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【完全解説】澁澤龍彦「日本の幻想美術」

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澁澤龍彦 / Tatsuhiko Shibusawa

日本の幻想美術


概要


澁澤龍彦(1928年5月8日-1987年8月5日)は日本の小説家、フランス文学の翻訳家、美術批評家。

 

活動初期はマルキ・ド・サドをはじめ、多数のフランス文学を翻訳し、日本に紹介したことで知られる。特に「サド裁判事件」を通じて、澁澤の名前は一般に広がった。

 

美術批評を本格的にはじめたのは30代なかばから。1964年の『夢の宇宙誌』でマニエリスム的な美術観・文化史観を発表し、注目を集める。以後、ハンス・ベルメールやピエール・モリニエなど、これまで日本の美術業界では触れることのなかった傍流シュルレアリストを積極的に紹介し始める。最も広く読まれた美術批評書は1967年刊の『幻想の画廊』から。

 

金子國義、四谷シモンらと出会い、青木画廊を拠点に画家たちと交流を行うようになる。鎌倉の澁澤邸は芸術家のサロンにもなっていた。また澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』の仕事で、松山俊太郎、稲垣足穂、種村季弘、堀内誠一ら多数の文化人との交流が始まる。


略歴


幼少期


澁澤龍彦は1928年(昭和3年)に東京の高輪に生まれる。4人兄妹の長男だった。4歳まで埼玉の川越で育ち、ついで東京の駒込に近い中里町へ移る。父の澁澤武は銀行員で実業家の渋沢栄一やその孫の渋沢敬三と遠戚にあたる。母の澁澤節子は実業家で政治家の磯部保次長女だった。

 

澁澤は幼少の頃から本を早く読み始め、絵を見たり描いたりすることを好んだ。最初の印象深い芸術体験は児童雑誌『コドモノクニ』。コドモノクニは、武井武雄、初山滋、古賀春江、東山魁夷、竹久夢二などの芸術家が参加した高級向け幼児雑誌である。ついで田河水泡の「のらくろ」や坂本牙城の「タンク・タンクロー」のような漫画に熱中した。

 

1935年、滝野川第7尋常小学校に入学。成績は優秀だったが、体操が苦手だった。親によく連れられて行った銀座、母方の祖母の住む鎌倉、上野の科学博物館、花電車、千葉大原の海、ベルリン・オリンピック放送、昆虫採集などが幼少の澁澤の芸術体験の基礎となった。

 

1941年、東京府立第5中学校に入学。昆虫採集と標本づくりなどに熱中する。

 

1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に入学。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。

 

1945年、東京への空襲が強くなると澁澤一家は鎌倉へ疎開し、次いで埼玉の澁澤一族の本拠・血洗島へ疎開。終戦すると翌年から家族とともに鎌倉の借家に移り住む。ここで以後数年間さまざまな体験をする。文学書の濫読、神田のアテネ・フランセでフランス語の習得、年長者との交流、恋愛。堀口大學の訳でジャン・コクトーに惹かれ、原書で読むようになる。

 

1948年、東京大学の仏文科を受けて落ち、浪人。20歳のときに、近所に住む映画字幕の翻訳家・秘田余四郎の紹介で、築地の新太陽社にアルバイトの職を得る。先輩編集者の吉行淳之介や久生十蘭などと出会う。2年後に東大仏文科に合格したがアカデミズムになじめず、コクトーの翻訳などにはげむ。

 

また同時期にサドの紹介をふくむアンドレ・ブルトンの『黒いユーモア選集』の原著を読んで運命的なものに出会う。澁澤はのちにこのように記述している。

「シュルレアリスムに熱中し、やがてサドの大きさを知り、自分の進むべき方向がぼんやり見えてきたように思う。」

54〜59年 サド時代


澁澤龍彦の最初の本は、1954年8月に出版されたコクトーの小説『大股びらき』の邦訳書である。

 

26歳の新進フランス文学者としてデビューしたが、それだけ生活していたわけでなく、同時に岩波書店の自宅校正の職をして生活をしていた。

 

翌55年、岩波書店の校正室で、2歳年下の矢川澄子と出会う。

 

8月に肺結核が再発し、安静を命じられる。9月に父が急死。

 

56年に最初の『サド選集』全3巻の刊行がはじまる。このときに三島由紀夫に序文執筆依頼をして、以後、三島と親しく交友するようになる。また、雑誌や新聞にサド論を発表し続けるようになり、日本最初の本格的なサド紹介者・研究者として評価を得るようになる。現代新潮社をおこして出版活動をはじめようとしていた石井恭二と出会い、サドの訳書の継続的な刊行を約束させたことも大きい。

 

59年1月に矢川澄子と結婚。同年9月、最初のエッセー集にして文学・思想の書『サド復活 自由と反抗思想の先駆者』を刊行し、一部の識者や読者から熱い支持を得るようになる。澁澤が一般的に知られてきたのはこの頃からである。岩波の社外校正の仕事をやめ、執筆に専念するようになる。

 

54から59年の5年間はひたすらサドに関する作品や思想を紹介する時期だった。美術についての目立った発言はこの時期に見られないが、ボス、デューラー、カロ、ゴヤ、アンソール、エルンスト、ダリなどの名前が一部引用的に現れる。

