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【アートモデル】ピカソ・モデル「ジャクリーヌ・ロック」

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ジャクリーヌ・ロック / Jacqueline Roque

ピカソの最後の妻


「腕を組むジャクリーヌ」(1953年)
「腕を組むジャクリーヌ」(1953年)

概要


ジャクリーヌ・ピカソまたはジャクリーヌ・ルーク(1927年2月24日-1986年10月15日)はパブロ・ピカソの二番目の妻。

 

ピカソが80歳頃に結婚し、ピカソが死去する91歳の11年間付き添った。ピカソはジャクリーヌのポートレイト作品を400作品以上制作しており、これまでのどの愛人よりも多い。

 

ジャクリーヌは1927年にパリで生まれた。父親は母親と4歳の弟を放棄したため、母子家庭だった。ジャクリーヌは決して父親を許したことはなかった。母はシャンゼリゼ通り近くの狭い集合住宅でジャクリーヌを育て、お針子の長時間労働をしていた。ジャクリーヌが18歳のとき母親は心臓発作で死去。

 

母の死後、ジャクリーヌは機械工のアンドレ・ユタンと結婚。1946年に娘のカテリーナ・ユタン・ブレイをもうける。ユタンの仕事の都合で若良い夫婦ははアフリカに引っ越しするものの、4年後にフランスに帰国、離婚した。ジャクリーヌは南フランスのフレンチ・リヴィエラへ移動し、従兄弟の店で働くことになった。

 

1953年にジャクリーヌはパブロ・ピカソと出会う。当時ジャクリーヌは26歳でピカソは72歳だった。ピカソはジャクリーヌに惚れ、彼女の家にチョークで鳩の絵を描き始めたり、毎日バラの花を持って行く求愛行動が始まり、6ヶ月後に付き合い始めた。1955年に別居していた最初の妻のオルガが死去すると、ピカソは結婚が自由になり、1961年に2人は結婚した。

 

ピカソの絵のなかでジャクリーヌの姿は1954年5月から現れ始めている。これらのポートレイトは首を長く伸ばした猫の顔のように描かれているのが特徴で、ジャクリーヌの特徴をよくとらえているという。彼女の黒い瞳と眉、高い頬骨、古典風の横顔はピカソの後期作品でよく知られるシンボルとなった。

『花とジャクリーヌ』(1954年)
『花とジャクリーヌ』(1954年)

2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された「アルジェの女」は、ドラクロワの「アルジェの女たち」からの引用だが、描かれているモデルはジャクリーヌからインスパイアされたものである。

 

ピカソは作品について「ドラクロワはジャクリーヌと出会っていた」とコメントしている。ほかに、1955年にマネのスペインの踊り子の絵「踊り子ローラ」を引用して描いた作品がいくつかある。1963年にピカソは160回彼女のポートレイトを描き、また1972年まで抽象的フォームを増しながら彼女を描きつづけた。

「アルジェの女たち」(1954年から1963年)
「アルジェの女たち」(1954年から1963年)

1973年にピカソが死ぬと、1943年から1953年までピカソの愛人だったフランソワーズ・ジローやパロマやクラウドなどのピカソの子どもたちとジャクリーヌはピカソの財産権争いに入る。ジャクリーヌはクロードやパロマたちの葬儀出席を妨害するなどして、ピカソの遺産を守る。最終的に財産争いはパリでピカソ美術館を設立することで合意。

 

ピカソを失ったジャクリーヌは、その後、落ち込み激しく、1986年にピストル自殺。59歳だった。

 

 

●ピカソ・モデル

有名になる前のピカソを知る女「フェルナンド・オリヴィエ」

ロシアダンサーにてピカソ第一夫人「オルガ・コクラヴァ」

最も有名なピカソ愛人「マリー・テレーズ・ウォルター」

泣く女のモデル「ドラ・マール」



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