッグコミック」の創刊はそれとは違い、一方で貸本出身の劇画界の巨匠たちを取り込むと同時に、読者層を青年から大人へと広げようとして行われたものだった。

 

60年代末の「ガロ」に話を戻せば、ベテランの永島慎二と滝田ゆう、それにつげ忠夫の登場がある。永島慎二は「COM」の創刊と同時に「フーテン」の連載を始めたように「COM」の都会的な雰囲気によく合った作家だったが、「ガロ」に描くようになって「ガロ」の土着的な誌面が永島の都会的な色彩によって幅を広げた。滝田ゆうは試行錯誤の末「寺島町奇譚」に至ると、がぜん独自の飄逸な味を発揮するようになった。

 

そして上野昴志いわく「つげ忠夫は鋭い直線で描く作風風景は凄く、この数年間のつげはただ一人で、崩壊しつつあった劇画の魂を担って奮闘したといってもいい」。このような、まさに「ガロ」の第一期黄金時代は「カムイ伝」の終了、71年の7月号まで続いた。呉智英氏も「「ガロ」三十余年の歴史の中でははっきりと時代区分できるのは1971年以前と以後である。」と述べているように、これ以降白土が「ガロ」誌上に新作を発表することはなかったのである。

 

すでに作家レベルでは交流が活発になってはいたが、71年の「COM」終刊、奇しくも「カムイ伝」終了と同じ年の後、「COM」の作家たちが続々と「ガロ」に登場してくる。宮谷一彦、古川益三、やまだ紫、真崎守はその代表格だ。また、それまで「ガロ」に関係のなかったベテラン作家たちが、70年代の「ガロ」には執筆するようになったのも大きな特徴である。秋竜山、岩本久則、高信太郎らはそれまでの「ガロ」にはない、新風を吹き込んだと言えるだろう。

 

また一方で「ガロ」の発掘した新人作家もまた、69年の高橋(矢口)高雄、川崎ゆきお、菅野修といった異才が続々とデビューした。中でも安部慎一、鈴木翁二は先の古川益三と合わせて「一、二、三トリオ」と呼ばれ、一種独特の雰囲気、私小説的という共通項もあり、人気を博した。

 

また、この時期の漫画状況も変わり始める。79年には「ヤングジャンプ」が創刊、小学館・講談社がこれに続き少年誌からの読者をそのまま青年誌に取り込む戦略を明確に打ち出したのである。そのため、必然的に「ガロ」は、そうした大資本の漫画雑誌と否応なしに作家の面でも競合する時期を迎え、60年代から続く「新人漫画の発掘」「新しい創作のための実験場」という性格をより強めることになった。

 

そして、この時代の新人発掘ということで欠かせないことに、自身も後には漫画を描くようになる南伸坊渡辺和博が「ガロ」編集部に入ったことが挙げられる。このことによって視野の広がった「ガロ」は広告やイラストの世界からも積極的に才能を取り入れて行くようになった。安西水丸、湯村輝彦、糸井重里、鴨沢祐仁、たむらしげる、ますむらひろしらは、現在広告、イラスト、絵本など漫画以降のジャンルで著名な作家だが、70年台には「ガロ」の一翼を担う主要な新人作家でもあった。

 

花輪和一、蛭子能収、ひさうちみちお、吉田光彦など、きわめて特異な作風で知られる作家も、この時期に「ガロ」で出発している。後にはAV作家となる平口広美も「ガロ」執筆者だった。また女流では、近藤ようこと肥後十三子が79年に登場した。

ニューウェーブ


70年代に外部の才能を積極的に取り入れた中でも特筆すべきは、写真家の荒木経惟による「浪漫写真」である。これは84年まで続いたのだが、村上知彦氏は、この「浪漫写真」を「この時代の「ガロ」にとっての「カムイ伝」だったのではないかという思いが、いま改めてする」と述べている。

 

80年代に入ると、漫画にも「ニューウェーブ」と呼ばれる新しい感覚の作家が登場し始めた。これは「ガロ」に限ったことではなく、70年代に全盛を極めたエロ劇画-三流エロ劇画誌御三家と呼ばれた「漫画エロジェニカ」「漫画大快楽」「劇画アリス」や、チャンネルゼロの「漫金超」を始め、「コミックアゲイン」「SFマンガ大全集」「マンガ奇想天外」「JUNE」などの雑誌でさまざまな才能が活躍していた。

 

前述したように、「ヤングマガジン」や「ビッグコミック・スピリッツ」などの青年誌が創刊され、メジャーとマイナーの区分があいまいになり始めていた時代だったから、「ガロ」のポジションは微妙なものになっていた。

 

村上氏はこの時代の状況について「80年代に「ガロ」はあらゆるメディアを席巻し、その分だけ本体である「ガロ」自身の印象を希薄にしていった。だが現実には、存在が意識されないほどに、それはすでになくてはならないものになっていたのだ。」と述べていてる。