 

60年4月、前年末に出版した『悪徳の栄え(続)』が発禁処分となり、年末には石井恭二らとともに猥褻罪容疑で起訴される。約10年におよぶ長い「サド裁判」の始まりである。「わいせつか芸術か」が問われる裁判として話題を呼んだ

 

なお裁判の前期は60年安保闘争にあり、後期は全共闘時代と重なった。澁澤の後妻、龍子は「渋沢は政治的発言をしないのに、反体制派や政府に批判的な学生から同志とみなされた。むろん体制側でもないから、困惑していた」と話している。

60年代 広がる澁澤文化圏


これまでも澁澤は美術に対して関心はもっていたものの、実際に画廊で同時代の日本の芸術家と触れ合いはじめたのは銀座の栄画廊で加納光於の版画をはじめて見てからである。

 

加納に絵に感動した澁澤は『サド復活』の装幀・飾画を彼にまかせる。出版の日に加納にさそわれて、はじめて瀧口修造を訪問する。加納がきっかけで25歳年長の瀧口修造と親交を結んだことも、澁澤が美術批評を始める大きな出来事だった。

 

瀧口修造はブルトンの著書『超現実主義と絵画』を翻訳したり、すでにシュルレアリスム研究者の大御所であったが、シュルレアリスムの新しい局面を開く書物として澁澤の『サド復活』を高く評価した。

 

また、瀧口と並行して重要となるのが土方巽暗黒舞踏との出会いである。1959年、三島由紀夫の紹介で、暗黒舞踏の創始者である土方巽と出会い、その舞踏表現に強い衝撃を受ける。同年9月の「650 EXPERIENCEの会」以来、澁澤は土方巽の舞台を一度もかかさず観ることになる。

 

また土方巽は澁澤以外にも、三島由紀夫、瀧口修造など多くの美術家が注目していたこともあり、土方巽をハブとして交友関係を広げる。池田満寿夫、加藤郁乎、中村宏ら多くの交友するようになる。66年に唐十郎がはじめて澁澤を来訪したのも、土方巽の紹介だったという。さらに合田佐和子とも交友する。

 

1971年に加藤郁乎の出版記念会の折に細江英公が撮影した有名な集合記念写真があるが、これがほぼ澁澤の交友範囲を示している。80人近くいるが加藤・澁澤・土方の共通の知人であり、60年代の澁澤周辺のアングラ文化の人間関係がここに映しだされている

美術批評


●文化的視点

澁澤の美術批評は1962年の「空間恐怖について」からとされている。その後、美術を美術史の文脈で語るのではなく、広い人類文化的な視野から美術を批評するようになった。これが一般の美術批評家と澁澤の美術批評の大きな差異である。

 

たとえば1964年に発刊した『夢の宇宙誌』では、玩具、自動人形、怪物、庭園、天使、両性具有、錬金術、終末図といった主題から、その主題に照応した美術をピックアップして批評を展開している。そこには古典主義、写実主義、象徴主義、印象派、表現主義といった美術スタイルの名称は表れない。

 

●幻想絵画

1967年に発刊した美術エッセイ集『幻想の画廊から』は澁澤の美術批評で最も有名なものだが、前半はシュルレアリスムの画家たちで占められていた。

 

紹介されたシュルレアリスム作家は、スワンベルクハンス・ベルメールヴィクトル・ブローネルジョゼフ・クレパンルイス・ウェインポール・デルヴォーレオノール・フィニーバルテュスイヴ・タンギールネ・マグリットゾンネンシュターンサルバドール・ダリマックス・エルンストフランシス・ピカビアエッシャーである。

 

ちなみに後半はモンス・デシデリオ、アルチンボルド、ホルバイン、ギュスターブ・モローなどマニエリスムの系譜(後期イタリア美術の様式で高度な技術で非現実的な絵画を描写するようなもの)にある絵画全般を時代に関係なく、好きなものを選んで批評している。

 

シュルレアリスム絵画とマニエリスムの系譜にある絵画を融合した形で、日本では「幻想絵画」という独自の澁澤美術が誕生したといってもよいだろう。

 

なお澁澤はシュルレアリスム画家でも、その基本であるオートマティスムには注目しなかった。ジョアン・ミロやアンドレ・マッソンなどの抽象絵画には関心がなかったため、彼のシュルレアリスム批評には抽象系作家の名前が現れない。マニエリスムの系譜を基盤にシュルレアリスム絵画を扱っているので、マグリットやダリなどデペイズマンを利用する具象系作家の批評がもっぱらだったことも注意したい。

 

●傍流

また澁澤はシュルレアリストの中でも「傍系シュルレアリスト」を好んで紹介した。「傍系シュルレアリスト」とは澁澤が勝手に作った言葉で本家にこのような言葉はない。澁澤がいう「傍系」とはオートマティスムやデペイズマンなど正式なシュルレアリスム技法を使う「正系」とはちがい、シュルレアリストとは関わりが多少あるものの、周辺で密室にこもって独自の個人的幻想に固執したマイナー芸術家である。ハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ、バルテュス、ポール・デルヴォーなどが傍系シュルレアリストに当たる。

<参考資料>

澁澤龍彦幻想美術館

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