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宇野亜喜良「Aquirax」

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宇野亜喜良


宇野亞喜良(1934年5月13日生まれ)は、日本のグラフィックアーティスト、イラストレーター、画家。「Aquirax Uno」というペンネームでも知られる。

 

幻想的なビジュアルと気まぐれな自由な線で描かれたシュルレアリスティックな少女絵が特徴である。1960〜1970年代の日本のアンダーグラウンドシーン、なかでも寺山修司や天井桟敷とのコラボレーションワークが有名。

略歴


1934年愛知県名古屋生まれ。父親が室内装飾業を営んでおり、また着物の帯に油絵を描いたりもしていたので、その影響で幼いころから絵を描き始める。母親は喫茶店を経営していた。崩したような気ままな線や形は、父が描いていた古い変な文字の影響があり、その書体はかつて流行ったアールデコの名残で、そのため宇野は古い漢字や、草書が書け、崩し方のようなものを自然と身につけた。

 

名古屋市立工芸高等学校図案科卒業後、カルピス食品工業に入社、同社の広告・宣伝に携わる。その後、原 弘、亀倉雄策、山城隆一らが設立した日本デザインセンターに入社。1965年同社を退社してフリーになり、同世代を代表するイラストレーター、グラフィックデザイナーの横尾忠則、和田誠、山口はるみ、灘本唯人などとともに共同事務所「東京イラストレーターズ・クラブ」を設立する。最初の一年は仕事がなく、ある女性誌の表紙の仕事だけが定期収入だった。話し上手で、女性からも好かれる原田維夫ばかりに仕事の依頼が多く、コミュニケーション力は大事だと思った。

 

その後、寺山修司が中心になって作っていたディーンエイジの女性向けの雑誌に関わるようになり、その頃から女の子の絵を描くことが多くなる。また寺山修司の「天井桟敷」に横尾などと参加し、劇団のポスターの制作をするようになる。1970年代当時は、眉を剃り落とすスタイルが「宇野亜喜良スタイル」が流行した。

 

ちなみに、宇野は『SAMURAI AQUIRAX』(愛育社)をはじめ、BAR「星男」の看板など、男性の絵もたくさん描いているのだが、グッズ販売はほとんど女の子の作品ばかりが売れてしまうため、目立たないだけである。

 

1982年、第13回講談社出版文化賞さしえ賞を受賞。 1992年、山下明生作の『カモメの家』で第6回赤い鳥さし絵賞を受賞。1999年からは、麻布十番納涼祭りのポスター、うちわのデザインを担当している。 1999年、紫綬褒章を受賞。2008年、舟崎克彦文の『悪魔のりんご』で第13回日本絵本賞を受賞。2010年、旭日小綬章を受賞。

略年譜


■1934年

・3月13日、愛知県名古屋市で生まれる。父は室内装飾家、母は喫茶店を経営。

 

■1940年

・父親から絵を教わる。油彩で制作したポスターがコンクールで入選。

 

■1946年

・中学に進学すると絵画研究所に通い始め、裸婦クロッキーなどを行う。

 

■1948年

・洋画家・宮崎晴に師事、画家を志すようになる。

 

■1949年

・名古屋市立西陵高等学校図案科(現名古屋市立工芸高等学校)入学。デザインコンペで入賞を重ねるうちにデザイナーを志望するようになる。母親の経営する喫茶店の壁画や仏像の彫り、人形劇用の人形制作など多彩な才能を発揮する。

 

■1952年

・名古屋市立高等学校図案科を卒業。人形劇団「アトリエ・サボ」結成、子ども向けに公演を行う。この頃はマッチのデザインを手がける。

 

■1953年

・日本宣伝美術会展(日宣美)公募部門が新設され、その1回目となる第3回日宣美展で「画材タヒチ」が入選。日宣美名古屋地区の会員となる。

 

■1955年

・上京し、世田谷区奥沢に居を構える。日宣美名古屋地区会員を退会。

 

■1956年

・興和新薬(現コーワ)のカエルマーク募集コンペで、約4万1千点の中から1等賞に選ばれる。同時に1等賞を受賞したのが和田誠氏。

・カルピス食品工業に入社。広告課に配属され、パッケージや新聞広告を手がける。

・第6日宣美で「バレエ「カルメン」」のポスターが特選となる。この時期からグラフィックデザイナーの杉浦康平氏の仕事を手伝うようになる。

 

■1957年

・初の絵本「どうぶつ えとおはなし」(堀尾青史 文エンゼル社)を手がける。

・「青い鳥」(堀尾青史 文エンゼル社)をまかされる。

 

■1958年

・毎日商業デザイン賞(第1部新聞広告)で「加美乃素」が奨励賞を受賞。

 

■1959年

・カルピス食品工業を退社し、フリーランスとなる。

 

■1960年

・日本デザインセンターの設立とともに入社、旭化成部門のチーフとなる。

・「新婦人」(文化事業社)の扉絵を1年間担当する。

 

■1964年

・日本デザインセンターを退社。横尾忠則、原田維夫とスタジオ・イルフイルを設立。

・横尾忠則、和田誠、灘本唯人、山下勇三、山口はるみらと「東京イラストレーターズ・クラブ」を結成する。

・「アニメーション・フェスティバル」に招かれ、アニメーション映画「白い祭」を制作する。

 

■1965年

・スタジオ・イルフィルを脱退。スタジオReを設立。マックスファクターの新聞や雑誌広告、ポスター、パッケージなどを手がける。

・寺山修司と出会う。フォア・レディース・シリーズ「ひとりぼっちのあなたに」(寺山修司著 新書館)の挿絵などを担当する。

・和田誠の紹介で今江祥智と出会い、「あのこ」(今江祥智文 理論社)の挿絵を描き始める。

 

■1966年

・「話の詩集」(日本社 話の詩集社)の創刊(復刊)当初から挿絵を手がける。

・東京イラストレーターズ・クラブ(1963-66)年度賞受賞。

・劇団人間座公演No.17「愛奴」の宣伝美術を手がける。

・個展「ペルソナ」(青木画廊 東京)が開催、澁澤龍彦がパンフレットに寄稿する。

・寺山修司戯曲のアートシアター演劇公演No.20/劇団人間座公演No.18「アダムとイブ わが犯罪学」で舞台装置を手がけるようになる。

 

■1967年

・劇団人間座公演「愛奴」「吸血鬼の研究」の宣伝美術。伊藤ミカビザールバレエグループ第一回公演「オー嬢の物語」の宣伝美術、劇団人形の家第1回公演「人魚姫」の人形デザイン、美術、ポスターを手がける。

・寺山修司、横尾忠則、東由多加、九條映子らが設立した演劇実験室・天井桟敷の「毛皮のマリー」の地方公演で背景を描く。

 

■1968年

・ミニ詩集「恋の迷宮」(山梨シルクセンター出版部)を刊行。

・スタジオReが解散する。

 

■1969年

・ドイツのエッセン市立劇場の招きで、ドイツ人俳優による「毛皮のマリー」の舞台美術家として寺山修司に同行して渡独する。

 

■1974年

画集「イラストレーション・ナウ 宇野亜喜良の世界」(立風書房)刊行。

 

 



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