 

つまり、作品よりも作家の印象が強くなったこの時代では、「ガロ」でデビューした作家も境界線があいまいになっていたメジャー誌と自由に往来し、雑誌メディアには漫画であるなしさえ関わらず、「ガロ」の作家があちこちで活躍したのである。そのことが、「ガロ」が「ガロ」であることそのものを希薄にした、ということなのだ。

 

この時期にデビューした作家には、みうらじゅん、杉浦日向子、泉昌之、加藤賢崇、ユズキカズ、根本敬、東元、森本暢之、森下裕美、松本充世、井口真吾、山野一、イタガキノブオ、土橋とし子、みぎわパン、津野裕子、鳩山郁子、ヤマダリツコ、石川次郎、大越孝太郎、トオジョオミホ、山田花子、安彦麻理絵、望月勝広(逆注いみり)らがおり、その顔ぶれからもわかるように、彼らの多くが「ガロ」デビューとほぼ同時に他誌でも積極的に活躍している。

 

また80年代にも、それ以前からの流れをくみ、外部から永田トマト、マディ上原、杉作J太郎、内田春菊、しりあがり寿、桜沢エリカ、とり・みき、唐沢商会といった面々が誌面に登場した。また、以前からマイナー劇画誌に掲載していた作品を青林堂から刊行し、経済的に青林堂をずいぶんと救っていた丸尾末広が、「ガロ」に作品を掲載するようにもなった。

サブカルチャー雑誌


80年代の「ガロ」を総括する文章の最後に、村上知彦氏はその後の-90年代の「ガロ」に非常に示唆的な一文を書かれている。

 

「90年代の「ガロ」はどうなってゆくのだろう。91年以降、「ガロ」のアイデンティティの再確認とでもいうべき作業が始まっている。その上で、「ガロ」はもうそろそろまんが誌であることをやめてもよい時期にさしかかっているのではないかという気がする。

 

 60年代から今日まで「ガロ」の果たしてきた仕事は「ガロ」文化とでもいうべき文化圏を確実に形づくってきた。それはもはや、まんが雑誌という枠には収まりきれない広がりをもって存在しているように見える。それらをもう一度統合し、交流させ、再発信する場として機能するような、そんなある種の文化総合誌としての「ガロ」がありえないものかと、いま夢想している。」

 

90年代に入る頃、青林堂は長井勝一の高齢による体力的な不安と、先の「ガロ」の存在感の希薄化による部数減少=経済的不安に陥っていた。現実に「ガロ」の搬入部数は数千部にまで落ち込み、いつ取次からも搬入を断られてもおかしくない状況だった。

 

そんな時期に、当時コンピュータソフト会社・ツァイトの社長だった山中潤が青林堂救済に名乗りを上げた。すでにゲームソフト「ねじ式」を発売するなど、「ガロ」の熱狂的なファンであった山中の熱意に押され、青林堂の経営権を譲渡した。そして自身は勇退を希望したのだが、これまでの「ガロ」の歴史的状況を鑑み、会長職として残るよう要請され、山中体制に完全に移行するまで、非常勤ながら発行人と編集人も長井名義で刊行された。

 

山中は周囲も驚くような熱意を持って、「ガロ」を蘇生させるべく、連日編集会議を重ね、瀕死の状態であった「ガロ」の部数は三倍まで伸びたのである。このことにより、当面の廃刊の危機は免れた。これは間違いなく山中の功績であると言ってよいだろう。

 

しかし、90年代半ばになると、こうした功績を元に強引な経営・制作を進める山中と現場サイドとの軋轢が徐々に表面化してきた。そして96年1月5日、長井が亡くなると、その亀裂は修復できないほど深くなっていき、翌年97年、「ガロ編集部総辞職事件」が起こり、30余年続いた「ガロ」はついに休刊に追い込まれたのである。

 

徹底的にダメージを与えられたツァイトは倒産し、失踪した山中に変わって青林堂だけは残そうと奔走した福井源も、その年の暮れに一度は「ガロ」を復刊させたものの、新たな方向を打ち出せないまま、98年には再び休刊となり、「ガロ」の灯は永遠に消えたかのように思われた。

 

迷走した90年代にも、休刊前には、ねこぢるを始め、三本善治、Jerry、秋山亜由子、魚喃キリコ、古屋兎丸、キクチヒロノリといった才能がしっかりデビューしている。また沼田元氣、吉田戦車、岡崎京子、パルコ木下、花くまゆうさく、東陽片岡といった作家も外部から登場するなど、誌面は漫画の割合が相対的に減ったとはいえ、活気にあふれていた。

 

また長戸雅之を編集長に招聘しての復刊号では、80年代の「ガロ」的雰囲気に加えて、意外ともいえる町野変丸、あびゅうきょ、永野まゆみといった作家を登場させ、情報誌的側面を切り捨てた結果、漫画ファンからは一定の評価を受けた。



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